V 「つい、うとうとしちゃって」
杉内先輩から受け取った入部届の紙を弄びながら、荷物のある教室へと廊下を歩いていると、ばったり才華に出くわした。
「あれ、弥? 何してるの?」
「才華こそ。ぼくは将棋部に行ってきたところだよ」
「へえ、将棋ねえ……わたしは、行きたい部活もないから体育館で吹奏楽部の演奏だけ聴いてきたの。で、いま帰ろうとしてもどこかしらの部活に捕まっちゃうから、図書室にでも行こうと思ってたんだ。……一緒に行かない?」
図書室、ねえ。そういえば、文芸部が部誌のトラブルに見舞われているところなんじゃないかな? 才華じゃないけど正直気になるし、行くところもないから、そうだね。
「うん、行こうかな」
図書室までは主要な部室があまりないから、廊下にはほとんど人がいなかった。一組の女子二人組とすれ違ったほかは誰ともすれ違わなかったくらいだ。
やがて辿り着いた図書室に入ってすぐのところに、人がいくらか集まっていた。さっき将棋部の部室で見た人たちもいる。その端に立っていた、あの背の低い一年生に才華が反応を示した。
「あ、江里口」
「うん? ああ、家入か」
そう言って眼鏡の子が図書室から出てくる。お互い嫌そうな顔で向かい合った。江里口と呼ばれた背の低い女の子は眼鏡の奥から才華を睨み、才華は長身から江里口さんを見下ろすように睨む。
女の子どうしが苗字で呼び捨て……仲は悪そうだね。でも、ふたりとも内心では、ぼくにこう聞いてほしいだろうね。
「知り合い?」
「そう」案の定、才華が答えた。「中学のときに三年間同じクラスだったの。中学は八クラスもあるっていうのにね。いまは別のクラスで安心したけど」
江里口さんも頷いている。三年間も一緒なら仲良くなりそうだけどね。今度は、江里口さんが尋ねてきた。
「名前なんていうの? 家入の恋人?」
「違うよ」予想し得た質問だけど、いざ訊かれるとびっくりしちゃうね。まだ知り合って一週間程度だし、同居人とは恋愛しにくいよ。「ぼく、高校から入学した才華の友達の、久米弥。よろしく」
「へえ。私は江里口。江里口、穂波」
随分と苗字を強調するな。下の名前で呼ばれたくないのだろうか?
「ところで」挨拶を済ませると、才華が口を挟む。「江里口は何をしているの?」
「文芸部を見に来たんだけど……」江里口さんは図書室のほうを一瞥した。「部誌がなくなったみたい。いたずらで盗まれたのか、それとも、そもそも持ってくるのを忘れたのか……解らなくて焦っているところ」
なるほど、それでさっき国語科資料室に来ていたのか。本人はそこにぼくがいたことを憶えていないようだけれど。
突然、才華が声を高くした。
「それは気になる話だね。詳しく聞きたい」
才華は明らかに、部誌の紛失に関心を示していた。そう、いつもの「気になる」だ。
「はあ」と江里口さんが顔をしかめた脇から、男の二年生が現れた。
「やあ、文芸部に興味があるの?」
「ええ、ちょっとだけ見て行こうかと」才華が応じる。「でも、部誌がなくなったとか何とか聞きましたが?」
「うん、それなんだよ。ちょっと考えてほしいんだ」
そう言うと、図書室にぼくと才華を招き入れた。
読書用の座席が入口のところまで動かしてあり、ひとり、さっきは見ていない二年生の女の子が座っていた。杉内先輩が言っていたように、留守番の部員がいたようだ。
机の上には部誌とファイルが並べられている。部員が少ないからか、業者に依頼したような冊子ではなく、コピーした原稿をカラーテープで製本してある。手作りのようだが、どれも案外厚い。卒業した学年の人たちは人数がいたのかもしれない。
ファイルはポケット式のもので、青、緑、ピンクの三冊が置かれていた。ぼくたちから見て手前に、緑色の『イラスト等』と書かれた一冊と、『出展企画書類』と書かれたピンクの一冊が置かれている。青いものは座っている部員の近くに置かれ、表紙には『活動報告、各種書類』と書かれていた。どのファイルもぱんぱんだった。
「で、何があったんですか?」
才華が尋ねると、座っている二年生の女子生徒が応じる。
「えっと、三十分くらい前、少しだけ山口と佐々木先輩が席を外したんだ」
話している人の目配せからして、山口さんというのが男子の二年生、三年生の女子生徒が佐々木さんというらしい。その山口さんが続ける。
「人も来ないから、瑞希に任せてトイレに行ったんだ」座っている人が瑞希さんらしい。山口さんはちょっと視線を逸らしながら、「そのあと、おれは佐々木先輩に言って、食堂の自販機まで飲み物を買いに行ったんだ。戻るまで、ざっと十分かな」
食堂は一階、図書室は四階だ。ゆっくり歩けば妥当な時間だろう。
「そのとき佐々木さんは?」才華の質問。
「ちょっと友達から連絡が入って、電話してた。ほら、この通り」と言って、通話履歴を見せてきた。確かに、話している通りの時間だった。「図書室に戻るときには山口くんと一緒だったよ」
「つまり、図書室には十分間、ひとりしかいなかったんですね」
三人が頷く。そして、瑞希さんが続ける。
「そのあいだ、つい、うとうとしちゃって」
なるほどきょうは、ほかほかとご機嫌な陽気だからね。図書室も暖かいし、気持ちいいと思うよ。
「そのまま寝ちゃったみたいで、一年生の」江里口さんのことだ。「その子が来たときにちょうど山口と佐々木先輩が戻って、目を覚ましたの」
「すると」山口さんが言う。「部誌が一冊、なかったわけだ」
ふうん、十分で部誌がなくなったのか。
「なくなった部誌って、どんなものですか?」
「去年の五月に発行したやつだよ。奇数の月に一冊作るんだ。ピンク色の冊子」
そういえば、そんな部誌を捜しているみたいだった。
「何冊学校にあるんですか?」
「一冊だけ。毎回配布して残ったやつは、一冊だけ残してあとは自分たちで同じ数だけ持ち帰っていたんだ」
「つまり、学校の一冊を展示していた、と」
山口さんは「そういうこと」と相槌を打った。
「じゃあ、なくなったと分かったあとは?」
「あ、才華」ぼくがその質問に応じる。「それならぼくが知ってるよ。佐々木さん、山口さん、江里口さんの三人で、前の文芸部の部室、国語科資料室を捜していたんだ。いまは将棋部の部屋だったからぼくが見ていたよ」
「おお、そうだったな」山口さんが反応する。「そういえば、京太郎と将棋をしていたね。思い出したよ。まあ、部誌は見つからなかったんだけどね」
才華の表情を見る。
考えているらしい。それも、えらく真剣な顔だ。気になったことを最後まで追求したい性だとは知っていたが、思わぬところでその癖が出ている。江里口さんが呆れ、困っていたのはこのことだったのかもしれない。
そしてまた、才華はぼそりと呟いた。
「うん、すごく気になる」