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鬼餓身峠陰獣送り  作者: 東間 重明
序章 渡浪大蝦蟇斬事
1/67

月下奏楽 表

宜しくお願いいたします。

 挿絵(By みてみん)



 中秋の名月が、深山を蒼く照らしている。山頂の山寺には、観月に興じる男が二人。

 

「山の酒というのも」


 小男は手にした杯をちょいと引っ掛けて、


「飲み慣れるとクセになるようだね」と満更でもない様子。


「この雑味がたまらないってわけでね。尤も、飲もうとしたって海の酒は不経済で、おれには手が出ないからなァ。こいつで我慢、我慢」


 一方の大男が、くいと杯を空ける。小男がすかさず酌をする。杯に映り込む玻璃の月。とくりと、咽喉を鳴らして飲み下した。月下に二人。元は僧堂であった小さな庵の縁側に、庭園の鬱勃とした緑や、枝振りの好い詰屈した梅の影絵を愉しみつつ、献酬を続けた。


 おちこちの葉叢からは虫の声が蕭条(しょうじょう)と立上る。幾重とも知れず和合して、絶え間なく。中空に忘却した主題を尋ねて、あえかな支点を求めて差し伸ばされる、星の瞬きの如き虫の声。


「空酒じゃあナニだってんで、あれからちょいと荷をまとめてね。持ってきた、これ、チョコレート」


 小男は背嚢から板チョコレートを取り出すと、パリパリ包装を剥いて一口齧る。残りを大男に手渡した。


「甘味結構。やっぱり月見には甘いものがどうしても欲しくなる。あぁ、高野豆腐に人参添えて、なんてのも贅沢になっちまったんだなあ。ところでこれも商売道具なのかね。手広くやるんだねえ」


「なに、仕入れにはちと金と手間が掛かるけれどね。あればあるだけ売れるよ。山を降りて、近在の婆さんやら駄菓子屋に置いてもらうと、ちょろちょろ金になる」


「しかしそれでも行ったり来たりで大変だろう。大したもんだ。やっぱり足が資本だね」


「うん。やっぱり足が資本だね。これが駄目になっちゃあ終いだね。僕なんて最近つくづく思うもの。それで、やっぱり皆しっかりやっている。大したもんだね」


「うん。大したもんだね。こちらもうんと気張らねばならんのだが、女にゃ家を蹴り出されるし、うちのお得意さんときたらねえ。まったく金離れの悪い檀家ばっかりなんだもん」


 なかば破れ寺といった風情のこの寺に檀家のあることが奇跡であろうし、女にしても風来坊のような貴方に縁付く深情け。なかなかどうして悪い女どころか、生一本に生計を立てさえすれば糟糠の妻とも成り得たものを、どうして大事にしてやらんかったのか。口を突いて出そうになる苦言を、小男はぐっと酒と共に胃の腑に押し込めた。無粋な横槍に、折角の興趣を削ぎたくはない。


「まあ、これも余禄ってわけで。ケチな檀家もこうして酒を呉れるんだから、有り難い。尤も、出所が怪しいもんですが。一方、副業の方はどうですか。金にゃあなりませんか、先生」


「生憎とこちらも芳しくない。第一に正当な報酬を請求するとして、一体なんと口にしたものか。薬師の姉ちゃんはこのあたりの渡世に危なげないものだが」


「薬師の姉ちゃん?」


「ああ、いや。こっちの話」露骨に手を振り、話を逸らした。


 先生が女のことに口を濁すなんて珍しい、と小男は訝った。余程の醜女なのであろうか。

 

 大男はなにやら思案顔に酒を乾す。


「おれに縁のあるものと云ったら、貧と悪女と……」


 クゥルゥリリリ、リリ、リリリリリ。


「ふむ。河鹿、なのかな」


「美事ですなあ。月夜の奏楽めいて、官能的だ。求められているんですねえ、先生」


 虫の声にくるくると性急に旋回するような音声が加わり、感応するように周囲がざわめいた。音律が庭園を満たしてゆく。


「大体雄だって云うなあ、鳴くの」


「これは高い見料、払っただけある」小男は瞳を輝かせて前傾した。


「かぶりつきだもん。御捻りのひとつも期待していいのかな」


「そりゃあもう」


 色好い返事に発奮したものか、うんせと掛け声ひとつ。立ち上がった大男は庭園の燈明に浮かんだ、黒々とした量塊へと目を向けた。何時の間にか山門に存在していた、闇の色斑に。

 

 高天にかかる月が、雲影に閉ざされた。

 

 二人とも最前から気が付いてはいた。しかし、構わずに檀家から手に入れた密造酒をぐびぐびと呷っていたのである。巌の如くに沈黙し、巍然(ぎぜん)として山門に在ったそれも、とうとう堪忍袋の緒が切れたのであろう。口の端からはしゅうしゅうと音を立てて彩雲が溢れ出し、ほとんど狂おしいばかりの様相である。


「随分と気炎を吐いているようですよ、先生」


「気炎というか、なんというか。あれは瘴気なんだろうなあ。ともあれ、こちらも気炎万丈で参りますか」


 やおら庭園に素足のままに飛び降りると、腰に佩いた太刀に手を掛けて、眼光炯々(けいけい)と睨め付ける。


 雲間から、月が覗く。


 対峙するは体長十尺。岩のように盛り上がった胴体に、奇態に膨れ上がる鳴曩(めいのう)。その風体からは想像も出来ぬ、人心を狂わせんばかりの美声。蒼褪めた月光に暴かれた姿は、巨大な化蝦蟇(ばけがえる)であった。


 周囲の木々から、はらはらと葉が散った。大蝦蟇の紫雲に精気を吸われ枯れ果てた植物達の、早過ぎた散華でそれはある。


 大男はしかと地を踏み締めて、化の物は不吉に紡錘の瞳を尚細め。


 不敵に鼻を鳴らした僧侶が、一歩を差した。



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