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リングランドのパステル工房  作者: 黒猫屋
第1章 星の降る丘
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8 あの丘の優しいシルエット

二人は向き合ったまましばらく無言で見つめ合っていた。


馴れない雰囲気にニコはソワソワしながらも、その何とも言えない空気を払拭しようとアンドレアとの絡み合う視線を無理に外した。


二人の頭上は紫だか桃色だかの混じり会う綺麗な空だった。


「白い月があんなにも欠けているね、新月が近いや」


ニコは見たままの事を呟く。


再び二人に静寂が訪れ、ニコはまた妙なものに巻かれそうになった。


するとアンドレアはニコとの距離を少しずつ詰め、小さな白い両手でニコの手を包んだ。


そして一度周囲を見回して誰も居ない事を確認すると、おもむろにニコの右頬に顔を近付けてきた。


ニコは彼女の小さな息づかいと、自らの鼓動が激しく脈打つのを感じ、事態がうまく把握出来ぬまま拳を握り締め目を固く閉じた。



ふぅーと、小さな吐息がニコの頬をかすめる。


こんなにも近くて遠い距離があっただなんて、とニコは心の奥で感じた。


二人の距離が重なる手前で止まる。


その瞬間にニコを含めた全ての時や風や黄昏が止まったように辺りは静まり返る。




アンドレアはとても小さな声で、ニコに想いを伝えた。



「私を、私を一度だけでもいい、一度だけでも連れ出して、籠の外がみたいのよ……」



ニコははっと目を見開き、触れてしまったら消えてしまいそうな、夜露きらめく白百合の花を凝視した。


何も返事をすることが出来ずにただただ呆然と立ち続けたニコに対して、アンドレアはそれ以上は何も口にすることなく、俯きながら翻ると小走りで去っていった。


次第に小さくなる彼女の後ろ姿と、長くなるその影を見つめながらニコは『ある丘の優しいシルエット』を思い浮かべた。


様々な思いを頭の中で巡らせ、星の輝きだした群青の空と、インクの染みのように広がる影を交互に見ながら、ニコは門で待つジョエルの元へたどり着いた。


ジョエルは大きな門柱の脇で、何かを回想しているかのように、真っ直ぐと遠くを見つめ、身動きひとつせずにニコを待っていた。


「先程は誠にありがとうございました。お陰でお嬢様のみならず、(わたくし)までもが非常に密度の濃い有意義な時間を過ごす事ができました」


改まって律儀な礼を述べるジョエルは自分に課せられた職を全うするように、その家の表玄関としての役割をこなしていた。


ニコも深々とお辞儀を返してそれに応え、来客としての礼儀を果たす。


「それでは僕はこれで」


ニコはそつなく門をくぐり、敷地外へと足を踏み出した。


だがその直後、ジョエルが背中越しに声を掛けてきた。



「ニコ様、わたくしも門外へ出させて頂きました。これにて一旦はこの家とは無縁の身。ただの老人で御座います。ご理解頂けますかな?」


ニコは振り向く事なく立ち止まり、ジョエルの言った言葉の意味を考察する。これから彼が何を云わんとするのかまでは見当もつかないが、今までの成り行きを理解した上で、ゆっくりと振り向きコクンと一つ頷いた。


「ニコ様、帰り道はどちらですかな」


「僕の家は五番通りにあります」


「でしたら明るい中央広場まで送って差し上げましょう、お付き合いしても宜しいですかな」


そう断りを入れ、ニコの横へと並んだジョエルは薄暗くなりつつあった道を照らすためにランタンに火を灯す。辺りには獣油の臭いが漂った。


揺らめくランタンの光を中心に、背の高い影と少し低い影が地面に生み出された。


「無言のまま歩くには少々道中が長すぎますな」


ジョエルがおもむろに言った。


ニコはその時、この後に続く会話こそ、ジョエルが自分を呼び止めた本心かと悟る。彼が何を話し出すのかとても気になったが、何かを見透かされるのを嫌った反動で無言のまま、口をつぐんでしまった。


そんなニコの態度にも関わらず、ジョエルはゆっくりとした口調で話始めた。


「少しばかりお嬢様についてお話しさせていただきましょう。勿論これは他言無用にございます。もしニコ様に興味のない話ならば老人の独り言と片付けて頂いて構いません」


ニコはジョエルの持つランタンの揺れる光を見ながら無言で歩き続けた。


「わたくしはお嬢様が四つの頃よりお屋敷で身の回りのお世話をさせて頂いております。ですので、お嬢様の成長を誰よりも近くで見守ってまいりました。


あの頃のお嬢様はそれはそれは大変なお転婆娘でしてな、侍女や使用人は毎日がてんやわんやの大騒ぎでした。


当時のお嬢様のお転婆ぶりを伝えるのにうってつけのエピソードが御座います。


ある日、食堂から侍女の悲鳴が聞こえてまいりました。わたくしが慌てて食堂へ駆け付けると、なんと長テーブルの各席の前に、蛇や蛙や蜘蛛だのが生きたまま蠢いていたのです。

そんな悪戯をするのはお嬢様以外考えられません。直ぐ様わたくしはお嬢様を見つけ出し、それを問い詰めました。するとお嬢様はあっけらかんとした表情でこう答えられたのです。


『あら、みんなたいくつそうだったのですもの、おおきなこえをだせばげんきになりますわ』


これには屋敷にお仕えする者皆が大笑いしました。

幼少のお嬢様にしてみれば、忙しなく働く大人の曇った顔がよほど退屈そうに映ったことだったのでしょう。


さて、話をもどしますと、お嬢様が十歳を迎えて間もなく母君様が突然、流行り病でお亡くなりになられてしまいました。


太陽のような燦々(さんさん)とした笑顔はこの日を境にして陰りはじめてしまいます。肉親との別れは誰にも等しく訪れるものですが、お嬢様には少し早すぎた別れとなってしまいました。


そんなお嬢様を誰よりも気に掛けたのが、すぐ上の兄様でした。やや年の離れた二人の兄と違い、その兄様はお嬢様とほぼ同じ環境下で育ったせいなのでしょうか、とても仲の良い兄妹でありました。


幼少の頃より病弱だった彼は屋敷からはあまり外出することはなく、日々を勉学に打ち込んでおられました。


当家の紋章にもあるように、盾の中心に天秤が。左右の皿には剣と孔雀羽が配置されておりますとおり、文武両道こそが爵位をもつ当家の家訓とされていましたが、剣を握ることができないと早い時期に悟った彼は人一倍、いや想像を絶する程に勉学を磨いておりました。


同時にリングランドの歌姫と呼ばれた母君様の血を濃く受け継いだのか、芸事に天賦の才を持ち合わせていたようで、勉学の合間を縫っては画を描かれ、それをお嬢様によく披露なさっていました。



男である彼は、外出の制限もお嬢様のそれとは対照的に比較的自由であったため、次第に外へお出掛けになられては外の世界を描きお嬢様へと見せるようになりました。


愛でるべき妹の笑顔を取り戻すべく兄は懸命に外の世界を妹に知らせます。


これらの尊き行いは、互いにとってとても良い結果をもたらしました。


お嬢様は日に日に笑顔を取り戻し、病弱だった兄様は体力と自信を。


そんな日々が暫く繰り返され、母君様を失った深い悲しみの穴が埋まり掛けた頃、再びお嬢様にとって耐え難い苦悶の日々が訪れます。




兄様が士官学校へ送られる事が急遽決まったのでした。


しかし、お嬢様は凛とした態度でそれを受け入れると、兄から貰ったその笑顔を絶やす事 なく彼を見送りました。まだまだ少女だと思っていたお嬢様は、いつのまにか大人の女性への階段を駆け上がっていたのでしょうか。


時を同じくして、屋敷の何処からか聞こえてくる夜な夜な(すす)り泣く声は、使用人の間では気味悪がられましたが、わたくしはそれが何だったのかを知っています……」




いつの間にかニコとジョエルは街の中心に位置する中央広場前のマールモール大聖堂の前まで来ていた。




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