第四話 「遭遇」
天は青く、雲は白い。
砦のあった山を一つ越え、現在はなだらかな稜線が青空にくっきりと見える丘の、開けた草原の中を歩いていた。よく晴れた空には、ふっくらとした小さな雲がゆったりと流れている。穏やかな風が草原を吹き渡っても、新緑の背丈は波立つほどに高くない。ところどころに顔を出す小さな花が、歌うように揺れた。
「魔法を使うには、その玉が必要なのか?」
険しい山道を抜けた後の平坦な道は歩き易い。足下に注意を払わなくていい分、話をする余裕ができていた。
前を単調に歩く魔法使いの肩に、杖の先に付いた白い玉が乗っている。さっきから、滑らかで少しの歪みもない玉が歩調に合わせて上下するのが目に入って、気になっていた。玉の中に閉じ込められた白いもやがゆっくりとたゆたう。
「これですか?」
問われたルートは歩を緩め、小首を傾げて振り返った。肩に乗せていた杖を手に取り、こちらに見せるようにする。二度瞬きした顔は、思い掛けない質問だったのか、意外そうだ。
我がひとつうなずくと、何故か心底納得したような顔に切り替わった。
にこりと笑う。
「そうですよ。
これは法玉といって、特別な石を特別な製法で加工して作られます。
人間が魔法を使うのに、不可欠なものの一つです。
一般にはあまり知られていないですが、この石で重要なのは、真球であることです。同じ素材で同じように作っても、きれいな球形でなければ意味がありません。だからこの杖も、玉を傷つけないようにはめ込まれているでしょう?」
前に向き直って、玉を見ながら滑らかに解説する。最後にはこちらに杖の先を差し出して、玉の留め具の部分を指差して見せた。確かに、宝石の装飾でそうするように、玉に穴を開けるのではなく、台座から爪を出して玉を抱え込むように留められていた。
説明はそれで終わりと言うように、ルートは杖を引っ込める。くるりと腕にそって回してから、また肩に担いでしまった。
それだけと言われればそれだけの内容だ。丁寧でなかったわけでもないが、なんとなく簡潔に過ぎる気がした。少なくとも、我は満足できない。
横に並んで歩くルートを斜めに見て、我は言った。
「それだけか」
「? それだけ、とは?」
「不可欠なものの一つ、と言ったな」
「----ああ。つまり他には、鍛錬や呪文が必要という意味ですよ」
「……」
それだけです、と同じ台詞で返す。
ちらりとだけこちらに視線を寄越して、また前を向くその横顔は、いつになく平坦で素っ気ない。砦を出てからまだ半日しか経っていない。しかしその間に交わした我の下らない昔話でさえ、この魔法使いはもう少し温かく付き合っていたように思う。歩調を元に戻して先へ行こうとするのも、追及を避けているようにしか見えない。
我はその丸い後ろ頭を見る。
ルートとは違って空の右手を振り上げ、
丸い頭を目掛けて振り下ろした。
「あいたッ!
なにするんですかいきなり!
そうやって直ぐ暴力に訴えるの止めてください。短気ですね」
「気まぐれだとは言われる。
おまえが勿体つけるからだ」
両手で頭を押さえて勢い振り返る。鳶色の毛に付いた髪飾りの、銀の棒が跳ねた。
涼しい顔で我がうなずくと、ルートははばからず抗議の声を上げて、恨みがましい眼差しで睨んでくる。
いつも一歩引いたような態度をしていても、こういう時はきっちり反論する。言うべき事は言い、正すべきところは正す。こちらに----〈勇者〉に、流されるだけではいないという確固たる意思が、そこには見受けられた。
品行方正でただ従順な好青年なのかと思えば、それだけでもなさそうだ。
腹の底で舌打ちを鳴らしているような間と空気を、微かに感じる時がある。
「----勿体ぶったわけではないです」
我が退かないのを悟ったのか、ルートは観念して言った。声が重い。まなじりに憤慨を残したまま、上着の裾をひらめかせて再び歩き出す。
「ただ、あまり魔法使い以外の人に広めるような話ではないので」
その口振りは、どうして気付かれたのだろうかと、問いたげだ。
ルートは軽く目を閉じると、鼻から息を抜いて気持ちを切り替えた。
「法玉は魔力を込めると光るので、素人目にも明らかなんです。
でも、それと同じくらい重要な役割を担っているのが、この長い棒の部分です。杖の本体という言い方もできますね。他の装飾や素材に意味がないわけでもないですが。
簡単に言うと、法玉が魔法の力の核となる部分で、棒がその力や術者の意志を伝播する部分です。特別な石でできた真球の玉と長い棒。この二つが揃って始めて、魔法使いの杖として成立します」
「なるほど」
単に玉を持ち運びし易くするため、あるいは使い勝手が良いように、杖の形にしてあるのかと思えば、そうではなかったらしい。
「そんなに簡単な話でもないですけどね」
と、ひとり呟くルートは、また杖をくるりくるりと器用に回した。長く使い込まれた杖は体や腕によくなじみ、その扱いには危うげなところが少しも無い。思い返してみると、ルートは昼の食事の間も杖を腿の上に置いて食べていた。体の脇、手が届く範囲にさえ置こうとしない。杖がなくては魔法が使えないのであれば、それを手放したがらないのもうなずける。
「いや、待て」
「?」
前を行くルートが足を止めて振り返った。
杖が定位置の肩の上に収まって、とんとんと跳ねる。
我は変わらず歩を進めながら、顎先に指を添えた。
思い出したことがあった。
「ノルンは杖を持たずに魔法を使っていた」
「召喚の時ですか? 儀式用の、大きくて長いのを持っていましたよ。
その上魔法陣には補助の法玉まであって、大変そうでした。
あれ、本来は一人でやる術ではないのではないですかね」
「違う。今朝の事だ。
口で呪文を唱えるだけで、小さな光の玉を生み出していた」
「ああ、それくらいならおれでも出来ます。
単純で小さな力の魔法なら杖がなくてもなんとかなりますが、少しでも複雑な魔法----例えば戦闘で使うような魔法を使おうと思ったら、法玉の杖が必要なんです」
「それではやはり、魔法使いは杖を取り上げられたら戦えない、ということか」
「----まあ、……そうなります。
残念ながら、と言うのも妙ですが」
そう言って、ルートは自嘲する。
どこか遠くに視線を投げ掛けてから、うなずいた。ただ返事を躊躇ったのではなく、なにか思うところがありそうな間だった。しかしこれは追及してもはぐらかされそうだ。
気になったが、我は口の端に小さな笑みを乗せて、ただうなずいた。
「満足した。
世界が変われば魔法も変わるものだな」
ルートがちらりとこちらの顔を見てから、瞬きを一つする。口元に、同じように笑みを浮かべた。
「----おれは、そっちの方が興味あります。
シェロナさまも『ようなもの』が使えると聞いていますが----」
そんな会話をしながら道を行く我らの頭上高くにある太陽は、中天を過ぎて緩やかに傾き始めていた。午後になっても朝からの清々しい陽気は変わらず、旅程は順調に進んだ。
道案内のルートが言う、その「順調」という言葉が気に食わない。
午前中いっぱい、我は不慣れな山道と動きの鈍い体に悪戦苦闘し続け、不甲斐無いことにその歩みは非常にのろく、距離はあまり稼げていないはずだった。その上で「順調」とは、つまりそんな〈勇者〉の状態を始めから見込んだ上での旅程だったということに他ならない。周到なことだ。その通りになっているのが、我には不服だった。しかしこれは表には出せない。情けない。
やはり、頭でだけ了解するのと、その身を以て体感するのとでは違った。
全身の感覚が鈍い。体が重い。それだけでも勝手が違うのに、尻尾までが無いせいで上手く体勢を保てない。それらは予想していた以上にひとつひとつの動きに影響を与えて、大いに煩わしかった。腹の底に重く澱んだものが溜まっていく気がした。
だから知らない世界の景色で気を紛らわしていたのだ。その結果、足下が疎かになって悪路に転んだとしても、それは仕方のないことだった。全てがもの珍しく、気を惹かれなかったとは言わないが。
そんな煩わしさも、時が経ち、体を動かすにつれて次第に良くなっていた。
体の内側にある力の総量に変わりはない。しかし浮ついていたものが器に馴染んで落ち着いたような、そんな感じがする。それでか、妙に隔たりがあった感覚や動作までの僅かな時差が、少しは改善されたようだ。
とりあえず、山歩きに支障がなくなる程度には感覚が掴めた。まだ咄嗟の対応は上手くないが、無様に諸手を上げて素っ転ぶようなことは無くなっていた。こうしてひとつひとつ感触を確かめていけば、近いうちどうにかなるだろう。まるで巣立ったばかりの雛のようだ。
風の流れる草原の丘を越えると、その先にはまた豊かな森が地平の先まで続いていた。あまり使われていないことが見て取れる、旺盛な緑に埋もれがちな道が、その森の中に消えている。始めの山道とは違い、こちらの傾斜は緩やかだった。鬱蒼とした木々が視界を遮り、薄暗い。そんな森の中に明るい日差しが線を引いているのが美しかった。
しばらく進んだところで、頃合いを見計らってルートが足を止めた。
「休憩にしましょう。
近くに小川があるようなので、水を汲んで来ます」
そう言うと、魔法使いは我から軽くなった水筒を受け取って、軽快な足取りで木々の向こうに消えていった。
こんな時、ルートは率先して動く。体力まで低下している我に余裕がないのを、よく心得ていた。そしてそれを言葉にされるのを嫌うのもまた、心得ていた。
我はひとつ息を抜く。そんな状況を不甲斐無く感じないわけではない。しかし、それは事実だ。いまは潔く認めるしかない。
我は肩から荷物を下ろして、地面に置いていったルートの鞄の横に並べた。
ここは、森にぽっかりと穴を空けたような、光の降り注ぐ空き地だった。半ば腐りかけた太く古い樹木が横倒しになり、その周りに背の低い草や若芽が我よ我よと天を目指して瑞々しく伸びている。先が刺々しく荒れた株が、往年の名残を残す。
葉を撫でる風が、衣服の下に汗を滲ませる我の頬にも心地良かった。
確かに小川があるらしい。どこかから、水の流れる音が途切れ途切れに耳に届いた。
ふと、ぐるりと見渡す我の目が、森の縁で止まった。柔らかな桃色の小さな花が咲いている。可愛らしい丸みのある花びらは、中央が白い。細い茎の先に付いた花と花が、寄り添うように揺れて、か弱く見える。
「----」
目を留めた理由が、可憐な花を愛でるためだったら悪くなかった。
ざくっ、
と落ち葉の地面が鳴った。
体を動かすことに精一杯で、気を配っていなかった。とはいえここまで近付かれてやっと気が付くとは。思った以上に疲労しているのか。思わず眉が険しくなる。
我はわざとらしい物音の方へ、顔を上げた。
獣----ではない。
大柄な人間の男だ。
刃が欠け曇った太い剣を粗雑に肩に担ぎ、野蛮な薄ら笑いで獲物を威嚇する。身成は薄汚れ擦り切れて、平凡に暮らす町の人間ではなさそうだった。肩に掛かる白地に斑点模様の毛皮だけが立派だ。腕も服の下の身体も、無駄のない筋肉の鎧を纏っている。
男は気分の悪い笑みで横柄に告げた。
「こんなご時勢に旅行しようなんて考えるバカがけっこういるもんだな。
いい度胸だが、賢いとは言えないぜ。
どんな大事な用事か知らねえが、その心意気に免じて命だけは見逃してやるよ。
荷物丸ごと置いて失せな」
森の影からわき出すように、一人、また一人と別の人間が姿を現した。
それらは一様に頭目とおぼしき正面の男と同じような格好をしており、それぞれに武器を握っている。こちらの退路を断つように、思考をも塞ぐように、十数の人間が時間を掛けて----しかし速やかに我を取り囲んだ。
「……」
我はその手際を目の片隅で観察し、腹の内で納得する。
どうやらこやつらは、盗賊とか呼ばれるものの類らしい。
気を緩めたうちにすっかり取り囲まれたのかと思ったら、この場所は始めから狩り場として見張られていたようだ。
これは----予想外だった。
道中、襲われたとしても、それはメリダスたちが話していた〈魔物〉にだろうと考えていた。人間と敵対しているのは魔物だ。だから同じ人間に、その〈勇者〉が害されることなどないと、そう思い込んでいた。
しかし考えてみればありえた。
こういう群に属さない輩というのは、どこにでもいる。
「おい」
----人間が出たぞ。
そう問い掛けようと、首を回して後ろを見遣って----我は固まった。
そこには、求めた魔法使いの姿は無かった。代わりに、少し離れた場所に頭の禿げ上がった盗賊の一人が立っていて、不意に目が合ったものだから戸惑った顔をしている。
「……」
我は何事もなかったように正面に向き直った。
そうだった。ルートは水を汲みに行って、いないのだった。
----正直、困った。
どう対処したものか、分からない。
こんな時の為に補佐役はいるのではないのか。肝心な時にいないとは。役に立たない。
我はルートに八つ当たりしながら思案する。
果たして、
この盗賊どもを、
斬ってもいいのかどうか----。
賊とはいえ、人間だ。
こんなはみ出し者の輩が、町の人間共に疎まれているのは知っている。こやつらは同じ人間からも奪い傷つけるからだ。
しかしそんな者たちでさえ、人間は己ら以外の存在----魔物に害されると、途端に手の平を返して同情しだす。団結して敵を討とうとさえする。単一種の我には理解し難い、同族意識というやつだろう。
そして、我は魔物だ。
人間共が認めた〈勇者〉だとしても。それ以前に。
そんな我がこやつらを斬ったとして、後で問題にならないか。
勇者として----。
それが我には分からない。
「----」
「おいてめえ、びびってんのか?
黙ってねえで、さっさと出すモノ出しやがれ!」
「待て。いま考えている」
「なあっ??」
奇妙な声を上げたまま、あんぐりと顎を落としている大男は無視する。
我は前に立てて静止を促した手の平を、そのまま顎に添えた。尻尾をゆらゆらさせながら----そんな気分で思考を続ける。
しかし、だ。
なにもしない、という選択肢はありえるだろうか。
結果は目に見えている。「大人しく従え」ば、双方傷つかないがこちらの荷は奪われる。そしてそれは、我がこの程度の低い連中に屈服したことを意味する。許容できない。
先に刃を向けたのはこやつらだ。
なによりその態度が気に食わない。
たかが人間ごときがほんの十数人寄り集まっただけにもかかわらず、我を脅し、我が物を奪おうとしている。見過ごせるはずがない。思い知らせてやらねばなるまい。文句を言う奴は一緒に黙らせればいい。
----憂さ晴らしだ。
我は口の端に笑みをのせる。見る者には酷薄にうつる笑みだ。
無造作に剣を引き抜いた。
「----て、そうじゃねえよ!」
それを目にした頭領が、急に動きを取り戻して、大仰に腕を振り下ろす。
「えらっそうな口叩きやがって!
よく見りゃてめえ魔物か?!
だったらなおのこと、容赦はいらねえ! やってやろうじゃねえか!」
足で地面を踏み叩く。
そして凶暴に重い剣を振り回し、吠えた。
「おめえら! 一匹くらいどうってことねえ!
このいけ好かねえツノ野郎を畳んじまえ!」
「「おうっ!」」
野太い男たちの声が合唱する。
我は片足を引いて、
左右の賊が突進するのもかまわず、
正面の頭領へ一足に間合いを詰めた。
速度と自重を乗せた一撃を振り下ろす。
げんっ! と硬い音をさせ、受け止められた。
「はっ! 真っ先にオレを狙うとは、肝が据わってやがる。面白え!
けど体躯ほどでもねえな。こんなもんぜんっぜん、軽いんだよオ!」
「----ちッ!」
間近の薄ら笑いは微動だにしない。
重そうな両手剣を片手で軽々と扱い、簡単に押し返される。
その反動に合わせて後ろに跳び、我は地面に低く着地する。その両足に掛かる負荷。踏み止まれなかった分、短い草と土を擦った感触、長さ。それらの違和感はほんの一瞬。考える間もなく、盗賊どもが二人掛かりで我を迎え撃った。
頭領が野蛮な笑い声を響かせる。
「ははは! まずはそいつらと遊んでな!」
一人は剣。もう一人は鉈。
どちらの得物も間に合わせのような使い古しで、手入れが行き届いていない。その技も手にした刃と同じく鋭さはなかった。
右から打ち掛かる剣を弾き飛ばし、左から懐へ入ろうとするのを斬り払う。
最初の一撃で、腕に想定以上の重さを感じた。続く一撃への呼吸が僅かに遅れ、さらに無理な力が加わって、後ろへ一歩、体勢を崩す。
----なんだ?
その隙をついて、死角から狙いすました槍の一突きが繰り出された。
その攻撃は「見えて」いた。我はほとんど無意識にその切っ先を捉え、体を開いて回避する。しかしそれもまた、僅かにずれる。槍の刃が浅く腕を裂いた。思わぬ痛みに大きく跳び下がるのを余儀なくされる。
なんだ?
なにかが噛み合ない。
今度ははっきりとした疑念がわいた。
それをのんびりと考察している時間はなかった。
人間を相手に既に二度も大きく退かされている。その事実に再び舌打ちしたところを、槍のすばやい二撃目、三撃目が続いた。息をつく間もない。充分な休息を取れないうちに襲撃されたこともあって、直ぐに息が切れる。
やっと槍から逃れたと思ったら、そこにはまた別の二人が控えていた。
「この人数を相手に剣を抜いただけあるな。
なかなかやるじゃねえか」
「……」
頭領は腕を組んで、にやにや笑いも深く高みの見物だ。
厚い金属同士の擦れ合う、耳障りな音。
両腕に力を込めても、一向に崩せない。嫌な焦りが胸を過った。
その鍔迫りで拮抗した左脇から、両手に短刀を持った男が迫る。我はふっと力を抜き、刃を合わせた男から、斜めに体を避ける。盗賊の二人は互いにそれる間もなくぶつかって、草の上に倒れた。
有象無象がただ寄せ集まっただけの集団かと思えば、そうでもなかったようだ。
よく連係が取れている。それがやっかいだ。
一人一人の力量は大したものではなくても、絶妙な呼吸で連続した攻撃をされれば、こちらの手が詰まる。一人を片付けている間に死角から別の攻撃が襲い、また直ぐに他の人間に入れ替わる。
我は次々と襲いくるそれらをしのぎながら、荒い呼吸を繰り返した。
ここまで一歩も動いていない頭領の、あの余裕が癪に障る。
顔の脇を汗が流れる。咄嗟に尾や念力を念頭に上げてしまう己が忌々しくてならない。
そして----。
前へ出て、我を斬り伏せようとしていた盗賊の先手を打つ。踏み込んだ足は予想よりも浅く、薙いだ剣も遅い。結果、あまり効果を上げなかった一撃は、ほんの僅か正面の賊を怯ませただけで、すぐに反撃されてしまう。
それだけではない。
ほとんど同時に、横手から先程の槍が延びてきていた。
弾かれたように、我は反対方向へ地を蹴る。
足がもつれた。
一瞬、判断が止まる。
しぶとく元の場所へ止まり続けようとした己の片足に、
跳ねたもう片方が引っ掛かった。
わけが分からない。
我は両足をもつれさせ、ひとりで尻餅をついて勢いのまま転がる。
盗賊どもの呆気にとられた表情が目に焼き付いた。
続いて脇腹に衝撃が走る。
側にいて、いち早く我に返った盗賊が、武器を使うまでもなく蹴り倒したのだと気付いたのは、さらに一瞬遅れてからだった。
体がうつ伏せにひっくり返り、その拍子に手から剣が滑り落ちた。
そしてあっという間に、二人掛かりで地面に押さえ付けられていた。
「なんだ。意外と呆気無かったな。
偉そうなのは態度だけか」
頭領のつまらなそうな声が耳に入る。
何が起きたのか、分からない。
頭が追い付かない。
見開く視界いっぱいには新緑がある。
押し付けられた頭の----顎の下には土の感触、におい。
我は--------、
--------負けたのか?
人間のごろつきの、十数人の寄せ集めに----?
「おい、ツノ野郎!
もう荷を渡すくらいじゃ許してやらねえぞ!
そのすましたツラが泣いて謝るまで痛めつけてやるよ。
おう、おまえら! 殺さねえ程度にやっちまえ!」
「「へいっ!」」
盗賊どもの声が揃う。
両腕を乱暴に抱え上げられる。
今更、蹴られた腹が痛んだ。
薄ら笑いを浮かべて、拳を鳴らす人間共の姿が目に入った。
心の奥底が、冷え冷えと凍っていく感触がした。
「そうはさせるか!」
高らかな声が森の中に響き渡ったのは、その時だ。
背後の茂みが揺れ、なにか動物が飛び出したかと思うと、左右の盗賊が力を失って倒れている。
それは身軽に地面を走り、行く手を遮る、突っ立ったまま動けずにいる他の盗賊どもを薙ぎ払いながら、一直線に親玉へ向かった。
「やあ!」
一際高く澄んだ声と共に繰り出された一閃は、咄嗟に構えた頭領の大きな剣をすり抜け、脇腹を裂いていた。
速い。
そして上手い。
振り抜いた剣が美しい弧を描く。地に着いた足で軽く飛び跳ねるように身を捻る。
そのまま背後を取れるにもかかわらず、それは子鹿のようにすばやく跳ねて、我と頭領の中間に戻ってきた。恐らく、今の一撃も手加減したのだろう。やろうと思えば仕留められる太刀筋だった。
突然自由になって再び地に落ちた我は、その背中を目を見開いて見上げる。
それは、手にした細身の剣の切っ先を、盗賊の親玉へ真っ直ぐ向けた。
「大勢で寄ってたかって一人を襲うなど、卑怯千万!
その上、この御方は勇者様だぞ! 知らなかったでは済まされない!」
子供だった。
この場にいる誰よりも小柄で華奢な、人間の子供だ。
張り上げる声はまだ成長しきらない高さを誤魔化して、強いて低く抑えている。旅装に胸当てや手甲などの要所を守る軽装の皮鎧。頭には不自然に大きな、丸く膨れた帽子を被る。顔は----この位置からでは確認できないが、覚えの無い、知らない人間だとは分かった。
地面に転がって呻く盗賊共。
頭領も脇腹を押さえて、苦い表情をしている。子供と睨み合う眼差しは、状況の変化を見極めようとしているようだった。
我もまた、似たような心境だ。周囲に目を配り慎重に体勢を整えながら、子供の背中を睨む。その眼差しは、自然と険しいものになった。
「勇者だあ?
そんな弱っちいのがか?」
頭領が殊更に胸を張り、顔を歪ませて鼻で笑う。乱された場の主導権を取り戻すため、無理をしているのが見え見えだった。この子供の力量は今の攻防だけで分かったはず。正面から戦えば敵わないと踏んだのだ。
優位に立っているはずの子供は、しかし後ろから見ていても分かるほど、その一言に動揺した。焦って言いつのる。
「そ、それは! 勇者様がまだ本来のお力を発揮できないからで----!
本当なら、もっと、きっと、お強いはずなのです!
おまえたちのような卑怯者なんて、あっという間に倒せるくらいには----あたっ」
「……」
聞くに耐えない。
いらぬ弁解だ。
拳の届く間合いではなかった。手近な小石を投げつけて黙らせる。狙いを少々外れて肩に当たった石に、子供が不思議そうに振り返った。我はついと顔を背ける。本音では睨み付けてやりたかった。子供の戸惑う気配が伝わった。
「なんだなんだあ? わけが分からねえな」
そのやり取りを蚊帳の外で見る頭領が、後ろ頭を乱暴な手付きでかきながら、頻りに首を捻る。やがてなにか勝手に得心がいった様子で、一つ大きくうなずいた。
「ああそうか。そのツノ野郎が勇者で、おまえはその仲間か。
荷物二つあるもんな」
余裕を取り戻して不敵に笑う。他者を見下し慣れた、高慢な笑みだ。
空手を大仰に真横に振る。
「ガキだろうが勇者だろうが関係ねえ!
刃向かった以上、見逃してもらえると思うな!」
「いいや。そこは見逃してもらう」
「は?」
何処からともなく割って入った声に、頭領が振り返った。
その途端、
小さな空き地を豪風が襲った。
草を引き千切り行き過ぎる風に、盗賊どもが軒並み転がされる。空気が唸りを上げ、それらの耳障りなだみ声が悲鳴となる前にかき消した。体の軽い子供は踏み止まれず、風の流れに沿って半ば飛ばされるように下がると、森の樹木を盾にする。
ほんのひと撫で吹き荒れた風が収まった後に、空き地に立っていたのは巨漢の頭領だけだった。その体躯故にまともに煽られていたが、力技でなんとか持ち堪えたようだ。ちなみに、地面近くに身を伏せていた我は無事だった。
「くそッ! 今度はなんだ!」
「騒がしいから急いで帰ってきてみれば、このありさま」
ため息混じりの声と共に茂みから姿を現したのは、他にはいない、ルトランスだ。
魔法使いは杖の先の法玉を淡く光らせたまま、それを真っ直ぐ頭領に向けた。
「今のはただの突風でも、次はかまいたちが切り刻む」
落ち着いていながら、すごみのある声で宣告する。
頭領を正面に見据える鳶色の眼差しが、逃れようなく威圧する。
それだけで頭領は、唸って半歩足を退いた。
無意識のその行動に、我に返って明からさまな舌打ちをする。
「魔法使いか。
しかたねえ、ずらかるぞ!」
号令一つ。
盗賊の引き際は鮮やかだった。
返事をする間もない。今し方吹き荒れた風のように、あっという間に姿を消す。
後には踏み荒らされた空き地の草と、そこに飛び散った僅かな血を名残とするのみ、だ。
急速に静けさを取り戻した森が、大らかに葉を揺らす。
ルートが杖を収めて、肩をとんとんと叩いた。
盗賊の気配は完全に去った。
我は重たい尻を地面に落とした。
草地についた手が、知らず葉を握りしめている。
大地を睨む目は、なにも見てはいない。
事が終わって胸に膨れ上がるのは、燻る火種のような苛立ち。どうしてこうなったのかというやくたいもない想いが、頭の中をぐるぐると巡る。喉元に迫り上がる己への憤りを舌打ちに変えて、我は手足を投げ出し仰向けに倒れた。
旺盛な生命力に溢れる森の緑の天辺から、白い雲が浮かぶ青空へ。
視界が流れる。
それを両手で塞ぐ。
大声でわめいて、じたばたと暴れたい。
こんなはずではなかった。
ただ、息を抜く。
「勇者様、大丈夫ですか!」
真っ先に駆け付けたのは、この場に留まっていたあの子供だ。
樹木の影から一足飛びに、血相を変えて傍らにやって来たのが、土を踏む音で分かった。
「もしやどこか具合が悪いのではっ?
さっき蹴られた場所ですかっ?」
「やめろ」
傷を診ようと手を伸ばす子供に、腕の間から一瞥をくれる。
威勢の良かった子供が凍りついた。
氷の薄青を極めた眼差しになってしまったのは、不可抗力だ。この子供に八つ当たりしたくないとは言わないが。いま、話し掛ける方が悪い。
そしてそんな現在の状況とは関係無く、手負いの状態で見知らぬ他人に触れられるのは、不愉快以前に本能が拒絶する。
「ごめんなさいっ」
己の行動の不躾さに思い至ったか、子供は機敏に立ち上がって一歩距離を取った。早口に謝り、行き場のなくなった手が降参するように肩の高さで開かれる。
「えーーっと……。
とりあえず追っ払ってみましたが。
これ、どういう状況ですか??」
ルートの困惑した声が頭上に降り掛かる。我と子供を見比べ、困りきって首を傾げる魔法使いの姿が、容易に思い浮かんだ。
我は返事をしなかった。