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第二話 「用具庫と旅立ち」

 翌日の朝食は砦の中にあてがわれた部屋で、一人で食べることとなった。

 この砦が山の中腹にあって小さいせいか、寝台が一つ置かれただけのその部屋自体もかなり手狭だ。侍女が静々と運んできた膳は、そこから予想していた以上に質素だった。

 元の世界では、晩餐など振る舞われたことがないのではっきりとは分からないが、しかし昨晩の食事も、饗応と言うにはささやか過ぎたようだ。大きな広い食卓に、蝋燭の明かりに艶めく温かな料理は並んでも、品数は少なく、座る人間の数はごく限られていた。

 そんな晩餐の席の雑談として、メリダスが語っていた。魔王の軍勢のせいで田畑は荒らされ、流通もままならず、食料や物資が深刻に不足しているのだそうだ。つまり昨夜振る舞われたもてなしは、それでも現状最も贅沢だったと言える。

 ----あれは別格としても、この朝食はもの寂しい。

 事態は一刻を争うようだ。

 昨日の今日で、我は早速魔王軍打倒の為、旅立つことになっていた。朝食を終え身支度を済ませたら、砦の正面入り口へ来るように言われている。

 それにしても----。

 と一人部屋を出て、廊下を歩きながら考える。

 人間の食事が予想どおり----否、それ以上に美味しく味わえたことは、僥倖だった。

 メリダスはあまりのわびしさに恐縮しきりだったが、我にとっては、ほぼ初めて味わう人間の料理だ。感激こそすれ、不満など微塵もなかった。食材や調理法について、もっと根掘り葉掘り問いたかったくらいだ。

 それに加えて、この砦にいる人間共が我のコトを全く知らないというのも、非常に新鮮な体験だった。給仕をする女はにこやかで、人間の礼儀作法を知らぬ我が粗相をしても、速やかにそして親しげに応じる。同じ食卓についた者共に、むしろ偉そうに振る舞われたのには笑いが込み上げそうだった。

 元の世界では、こうはいかない。

 人間は我が姿を見ただけで恐れおののき、平伏す。こちらが楽にしろと命じたところで強張った表情のまま戸惑うばかり。中には取り入ろうとへりくだる輩もいるが、余計に不愉快だった。

 初対面の人間共が示す友好は、だから新鮮な驚きで、面白いものだった。人間の生活習慣というのも、やってみるとなかなか楽しい。旅への期待も俄然、膨らむというものだ。幸先が良い。

 それに反して、

 まさか尻尾が無いだけで、あれほど眠れないとは----考えもしなかった。考えつくはずがなかった。生まれてから気付けばずっとそこにあったのだから。

 横になっても何やら据わりが悪い。落ち着かない。なかなか寝付けず、終いには薄掛けを細長く丸めてそれらしい所に置いてみる始末だ。結果は良好とは言い難かったが。

 こちらは先が思いやられる。中途半端に角を残すくらいなら、尻尾にしてくれればいいものを。爪がないのも、肌が柔らかなのも、全てが不便でしかたない。その内、慣れるのだろうか……。

 打って変わって、そんなやや憂鬱な気分で額に指を添えていると、前方で慌ただしく周囲を見回しながら、廊下を急ぐ男の姿が目に入った。

 見覚えのあるその男は、こちらの顔を見るなりはっと足を止め、ちらと視線を動かす。それは昨晩からよく目にする反応だった。恐らく角を確かめているのだろう。そうしてから、その男は大股にすばやく距離を詰めてきた。

「そ、そこの! 勇者のヒト! 間に合った!

 待って! ちょっと待って!」

 待ても何も、我は目が合ってから動いていない。焦げ茶の髪は寝癖がついたまま。着古されて多少よれた長衣を腰の帯でとめたその男の勢いに、呆気にとられていた。

「おまえは確か、昨日、儀式を行って----」

「大事な話がある! ちょっと来てくれ!」

「!」

 さらに思い掛けない剣幕で目前まで迫られ、腕を取られる。険しい表情に厳しい声音、睨むような真剣な眼差し。腕を握る手には力が籠り、全身から発せられる空気には、憤りすら感じられるのに、心にある怖気が隠しきれず腰が退けている。

 彼はこちらの返事を待たずに腕を引くと、廊下の隅へ連れて行こうと----して、そこでは人目も耳も避けられないと気付いたのか、近くにあった階段脇の扉の中へ、我を連れ込んだ。

 そこは倉庫かなにかなのだろう。

 見たことがあるようなないような。人間が使う道具に違いはないが、頻繁には使わない用具や余った資材などが、ほこりを被って積まれている。用具庫故に、もともと狭い床面積のほとんどを物品(もの)が占め、大人の人間二人が静かに立ち話するのに精一杯の広さしかなかった。おまけに窓の類が無く暗い。

 扉を閉めた男が、ほこりを吸ったせいか走ったせいか、げほごほと咳をする。その合間に口の中で何事か呟くと、白く丸い光が手の平の上に出現した。

 今のがこの世界の魔法か。眩しいほどではない白い玉は、ふわりと天井付近に取り付いて室内を淡く照らす。表情が分かる程度に闇は取り払われたが、うずくまる影は濃くなったようだ。光に合わせて影が揺らめく。

「うっ……と」

 男は、己で連れ込んでおきながら、こちらとの予想外の近さに一人気後れして、背後の扉に張り付くように身を離した。手を前に出して距離を測っているので、しかたない、我もできるかぎり後ろの荷の方へ下がる。

「おまえは我をこの世界に召喚した魔法使いだな」

「----! 覚えていてくれたのか。話が早くて、助かるよ」

 彼は勢い込んでやって来た分上がった息を、扉に寄り掛かって整える。しばらくそうしてやっと顔を上げると、咳払いをしてうなずいた。

「そう。私が君をこの地に召喚したノルン・アムネリオ。

 あの時倒れてから目が覚めたのがついさっきで。ぎりぎり、間に合って良かった」

 軽口に笑ってみせる口元とは対照に、眉根は寄り、目元は複雑に歪んでいた。

 ノルンはそこまで言うと、大きく息を吐いて呼吸を持ち直す。扉に手を付きながらも真っ直ぐ立って我を見る。改めて見詰める険しい赤い瞳は、弱っていても強い意志をのぞかせる。

「……どういうつもりなのか。勇者を引き受けたそうだね。

 だけど私は----君が、おまえがこのまま旅立つのを、認めるわけにはいかない」

「……」

 睨む眼差しは真剣そのものだが、そこには虚勢がありありと見て取れた。

 この男は、恐れている。

 我を。

 それは我が世界で人間やその他の生物が見せるのと、同質の感情に見えた。

 つまり----知っているのだ。

 我がどのような存在であるか。どれほどの力を持っているか。

 黙ったままの我に、ノルンは喉を鳴らして息を飲む。

 明らかに気圧されながらも、彼は頭を左右に振ってから言い募った。

「私はおまえを召喚したから分かる。

 あの時、見えた----感じたんだ。元の世界にある、おまえの本質が。

 とてもヒトの手に負える存在じゃない。

 おまえはもっと巨大で……なにか、計り知れないものだ。

 とても残忍で、邪悪な----。

 例えこちらの世界の魔王を倒してくれたとしても、そのまま素直に元の世界に帰ってくれるだなんて、私には思えない。

 だから、今、この場で。このまま送り返させてもらう。

 それが私の責任だ」

 僅かに震える声は、外の者に聞かれないようにか、決して大きくはない。

 しかし震えを越えて言い切った最後の言葉には、確かな強い決意が込められていた。

 我はただ悠然と、腕を組む。

 分かっているのなら、なにも偽る必要はない。

 顎を上げ、目を細めて、透明な翡翠色の瞳で、やはり腰の退けた男を見据える。

「今更、何を言う」

「----なに?」

「我はもうこの世界を知ってしまった。

 我は今、この世界に興味津々だ。

 我はこの世界が気に入った。

 どうせこちらに来たのだから、ついでにいただいて帰ろうかと思っている」

「なっ! やっぱり----!」

 魔法使いの声が大きくなる。外の人間に聞かれて困るのは我も同じだ。眉根を険しくして睨みをきかせると、ノルンはそれだけで息を詰まらせ黙った。

 ----興味津々というのは、少々言い過ぎだ。何があるか楽しみにしていることに違いはないが、この世界にそこまでの期待を抱いてはいない。同じように、『気に入った』と言えるほどのものも、まだ見付けられていなかった。ただ、こやつの危機を煽る。世界を我が物にしてから帰郷することについては、既に心に決めているので些細な誤差だ。

 魔法使いが後ずさる。

 この狭い空間では、後ろに下がってもそこはもう、背中に付いた木の扉。

 それに動揺して小さく呻きながらも、魔法使いは追い詰められた獲物のように、鮮やかな赤い瞳で懸命に睨み返してきた。

 我は一つうなずく。

「確かに、おまえならば我を強制的に送り返すことも可能だろう。

 おまえは我をこちらに喚んだ魔法使いだ。その魔力をもって、我はいま、ここに世界を越えて繋ぎ止められている。それを断ち切られてしまえば、元の世界に帰る他ない。何事もなかったように。

 しかし----」

 わざとそこで言葉を切る。

 何が言いたいのか。魔法使いの目に、そんな疑問が映っていた。

 我は同じ位置から少しも動かず、彼との間を空けたまま、

 その瞳をのぞき込むように見据える。

「我はこの世界を知ってしまった。

 この世界と縁が出来た。

 これまではその存在すら知らなかったが、例え今この場で返されたとしても、我にはトクル=ウィクルというこの地が分かる。

 さすがに、別の世界にまで空間移動をしたことはないが。

 なに、たやすいことだ。

 おまえはその方法を知っているのだから」

「----ッ!」

 言わんとしている事がようやく分かったのか、魔法使いの目が見開かれる。吸い込んだ息が喉に詰まったようだ。

 我は首を少し傾けて、染み込ませるようにゆっくりと先を続ける。

「我は向こう側からでも、無理矢理におまえの力に干渉して、意思とは関係無く術を発動させることが出来る。そうすれば、我は再びこの地に来られる。

 我が力を理解しているおまえならば、それぐらい可能だと分かるだろう。おまえに防ぐ手立てなどない。今度は倒れるだけでは済まぬかもしれぬな」

「……! ……! ……」

 もはや言葉も無い。

 現状を突き付けられ、己の非力さを自覚させられて、悔しさに顔を歪ませうつむく。

 敗北を悟った魔法使いを見て、

 我は非常に満足した。実に爽快だ。

 実のところ、昨夜から一先ずは円満にことを進めようと、人間共にいくらか良い顔をしていたので、少々鬱憤が溜まっていたのだ。それは人間の親しげな態度が新鮮で面白いと感じるのとは、また別の問題だった。

 慣れない気遣いは疲労も溜まる。

 それが今、すっかり晴れたような気分だ。

 やはりこちらの素性を了解している人間は、それはそれで、遠慮なく振る舞えていい。

 我は腕を組み替えると、威圧を和らげてはっきりと首を傾げてみせた。

「しかし、本当に今更だ。

 我を喚び出したのはおまえだろう」

「?」

 弱々しく、ノルンが顔を上げる。よく見れば、うっすら潤んだその目の下には、淡い魔法の光の下でもはっきりと分かるくまが浮かんでいた。顔も青白い。前に我が世界の職人に聞いた。人間は体調が優れないと、こうなるのだとか。

「我を喚んだ術は、かなり古くからある英雄を召喚する秘術だと聞いた。

 世界を悪の手から救い得る、『英雄』だ。

 それならば、『どの世界の誰を』とまでは選択できないとしても、『どのような性質の者か』くらいは、術の中に組み込まれていたのではないか?」

 そうでなくては、むしろおかしい。

 全くの無作為で召喚する対象が決められてしまうのであれば、まるで戦う能力の無い、しかも悪質な輩が召喚されてしまう危険さえあるのだ。それでは意味がない。

 そしてその可能性が懸念されていたか、と言えば、それも考え難かった。あの魔法陣の部屋にいた者の顔ぶれを思い返してみると、メリダスやこのノルンとその横に控えた手伝いの魔法使い二人。それに砦やその周辺の集落で長をしている人間数人だ。一応この辺りの警備責任者だとかいう武人とその部下が何人かいたが、あれは武官の代表として立ち会っていただけだろう。

 そう指摘すると、ノルンは目に見えて動揺した。

 先程とは違う意味で息を呑み、どんなに恐れていても外さなかった視線を焦ったようにそらす。顔の脇を流れるのは、冷や汗だろうか。

 妙な沈黙。

 我は再び目を細めて、低い声で促した。

「話せ」

「いっ、いや、あの----」

 ノルンはびくっと肩を震わせると、両手を体の前に出して牽制する。それから頑なに視線をそらしたまま----時折こちらを窺いつつ、しどろもどろに白状した。

「ぼくが悪いんだ。

 ぼくが無責任に引き受けたりしなければ----いや、他に人はいなかったのだけれど。

 とにかく時間も人手も足りなくて。

 それに、いくら魔法の研究が専門でも、古代の----それも伝説に語られるような古い魔法を掘り返して使えって言われても----困る、と言うか……。古代語は難解だし、時間は無いし。

 それでも全力は尽くしたつもりだ。

 ただ----根本から間違っただけで……。

 ああ、もう……。言い訳にしかならないけれど……」

「なるほど」

 概ね理解した。

 我は大きくうなずく。

 つまり整理すると、

「連日に及ぶ徹夜続きの朦朧とした脳味噌で古代言語で書かれた書物を読み誤り、

 その上寝惚けた夢現つの眼で英雄召喚と悪魔召喚の法を見誤った、というわけか」

「ぐっ……!」

「その挙句に、想定以上に力を持った我を呼び寄せてしまい、

 そのせいで魔法に魔力を根こそぎ吸い上げられ、

 あの場で昏倒してしまった、というわけだな。

 そのまま命を落とさなかっただけ、不幸中の幸いと言えるだろうな」

「……ぅう。か、返す言葉も無い……」

 がくっと首を落として撃沈する。毛が奔放に乱れたままの焦げ茶色の頭頂を見て、ため息が出た。もう我に難癖をつける気力も残っていないようだ。

 完全勝利は愉快だが、

 しかしこやつから滲み出る空気はじめじめして、見ていてあまり気分は良くない。

 もう一度ため息をついて付け加える。

「案ずるな。

 我はあの愚かな大魔王とは違う。

 我は人間を駆逐しようなどと浅はかな事は考えぬ。他の生き物を虐げて楽しむ趣味もない。だから我に刃向かったり機嫌を損ねたりしないかぎりは、それなりに生きていける」

 事実、あちらの世界はそうして回っている。

 ノルンが眼差しだけを持ち上げて、不思議そうにこちらを見ていた。

「どうだ。少しは安心したか」

「…………それを聞いて、安心できるヒトなんていないよ」

 複雑な表情で小首を傾げて、ノルンは言った。疲れているのか、呆れているのか。軽く服の裾を払って重い腰を伸ばす。その表情にも声にも、微かに笑みが混じっているようだった。

 なんだ。小馬鹿にされているのか。あまり面白くない。

 ノルンは深く息を抜くと、やはり疲れているのだろう、改めて扉に背を預けた。

「いっそ、この世界に君が気に入るところが一つもなければいいのにな。

 それならほしいだなんて思わないだろう」

「むしろ逆だ」

 我は組んでいた腕を解くと、その手を腰に当てて胸を張った。

「なにも見るところがなければ、無駄骨を折らされた分、全てを壊して憂さを晴らしてから元の世界へと帰る」

「それは……大変だ」

 当然だ。殊更に言い立てる必要もなく、あっさり言ってのける。

 ノルンはまた眉根を寄せて、難解なものでも見定めるように我を見ていた。




     ▽ ▽ ▽


 「話は済んだな」

 楽しませてもらったが、余計な時間を食った。おまけに、暗く、狭く、蜘蛛の巣が張った倉庫に、いつまでも押し込められていたくはない。

 扉に寄り掛かったままで邪魔なノルンの肩に手を置き、粗雑に脇へ退かす。「ぅどわぁっ!」と情けない悲鳴が響き、積まれた荷の崩れる騒々しい物音がしたが、気にせず取っ手に手を掛けた。

 細く入り込んだ光で我に返ったように、ノルンが慌てて声を上げる。

「ああいや、ちょっと待った! まだ話しておきたいことがぁいたたたたた」

 押し退けた拍子に足下の用具に蹴つまずいて、大袈裟に倒れ込んだノルンが焦って体を起こそうとして、逆に空いた床にうずくまる。雑に置かれた品々は角も出っ張りも多い。どこか打ち付けたらしい。

 まったく鬱陶しい。

 扉を細く開いたまま振り返って、冷やかに見下ろす。

 ノルンは小さく呻いて気圧されたが、くっと顎を引いて耐えた。

「も、もう負けないからな。

 大事な話だ。君の力、それに体の事だ」

「……」

 我を見上げる眼差しを受けて、眉を上げる。

 意気込みは熱くとも腰が退けていたさっきまでとは違い、言葉に身の丈に合った信念が宿る。引き締まった赤い瞳は、学者の目をしていた。

「聞こう」

 扉を静かに閉め直す。

 ノルンは直ぐに立ち上がれないのか、床に座り直すと神妙にうなずいた。唇を舐めて、言葉を選びつつ話し始める。

「私が使った召喚魔法は、別の世界からこの世界に、対象そのものをそのまま移動させる術ではないんだ。

 魔法の専門的な解説は省くけれど、こちらに----あの魔法陣の中心に核となる〈器〉を用意して、そこに呼び寄せる者の〈実像〉のようなものを乗り移らせる。それは物理的な肉体ではなく、それ以外の、言ってみれば中身だよ。魂だけではないのだけれど、そう捉えてもらってかまわない。

 魂と元の世界で持っていた能力の全てが、こちらでの肉体を作る器に宿る。

 ただし、

 それがなじむまでには時間が掛かるんだ」

 ノルンはそこで一度話を区切った。一息に話していたものだから、息が切れたらしい。

 こちらが付いて来ていることを目線で確認して、呼吸を整えてから続ける。

「元の世界にある本当の身体ではない、全く別の容れ物に中身だけ移すんだ。その上、こちらで言う〈魔力〉にあたるような能力は、お互いが別の世界の違う原理の力だ。

 だから身体的な感覚もそうだけれど、特にそういう力は、器になじんでこの世界に通じるものとして引き出せるようになるには、どうしても時間が必要だ。

 本当なら、それは問題になるほどのことではないのだけれど」

 ノルンが苦笑して、上目遣いに我を見る。

「君のように力が大きいと----それこそ、世界を丸ごと飲み込めるくらい規格外に大きな力だと、なおさら全ての力を引き出して使いこなせるようになるには、かなり長い時間が掛かるはずだ。

 今はまだ、身体も能力も、力を充分には発揮できない。

 それはくれぐれも注意してくれ」

 前のめりになりそうなほど、ノルンは力を込めて忠告する。ついさっき我を追い返そうとしたばかりにもかかわらず、だ。それは断念して腹を括ったのか、いっそ潔い。

 我は顎先に指を添えて、彼の話を頭の中でもう一度よく吟味する。

 つまり今あるこの身体は、本来の----生まれてからずっと使っていた身体ではない。本体から空間を越えて新しい容れ物に力を注ぎ、それを完全に満たすには時間が掛かる。

「----……やはり、そうか」

 薄々は感じていた。

 晩餐を終えて一人自室に入った頃には、既にその変化に気付いていた。本来使えるはずの力が使えない。それどころか、常にあった感覚がまるで感じられず抜け落ちてしまったようで、ひどく違和感があった。それが恐らく、〈魔力〉だ。元の世界では手足の延長のように使えていた力。

 我は己の胸に手を当て、瞳を閉じて集中する。

 そうしてやっと感じ取れる、今ここにある力の源は、確かに本来なら考えられないほどに小さく、弱々しい。そしてさらに奥深く、遠く元の世界にまで溯って行けば、そこに存在する己の本来の体にある力を、感じ取ることができる。しかしそこには、まるで薄い絹の膜でもあるかのような隔たりがあって、どうにも手が届かない。

 もどかしい。気落ちの悪い感覚だ。

 我知らず眉根が寄る。

 柔らかな手の平に目を落とした。ゆっくりと握り、また開く。裏表と試すように、それを何度も繰り返す。

 昨日ここに来たばかりの頃は、こうした手足の感覚さえあやふやだった。今は特に支障はなく、それなりに動かし使うことができる。----が、これもまだ、万全ではないのか。

「この人間のような姿も、その〈器〉が原因か」

 瞳だけを上げてノルンを見遣る。彼は小首を傾げてからうなずいた。

「君の本当の姿が人間とは別物だったのなら、それはその通りだと思う。

 そもそもこの召喚魔法は----いろいろと手違いはあったけれど、別の世界から『人間』の勇者を喚び出すためのものだから。核となる器もそれを想定して作ってある。木でできた、人型の人形だよ。おそらく、人の形を再現するように作られていたから、君も全て人間として召喚されたのではないかな。

 容姿は元の世界の姿が反映されるはずだけれど----」

「そのようだ」

 それは部屋にあった鏡で確認済みだった。人型に変化した時と同じ顔をしていた。

 ノルンがいたわるような、柔らかな笑顔を浮かべる。

「体質はしばらく戸惑うと思うけれど、慣れてくれとしか言いようがないな」

「…………」

 両手に目を落としたまま、ぎゅっと力を込めて手を握り締める。

 本当に----脆弱な人間の白い皮膚と、両の腕だ。

 人間の姿に成り下がり、思うように力も使えない。

 つまり弱いのだ。今の我は。

 ----……。

 手の平を呆然と見詰めていた顔を上げ、目の前でこちらを見上げているノルンからを顔を背けるように脇を見遣り、口元を隠すように手を当てる。雑多な品々を意味もなく目で追った。

 そうとは知らず、

 昨日、あの魔法陣の上で人間共を前にして、気に入らなければ力で従わせればいいなどと考えていたとは。いま思い返してみれば、ひどく滑稽だ。恥ずかしい。気分に任せて暴れず、本当に良かった。とんだ醜態を晒すところだった。

 そればかりか、「魔王を倒す」と堂々と宣言し、大見得を切ってしまった。

 当初考えていたほどに、それは簡単にはいかない。

 力を取り戻すのに、どれだけの時間が掛かるか知れないのだ。その上こんな人間の身体では、力が万全に戻ったとしても、どれだけそれを振るえるか分かったものではない。筋力のような身体的な力さえ、モトのようにはいかないだろう。

 様子見だけのつもりが、このままでは、力を取り戻すまでずっと、長く、人間と行動を共にしなければならなくなりそうだ。こんな人間の姿をしていたのでは、他にやりようがない。

 人間の生活を体験するのも悪くないと思い始めていた。状況は前とあまり変わらないようにも見える。だが人間ごときの----他者の思い通りに動かされるというのが、気に食わない。

 ならばこんな世界、さっさと諦めて帰ればいい。帰ればいいのだが、しかしここまで聞かされては、今更それもできない。絶対にできない。そんなもの、敵前で逃亡するようなものだ。ただの敗走。それも、戦わずして。

 我が矜持に懸けて、そんなことはありえない。

「……」

 胸の内に、どうにもならないもやもやとした苛立ちが渦巻く。

「…………気に食わぬ。腹立たしい。

 だが----……力が戻るまでは大人しく……している他、ないのだろうな」

 収まりきらない不満が、舌打ちとなって現れる。

 ----まあいい。

 とりあえずは最初の予定通り、〈勇者〉として人間共に付き合ってやろう。だが指示にそのまま従うとは限らない。我は我の考えで、好きにやらせてもらう。

「人をおどかして言うこと聞かせられないしね」

「……」

 ゆるくにやけた顔で、ノルンがそんな事を言う。

 我は右拳を握りしめて、小指側を下に振り下ろした。

「あいた!」

「人間の体でも両の手足はある。これくらいのことはできる」

 木槌のような拳は、壁に手を付きながらのっそりと腰を上げかけていたノルンの頭頂に、過たず直撃した。何度目かうずくまって頭を押さえる魔法使いを、腕を組んで睥睨する。

 重さに任せて落としただけだ。言うほどの威力はない。

 我はそこで首を傾げた。

「というより、これくらいのことしかできないのだが。

 おまえはそれを知っていながら、あれだけ怯えていたのか」

 すると魔法使いは非難がましい視線を向け、それから情けないような顔で苦笑した。

「私の本職は研究と、ちょっとした儀式魔法なんだ。

 荒事はからっきし。

 それに君、睨むだけですごい迫力で。

 今でもまだ、足に力が入らないよ」

 それは恐らく本音だろう。

 我は鼻から軽く息を抜いて、さっさと狭苦しい倉庫を出た。



 思わぬことに時間を取り過ぎた。

 倉庫を出ると砦の玄関口へと足を向ける。メリダスが旅の支度を整えて待っているらしい。「見送りくらいする」と言って、その横をノルンが気疲れの滲む不確かな足取りで付いてくる。己で引き止めておきながら、メリダスたちが待ちわびているかもしれないから、と急かした。

「----おまえ。他の者に口外するなよ」

 石の冷たい廊下をゆったりと構えたまま歩きながら、視線だけを横に送る。今だけではなく、旅に出て留守にする間も含めて釘を刺す。

 ノルンは嫌な顔をして、こちらを見返してきた。

「分かっている。

 あ、私の失敗だから後ろめたいと言っているのではないよ。

 ただでさえも辛い状況にいる人たちを、これ以上不安にさせられないから」

 最後に、重苦しいため息まで付け加える。

 そうしているうちに、廊下の先に目的の玄関口が見えた。

 室内で使われるものよりもふた回りほど大きな扉が、威圧するように構える。砦だけあって、黒い金具を打ち付けられた分厚く頑丈な正面口だ。あちこちへ通路を延ばすその空間は、床が狭い分、天井が高かった。窓から斜めに光が差し込み、床を白くくり抜いている。

 昨日と変わらぬ様子のメリダスは、傍らの若い男と話していたようだ。メリダスは直ぐにこちらに気が付くと、細い目を弓なりに、ハケ髭に隠れてしまいそうな口に微笑を浮かべて、恭しく一礼した。

「シェロナ様、おはようございます。それにアムネリオ殿もご一緒でしたか」

 我の後ろから魔法使いも顔を出すと、メリダスは少し驚いた風だった。

「少し遅いようでしたので、何か不都合でもあったのかと、様子を見に行かせようかと思っていたところだったのです。そうですか。お二人でお話しでもされていたのでしょうか」

「うむ」

 我は簡単にうなずく。

「そこで呼び止められた。旅立つ前に話があると」

「さようでございますか。

 アムネリオ殿、お体はもうよろしいのか?」

 倒れてからまだ顔を会わせていなかったのだろう。顔色が優れないようだがと気遣われて、うつむいて小さくなっていたノルンは、痛いところでも突かれたように硬直し、しどろもどろ返事をする。あまり詳しく聞かれたくなさそうだ。

 ふと、メリダスの横にいる男と目が合った。

 人間の年齢をその見た目だけで判断できないが、大雑把に見て、未成熟の子供という程に幼くはなく、しかし立派な大人という程に年を重ねてはいない。生気に溢れた青年といったところか。

 ノルンよりも溌溂とした印象の男は、目が合うと穏やかに微笑んでみせた。どこかで見た顔だと思ったら、昨日、あの魔法陣の部屋にいた。倒れたノルンに声を掛け、運び出していった一人だ。

 メリダスが気付いて、その男を手招きし己の前に出す。

「ああそうだ。

 シェロナ様、まずは紹介いたします。

 この者が、シェロナ様の旅に同行し案内を務めます、ルトランスと申します」

「初めまして。ルトランス・バグジールです。魔法使いです。

 道中どうかよろしくお願いします」

 メリダスに促されて若い男も名乗ると、持っていた杖を背中に回し、空いた左手を逆側の肩に添えて、腰を斜めに頭を下げる。変わった礼だ。その仕草は滑らかで、ひとつひとつが折り目正しく感じられた。

 青年が顔を上げるのを待たずに、我はメリダスに向き直る。

「一人か?」

「と、申されますと……?」

 問われた意味が分からなかったのか、メリダスが瞬きをして首を傾げる。頭を起こす途中ぎこちなく一時停止したルトランスも、戸惑った眼差しで我と傍らの老人を見る。

「城を落とすようなことを言っていたからな。

 数人の兵を率いて行くものだと思っていた」

「そうでございましたか」

 メリダスが大きくうなずいた。それから思案げに眉根を寄せる。

 前日の説明では、ここから山を越えて二日ほど歩いた先にある、シーカルドという城へまずは向かうことになっていた。その平地にある小さな城に、メリダスたちはもともと暮らしていたそうだ。それが半月ほど前、魔王軍に攻め込まれ奪われてしまったのだとか。現在その城は、魔物の兵士によって占拠されている。

「まずは、その時に逃げ遅れて囚われの身になってしまったサンクルティアラン王国の王女様を、魔物の手からお救いしていただきたいのです」

 メリダスはそう言った。それが今回、我に頼みたい役割だと。

 感傷の入り交じる長々とした説明を整理すると、つまりシーカルド城を奪還してほしいということだった。この砦は狭い。反撃の体勢を整えるのもままならない。しっかりとした拠点が必要だというのは、我にも理解できる話だ。

 その為に、城に住み着いた魔物共を追い払って取り返す。簡単だ。召喚されたばかりの勇者がまだ万全ではないと、事前に知っていたからだろう。そんな者にいきなり大魔王と戦え、とは言えない。まずは我がこの世界に慣れるように、それから実力を把握しつつ徐々に----という考えか。

「大変申し上げ難いのですが……。

 なにぶん人手不足なのです」

 沈痛な面持ちでメリダスは言った。

「わたくしどもといたしましても、勇者様に万が一のことがあっては困ります。本当ならば、選りすぐりの猛者を何人もお付けしたいところなのですが、こんなちっぽけな砦でございますから、そもそも兵士の数が少ないのです。取るに足らない雑兵さえ、近隣の集落の護衛に駆り出され、それだけで手一杯というありさま。そして、そうした未熟な者たちを幾らお連れになっても、逆に足を引っ張りかねないと判断しました。

 そこで、この地域にいる者の中から、お呼びした勇者様に最も相応しい者を厳選してお供に付けようということになりまして。

 このルトランスは旅慣れておりますし、戦の魔法が使えます。

 きっとお役に立てるかとは思いますが」

「そうか」

 予想と違ったので疑問に思っただけだ。そもそも、そんな強者が田舎田舎と呼ばれる地にごろごろいるようでは、わざわざ秘術を使ってまで別の世界から勇者を召喚したりはしないだろう。

 一人だろうと数人だろうと不満はない。むしろ多くの知らない人間と共に、昼夜問わず旅をするというのは落ち着かずわずらわしい。かえって助かった。

「我一人でも構わぬくらいだが。道案内は必要だ」

「いやいやいやいや。

 だからシェロナくん。いまの君は----」

「分かっている。何度も言うな」

 全面に呆れを押し出したノルンが、脱力したような手付きで肩に手を置く。さすがに気に触った。身動きせず視線だけで睨み付けると、ノルンは弛んだ顔を引き攣らせ、そろそろと手を引く。

 我とて、己の力量がどの程度かまだ把握していない段階で、単独で敵地へ乗り込むほど愚かではない。好き勝手できた元の世界とは違う。ある程度人間のようにふるまわなければならないと理解している。

「今も言ったが、道案内は必要だ。我はこの世界に無知なのだから。

 どうせ一人連れて歩くのならば、世話がない分、戦える人間の方が良い」

「ごめん。悪かった」

「お二人はいつの間にか、随分と仲良くなられたようですな」

 そんなやり取りを見ていたメリダスが、ふくふくと微笑んで言った。どこを見てそう思ったのか、至極不思議だ。人間の「仲が良い」基準が怪しくなる。我は怪訝にメリダスの顔を見詰めるが、老人は何事もなかったように言葉を続けた。

「納得していただけたようで、なによりです。

 旅の間なにかございましたら、このルトランスに遠慮なくお申し付けください」

「了解した」

 我がうなずいたのを確かめると、次にメリダスは神妙な面持ちになって、呆気にとられはらはらと成り行きを見守っていた若い魔法使いに声を掛けた。

「バグジール君。シェロナ様はこの世界の事をなにも存じ上げない。そなたが良き助けとなり、身の回りにおいても戦いにおいても、抜かりなくお力添えするように」

「はい。お任せください。誠心誠意、力を尽くしてお役目を全うします。

 勇者様。至らぬところもあるかとは思いますが、よろしくお願いします」

 一瞬間を置いて、我に返ってからルトランスは生真面目に返事をする。そして機敏にこちらに向き直ったかと思うと、もう一度挨拶をして、今度は左手を肩に添えるだけの礼をした。

 改めてその姿を眺める。

 魔法使いだけあって、服装の印象はノルンに似ている。しかしこちらは旅支度だからか、上着は動き易いように丈が膝程度で、袖の布もあまり余っていない。手には地面から腹の位置までの杖を持っている。最低限の装飾しか無いその杖の先端には、両手でやっと包み込めるくらいの大きな玉が乗っていた。まるで硝子の内にゆらめく白い煙を閉じ込めたような、白濁した真球。丈夫そうでよく使い込まれている。

 鳶色の毛に下げた髪飾りが目についた。指の先ほどの大きさの真っ赤な玉に、細長く薄い白銀の棒がぶら下がっている。二本付いていれば、金属の触れ合う耳に涼やかな音を奏でたろうに。----とも思ったが、いくら美しい音でも耳元でずっと鳴っていたらうるさいだろう。

「あの……」

 人の良さそうな笑顔を引っ込め、ルトランスが耐えかねたように切り出した。

「何か気になることでも……?」

「赤い珊瑚の玉かと思ったが、違うようだ」

 いつの間にか凝視していたらしい。よく見れば、後で塗ったような色むらがある。ルトランスはきょとんとして反応が遅れた。困惑が声にありありと滲む。

「これですか? これはただの木屑を削って、ぼくが色を付けたので。単なる飾りですが」

「そのようだ」

「……は、あ……?」

「ところでシェロナ様。

 こちらで用意させていただいたお召し物はいかがでございますか」

 首を捻るルトランスを置き去りに、メリダスが話を進める。その視線は、我が纏う衣装を確認するように、控え目に注がれていた。

 ノルンの話では今の我の体は作り物らしいが、それと同じ仕組みなのか、召喚された当初に着ていた衣装は、その直前に身に纏っていた物と全く同じだった。元の世界の我が城で、玉座に腰掛ける時に身につける衣装だ。重厚で豪奢な布地に、繊細で気品ある刺繍。一流の素材を用いた、一流の職人による手仕事だ。我が世界なら、一国の主にも劣らぬ、特注の----お気に入りの一品だった。

 その衣装は不思議なことに、寝台に入ろうと寝間着に着替えると、少しして空気に融けるように消えてしまった。その様をもの惜しそうに眺めていた、着替えを持ってきた侍女の話によると、それはそういうものなのだとか。

 そしていま身に付けているのは、翌朝用意されていた旅装だ。この服はこちらのありふれた服装の一種なのだろう。長旅を想定しているだけあって簡単だが、布は滑らかでよく考えられた線をしており、着心地は良い。前の晩と同じ侍女はひどく申し訳なさそうに恐縮していたが、動き易ければ何でも良かった。向こうから着て来たような豪奢な服で、野山を歩いての移動はできないのだ。我はいつもあのような鬱陶しい工芸品ばかり着ているわけではない。雰囲気と、気分だ。

 だから「満足している」といつものように短く答えたのだが、

 その横で、力無く肩を落とし頻りに首を横に振るノルンが、こそこそとルトランスを手招きしているのが目に入った。こちらから距離を取って密談しようという構えだ。

 こちらの様子を注意深く窺うノルンに、眼差しを険しくして視線を送る。

 ----よもや、余計な告げ口をしようというのではなかろうな。

 すると気付いたノルンがぎくっと後ろめたそうに汗を流す、かと思いきや、

 ため息混じりの悩ましい目付きで見返してきて、小さく首を横に振る。

 ----ちがう。君が危なっかしいから、二三大事な注意事項を伝えておくだけ。

 べつに、ノルンを----人間を相手に以心伝心できるわけではないのだが、お互いに、なんとなく言わんとしている内容は伝わってきた。

 我は苦々しく眉根を寄せる。

 ご苦労なことだ。ノルンは我を喚び出したことに、いらぬ責任を感じているらしい。お節介ともとれる気を回し始めていた。否、はっきり生意気だ。おまえは我の保護者か、と一発拳をくれてやりたい。そういえば、モトの世界にもそんなヤツがいる。

「? どうかなさいましたか? やはりなにか不具合が?」

「----いや、なんでもない」

 その手の苦情はつっこんだ方が負けだ。経験上知っている。

 面白くないが、気を取り直して不審がるメリダスに視線を戻す。

「? そうでございますか。

 それではシェロナ様、こちらをお持ちください」

 メリダスは、さすがこの砦を取り仕切る者だけあって、些細なことに頓着せずさっさと次の話題に移った。そうして壁際の台から取り上げ差し出したのは、剣だ。

 特別立派なこしらえでもない、普通の剣だった。

「剣と魔法のようなものを嗜まれているとお窺いいたしましたので、こちらを用意させていただきました。業物とはいかず、申し訳ありませんが」

「……」

 言われてみれば、と思い返す。確かに言った。

 何か武術の心得などはおありですか、と問われて、魔法----こちらの世界の魔法とは厳密に同じものではないので、魔法のようなものと剣が使えると、そう答えたのだ。

 我は差し出された剣を受け取った。

 簡単に外見を見分し、柄を握って引き抜く。現れた銀に光る刃はきちんと研がれているものの、ごくありふれたものだった。量産品ではないが格別の品でもない。物資が少ない少ないと聞かされ続けているので、辺境の地で渡せる武器ならこれくらいが限度なのだろう。

「----ふむ」

 元の世界----体なら、こんなモノは使わない。もともとの身に備わった爪と牙と尾をもって、そして現象を自在に操る力をもって敵と対峙する。聞かれた時はノルンの話をまだ聞いていなかったので、道中なにがあろうとどうにかできると高を括って、適当に答えてしまったのだ。----一応、人の姿だ。何か武器を持たねば格好がつかぬだろう、とは考えたのだが。

 そんなわけだから、これまで剣など、数える程しか握ったことがない。

 それも落ちていた剣を拾ってなんとなく振ってみたとか、そこにいた輩の剣を奪って戯れに試合をしたとか、その程度だ。

 元の世界でなら、真剣に扱えば剣くらい----例えそれが槍だろうと弓だろうと、使って人間に退けをとるとは思えないが。さて、こちらではどうか。「達人」と呼ばれる一流の戦士が使う剣技を、それはもう幾度となく----主に切っ先を向けられる方だったが、目にしたことはある。その見様見真似をすればいい。やってやれないことはない。

 剣を片手に持って、二、三度その場で振ってみる。

 工芸品としてならともかく、得物としての良し悪しなど分からない。とりあえず重さや長さは申し分なさそうだと判断して、少々危なっかしい手付きで鞘に収める。

「これで良い」

 力が思うように使えない現状では、頼れるのはこの剣一本のみだ。

 己の武器がこれしかないというのは、忸怩たるものがあるが----。

「お気に召されたようで、なによりでございます」

 満足そうに笑うメリダスから、腰に提げるための革帯を受け取る。その他にも、旅に必要な用具やら携帯用の食料やらが詰まった小振りな荷を、よっこらせと持ち出して我に手渡した。床から持ち上げたせいか、億劫そうに腰を伸ばす。

 そうしてメリダスは、改めて姿勢を正した。

 おほん、と咳払いして、神妙な顔を作る。

「さて。これで準備も整いましたな。

 シェロナ様。ここからは、長く、辛く、厳しい苦難が待ち受ける旅路となるでしょう。挫けそうな出来事もあるかと思います。しかしすばらしい出会いもまた、あるでしょう。

 大魔王の力は甚大で、恐ろしいものですが、ルトランスと力を合わせ、そうした試練を乗り越えて、必ずや、この世界を魔の手から救い出してください。

 我々一同、ご武運をお祈り申し上げております」

 まるで事前に用意していた台詞のようだった。----が、僅かばかりのぞくくすんだ緑の瞳に宿る想いは真っ直ぐで、本物だった。メリダスが体を二つに折り畳むように、深々と頭を下げる。

 その横で、ノルンもまた赤い瞳を心配に揺らめかせて、言葉にならないものを拳の中に握り込んでいた。ただ一言、

「いってらっしゃい」

 と強張る顔になんとか笑みを浮かべ告げる。

 ため息に似た呼吸をひとつ。

 我はそのどちらにも、形ばかり小さくうなずいて返してやった。

 正面の重たい扉が、音を立てて開かれる。

 くり抜かれた視界の先に、緑の葉をいっぱいに繁らせた木々と、白い雲を薄く引いた青い空が見て取れた。さっと吹き込む風は、春を間近に控えて少し冷たい。

 メリダスにノルン、それから外にいた見張りの兵士。僅かな人間たちに見送られ、我はルトランスという魔法使いと共に、旅の一歩を踏み出したのだった。

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