表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
鬼餓身峠陰獣送り  作者: 東間 重明
第一章 蛇身不産女地獄
10/67

渡浪幾三の苦悶

 夜来(やらい)の大雨は止む気色もない。吹き付ける風雨は深山の木立を痛めつけて、唸るような軋りがそこここに反響する。誰もが寝静まり、皆が周囲の音と同化して、この山の騒擾(そうじょう)と身一つに硬い眠りの底へと沈んだ時分、日も暮れて、表を歩く者とてない丑三つ時。明達寺の僧堂には、赤々と灯が点る。


 ぎりぎりと砂を噛むように軋る僧堂の、乱れた燈明に照らされて、板壁には太刀を構えた大男の影絵が映し出されている。構えは居合いの一の型。中腰に構えた足指は畳の目に喰い付くように。チャリ、と音を聴いた時には、太刀は既に鞘から引き抜かれて、横薙ぎに払われている。影は先の構えより更に腰を低くし、無造作に返した刃が畳に付く程に引き摺りながら爬行(はこう)する獣の構え。じわりじわりと間を詰めて、右肩右足を突き出し半身の構え。猫科の動物を連想させるような、しなやかで敏捷な突きから、身体を前傾して水月の構え。返した刃をそのままに斬り上げ、雷鳴の如く撃ち降ろす。一連の動作に淀みはない。刀を手にして以来、一日とて欠かした事のない修練は、渡浪の息を些かなりとも乱しはしない。充実した身体は彼の意を汲み自在に動作した。さはされど、一向に気の晴れぬことには、


(ここまでやっても、今だお前には遠く及ばない。妖怪変化は幾らも斬った。死線の一つや二つも踏み越えた。それでも尚、手が届かぬ)


 彼は剣術に於いて、詩藻(しそう)に於いて、今だ敵わぬ親友を思った。歯噛みしたくなるような思いは当然のこと、それでも切磋する者のあることは喜ばしいことには違いない。それだから彼の心中乱麻(しんちゅうらんま)の如くあるのは、前途の苦難を払拭するに、自らの技量が完成を見ないでいることへの焦慮の為である。なにも徒に焦るのでもない。その危難が目睫に迫っているとなれば、幾ら渡浪であっても、常人となんら変わるところはない。


 警鐘は明らかであった。渡浪の頭蓋にちり、ちり、と極小の鈴の音が響く。凶兆を告げる宝来鈴の音。それは因業な頭痛のように、取り憑いて離れない。


(……始まるな。姉ちゃんはおれが怪異を呼び寄せると云ったが、それは半分当たりで、半分外れだ)


 何時か、秋徳が云っていたことを思い出す。あの優男が珍しく深刻な顔をして、渡浪に云って聞かせた話。


「――抜けば最後、生きながらの即身仏だよ。徳、とも違うのだけれどね。……太刀の神気は低級の怪異を身の回りから退ける。喧嘩で勝てない奴に挑む馬鹿もないってことさ」


「それなら護身刀みたいなものか。お守りみたいだな」


「なかなかどうして。生きながら即身仏になると云っただろう。熱心な参拝客がわんさと押し寄せるのさ。徳を積んだ僧侶の血肉は、奴等の大好物。代々に強力な怪異を切り伏せたこの太刀には、奴等の名と怨嗟とが刻み付けられているんだ。刀の来歴はふつりと途切れてしまっているけれど、これは本当のことだ。勘違いも甚だしいが、太刀の所有者は奴等にとっては滋味栄養に優れた蓬莱の妙薬と見えるらしい」


「太刀を抜いた人間が平凡な者としても?」


「当然頓着しない。なかには名を上げてやろうと挑みかかってくるような輩もあったが、そういった論理的な、というか系統だった感情の機構を持った連中じゃないからな。ともかく強力な連中がこちらにやって来る。時とするとこちらから奴等にぶちあたることもある。思うに、お互いを看過できぬ存在として結束する因果のようなものが、この太刀にはあるのじゃないかな。そんな訳で、幾ら強請られてもこの太刀はあげられないよ、幾三」


「ちぇっ。どうしても駄目かよ」


「駄目だね。第一稽古で僕に一本も取れない君には分不相応だよ。こないだやった一振りで我慢するんだね」そう云って、女のように柔和に整った顔で秋徳は快活に笑った。


 鈴の音が一回り大きくなった。じわり、と渡浪の皮膚に汗の珠が浮かぶ。………洲。………ぞ…青…。どこからともなく、呼び掛ける声。


(……うるせえ)


 ………青州(チンジョウ)。…ゆるさんぞ……青洲。………お前もおれと同じように……。腹を掻っ捌いて、腸を貪り喰ってくれる。あぁ、お前の血を飲み干して……、その味は霊酒にも勝るだろうよ。……青洲。


 渡浪は強く歯噛みして、頭を振った。声も、鈴の音も、頭から離れることはない。そこへ第二、第三の音声が増えてゆく。畳に胡坐の渡浪の眼前には、縹渺(ひょうびょう)とした草原が拡がっていた。光景は変転してゆく。城下町、漁村、川の辺、橋の上。上下感覚が無くなり、コマ落ちしたフィルムのように断続的に展開する光景。対峙する若い侍、巫、屈強な山男、凛とした目付きの若者、――秋徳。手にした得物は皆同じ。刃長は三尺、反りは九分。刀身無銘、来歴不明。渡浪が号す、一刀黄泉路送り。遠見の家では、その特性から所有者の秋徳をして杜黙(ともく)と名付けられた霊刀。生死を象徴する両山の波紋がぎらりと目の前に煌いて、渡浪は、怪異は、一斉に斬り付けられ、絶命する。今際の際のあらゆる感覚が自らに同期して、渡浪は激しく喘いだ。


 山中には、みしみしと成木が引き倒れる音。雨脚は更に激化した。風雨から遁れて安息の位置に一夜の夢を結ぶことも(あた)わず、渡浪の身悶えする夜はこれから始まる。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ