表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
鬼餓身峠陰獣送り  作者: 東間 重明
第一章 蛇身不産女地獄
12/67

枕沼の蛇女

 

 水源地において祭られる水分神(みくまりのかみ)は陽性、沼など流れの滞留する水場の神は陰性と云われる。どちらも山の神に連なるものではある。前者が名前の通りに滞りなく各所へ水を分配し、農耕を援けるものとして多く祈雨(きう)の対象とされるものならば、後者は停滞の性質から正常な水の運行を阻害するものとして、多くは当地農民の信仰に於いては祟り神としての側面が強調され、水分神とは反対に災いを為すものとして、止雨(しう)の祈念を以って(ねんご)ろに祀らねばならなかった。当地農民は時として、年若い純潔の乙女をこれに捧げることも厭わなかったのである。


 どちらも水という生命を暗示する側面を持ち、田の神と結び付けられた末、みくまりが御子守(みこもり)と解され、子供を守護する神、懐妊と順調な産とを約束する神として(いつ)き祭られる一方、後者の沼の神が一手に陰性を引き受けなければならなかった事情としては、人間の心情を鑑みて明らかなように、ゆくりなくも農民の生活を左右する水というものに抜き難い畏敬の念が、一方に於いては喜ばしい陽性の作用を司るものとして、また一方に於いては荒ぶる自然の発露としての陰性作用を司るものとして、農民に理解されたことによる。彼等にとって神の両義性はその利便性に於いて難解でもあった。元々はどちらも水の神として祀られ、沼の神も分祀された同一の神であったものが、農民の信仰の要請に因って些かの変形を受けずにはいられなかった。水源のように元を同じくしながら、水を湛えて微動だにしない山中の暗い沼の奥底には、なにか我々の推し量ることの出来ぬ怪異が潜んでいると想像することは一層容易かったのである。それは農民の信仰というものが、近代化に因って変質していった証左であり、また一所に祭られた神が神力とも云うべき力を失い、次第に妖怪化してゆく経緯でもあった。事実、沼の神が一種の妖怪譚として一部の人間に語られる段となると、祟り神としての畏怖も薄れ、その信仰もまた形骸化していたのである。そうして新式の生活様式がまた滾々と流入されつつある現代、沼の神をその本源に於いて理解する者はそう多くはなく、枕沼にしてみても一種の名所、昔語りにある上代の神域として、僅か信心深い人間と好事家とに記憶されるのみであった。


「それでなんだ。天木の婆さんに会った帰りしな、蛇女に出会ったと?」


 僧堂に胡坐で摩耶を迎えた渡浪は腕組みをしながら云う。表は今もしとしと雨が降っている。遠く葦切り山の山頂には重く雨雲が掛かって、風に煽られた黒雲の一部が黙示録の蛇のようにうねりながら煙っている。渡浪の言を受けて、摩耶は静かに頷いた。


「ええ。天木さんの話に聞いた姉上に間違いないでしょう。彼女の記憶通りに蛇女の右目には傷がありました。格好も嫁入り当時のままに」


「それが姉ちゃんの関与を掣肘(せいちゅう)するような言動をしたと。ううん、判らんなあ。本当にその蛇女は芳香を奪おうとしているのか。もし祟るのだとしたら、天木の婆さんに矛先が向かうものと思えるし……」


 渡浪は何事かを想起するものらしく、小首を傾げている。


「天木さんも私に全てを話してくれたとは思えません。なにかまだ私達の知らない因果があるのかもしれませんけれど、このまま手を(こまね)いていても仕方ありませんから」


「それは事実そうだ」


 云うと、渡浪はすっくとその場に立ち上がって、


「んじゃあ、行ってみるとするか、枕沼に」


 二人分の雨合羽を用意すると、二人は明達寺を後にして、山の中腹に位置する枕沼へと向かった。道中、渡浪の胸中を領するものは一個の懸念であった。『かつみ』で柳川を喰った時のことを彼は思い出していた。右目の悉く潰れた泥鰌。摩耶から伝え聞いた枕沼の伝承。長らく山中に暮らしながらも、とんと耳にすることのなかった昔語り。それらが今になって何故、軌を一にするように我々の前に配置されたのか。渡浪は秋徳の言葉をも想起した。


 ――お互いを看過できぬ存在として結束する因果のようなものが、この太刀にはあるのじゃないかな。


 そうとすれば、我々の前途に、それは遁れようもなく待ち構えている筈。渡浪の頭蓋には鈴の音。斬るべきものが、先に在る。何れ災いを為すであろう人知を超えた存在が。それを斬って捨てるのが太刀の業。自動的に因果を探知して、未然にこれを断ち切る装置。しかし、背後の関係をも捨て置いて、これを一刀の元に処断するということは……。渡浪の耳に、新たに音声が再生される。秋徳のものではなかった。思い出したくもない、あの男。のっぺらぼうのように特徴のない顔をした、あの男。男は嘲笑うように再度、渡浪に云って聞かせる。


 ――よくよくと呑み込むんだ。虫歯と偉大なる人間苦、だぜ。渡浪クン。


 知らず渡浪は舌打ちをしていた。傍の摩耶が驚いてそちらを見遣った。渡浪は苦笑いをしながら、


「また雨が強くなってきやがった」と、毒づき誤魔化した。


 黒雲は何時からか雷雲へと姿を変え、絹を裂くような雷鳴が断続的に山中に木霊する。二人の雨合羽を、ばらばらと雨粒が殴打する。天上から注ぐ無尽の水の前に、全ての存在は等しく無力な表面に過ぎないのだと知らしめるように。


 ◆


 一歩を踏み入れると、そこは神域であった。


 斎き祀る者の絶えて久しい、上古の沼。湛える水は微動だにせず、波紋の一つも起こらない。渡浪と摩耶は空を見上げた。沼に覆いかぶさるように伸びた神木立。丸く切り取られた空は確かに黒く淀んでいる。しかし天蓋の内には雨粒一つ降っては来ない。内球状に隔絶された神域は、底に沼の水を湛えた一個の水瓶の如くある。物音一つとてない、完全な静寂。木立のざわめきも、轟く雷鳴も耳には届かない。


 枕沼の枕石。沼の中央の奇岩、長方形の神寂びた岩の上に、その女は座していた。容姿は美麗。佇まいはたおやかな花のように。一掬(いっきく)の清水の如き神韻(しんいん)を湛えて、それは在った。淫祀邪神(いんしじゃしん)と呼ばれようとも、恐らくは人心を容易く掌握してみせるだろう。深く被った綿帽子からはその表情は窺い知れぬ。ただ、覗く口元が、紅を引いた口元が、蛇の舌のように、赤い。凄艶、と云うが相応しいその怪異に、摩耶は目を瞠り、渡浪は言葉を失った。


 女は何事をも口にしようとはしない。微かに口元が笑ったかのように見え、合図も何もない、その時には既に始まっていた。周囲の神木立には巨大な蛇の、蛇腹のうねる不吉な音響。沼からは球状に練り上げられた水が、中空に無数の水晶球となって浮かび上がっている。


「――来るぞ!」


 渡浪の怒号が静寂を破った。全身の皮膚という皮膚が粟立ってゆく。身体中の血液に熔解してしまいそうだ。雨合羽を脱ぎ捨てると、即座に太刀を抜刀して、正眼に構える。


「援護を頼みます!」


 同じく雨合羽を脱ぎ捨てた摩耶は一の矢を番えて、手にした弓に神気を込めてゆく。丹田に力を込めて、己が血を、神語りの血脈を、上代へと繋いでゆく。


「……青によし (えに)を結いて 神懸る」


 水晶球がぱんと音を立てて弾け飛び、散弾の速度を以って闖入者へと襲い掛かる。渡浪は咄嗟に摩耶の前へと進み出たが、防護の策がある訳でもない。ただ一射の間を稼ごうと身を挺して前に立ったのみ。果たして、飛来する水の散弾は渡浪の骨身を毟り取るものと見えたが、歯を食いしばり眼前を睨みつける渡浪の目睫に、ぱりっ、と音を立てて蒸発した。背後を見れば摩耶は目を瞑って、黙然と集中している。――斎刺(よみざし)。足元には四本の榊の枝が突き刺さり、外部の穢れを遮断する結界を作っている。


(流石、抜かりねえや)


 摩耶は朗々と紡ぐ。ここに再演される神話の一。神語りの一族のみが為しうる秘蹟。交信とは交神である。神と人とが直接に交渉し、幽顕ここに一貫し、


「……仰ぎ(こいねがわ)くは、天神地祇八百万神(てんしんちぎやおよろずのかみ)、正に此の処に降臨鎮座坐しまさば、祈請し奉る。その御力を顕現し給い、我が前途の危難を祓い給わんことを」


 ――そして巫女は、神懸(かみが)かる。


 口にするは神の一声。手にした弓は神の威徳。開かれた摩耶の瞳には光が宿り、番えた矢が神代の奇跡を再現する。否、それは再演、とも。狙いは精確に枕岩の上、女性(にょしょう)の眉間にぴたりと据わり、


「――ッッ!!」


 横合いの木立から飛び出した巨大な縞柄蛇頭が、それを阻止せんと猛然と挑みかかり、結界を物ともせず丸呑みにしようと大口を開けたところを、間一髪、渡浪の太刀が横薙ぎに牙を払った。刀身に痺れるような感覚。続けろ、と短く云い残して、渡浪は蛇頭に正対する。一方の摩耶は集中を乱され、金色に輝いていた瞳は些かその光を減じている。再度の集中にはまた幾許(いくばく)かの時間を要することだろう。


「掻っ捌いて、蒲焼きにしてやらぁ」


 戦く総身に力を動員して、駆動する装置は獣の型。裸足の指にしかと土を噛み締めて、太刀を下段の爬行の構え。対する蛇頭は鎌首擡げて、再度の猛襲、丸呑みの型。しゅう、と音を立て、渡浪の視界に蛇頭の大口が大写しになり、赤々とうねくる舌が頬を舐める程に肉薄し、がんっ、と横っ面に逆袈裟の一刀。横合いに身体を潜り込ませながらの一刀は、その不自由な体勢にも関わらず絶大な威力を以って、蛇頭の顎を跳ね上げた。


 ふっ、と鋭く息を吐いて、大上段に移行した渡浪の太刀は、無防備な大蛇の胴体を一刀の元に両断した。ぶつり、と腕には確かな手応え。斬り離された胴体が、鏡面のように濡れ光る桃色の切断面を躍らせる。


「他愛ねえ」渡浪は充実した両の腕の感触を反芻しながら、にやりと笑った。


 しかし、その慢心がいけなかった。大蛇の生命は未だ根絶されてはいなかったのである。頭を失い、狂乱の舞を続ける胴体は、しかし獲物の見当を失いはしなかった。統御する頭を失って尚、畜生の生命力を以って、目を閉じ深く瞑想する摩耶へと狙いを付けると、地を泳ぐように這い寄り、


「――ッッ摩耶!!」


 渡浪の警告よりも先に彼女の胴体に巻き付くと、天高々と容易に持ち上げて見せた。駆け付ける渡浪の背後には異形の気配。先程斬って捨てた筈の蛇頭は、中国伝来の飛頭蛮(ひとうばん)宜しく、空を飛ぶように勢いを付け、執拗に渡浪に迫る。背後に応酬の一刀で報いた頃には時遅し。捕縛された摩耶は沼の岩の遥か上、天高く捧げられた生贄のよう。渡浪の足元にからりと音を立て、弓と一本の矢とが落ちる。


 大蛇の切断面がもぞりと動いて桃色の鏡面が波立つと、ぶくりと音を立てて、羊水に濡れたような真新しい頭が生まれ出でる。摩耶を万力のように締め上げる力は益々強くなってゆく。


「……っ、あぁっ…」摩耶の口からは声にならぬ苦悶が漏れる。


 やがて引き裂かれ、圧搾された血肉となって、この沼に身を捧げることになるだろう、新たな生贄。献上された供物に舌なめずりをするように、枕沼の蛇女は赤い舌を覗かせて、くつくつと満足そうに嗤った。







評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ