第三話 「魔法使いの視点」
ルトランスは決めかねていた。
少し前を歩く、この勇者への態度を----。
本来ならば、それはルトランスにとって得意分野のはずだった。
ずっとそればかり考えて生きて来たのだから。
どんな人物が召喚されるか分からないという勇者に対しても、様々な人柄を想定して、脳内で予行演習を繰り返していた。
しかし、これは----、
この人物は----、
否、ヒトですらない。
だから困っている。
いくらなんでも、予想外だった。
まさか、魔物が召喚されるだなんて。
「……」
ルトランスは我知らず、眉根を寄せてその背中を見詰める。
いったいどのように接すればいいのだろう。
良好な対人関係を築くことにかけては、それなりの自負があるルトランスをして、どんな話題をふればいいのか、そんな初歩の問題すら分からない。ただ文化が違う、環境が違う、そんな別の世界から来た「人間」にならば、対応する用意があった。しかしあれは魔物だ。そもそもの種族が違う。こちらの----人間の常識が通用するのかさえ、あやしい。
砦を出発し、最初に道を示してからずっと、ルトランスはそんな事で頭を悩ませている。
一度、勇者の方から話し掛けてきたことがあった。
まだ山歩きを始めてから間もない頃だった。
目的地であるシーカルド城に行くには、砦のある山を越えて行かなければならない。季節柄、山を包む木々には瑞々しい若葉が茂り、足下には小さな花も顔を出していた。
そんな、なだらかとは言えない山道で、勇者は言った。
「いま鳴いた鳥は、なんという名だ?」
----は? トリ?
不意に立ち止まって、朝日の差し込む森を見渡しながら言われた言葉が、ルトランスには一瞬理解できなかった。あまりに予想外だった。
とり、鳥。
そう言われてみれば、山の間から、なにかの鳥の声が聞こえている。別の世界に来て、旅をし始めたばかりで、最初に気になったのが、鳥か。目の前に、始めて顔を会わせた人間がいるというのに。これから一緒に旅をし、共に戦いさえする人間がいるというのに。鳥。好奇心旺盛かッ! ならコッチにも興味持て! トリ以下か、おれはッ!
「鳥ですか? そうですね、この時期にはよく聞く声ですが。
名前、なんだったかな……」
同じように足を止め、森を見遣るルトランスの口から、そんな普通の合の手が勝手に漏れる。勇者を見ると、翡翠色の瞳がじっと待っているのが分かったが、胸の内ではつっこみの嵐が吹き荒れ、鳥の名前など考えちゃいなかった。
そうしてろくな返事ができないでいるうちに、勇者が「そうか」と呟いて、再び歩き出す。鳥への関心を失ったわけではなさそうで、声が聞こえる度に耳を澄ませ、木々の間に目をやってその姿を探している様子が見て取れる。
ルトランスははっと我に返った。折角の会話の糸口だったというのに、みすみす無駄にしてしまった。いつもならば、知らないなら知らないなりに、話を膨らませることができたはずなのに----。
しかし、もう遅かった。
それ以降、なんとなく話し掛けづらく、ただただ勇者の背中を見詰めて黙々と歩くだけの現在に至っている。
「----」
ルトランスは長く歩いて乱れた呼吸を整えるのに紛れさせて、そっと息を抜く。
砦を出発してから、もう一時間以上が経とうとしていた。
どうも調子が狂う。
なにもかも、いつもと違うからだ。
ルトランスの受難は、この忌々しい役目を押し付けられた時から決まっていた。
数日前、ルトランスはメリダスに呼び出された。
ツテを頼ってあちらこちらの町や戦場を渡り歩き、その時偶々あの砦に流れ着いて、警備の手伝いをしていただけの魔法使いを、その集団の長が直々にお呼びだというのだ。嫌な予感がした。
そして案の定、刷毛のような髭を蓄えた老人は言った。
半月前、シーカルド城を奪われてから間もなく決定していた、英雄召喚を行う目処が立った。貴殿には、異界よりやって来られる勇者様の旅の供をしてほしい、と。
----貧乏くじを引いた。
その話を聞いた瞬間、顔こそしかめなかったものの、ルトランスの脳裏に真っ先に浮かんだのは、ソレだった。続いて思い浮かんだ言葉は「冗談ではない」だ。
ルトランスは自慢の上面は少しも崩さず、しかつめらしい顔で見詰めているじじいに戸惑ってみせた。
「誠に光栄なお役目ですが、しかし自分では、勇者様の旅のお供をするには、いささか実力不足ではないでしょうか」
----と。謙遜ではない。事実だ。
魔法使いであるルトランスの戦闘能力は、世界がこれだけの窮地に陥っているにもかかわらず、田舎の警備に収まっていて苦情を言われない程度のものでしかない。ルトランス自身も、自分を弱いとは思わないが、中流並みだという自覚がある。過酷な勇者の旅路にはとても見合わない。
そしてそれは、周囲も承知しているはずだった。
だから進言しながら、ルトランスは心の片隅では、この言い訳は通用しないだろうと思っていた。実力云々ではない。それ以上に、自分が抜擢されてしまった理由に、ものすごくものすごーく不本意ながら、心当たりがあった。
メリダスが両の手を組み合わせ、予想通りに「それは承知しているが」と何度もうなずく。続く言葉も予想を大きく外れるものではなく、ルトランスは目眩を起こしそうだった。
まずなによりの前提は人手不足。こんな田舎では魔法使いの数も限られている。そしてより重要な理由は、その人柄だ。
「バグジール君は誰とでも分け隔てなく付き合えるし、その歳のわりに落ち着いていて物怖じしない。その上細かい気配りができる。おまけに旅慣れているのだから、勇者様の案内役として申し分ない。
どうだろう、頼まれてくれないだろうか」
----当然だ。そう思われるように振る舞ってきたのだから。
しかしこれは、完全に裏目だった。
線のように細い目をさらに細めて、ふくふくとひとり満足げに頬を緩めるメリダスが、正直腹立たしかった。ルトランスは内心の苦渋を全て腹の内に押し隠し、表面はただ慎重に黙考するふりをして目を伏せる。
他人の顔色を窺い、それでいてあらゆる方面に角を立てないよう筋は通す。出過ぎず引き過ぎず。上手く人波を立ち回る。己の本心は、腹の内に収めたまま。
ずっとそうやって生きてきた。
それがルトランスの処世術。生き抜く術だった。
目上の者に好かれ、周囲にも頼りにされ、先回りして面倒ごとを引き受けて、さらに人の間に立つことで、適度に有能で手元に置いておきたい人材だと思わせる。そうすれば本当に危険な戦場で命のやり取りをすることはない。だから敢えて、魔法の腕前も一流と称されるまでには研いてこなかった。
----そう。今までルトランスがそんな人間を演じ続けてきたのは、こんな死地に追いやられない為だった。そのはずが、その作り上げた上っ面が、こんなところでこの上なく評価されてしまうとは。
----裏目も裏目。サイアクだ……。
勇者のお供なんて----どう転んだところで、運が良くても十中八九は死ぬだろ……。
この場で頭を抱えてうずくまりたかった。しかし長年で培った習慣がそれをさせない。
その上、異世界から来るなんて、得体の知れない勇者の世話を焼かされるのだ。
そんな役割、みんな口では名誉だと褒めそやし羨みながら、本音では誰もやりたがらない。しかしだからこそ、これまで築いてきた人格を壊したくないのであれば、ルトランスは率先してでも引き受けなければならなかった。もっと言えば、立候補してもおかしくないはずだったのだ。----それだけは、ゼッタイにごめんだが。
やはり、貧乏くじ……。
ルトランスの胸中に、全てぶち壊してしまいたい衝動が頭をもたげる。それを一瞬で却下してしまえる己の計算が、ルトランスは少々恨めしかった。そんなことをすれば、ここにいられなくなる。末路は、最前線の激戦地。結果は似たようなものだ。
ルトランスは危うく漏れそうになるため息を、腹に力をこめて、喉元でなんとか押さえ込んだ。そして毅然と顔を上げ、魔法使いの最敬礼をもって『名誉のお役目』を、恭しく拝命したのだった。
その時のことを思い返すと、ルトランスは今でも胸の奥がむかむかと煮えくり返る。同時に憂鬱が込み上げて、頭が重たく視界が暗くなる。
しかし、決まってしまったからには仕方ない。
生き意地汚く生き延びるには、諦めも肝心だ。
適度な悲観と楽観。
それが戦場を生き延びる秘訣だと、ルトランスは考えている。
やるべき事はたくさんある。いつまでもくよくよしていられない。
まずは最悪の状況も想定に入れて、備えを万全に整えておくことだ。ルトランスは己の分の荷造りはもちろん、別の人間が任されていた勇者の旅支度についても細々と点検し口を出した。
そして欠かせないのが情報収集。世界情勢、地理気候などなど、最低限知っておくべき知識を頭に叩き込む。魔物や勇者にまつわる事柄は、過去の伝説に至るまで、一応目を通した。
この場合の楽観とは、深刻に考え過ぎないことだ。事前にどれだけ綿密な計画を立てていても、現実はあっさりとそれを上回る。
それにルトランスは、この旅路は長くならないのではないか、とも考えていた。
もちろん、勇者の旅路は長く厳しいものになるだろう。大魔王と決着をつけなければならないのだから。
しかしルトランスは勇者ではない。
過酷な旅であるからこそ、適材適所、勇者の仲間は途中で加わることも、入れ替わることも充分ありえる。ルトランスがずっと一の供をする必要はない。最初の仲間ということで、勇者から格別の信頼を得ることはあるかもしれないが、そこはそれ。上手いことそれにつけ込んで、途中退場させてもらえるよう仕向ければいい。
そんな人間関係の機微を思うまま調節する事こそ、ルトランスの何より得意とする『戦場』だ。だからこそ、勇者との付き合い方、接し方は重要になってくる。
問題は、その勇者がどのような人物か、事前に分からないということだった。
〈英雄召喚の秘術〉というのは、どことも知れぬ異世界から『英雄』と呼ぶに相応しい能力と人格を持った何者かを、この世界に呼び寄せる儀式魔法らしい。どんな人物がやって来るか分からない。しかしその誰かは、なにはともあれ『英雄』で『勇者』なのだそうだ。無茶な重責を背負わされて面やつれしたノルンに聞き込んだところ、ルトランスはそんな回答をもらっている。
柔和。高慢。熱血。冷淡。真面目。
勇者らしい人格というのも様々思い浮かぶが、
そうであるならば、どう転んでもそう悪い人物ではないだろう。
むしろ、正義に熱く、形振り構わずに突っ走るような輩だった方が困るなぁ、くらいに考えていた。ルトランスの役目は、ただ勇者の旅を円滑に進めるための案内役というだけではない。それは建前だ。勇者が危機に陥れば、己の身を投げ打ってでもその盾となり、身代わりになって死ぬことにこそ、その真意はある。名誉の戦死と他人は言うだろうが、ルトランスは名誉のためには死ねない。
だから進んで死地に向かうようなヤツでは困る。
かと言って、決断力の無いヤツでも困る。
ルトランスはどんな状況であれ、あらゆる責任を負うつもりは全く無いのだ。相談にはのる。都合の良いようにそれとなく誘導もする。しかし最終的な決断は、全て勇者に任せる。
さらに言えば、下手に出過ぎて、付き従うだけの小間使いのように思われるのも良くない。使いっ走りくらいならば苦にならないが、ルトランスの能力まで軽んじられては戦場での信頼関係に響く。『仲間』としての認識は必要だろう。
----まあ、長くないとはいえ、旅の間は衣食住ずっと一緒なわけだし。あんまり打ち解けないってのも気詰まりで、戦いでは致命的か。馴れ合うつもりはさらさらないけど、おれの方でも少しは腹を割っていかないといけないのかもな……。加減はするけども。
などと、つらつらと考えを巡らせてみるルトランスだった。
しかし結局は、蓋を開けてみなければ分からない。
儀式の場には居合わせる。勇者サマの顔を拝んでからまた考えよう。旅立ちはその翌日なのだから、それでも遅くはない。そう結論付けていた。
そして。
現実はこれだ。
ルトランスは勇者の後ろを歩いているのを良いことに、顔をしかめてその背中を見る。
三歩ほど前を危うい足取りで歩く勇者の頭には、白い角。
魔物だ。
本人断言したのだから間違いない。
よりによって魔物とは。
まるで想定していなかった現実に、ルトランスは頭を抱えたくなる。否、昨晩のうちにとっくに抱えた。うずくまった。枕を殴った放り投げた。
しかも、
ものすごく、ものすぅっごおく、偉そうだ。
冷淡そうで、近付き難い。
そもそも、人間なんてまるで眼中に無いのではないかと思わされる。なにせここまでで興味を示したとはっきり分かる事柄は、ルトランスの髪飾りと鳥の声についてだ。あながち間違いではないだろう。勇者を快く引き受けたそうだが、それも疑わしい。日頃腹の内にもろもろ隠し立てしているルトランスから見れば、それは表向きで、裏では何か別の企てをしている。そんな気がひしひしとするのだ。
これでは下手はうてない。そんなことになれば、使いっ走り路線直行だ。最悪、捨て駒にされかねない。
これが人間相手ならば、いくらでも手の打ちようはあった。しかしいくらルトランスとはいえ、さすがに異世界の魔物に対する抽き出しはない。
----ていうか、だ。
なんだあの朝の自己紹介!
ヨロシクって言ってんのに、無反応とか!
こっちは丁寧に挨拶してやってんだから、魔物は魔物なりに、礼儀とか対応の仕方とかあるだろ! モトの世界でどんだけ偉かったんだってハナシだよ!
腹立ちに任せて、勇者の背中を睨むルトランス。
と、その時。
勇者が素っ転んだ。
それはもう見事な転びっぷりだった。
ルトランスは視線の先にあったはずの背中が突然かき消え、一瞬なにが起きたのか分からなかった。地面に突っ伏す勇者の姿を見ても、その目に映る光景が直ぐには認識できず立ち尽くす。
勇者の足下には土からはみ出した木の根があった。この辺りは地盤が硬いのか、そんな木が多く岩も転がっていて足場が悪い。傾斜もところどころ急だ。山歩きに不慣れな者なら難渋するだろう。
そう言えば、とルトランスは思い出した。
事前に調べ、また出掛けにノルンが言っていた事だ。
召喚されたばかりの勇者は、本調子ではないらしい。
仮の器に体がなじまず、本来の能力を発揮できない。それは始めのうちは日常的な運動能力にも影響を及ぼす。本人は気を付けているつもりでも、行き届かない部分があるからと、注意を受けていたのだ。
思い返してみれば、砦などの平坦な廊下ではどこにも問題なさそうだったが、山道に入ってからは非常に歩き難そうにしていた。歩くだけでもよろよろふらふら体勢を保てていないのに、時折木々の間に目をやって惚けていたりするから、余計に足下が疎かになる。転びそうになった場面も、何度か見受けられた。
----もう少し気を配るべきだったか。
自分で体を動かして慣れなければどうにもならないという考えもあって、ルトランスは放置していたのだが、一方では己の悩みに没頭していて、見て見ぬふりをしていたという面も大いにある。
「----……」
「----……」
そして何故か、勇者は倒れたままなかなか起き上がらなかった。
そこに至ってやっと、ルトランスは我に返った。
ぼんやり眺めている場合ではない。
「だ、大丈夫ですか!」
ルトランスは慌てて駆け寄った。狭い山道を下り坂になっている方の斜面に避けて、勇者の容態を確認する。幸いにも岩などにぶつけたわけではなさそうで、大きな怪我は見当たらない。ルトランスはひとまず胸を撫で下ろした。
きっと、あんまり盛大な転びように、勇者自身呆気にとられて動けなくなっていたのだろう。
「----……尻尾さえあれば」
間もなく勇者がのそりと頭を上げた。隠しもせず舌打ちをして、忌々しげな悪態が口をつく。苦い物を噛み締めたような口元から漏れた呟きに、ルトランスはちょっと首を傾げた。
----しっぽ? 尻尾って言ったか、いま。
尻尾とは、あの犬や猫にあるあれだろうか。そうか、本当は魔物だから。モトは尻尾があったとしても不思議じゃないのか。なるほどそれなら余計に動きづらかったのかもしれない。体重移動とか平衡感覚とか、違ってくるよな。
頭の中ではそんな事を考えながら、ルトランスはすばやく前方に移動した。眉間にはっきりと皺を寄せ、重たそうに体を肘で支えて上体を起こそうとする勇者に、さりげなく右手を差し出す。
「大丈夫ですか、勇者さま」
ふと上を向いた勇者の薄青い瞳と目が合った。瞬き一つ。それからつと視線が下がり、差し出したままの右手を見る。その間も、勇者は短く浅い呼吸を繰り返した。
「……、----大事ない」
そう言って、勇者はルトランスから視線を外す。両手を地面につき、膝を一つずつ持ち上げて、力を込めるように腰を伸ばす。その動作はかなり億劫そうだ。服に付いた土を払う仕草が、目に見えて苛立っている。
拒否されるだろうとなんとなく予想できていたルトランスは、内心肩をすくめながら、行き場の無くなった手を未練無く引っ込める。左手に持ち替えていた杖を右手に戻して、自分も膝に両手をつきながら立ち上がった。
「少し、休憩にしませんか。
ここまで長く歩きましたし、予定より進んでいます」
ルトランスはわざと、自分も疲れているからという風を装って提案してみる。
本当を言えば、ルトランスはまだ体力に余裕があった。比較的肉体労働の少ない魔法使いでも、戦場に出るのだから動けなくては話にならないと考え、少々鍛えているのだ。疲れていると明白な勇者が、これまで休憩を言い出さなかったのは、思うようにならない己の身体や本来よりも低下した体力に苛立ちを感じていたからだろう。----もちろん、ここまで放っておいたルトランスに非が無いとは言わないが。それなのにルトランスが平気そうにしていては、ただ提案してみても乗り難いのではないか、との考えだった。
勇者がちらりと視線を寄越す。
「……そうだな」
険しい表情でうなずく様子は、やはり不本意そうだった。
道を少し行った先に、脇の斜面がそこだけ平らになった空地が見えていた。休むのにちょうど良さそうな場所だ。ルトランスはその空地を指し示すと、先に立って移動する。敢えて後ろの勇者を気にせずに、転がる岩の一つを陣取って荷物を下ろした。
勇者はやっとルトランスに関心を持ったようだ。今更か、と内心眉をひそめてしまうルトランスだが、動作ひとつひとつを観察するような視線を背中に感じた。
そうしてルトランスがなにげなく振り返ると、湿り気のある木の葉の地面に、勇者が腰を下ろすところだった。半ば身を投げ出すようにして無造作に----そして無頓着に座る姿は、なるほど魔物らしいとルトランスは思う。あんな風に座れば、尻が湿って服が濡れる----のは気にならないとしても、冷たいだろう。
いちおう指摘しようかと、ルトランスは口を開きかけた。
それを言葉にできなかったのは、勇者が荷物を下ろすや否や、履いていた靴をすっぽり脱ぎ出したからだ。
始めは右足。続いて左足。
その靴はルトランスの物と大差ない、普通によく見掛ける長旅用の丈夫な皮の長靴だった。違うのは、ルトランスの靴は紐を結ぶ形だが、勇者の靴は金具を留める形、という点だ。
ルトランスが再び呆気にとられて眺めているうちに、勇者は両方の靴を脱ぎ捨てると、----意外にも実際は丁寧に横へ揃えて並べると、己の足を難しい顔でもみ解し始める。
目を丸くして見ていたルトランスは、はっと思い至った。
「もしかして、足が痛むんですか……?」
勇者がそうする理由だ。山道を始めて履く靴で長く歩いた。靴擦れか、まめでも出来て皮膚が捲れたのか。ルトランスは側へ飛んで行って状態を確かめようかとも思ったが、それは思い留まった。まだほとんど会話らしい会話もしていない。いきなりの至近は控えた方がいいかもしれない。ルトランスとしてもそれは気後れする。
しかし勇者はそんな懸念とは裏腹に、きょとんという形容詞がぴったり当てはまるような眼差しで、魔法使いを見上げた。
「いや。窮屈だっただけだ。普段このような長靴は履かぬ」
「そうですか……」
ルトランスは安堵に肩の力を抜く。同時に、抜かったなという想いが胸に広がった。
今、目の前で地面に座り込んでいる勇者は、ほとんど人間と同じ姿をしていた。
こうしてよく見ると、整った顔立ちをしている。鼻筋が通って、目と眉は少し冷酷に感じるくらい凛々しい。ただの黒かと思っていた髪は光の加減で青や緑に移ろって、その間からのぞく光沢のある白い角が、髪飾りのようで良く映えている。
背はすっとして高く、体格も均整が取れて、その上高貴な空気まで全身に纏っているから、さぞや女性にもてはやされるだろう。ただし、遠目からきゃっきゃっ騒がれるだけで、近付き難さは拭えない。
ルトランスはそんな不躾な感想を抱き、腹の底でため息をつく。
こんな人間と変わらない見た目をしていても、彼は魔物だ。その『魔物』であるという一点にばかりこだわっていた気がする。『魔物』だからこそ、気にかけなければならない部分があったはずなのに。
取り返しのつかない失敗を仕出かすところだった。
気遣いが聞いて呆れる。
これまでの己の評価を下げたのでは、無意味だというのに。
「なんだ?」
「あ、いえ。尻尾があればと言っていたので。本来の世界では、違う姿だったのかなと思って」
いつの間にか、凝視してしまっていたらしい。
勇者が不愉快そうな視線で見上げている。転んで起き上がった時もそうだったが、鋭さを増すその冷えた眼差しは、いくつもの修羅場を越えたルトランスでさえ、背筋をぞっとさせられるものがある。
少々失礼な事を考えていたのもあって、ルトランスの口からはつるつるとその場しのぎの言葉が出た。しかしちょうど良いかもしれない。この言葉の少ない勇者に話をさせるには、絶好の話題だ。
とにかくまずは相手のことを知らなければ、対処も決められない。
ルトランスは岩に腰を下ろし、改めて訊ねた。
「どんな姿だったのですか」
「どんな、か----」
気分を害したわけではなかったようだ。勇者は直ぐに、顎先に形の良い指を添えると考え始める。普通目の前にあって説明のいらないはずの自分の姿を、改めて言葉にするのはなかなか難しい作業だろう。
ルトランスは興味津々の態度で、少々前のめりになって気長に待った。
勇者は虚空を見詰めたまま言った。
「体の大きさは、人間が暮らすありふれた民家一軒分は軽くある。
中で変化を解いて、内側から壊すのが面白い」
「はあっ?」
思わず頭の上から声が抜けた。
自分の声だと一瞬気付けないくらい普段ならありえない反応に、慌てて口を塞いでしまう。その仕草さえ、いつもの上辺を取り繕ったものとは言い難かった。それだけ本音の驚きだった。混乱していた。
勇者は気にした様子もなく、宙に思い浮かべた姿を見詰めて続ける。
「形は----ドラゴンに近い。この世界にもいるか? 細長い水竜ではなく、体が大きく首が細く伸びた大竜だ。
色はこの毛の色に近い。千年樹のように太く勇壮な尻尾の先へ行くほど、繊細に色を薄くして薄曇りの空のような青になる。きめ細やかに揃って並ぶ、美しい鱗だ」
可能ならば見せてやりたいくらいだ、と言う。
ルトランスは「ドラゴンは分かりますが……」と情けない相槌を打つだけで精一杯だった。まさか人型ですらないとは、思いも寄らなかった。なんの予想もしないで聞いてしまった己を呪いたい。
「それから前脚は、獣の鋭い爪と白い毛皮に覆われている。
後ろ脚は鷲のようで、かぎ爪がある。
この角も本来ならば二本だ。
そう、背には金のヒレが尻尾の付け根あたりまである。
後は羽だ。昆虫のような透明な七色の羽が、四枚生えている」
「うーん……」
ルトランスは動揺を腹の底に押し戻し、腕を組んで、目の前にいる男前の勇者の、本来の姿をなんとか想像しようと試みる。これでも魔法使いだ。実在しない物を想像する力には、それなりに自信がある。
しかし、なんともはっきり思い浮かべられなかった。
とりあえず尻尾と鱗が自慢なのは理解できたが……。
首を捻るばかりでいまいち反応の鈍いルトランスに、勇者はやや不満そうだ。
ルトランスは素直に謝った。
「すみません。想像が追い付かないです。
とりあえず、大きな黒いドラゴンだと思えばいいですか?」
「む。それはそれで不満だ。
例えばおまえ、人間はほとんど猿で間違いないかと言われれば、否定はしきれないが腑に落ちないだろう」
「それは----」言いかけて、頭の中にその二つを並べてみる。ルトランスの眉が寄った。「はっきり否定させてもらいたいですけれど」
この勇者は、なるほど人間をそんな風に見ていたのか、とルトランスは複雑な心境になる。危う過ぎる序列だ。しかし人間が猿と間違われたような気分ならば、それは確かに嫌なのも当然だろう。的確な例え話にもやっとした己の心境に、納得せざるをえなかった。
それにしても、とルトランスは胸の内で苦笑する。
人間と猿を比べて、自分とドラゴンに置き換えろとは。向こうの世界のドラゴンがどんな生き物かは知らないが、こちらの世界でドラゴンと言えば、魔獣の中でも一二を争う強力で恐ろしい生き物だ。それとは格が違うと言っているのだから、気位の高さが窺えるというものだった。
ルトランスは二重の意味で、考え深げにうなずいてみせた。
「でも、そうですね。おれの想像力に問題があるのかもしれませんけれど、自分がどんな生き物かなんて、説明しろと言われてもやっぱり難しいですよね」
うむ、と勇者も素直にうなずいた。
そして続ける。
「しかし己では植物の一種なのではないかと認識している」
「っ…………植物、ですか?」
またもルトランスは、妙な声を上げてしまうところだった。
軽く混乱する。
今の説明のどの辺を取ったら植物らしいところがあったのか。
全力で問い質したい気持ちでいっぱいだが、喉元ぎりぎりでなんとか押さえ込む。
油断していたとはいえ、二度目だ。己の矜持に懸けて、僅かの動揺さえ表には出さず、ルトランスは聞き違いではないのかと注意深く聞き返す。
「あの……、それだとますます分からないです。
ドラゴンに似ていて、足もあって、羽もあるんですよね?」
つまり動くということだ。
民家のように大きな樹はあっても、空を自在に飛ぶ木は聞いたことがない。地面に根付いているから植物なのではないのか。
勇者はなんでもないことのように言った。
「我は大樹のうろの中で生まれたのだ。
己で動く植物だっているだろう。この世界にはいないのか?」
「いる、と言えばいますが……。
そうですか……」
腑に落ちない。全力で腑に落ちない。
そりゃ小鳥だってうろの中で生まれてぴーぴー言ってんじゃねえかよ、とか。リスやフクロウはどうなる! とかつっこみたい。つっこみたいけれども! しかしルトランスはこれ以上は恐ろしくて踏み込めなかった。聞いても、いっそうわけが分からなくなりそうな気がする。
それよりも、意外に良く話すヒトだったことを喜んでおこう、とルトランスは決めた。
それは昨夜の晩餐や専属の侍女が話していた通りだ。「意外とお話しできますよ」「そんなに怖くなかったです」「ときどき可愛らしいお顔をなさるのが、ステキで」などと言っていたのだが、まさかとあまり取り合わなかったのだ。勇者の容姿は非常に優れているので、若い娘さんたちはそれだけで舞い上がっているのではないか、と。
こうなってみると、認めざるをえない。
けっこう話し好きかもしれないとさえ、ルトランスは思う。
始めは冷たい印象だった勇者の目元が、ほんのり和んでいるように見えた。極寒の氷のような青色だったはずの瞳が、透明感のある翡翠色から黄色の強い蜂蜜色に変化しているのも発見した。最初は不機嫌だったことを考え合わせると、気分で色が変化するのかもしれない。ということは、黄色は上機嫌を表しているのだろうか。
ルトランスはひとまずほっと胸を撫で下ろした。放っておいたままの荷物を手繰り寄せて、中から竹筒の水入れを取り出す。
やはり別の世界からやってきた魔物には違いなく、文化や常識に差はありそうだ。しかしその内面は、あまり人間と違わないようだった。これならそこまで気負わなくても、普通の人----偉そうな人だと思えば付き合っていけるかもしれない。
----まあ、そうとう変わり者ではあるけど。
ルトランスはそう結論づけて水を口に含んだ。
それらの動きを目で追っていた勇者も、ルトランスの真似をして荷物から水筒を探り出す。不器用な動作で、その小さな蓋を開ける。
「なんにしろ、城の中で過ごすには大きすぎる。
このところはほとんど、これと似たような人間の姿で生活していた。
だからあまり不便はない。----ところどころ、不満がないわけではないが」
そう言う勇者の口振りは平坦で、なんということもなさそうだ。
ルトランスは水筒を傾けながら勇者の表情を盗み見る。
不便がないはずない。さっきあれだけ盛大に転んでおきながら、よく言えたものだと思う。長靴が紐ではなく簡単な仕組みの金具なのだって、今朝取り替えてもらったのだとルトランスには分かる。これは想像だが、たぶん紐が結べないのだ。人の姿で生活をしていたとしても、モトは大きな魔物なら、手先の器用さは窺い知れる。
つまり、勇者は強がっている。
猿よりは少しマシな生き物だと思っている人間の魔法使いに、見栄を張っている。
そんな言葉の裏側が透けて見えてしまえば、ルトランスとしては笑うしかない。もちろん心の内でだが。微笑ましくて、つい面白くなってしまう。
「お城ですか。すごいですね。
お城で生活していたということは、勇者さまは領主のような仕事をしていたのですか。
それとも----王様だったりして」
「…………」
からかい半分に言ってみたのだが、勇者は水筒の口を見詰めたまま、妙な顔付で黙ってしまった。
まずった。調子に乗り過ぎたか。
ルトランスは内心焦る。ここで質問を撤回するのも明からさまで感じが悪いだろうか。それなら、この流れのまま別の話題に移ってしまおう。城つながりだ。目的地のシーカルド城の話なら立場的にも自然だ。
瞬時に考えをまとめる。ルトランスがそれを口にするよりも先に、勇者が顔を上げた。どきりとするルトランスを、首を捻って見遣る。眉根が寄り、複雑な表情だった。
「『勇者』は止めろ。
己のことのような気がしない。むずがゆくてしかたない」
誤魔化されているのだろうか。
ルトランスは勇者の表情を、そうとは分からないよう慎重に観察する。「勇者」になにか嫌な思い出でもあるのか、細めた眼差しの先は、自分の姿を説明していた時のように宙の一点を見詰めている。その呼び名が気に食わないというよりは、本当に気持ちが悪そうだ。
自分の発言が気に触ったのでなければなんでもいい。折角良好に行きそうな関係を、ここで崩したくない。ルトランスは素直にうなずく。
「そうですか? ではシェロナさまと呼ばせてもらいますね。
おれのことも、ルートでかまいません」
言いながら、「様」も必要なかっただろうかと考えた。
ルトランスとしては必要だ。勇者とその仲間というお互いの立場と、この旅路における責任の所在を明確にしておきたい。その為にもこの敬称だけは譲れないのだが。
ルトランスはそっと勇者の顔色をうかがう。
「ルートか。承知した」
「はい。あらためてよろしくお願いします」
勇者の返事はいつも通り短い。「様」を付けられることに、まるでこだわりがない様子だった。訂正する必要が無いのではない。「勇者」と呼ばれるのとは違って、気にならないのだ。それがあたりまえの立場にいたのだと窺わせた。
----城持ちといい、どんだけ偉かったんだよ……。
なんとなく釈然としない想いがむくむくと膨らむルトランスは、本当に王様なのではないか、という疑惑さえ頭をもたげる。そして試しにもう一度付け加えた言葉には、「うむ」とだけ。淡白な返答だった。今度は無視されなかったが、言葉を受け取られただけだ。「よろしく」の一言も無い。
意識しているのか、無意識かは分からない。
どちらにしろ----、
上から目線も甚だしい! 眼中にないのか! なにしろ人間なんて、サルよりはましくらいの生き物だもんな! ホントどんだけ偉いんだよ、コイツ!
もう何度目かのそのつっこみを頭の中に響かせて、ルトランスは頭を抱えたい衝動を堪えた。さっきの希望は早とちりだった。ただただ先が思いやられる。
それでも、ルトランスは微笑んだ。
表面は頼りがいと爽やかさを兼ね備えた笑顔を浮かべ、
腹の内では憤りをぐつぐつと煮込む。
そんな裏表ちぐはぐな顔は、ルトランスにとってのあたりまえ。
慣れ親しんだ、普段通りでしかなかった。