第五話 「子供の事情と月の夜」
木の葉から光が漏れる。
周囲を思い思いに枝を伸ばした木々が囲う。
風にそよぐそれらの葉が幾恵にも折り重なって、人間の職人がどれだけ技を研こうと到底かなわぬ、繊細で緻密な細工を作り上げる。自然の織物を透かして届く光は、きらきらと輝く透明な緑色をしていた。
深い森の奥で生まれ育ったからか。その柔らかな緑の光に包まれ、温かな土に身を預けていると、心が落ち着く気がした。
----無様だ。
瞳の色は不機嫌を表す氷塊の青色。
土の床に寝転がり、森の天井をただただ眺める。
どうしてこうなったのか。
我は熱の冷めつつある頭で考える。
人間の盗賊に負けた。
それも相手に切り伏せられたのですらなく、己の間抜けさに足下をすくわれて。
人間の子供に助けられまでして。
屈辱だ。
どうしてこうなったのか……。
元をただせば、こんな世界に召喚されたのが悪い。もっと言えば、ノルンが術を間違えなければ、我が喚び出されることはなかった。そうすれば、こちらの世界としてもなにごともなく正しい〈勇者〉を迎えられたはずだ。全てはノルンが悪い。
八つ当たりだ。分かっている。
ノルンはこうなることを懸念して、忠告していたのだから。
我もまた、それを聞き受けた。理解したつもりでいた。
己の弱さというものは……、
こうまでして突き付けられなければ、真に理解できないものなのか。
噛み合っていなかったのは、己の力に対する認識と、この体の実際の力だ。
軽く考えていた。
原因は、その認識の甘さだ。
現在のこの体の内に在る力で、あの盗賊どもに勝てなかったとは思わない。これは自惚れではない。ここに至って己の実力を過大評価するほど、我は愚かではない。山歩きで馴染んだ体は動く。それくらいの力は充分に在る。
しかしそれを、元の世界と同じ感覚で使おうとするから失敗する。
あちらとこちらでは、能力に差があり過ぎる。
頭で思い描いたようには、この体は動かない。ついて行けない。
だからずれる。無駄が生まれる。
そんなことは、ここまでの山歩きで散々に苦労して、分かっていたはずだった。
我は同じ事を繰り返しただけだ。
思い上がっていた。----それも妙な表現だが。己の力を----弱さを、正しく把握せずに強いと思い込んでいたという意味では、違いはない。
もっと慎重に行動していれば、
己の実力を真実理解していれば、あんな無様をさらすことはなかった。
己の愚かさが、なにより恨めしい。
----どれも……今だから言える。
我は負けた。
ただ、悔しい。
…………。
「そんな事があったのか。
それであの人はああやってへこんでいるわけか」
「はい。おいたわしいです。
本来の世界では、さぞかし名のある武将だったのでしょうに。あんなごろつき相手にやられてしまうなんて。不本意でしょうね」
「あー……うん。確かに。
本当なら、人間十人程度、ひと薙ぎなのだろうけれどね。
だからこそ、なのかな。あまり触れないでおこう」
足下の方から、ルトランスとあの子供の会話が聞こえてくる。
子供が状況を説明したらしい。
ちなみに、ほったらかしにしていた荷物は無事だったようだ。
逃走するどさくさに紛れて盗賊が持ち去ろうとしたのを、ルートが目敏く見付けて牽制したと言っていた。盗賊もちゃっかりしているが、ルートも抜け目ない。どうでもいい。
「それで----、
君はいったい誰さんなのかな」
「----?
あ! そうでした!」
とっくに名乗った気でいたのか。子供が森に響く声を上げるまでに、疑問そうな間が空いた。急いで草を踏む音が数歩分近付いて来ると、寝そべる我の視界に入って、子供は几帳面に片膝をついた。
鞘におさめた剣を左手側に置き、右手を胸に添えて頭を垂れる。
型にはまった作法は、正式な礼か。
折り目正しく顔を上げて、子供は言った。
「申し遅れましたっ!
ぼくはリディティス家が三男。名をアシュペドと言います。
旅立ちの日取りまでは掴めず、遅れをとってしまいましたが、勇者様のお手伝いがしたく、こうして参上致しました!
取るに足りない若輩者ではございますが、どうか供として一緒にお連れくださいっ!」
その言葉は、どこかから借りてきたかのようだった。
あるいは、必死に頭を捻って考え抜き、何度も練習した台詞のようだ。
それでも、我が耳に届くその声は、緊張を隠しきれないもののはきはきと明るく、意気込みが伝わってくる。目の端にうつる夏の青空の色をした瞳は、どこまでも真っ直ぐだ。
どうでもいい。
そんなことよりも、決闘の申し込みなら良かった。
不貞腐れた心境でそんなことを思い、我は目をそらす。
「…………」
「…………」
「えー……っと、さ」
反応に窮した子供との、我慢比べのような沈黙が数秒流れた後、ルートが一番に耐えられなくなって間に割って入った。
声に張りがない。我と子供、両者を順に見る。鳶色の毛に手の平を差し入れてくしゃりと握った。その眼差しが我のところで止まると、小さくため息をついたのが分かった。
子供を振り返り、探るような声音で言う。
「リディティス家というと、武門の名家として有名な家柄だったよね。
あー……、アシュペドくんは、いま何歳かな?」
「! 十六です!」
子供は両肩を跳ねさせて、魔法使いに顔を向ける。
その返答がやや上ずっていることに、ルートも気付かないはずがない。
「ほんとうに?」
「っ……。……こ、今年で----」
「ということは、まだ十五歳か」
問い返されて、子供は口籠ってから視線をうつむけて答えた。下から目にする我には、その表情が見える。それまでの印象とは違い、迷いのようなものが見て取れた。畳み掛けるルートの返しに、また顔を上げる。少々瞳を揺らしてから言いつのる。
「た、たしかに! ぼくはまだ子供です!
ですが、腕前が砦の兵たちに劣るとは思いません!
不遜に聞こえるでしょうが、ぼくの腕は必ず役に立つはずです!
いいえ、お役に立ってみせます! 自信があります!」
そこが問題になると分かっていたのだろう。
子供はルートの先手を打つように、真っ直ぐ顔を上げて言った。
この子供の言う事は----ただの自惚れではない。
さきほど盗賊どもを圧倒してみせた剣技は、よく鍛えられ実に見事だった。小柄な体躯を活かした俊敏さ、腕力に頼らない鋭い剣捌き。恐らくあのまま乱戦になっていても、負けないだけの実力がある。決闘したとしても、今の我では敵わない。----認めるのは、不本意極まりないが。
子供は体の向きを変えず、最後には我を見つめて言い切った。
ここが勝負どころと決めた瞳に力が籠る。引き結んだ薄い唇が、頑な意志を窺わせる。
……どうでもいい。我は目を合わせない。
ルートの唸り声が聞こえた。
「それはそうだろうけれど。
でもきみ----」
次の言葉を言っていいものかどうか。できれば言いたくないのに、言わなければならない。そんなためらいが、声に色濃く表れる。困りきったルートは、いつになく真面目な顔で言った。
「女の子だろう」
「!」「----?」
子供が肩を震わせて硬直する。
興味を惹かれた。
我は密やかにそのやり取りに目を向ける。
瞬きも忘れた硬い表情で、子供はゆっくりとルートを見やった。
「な……、何を言うんですか!
心外です! れっきとした男子に向かって、女だなどと……!」
動揺を腹の内に押し込め----そうと分る時点で失敗だが、子供は憤慨してみせる。正座する膝の上に乗せられた手が、強く握られていた。
ルートは小さく二度うなずくと、真剣な眼差しでそんな子供と向き合う。
「変装をしているつもりなのかもしれないけれど。
ごめんね。そんなの、見て分からない人はいないと思うよ」
言葉の端々に労りが滲む。
そうだろうか。
我は内心首を傾げた。
我は子供が名乗りを上げる前から、疑いもなく人間の男の子供なのだと思っていた。
そう判断した理由は----なんとなくだが。
そもそも、我には人間の男女の区別がつかない。顔を見分けられないわけではない。ルートやノルンが祭の最中の人混みにまぎれても、探し当てる自信がある。しかし性別となると話は別だ。容姿だけでは見分けられない。服装の違いや胸の膨らみなど、分かりやすい特徴で判断するしかなかった。それ故、成長しきっていない子供の性別は分かるはずがない。変装されればなおさらだ。
「でも……!」
言われた子供は言葉に詰まったが、直ぐに口を開いて反論しようとする。
それをルートは手の平でやんわりと制した。
「それにね。おれも警備を手伝っていたから、噂を聞いたことがあるんだ。
都会から疎開して来て、周辺の警備を手伝ってくれている人の中に、まだ子供だけど、こんな田舎に置いておくのはもったいないくらい剣の腕が立つ女の子がいるって。
その子がきみなのではないかと、おれは思うんだけど」
「……っ」
もはや言い逃れできないと悟ったか、息を呑んだ子供はルートの眼差しから逃げるようにうつむく。影の中の表情は、眉に力が籠り、口元が頑なを通り越して意固地に引き結ばれている。
両の拳が硬く閉ざされ、腕が張り詰める。
その仕草は涙を堪えているかのようにも見えた。
そんな子供の様子に、ルートが小さく息を抜き、思いやり深く語りかける。
「事情はよく分らないけれど。良かったら、話してみてくれないかな。
勇者さまはこんなだけれど、おれなら聞くだけ聞いてあげられるから」
そう言って、ルートは微笑んだ。膝に手を付いて身を屈める。
「……」
子供は、首を落とすようにうなずいた。
弱々しい手付きで頭に手を伸ばし、不自然に大きかった帽子を鷲掴みに引き下ろす。そう言えば、人間が礼を尽くすときは多く被り物を脱ぐものだった。礼儀正しさがうかがえる子供の、そんなところにも不自然さがあったのかと我があらためて思い至っていると、不意に目を奪われた。
帽子の中に押し込められていた毛が、するりと背中に落ちる。太い縄のように束ねられた毛は、日の光を受けて秋空の夕日のようにきらめいた。明るい蜜柑色の房先が、背中で跳ねる。
子供は帽子を胸の前でくしゃりと握った。
意を決して一度顔を上げると、地面に手を付いて声を張る。
「だましてごめんなさい!
子供で、しかも女だと知れたら、絶対連れて行ってもらえないと思って、それで……。
浅はかでした。本当に、申し訳ありません!」
無理に取り繕わない本来の声色は、いっそう高く澄んで、玉鈴を転がすような可愛らしさがあった。顔立ちも大きな青い瞳に小振りな鼻と、造形も悪くない。しかしこうしてよくよく観察してみても、我にはこれが男か女か、やはり判断できなかった。成長過程の薄い身体に細い手足が子供らしく、またひどくもろそうで危なっかしく見えるだけだ。
何故、性別を偽ってまで勇者に付き添いたかったのか。
我も興味がある。
心が決まれば迷いはない。とでも言うように、子供は背筋を伸ばして正座をして、生真面目な空色の瞳を真っ直ぐ我に向けた。
「わたしの本当の名前は、ミリリアと言います。リディティス家の第四子です。
アシュペドは----三番目の兄の名です」
そこに少々後ろめたさが宿る。
僅かにそれた視線を戻して、続ける。
「わたしは確かに女ですが、武門の家に生まれた子として、幼い頃より厳しく武芸を仕込まれました。ですからその腕前に関しては、先ほど言った事に偽りはないつもりです」
真剣な面持ちで清々しいほどに断言する。
ルートが静かに腕を組んで先を促した。
子供はあどけなさの残る顔を険しくする。見つめるのは我の方でも、その空色の瞳はどこか遠くを見ている。
「半年前のことでした。
王城が魔王軍の攻撃を受け、父はそこで国王と共に命を落としました。騎士に相応しい最期だったと聞いています。
その後から現在まで続いている魔王軍との戦で、上の兄二人は今も最前線の地で先陣を切って戦っています。
だからわたしも、戦いたいと思ったんです。
『国の為』というのは、わたしにはまだ難しくてよく分かりません。でも周りにいる人たちが辛かったり、悲しかったりするのは分かります。そんな嫌な想いを、少しでも減らすことができたら……。減らしたいと思ったんです」
真摯な眼差しで懸命に言葉をつむぐ。
素直な言葉からはもうどこにも偽りのない、誠実さがうかがえた。
「でも、それはわたしのわがままです。
まだ子供と呼ばれる年齢で、しかも女のわたしが激しい戦地にいても、きっと邪魔になる。そこに腕前は関係ありません。それは理解できました。
だからその時は諦めたんです。
わたしは、地方の縁者の家を頼って、あの砦近くにある村に移りました。それでなにか役に立ちたくて、警備のお手伝いなんかをさせてもらっていました。みなさんにはとても良くしてもらいました。
そんな時、勇者様を召喚するという話を聞きました」
うなずき一つ。小さな拳を握る。
「魔王を倒す為に、勇者様がやって来る。
でもここでは人手が足りていない。そんな話も聞きました。
それなら、適任ではないかと思ったんです。
わたし----世間知らずで、一人では無理ですが、手助けにはなれます。
だから、メリダス様とわたしを置いてくれている屋敷の人にお願いしました。
でも、断られてしまったんです。
危険なお役目だから、迷惑になるから、と……」
しょんぼりする。
しかし一度瞬きしてから開かれた瞳には、子供らしい一途さが宿る。
「もちろん、一度で聞いてもらえるとは思いませんでした。
何度も訴えました。
結果は、同じでした。
砦の上役の人も、家の人も、温かくて優しい方たちです。
わたしの為を想って、親身になって、その都度丁寧に理由を説明してくれました。
けっして頭ごなしにではなく、どうして駄目なのか、危険さや大変さを。
わたしのことを本当に心配してくれているのも分かりました。
それは----分かっています。納得しています。
でもどうしても、我慢できなくて……----」
「----飛び出して来ちゃったのか」
言葉にならなかった部分を、ルートがそっと付け加える。
うつむく子供の瞳が微かに潤んでいるのが分かった。それはこの娘にとって、それだけ辛い決断だったのかもしれない。
三つ編みの房を揺らして大きくうなずき、顔を上げたときにはそんな湿っぽい気配を消して、頑固なくらい真っ直ぐに前を見据える。
「はい。親身になってくださった方たちには、本当に申し訳ないです。
でも----、わたしはこうしたかった。
力があるのになにもしないではいられない。そんなの……ダメです。
後悔はしていません」
「立派だね。お父上の敵討ち、かな」
問われて、子供はなんの迷いもなく首を左右に振った。橙の房が大きく揺れる。
「いいえ。
もちろん、それはリディティス家の誰かが成し遂げるべきだとは思います。でもそれは、わたしでなくてもいい。それぞれがそれぞれの役割を果たし、結果として大魔王が倒されれば、それが一番大事なんだとそう考えています。きっと兄たちもそうです」
「……なるほど」
ほのかに微笑んでうなずいてみせるルートは、しかし内心複雑そうだ。
子供は気付かず、姿勢を整える。
片膝を立て右手を胸に当てて、一所懸命のお手本のように声を張り上げた。
「お願いします!
わたし、勇者様のお手伝いがしたいです! 精一杯がんばります!
だからどうか、連れて行ってください!
一緒に、戦わせてください!」
そこにある想いは、わがままを通そうという子供っぽい意地。
そしてそれ以上に、世界のために----みんなのために、なにかしなければという、溢れて止めどない純粋な情熱。みんなの幸福を一途に願う、優しさ。笑える。使命感というと少々安っぽいだろうか。これの方が、余程〈勇者〉に相応しい。
誠実で頑固、そして清々しい空色の眼差しが、我を射抜かんばかりに見据えている。
「----どうしますか?」
たっぷりの間を空けて、ルートが子供から我に視線を移した。
その言葉の裏には、さあさっさと追い返してください、という意味合いが色濃く透けて見えている。「聞くだけ聞く」という始めの言葉もその意味の通り。こやつにとって子供の身の上話など、情けはかけたという建前にすぎないのだろう。
それはそうだ。この子供が旅に加わることによって引き起こされる面倒とは、勇者である我にではなく、その世話役を務める供のルトランスに降り掛かる。そんな余計な厄介事は避けたいと思っているのだ。子供の懇願に感情を流されないところからしても、やはりこやつは損得を優先する計算高い人間らしかった。
我は地面に肘を突いて、のそりと身を起こす。
「べつにいいのではないか」
「そうですね。やはりこんな若い女の子を危険な旅には----て、はい?」
ルートが真面目くさった顔でもっともらしくうなずいてみせた。----かと思うと、声を裏返させて聞き返す。我はひとりで面白いルートに向かって、もう一度言った。
「勝手にすればいいのではないか」
「ほ、本気ですか?」
よっぽど意外だったのだろう。ルートには我が拒絶すると思い込んでいた節がある。我に断らせた方が、こやつには都合が良かったのか。ここまでの会話も、そう仕向けようという意図が見え隠れしていた。
当事者の子供まで、まさかと目を丸くして我を見つめる。
我は体についた葉くずを払い除けてから、淡々と続けた。
「考えてもみろ。
これは旅立つ前に周りの者に相談し、反対されている。それを理解し、納得したとも言った。それならば、ここでおまえが止めても、同じことの繰り返しだ」
「! それはそうですが----」
「それに」
目敏く言葉尻に気が付いて、ルートが瞬間眉を寄せる。その言葉を遮って、我は言う。
「この子供は、これの身を真に案じ、助言した者共の手を振り払ってここに来た。
それはつまりどんな悲惨な目に遭おうと、なんの役にも立てなかろうと、志し半ばにのたれ死のうと、承知の上。かまわない。そういうことだ。
そんな覚悟があるなら、我らが止めたところで無駄だ。今のように勝手に付いて来るだけ。だから好きにしろと言っている」
「……そんな、身もふたもない」
「いいえ! その通りです!」
しかめた表情からして、思わず漏れたルートの本音の呟き。ぽかんとしていた子供はそれで我に返って、これ以上反対されないうちにとばかり口を挟んだ。みるみる青ざめさせた顔を左右に振って、前のめりに地面に両手を付く。
「覚悟! あります! 勝手にします! わたし!
というよりっ! そのお言葉は、勇者様なりの激励と受け取ることにします!
そんな惨めな事態にならないよう精進せよ。そういうことですね!
努力します! わたしがんばります!
これからよろしくお願いしますっ!」
両の拳を胸の前で握り、鼻息も荒く子供は叫ぶ。
その姿を、もはやどんな顔をしていればいいのか分からなくなったのか、ルートは感情の抜け落ちた無表情で見る。我の顔色をちらりとうかがう眼差しは、胸の内が言い切れない感情で溢れて苦い。面倒なやつだ。不満があるなら言えばいい。納得したわけでもないくせに、それを溜め込むからより苛立ちがつのる。
その間はほんの数瞬。
ルートは体裁を立て直すと、感心半分呆れ半分の顔で言った。
「……----前向き、なんだなあ」
「いいえっ!
そう思っていないと、泣きそうなんですっ」
今さっき意気込んでみせた子供が、首を大きく左右に振る。
よく見れば、その肩は小刻みに震えていた。
ルートが、深い同情をこめてうなずく。
その仕草がひどく気に触った。
「……」「あいたっ。て、だから----!」
なにはともあれ。
こうして旅の道連れが一人加わったのだった。
▽ ▽ ▽
満天の星空の下、ミリリアは両膝を小さく抱え込んで、地面に腰を下ろしていた。そうしてぼんやりするときの癖で、揺り籠のように体を前後に揺らす。
リディティス家は、平和な田舎の小さな村でもその名を知られているような、武門の名家だ。その当主の四番目に生まれた末の女の子であるミリリアは、両親だけではなく兄弟にも、とてもとても大切に育てられた。----そう家の使用人の人たちに聞かされ続けていたし、ミリリア自身にもその自覚があった。
剣術と戦の功績だけでのし上がった厳格な武門の家柄だったから、その可愛がり方は少々特殊だったかもしれない。
父や一番上の兄からは由緒ある剣術と世界の知識を。二番目の兄からは軍略と兵法を。三番目の兄からは悪戯の手ほどきと狡賢さを。そして母からは、最も苦手な淑女としてのたしなみを教わった。
先の二つは楽しく、好んで習得に励んだ。しかし馬鹿正直とからかわれがちなミリリアは人を欺くには向かず、またそれを卑怯だと感じてしまう。細かな裁縫も性に合わない。お茶会の何が面白いのかも分からない。----そこで出されるお菓子は大好きだが。
そんなありふれた何事もない日々が、今は無性に懐かしい。
幸せだったと思う。
ミリリアはとても恵まれた環境で育った。
だからその幸せを----恩を、みんなに返すためにミリリアは働かなくてはならない。
みんなのありふれた幸せが壊されてしまった現在だから、なおさら。
ミリリアはそれを守りたいと思う。
命を懸けてでも。
しかしそれはまた、おそろしく大変な決断でもあった。
ミリリアにとって、心配してくれる大人たちを裏切って家を出るのは、身を切るような想いがする。性別を偽って、年齢を誤魔化して仲間に加わろうとしたのも----本当は今年で十五歳だ。後ろめたさに胃の腑が千切れそうだった。本当に申し訳なかったと思う。
それでも、やらねばならなかった。ミリリアは戦わなければならないのだ。
だから、こうして勇者の旅の仲間に加えてもらえて、安堵していた。
それは不思議な感覚だと思う。
これから危険な地へ赴こうとしているのに。
実際の戦場は始めてだ。緊張し、不安になってもおかしくないのに。
やる気ばかりが溢れてくる。
「……」
ミリリアは小さく笑った。
それに、側には勇者がいる。
少し変わった人----本当は魔物なのだから当然なのかもしれない、だけれど、元の世界ではきっと立派な人物だったに違いない。側にいると、その自信や威厳のようなものに、ミリリアは圧倒されてしまうことがある。それに昨日盗賊に会ってから、陰でこっそり剣の練習をしているのを知っている。それはすごいことだ。
魔法使いのルトランスもいる。
剣しかできないミリリアには、魔法が使えるというだけで心強い。その上、いろんな知識が豊富で、分別のある大人の人で、とても頼もしい。勝手を言ってついて来たミリリアにまで細々と気を遣ってくれる、懐の深い人だ。だからちょっと申し訳なくもある。世話を焼かれないように気をつけなければと、気を引き締める。
ミリリアは火の消えた薪をなんとなく眺めていた視線を上げて、遠慮がちにその向こう側にいる勇者を見遣った。
火は獣除けには有効だが、魔物は側に人間がいると判断して、逆に寄ってくるからよくないらしい。これもルートが教えてくれた知識だった。
シェロナは薪の横で仰向けになって、ずっと夜空を眺めていた。
昨晩もそうしていた。
その度に、頭にある角が地面を擦らないのか、腕に刺さらないのか、疑問に思う。
そして同じように、ミリリアも顎を上げて空を見上げてみる。
木々の間から見える濃紺の空には、器いっぱいの金平糖を一面に零したように、きらきら輝く星がたくさん散らばっている。
ずっと見ていて、飽きないだろうか?
鍛錬は得意だが、じっとしているのはあまり得意ではないミリリアは、代わり映えのしない星空はきれいでも、退屈に感じる。
ミリリアは勇者に視線を戻した。
「シェロナ様は、星がお好きなのですか?」
シェロナは僅かに眼差しを向けただけで、また空へ目を戻した。
明かりはその星と月だけで、色の変化する勇者の不思議な瞳がいま何色なのか、分からない。ただ機嫌は悪くなさそうだ。
腕を枕に、シェロナはうなずいた。
「この世界の星と我が世界の星とでは、その配置が異なる。
それを見ていると、ここが別の世界だと実感する。
天に在る星ばかりは、我でも誤魔化しようがない」
「そうなのですか」
ミリリアは素直に驚いた。その素直過ぎる反応を、時には叱られたりもしたが、ここにはそんなうるさい兄たちはいない。
ミリリアは北を示す北斗や有名な正座をひとつかふたつ知っているだけだ。きっと星の並びが変わっても、あれだけいっぱいあったのでは気付かないだろう。それだけ元の世界でも、シェロナは星を見ていたということだ。
シェロナの声は郷愁よりも、好奇の色が濃かった。
その違いを楽しんでいるようだった。
ミリリアも再び星を見上げる。
「----昔。夜空に浮かぶ月が、あまりに美味そうに見えて、食べに行ったことがある」
「あの月をですか?」
不意にシェロナがそんなことを言い出した。
今夜の空には少し欠けた月が青白く光っている。
ミリリアはそれを見上げたまま、目を瞬いた。
「それは豪気な話ですね」
しばらく席を外していたルートがいつの間にか戻ってきていて、興味がなさそうに合いの手を入れる。シェロナとミリリア、二人の中間に腰を下ろした。
シェロナがうなずいて続ける。
「本当に食べるわけにはいかぬからな。ただ触れてみようと飛んで行った。
高く高く飛べば手も届くだろうと。
もちろん容易な高さではない。
どこまで追い掛けても月の大きさは変わらぬものだ。
遥かな距離を飛ばなければならないと分かっていた。
思った以上に空は果てなく----」
ミリリアは頻りにうなずきながら、熱心に耳を傾けた。
それで手は届いたのだろうか。
シェロナが月に手をかざし、それをふわりと握り込んだ。
「----結局、月には届かなかった。
体力ならばまだあった。寒さもいくらでも耐えられた。
しかし息ができなくては、さすがにどうにもならない。
どうしてだか、空の上は息苦しかった。
我は諦めることにした」
「それは残念ですね」
今あったことのように、ミリリアは肩を落としてがっかりする。
いつしかシェロナの方を見ていた。勇者はにやりと笑う。その時を思い出してか、眼差しが星のように遠い虚空を見ている。
「しかしそこからの景色はまた格別だった。
知っているか?
天の果てのその先には、暗闇の世界が広がっている。
その中に星も月も浮かんでいるのだ。何もない空間にだ。不思議だろう。
それにこの大地は丸かった。
どうやら球形をしているらしい。
透き通る青い膜に覆われて、実に見事な光景だった」
「それは本当ですか」
ミリリアは思わず前に手を付いて、身を乗り出す。
想像力の乏しい自分が恨めしい。それはどんな景色だろう。
「えぇーー。そんなはずがないですよ」
夢をいっぱいに膨らませて空を見上げるミリリアとは対照に、ルートは懐疑の視線をシェロナに向けた。シェロナが寝転がったまま首をずらして睨み返す。ミリリアははらはらした。
「疑うのか。この目で見た」
「……それもそうですね」
するとルートは、あっさりと引き下がった。
「でもそれは、シェロナさまのいた世界の話でしょう。
こちらの世界でもそうとは限らないのではないですか?」
「む……」
言われてみればその通りかもしれない。
ミリリアは目を丸くして、魔法使いの思慮深さに感心する。
ルートは胡座をかいて、手の中で杖をもてあそんだ。
「そう考えると面白いですね。
世界が違うと、その形も違うのかな。
この世界の伝承では、この世を〈時の歯車〉と呼ぶんです。
一番重要とされる偉い神さまが、時----つまり運命を司っていて、人や物、それ以外の様々な事柄と事柄を繋ぐ、縁を管理しているのだそうです。最初の勇者さまを召喚したのも、この方とされています。
そんな一つ一つの要素が歯車となってこの世界を形作っているから、そんな風に呼ばれます。だから世界の形は、精密な歯車の機構をしまっておく〈箱〉の形をしているんです。星や月や太陽は、天井に張り付いた光の粒で、決まった筋を辿っているのだと言い伝えられています。ちなみに、神や死者の国はその外側にあります」
ミリリアもその伝承は、常識として教えられていた。そうした伝承を元に魔法は成り立っているというから、それが事実なのだろう。この世界では。見たことはないけれど。
「----」
シェロナが起き上がって、顎に手を添え首を捻る。中空にその様を思い描いているようだ。それから、ひとこと。
「窮屈そうだ」
悩ましそうな声に、ミリリアは笑ってしまった。
確かにシェロナが見た世界のありさまと比べると、箱の中に押し込められている世界はそういう風にも感じられる。
「しかしそれならば、月に触れることも叶うだろうか」
その言葉は一際感慨深くミリリアの耳に届いた。
そうして口の端に浮かべた笑みは、淡い希望への期待ではなく、悪戯を思い付いた三男にそっくりだ。ミリリアは可笑しかった。ルートが少し遅れて肩を竦める。
「シェロナ様の世界には、そういうお話はないのですか?」
「さあな。人間共の神話になど興味がない。
それに、しばらく前にそのような信仰は廃れたようだ」
「どうしてそんなことに----」
聞いてはまずいことだったのだろうか。
無邪気に訊ねたミリリアは、自分の軽率さを恥じた。
しかしシェロナは気にした様子もなく、その疑問に答えようと口を開いて----、
閉じた。
難しい顔で燃え残った薪を見据え、思案した後、低い声で言う。
「--------意味が、無くなったのだろう」
「?」
奥歯に物が挟まったような言い方だった。
顔を上げ、気持ちを切り替えてシェロナは続ける。
「しかし、あの大地は今も〈天庭〉と呼ばれるようだ。
光の降り注ぐ大地、という意味だ。
昔から、全ての恵みは天からもたらされるという考えが、人間にはあったようだ。それは我々のような生き物にも通じる考え方だった。それ故、〈天の育む庭〉と人間を真似て呼ぶようになったのが、長い年月で縮まったのだ。
……これにも、現在では揶揄をこめた異説があるそうだが」
「??」
最後の一言は、なんだかとても不服そうだった。ミリリアは首を傾げる。
ふうん、とルートが話を引き取った。
「それはおれたちにもなんとなく分かる考え方ですね。
光が無いと野菜も稲も育たないし、雨も天から降る」
「いろいろ違っても、同じところもあるんですね」
ミリリアもそれは素敵な考え方だと思う。お日様に干したふかふかのお布団の香りは格別に心地良い。深いうなずきと共にそう呟いたところで、この話は締めくくりとなった。
ルートが明日の予定を簡単に確認し、地図を広げて見せる。
シーカルドの城と町の地図だ。もともとそこで暮らしていたメリダスたちが書いて持たせた、詳細な地図だった。町も現在は魔物に完全に占領されている。行ってみなければ詳しい状況は分からない。明日はとりあえず、魔物の警備体制などの偵察になるだろう、とのことだった。
経験の足りないミリリアには、その辺のことはよく分らない。だからルートの話をよく聞いて、ただただうなずいていた。
それも長くはなくお開きとなって、それぞれが寝床を確保し横になる。
夜の森は静けさで満ちている。
冷たい土に寝転がりながら、ミリリアは星を見る。
明日はいよいよシーカルド城だ。
お城は魔物の巣窟。
そう思うと熱い闘志が湧き上がる。
ふつふつと胸の奥から溢れるその想いを、腹の上で拳を握り、今はぐっと押し止める。星がきらきらと輝いて、見守ってくれているようだ。
なんとしてでも、囚われになっている王女様を、お救いして差し上げるんだ。
ミリリアはあらためて両の拳を握り、心に誓う。
それはきっと、月に触れるよりは簡単なことだ。
くすりと微笑む。
体を丸めて横向きになり、ミリリアはそっと瞼を閉じた。