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鬼餓身峠陰獣送り  作者: 東間 重明
第一章 蛇身不産女地獄
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四つ辻の怪

 明けて翌日、摩耶は雨脚が弱まった頃を見計らい、早速のこと天木老人の下へ赴いた。先夜、芳香に依頼された蛇退治の為である。道具を引っ提げて、彼女は堺町の外れに位置する長屋作りの天木宅へと辿り着くと、宅の門を前にしばし足を止めた。何でも芳香の話によれば、明治時代の校舎をそのままに持って来て改築された物であるらしい。時代を感じさせる古さびた門戸は、その前に立つ摩耶の鼻先に床しい古木の香りを薫ずる。微風に薫ずるという性質でない摩耶にしても、どこか郷里の屋敷を思い出させる佇まいには感じ入るところもあるのであろう。引っ提げた道具一式を持ち直して門を潜ると、中庭には木斛(もっこく)が亭々(ていてい)と伸びていて、分厚く艶やかで健康的な葉を茂らせている。あの赤い実をつけるのは今少し先のこと。覗く格子窓の先は書斎の一部であろう、窓辺に付けられた書斎机には古書が積まれ、曇り空から時折差し込む陽光が木斛の清新な影を映し込んでいる。


 玄関に訪問の意を告げると、なかから応えがあって、芳香が案内に立って居間へと通される。居間には前回訪問の折に見知った老婆の姿もあった。齢は八十程度であろうが、立居振る舞いに衰えは見受けられない。骨身に文化の匂いが沁み込んだような、しとやかな女性である。古書骨董の他、山河を描いた墨書の類は家のそこここに見られたが、良人の趣味と云うばかりでなく、彼女自身も折々は筆を取って、老境の無聊を慰めているものらしい。天木老人は摩耶に菓子と茶を勧めて、


「どうも、お足元の悪いなかをこちらまで有難う御座いました」深々と頭を垂れた。


「いえ、そんな、お気になさらず」


 同席した芳香は難しい話には興味もないのであろう。菓子盆に盛られた最中を黙々と食べている。摩耶は天木老人に蛇退治の主意を伺った。蛇や獣が単に苦手というのならばそれで良し、殊に吉兆と呼ばれる白蛇を退治するに吝かでない理由があるのなら、事前によくよくと飲み込んでおきたい摩耶であった。


「ご存知かと思いますが、一般に白蛇は家に富を齎す吉兆とされています。これをむざむざと殺してしまうのは、私も気が引けるところなのです。確かに異相の獣ではありますが、特にこれを厭う理由があるのですか?」


 単に蛇が苦手だと云うのならば、命までは取らず、精々家に近寄らないだけの工夫をすれば良い。果たして、天木老人は穏やかな顔を僅かに曇らせて、


「ええ。白蛇が弁天様の使いだというお話は存じておりますよ。けれども、私にとっては恨み骨髄、とまではいかないまでも、凡そ幸福を齎す存在ではなかったのですよ。私とあの白蛇とは、なにも昨日今日の付き合いではないのです。芳香は、この子は、物心付く前で覚えていないかもしれませんが、この家に不幸があると、決まってあの白蛇が現れるのです。私の良人が病に倒れた時も、つい先頃も……」


 見るともなく老人は芳香を見遣った。芳香は祖母の話を聞いていたのかどうか。どうにも、この家は静か過ぎるようであった。話が長くなるので、部屋に戻っていなさいと祖母が命じると、芳香はそれに大人しく従った。先生の最中、もらって良い? と聞くので、摩耶はいいですよと応えた。やったー、と摩耶の最中を手中に、芳香は自分の部屋へと戻って行った。


「すみませんね、お転婆で……」


「いえ、あれぐらいに元気が良いんです。……やはり芳香ちゃんの親御さんは」


「ええ。息子は戦争で逝きました。母親も芳香を生んで直ぐに病気で亡くなりましてね。話の続きになりますけれど、この家の人間が()ぎると、決まってあの白蛇が現れるのです。屹度、書斎から見える木斛の幹に絡み付いて、真っ赤な舌を伸ばして、こちらを窺っている……。世間の迷信とは正反対に、私にとっては凶事の象徴のようなものなのですよ」


「そんなことが……」


 そうすると、芳香に憑いたものはその白蛇であったのだろうか。神上げの儀の折、感じた違和感を説明するには些か物足りない。藪神の類であったのならば、人間が逝ぎた後に現れるということも、どこか平仄が合わない。氏神が芳香に憑いて何らかの警鐘を鳴らしたものだろうか。それにしては接触の方法が乱暴に過ぎる。摩耶の関与なく放置しておけば、芳香の命はなかったことだろう。


「どうにも、私の経験から類例を引くことは難しいようです。そうですね……、蛇、と聞いてなにか思い当たることはありませんか。前代の人間でも構いませんが、天木の血筋の人間に、蛇を象徴するような人間はありませんでしたか」


 天木老人は少しく息を詰まらせた。けれども、淀みなく話を始めた。それは彼女の幼年の思い出、彼女の姉との数奇な運命の一端であった。


 ◆


「……それで、その刃物傷の男には会えたのですか?」


「いえ、会えませんでした。後年思い付いて再度話を伺おうと、私も方々探して回ったのですが、どうにも。元より何時からか町に流れ着いた者であったらしく、もう一方の男も、斎服の男も、一向に行方は判りませんでした。姉が片付いて数日を待たずこの地を去ったのでしょう。そうこうするうちに私も商家に奉公に出ることに決まって、それっきりです。後になって色々と伝承を調べてみたのですが、確かに身延山の山腹には蛇神を祀った沼があるようです。私は気味悪くて行ったこともありませんが、枕沼、と云うそうで。噂に聞いた水神様の沼とは、この沼のことのようでした」


 差し支えなければ、と摩耶はその由来を尋ねた。


「昔、この一帯に水害が頻発していた頃、一人の武芸者がふらりとやって来て、この大雨の原因を為すものは沼の蛇神であると云ったそうで、物見高い村の若い衆が一緒に沼に向かうと、そこには武芸者の云う通りの大蛇が在ったそうです。武芸者が放った弓矢はこの大蛇の右目を射抜き、沼の名前の由来ともなった奇岩、枕岩に縫い止めた。武芸者の行方は判らないままに、水害はぴたりと収まったようですが、以来、枕沼は水神の祟りで生息する生き物は皆、右目が潰れている、と云う話です」


 そうとすれば、天木老人の姉は本当に水神様に嫁入りをしたものだろうか。水神様と同じように右目を潰され、せめても気を慰める生贄として。天木老人は云う。


「私は姉が水神様の人身御供になったなどと考えてはおりません。けれども、こうも続くと気味が悪いでしょう。なんだか、孫まで生贄にとられてしまうようでね……。馬鹿馬鹿しい迷信をと思われるかもしれませんが、私にはあの白蛇が、沼の使いのように思われてならないのですよ」


 姉が人身御供にせられたとは信じずに、一方には水神の祟りの如きを恐れることは矛盾しているように思われたが、身寄りとあっては孫一人の老人の心細さを思えば、その心境の実際は惻々と摩耶の身に迫った。摩耶は精油を用いた簡単な蛇除けを施して、天木宅を後にした。老人の口振りは全てを物語っていたとは思われなかった。しかし、摩耶の仕事は老人の胸中を探ることではない。


(天木さんが全てを話してくれたとは思わない。けれど、彼女が沼と蛇とに膠着(こうちゃく)していることは確かだ。天木さんは芳香ちゃんの両親の不幸をも結び付けて考えているようだけれども、実害を蒙ったのは今の所は芳香ちゃんだけ。それもあの白蛇の所為とも限らない。……兎も角動くことだ。何かが起きてしまってからでは遅い。一度沼に行って見て、水神様に会ってみよう。もしそれが悪神、怪異の類であったなら……)


 私はそれを討てば良い。そう決心して、摩耶は目抜き通りへと向かって四つ辻を曲がった。雨脚が強くなり始めていた。摩耶は用意した雨傘を差して、雨に煙る通りを進んだ。


 通りの遥か向こうにぽっちりと、白い斑点が目に見えた。それは白無垢を着た、歳若い女である。この雨のなかを傘も差さずに、街路に佇んでいる。それを怪訝に眺めていると、気が付けば女は摩耶の目の前に在った。


「…………ぁつ!」


 声が出ない。身体は凍り付いたように云うことを利かぬ。綿帽子から覗く女の右目には醜い刃物傷。左目が赤く光って、凄艶に(おとがい)を摩耶の耳元へと寄せると、


「邪魔をしないで」吐息が冷気のようだ。


 差し伸ばされた手が、摩耶の頬をぞろりと撫でた。冷たい、表皮。力を込めた摩耶の指先が護身刀の柄に触れると、それを抜き払うより先に、女は幻のように姿を掻き消した。辺りに纏わりつくような冷気と、頬にぬめるような感触を残して。息を呑んで、摩耶はしばし、動けない。辻にはそろそろと物音が戻る。全くの無音のうちに在ったのだ。手に持っていた筈の雨傘は足元に転がっていた。バラバラと音を立てて雨粒が摩耶の顔を叩く。彼女は雨傘を拾い上げると、大きく息を吐き出し、(まなじり)を決して、歩き出した。






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