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リングランドのパステル工房  作者: 黒猫屋
第1章 星の降る丘
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5 リンデンバウムの木の下で

最初にニコがこの屋敷を訪れてから、もう何日たっただろうか。


二回目の訪問の帰り際、ニコはガビーから頼まれていた。それは、絵画が完成するまでの間はこの場に自由に来ても良い事。なるべく毎回参加して欲しいと。


ガビーは見抜いていた。ニコがこの場にいるだけで、アンドレアの表情が、普段よりも柔らかくなることを。


流れる時間の一部を切り取る画家にとって、被写体は常に同じものでなくてはならない。アンドレアの美しく柔らかい自然な笑顔は、ニコにしか引き出せないと悟ったガビーは、ある意味、ニコの存在を利用していた。




背筋をピンと伸ばし、折り畳みの木製の椅子に腰はドンと下りている。真剣な表情でカンバスに向かうガビーは辺り一面の空気を完全に支配していた。


だがそのガビーの支配する空間に呑まれることなく、むしろ抗うかのようにアンドレアは眉一つ動かすことなく、冷たい石のベンチの上でポーズをとり続けていた。


ガビーのその見事なまでの筆さばきや、色彩感覚の素晴らしさは、近くでそれを見守っていた執事や使用人達を瞬く間に引き込み、絵画の世界へ誘うかのようだった。


皆は、次々と繰り出される妙技に感嘆し、目を丸くしたまま一歩も動けないでいた。



そんな中でガビーの助手をしていたニコではあったが、作業が進行するにつれ次第にやることもなくなってきてしまった。


ガビーの声も掛からなくなり集中の切れたニコは惚けた顔でニヤニヤとアンドレアを眺めたり、ガビーの禿げ頭に反射した太陽光に目をやられたりと好き勝手な時を過ごしていた。


作業は中盤の下塗りも終わり、いよいよこれから本塗りに移るといった所だったが、その緊迫した時間は一羽の鳩によって、あまりにも突然の終わりを迎える事になった。



茂みから羽ばたいた次の瞬間、よりにもよって狙いすましたかのようにガビーの頭に糞を落とし去っていく一羽の鳩。


それによりアンドレアを始め、執事や助手達は笑いを堪えるため、肩を小刻みに震わせたり、下唇を噛んだりと、なんとか吹き出すまいと必至に耐えたのだが、とうの昔に集中力の尽きていたニコは我慢することを潔く諦め、吹き出しながら腹を抱えて笑い出してしまった。


顔を真っ赤にして筆を机に叩きつけたガビーは、口をへの字にしながら屋敷の脇にある水路の方へと消えていった。



残された一同が一斉に笑い出すと、水路の方から「今日は仕舞いだ!」と大きな声が聞こえてきた。


それを受け、ニコはそそくさとガビーの道具を仕舞い始めた。


すると、イーゼル越しにアンドレアがベンチに腰を掛けたまま声を掛けてきた。


「ニコさん、少しいいかしら?」


「そんな、ニコさんだなんて。呼び捨てで構いません」


そう、(かしこ)まってニコが返事をすると、彼女は急に無邪気な等身大の少女らしい表情になった。


「では、私の事もアンドレアと呼んで頂いて結構です。これで同じね」


アンドレアはそう言って微笑んで見せた。


その笑顔を見た瞬間、ニコは心を射抜かれた。腰砕けそうな笑顔の衝撃はニコの足元をふらつかせ、もうその場に立つことが困難になりそうなほどだった。



アンドレアはニコの不可解な行動に少し首を傾げ、不思議そうな顔で見続けた。


見つめられたと勘違いをしたニコは、第二の矢で再び心を射抜かれ、ついには足元から崩れ去り、その場にペタンと座り込んでしまった。


目の前で崩れ落ちたニコを見たアンドレアは目を丸くして驚くと同時に、とっさにスカートをたくしあげ、急いでニコの元へ駆け寄り手を取った。「ニコ、具合でも悪くなったの? 大丈夫? 使用人を呼びましょうか?」と困惑した表情を見せた。


ニコの視界に映る美しき白百合がぼんやり白くなり、意識が遠退くのを必至に呼び戻したニコは、アンドレアを不安に思わすまいと、その場にいた者ならば誰でもわかるような咄嗟の嘘をついた。


「あ、いやあ、うっかり足を滑らせて……」


それを聞いたアンドレアは手を口と腹に添えクスクスと笑いだした。ニコは赤面し、座ったまま下を向いてしまった。


「ニコ、あなた面白い人ね。あなたのような人は初めてだわ。私たちきっと素敵な友達になれると思うの、どうかしら?」


ニコはアンドレアを見上げると「は、はい。じゃないや、うん!」と満面の笑みで応えた。


「さあ。立って」


アンドレアが手を差し伸べると、ニコはその白く華奢な手をしっかりと握りしめ立ち上がった。


「ありがとう」


ニコが礼を言うとアンドレアは「次の用事まで時間があるの、もしニコさえ良かったらお茶にしませんか?」とニコを誘ってくれた。



屋敷の裏の教会からは三時(ノーナ)の鐘が響き渡り、お茶には丁度良い時を二人に知らせてくれた。



「ねえニコ。お茶の準備が出来るまで少し庭のお散歩でもどう? 庭師のカールさんのご自慢の木々を見てまわりましょう?」


そう言ったアンドレアはニコの同意も得ずに、手を取りグイグイと引っ張りながら小走りで芝の上を走り出した。


まるで無邪気なその少女の背中には、鳥だか天使だかの羽が生えたかの様な、何かから解き放たれた自由さがチラリと見えた気がしたニコだった。



「うわあ、立派な菩薩樹(リンデンバウム)だなあ。きっと何十年もの間、この土地を見守ってきたんだろうなあ」


広い園庭の真ん中に屋敷とさほど変わらぬ高さのとても大きな木を見上げ、ニコは言った。


「ニコ、それはこの木の名前? 知らなかったわ。この木にそんな、名前があるだなんて」


「うん。この木の名前だよ。人が勝手に付けた」


「それはどういった意味かしら」


「木にも人と同じように意志があったならって思ってね。勝手に名前なんか付けやがってなんて思ってるかも」


「フフフ。ニコって変わっているわ、普通の人と違うところ見てるみたい」


「そ、そうかなあ、変かなあ」


「あ! 変な意味で言ったんじゃないのよ? 人と違った視点を持っていて、凄いなって思ったの。そんな顔にならないで……」



その時のニコはあからさまに不貞腐れた子供の様な顔をし、口を尖らせていた。


しばらく会話は止まったまま、ニコは目の前のリンデンバウムを眺めていた。おもむろに一歩を踏み出し立派な幹をなで回しながら樹上を見上げ、何かを呟いた。


一歩下がった場所からアンドレアはニコのその一連の行動を不思議そうに見続けていた。


ニコは再度幹を擦り誰かと話が終わったかのような仕草をみせると、そのままアンドレアの方へ顔だけ向けた。


その時、一瞬だけ見せたニコのなんとも言えない冷たい表情をアンドレアは見逃さなかった。見間違いかもしれないとさえ思った。


それほど刹那の表情は異質にも見えたのだった。しかし、直ぐに先程までと同じ、おどけた表情に戻ったため、彼女は自分に見間違いだったと言い聞かせ深く詮索することはせずに疑問符を飲み込むと、笑顔でニコの元へ歩み寄った。



「ねえニコ、あなた達にしてみれば当然過ぎる事かも知れないけれど聞いてもいい?」


「うん。僕に答えられることならなんなりと」


「そう、ありがとう。じゃ聞くわよ? ニコはこの王都の外に行ったことある? あの高い城壁の外の世界をあなたは知っている?」


ニコとの距離をゆっくり詰めながら濡れるような瞳でアンドレアはそう問いかけてきた。


「ああ、もちろん。北は純白の山、バニラバレー。南は風車の丘。東の小さな海オーケア海に西の ハーフヒルズ 大地の大穴サンケーブまで。近辺で有名な場所ならば大体行ったかな、それがどうかしたかい?」



「凄いな! 凄い! 凄いわニコ、ねえ、是非その冒険譚を聞かせて、お願い」


ニコはアンドレアの過剰なまでの話の食い付き方を見て少し胸を痛めた。なぜなら、高貴な生まれの、特に女性はその生涯の大半を限られた敷地内で過ごすことを知っていたから。アンドレアのような成人に満たない少女の底抜けの好奇心を満たすものなどは、残念ながらその生活圏には存在しないのだ。


「ぼ、冒険譚だなんて、そんな大袈裟なものではないけれど。僕の話で良ければ時間の許す限り」


ニコのたった一言で、アンドレアは蕾の開いた花のように生き生きとした笑顔になった。



二人が庭園を散策しながら話をしていると、先程

門で会ったこの屋敷の執事、ジョエルが此方へ近づいてきた。


「お嬢様、お茶の支度が整いました。あちらへどうぞ」


「ありがとうジョエル。さ、では参りましょうニコ」


「は、はい」


執事から声を掛けられたアンドレアは少女から令嬢へと瞬時に態度を切り替えた。それにつられてニコもまるで使用人のような返事をしてしまった。


当たり前だが、アンドレアのその身の振る舞いの一つ一つは、幼い頃から徹底して叩き込まれた貴族の証そのものだった。




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