IV 「部室が変わってねえ」
入学式の二日後。公立中学のように自治体のお偉い様が来るわけではなかったので、入学式は非常に短かった。肝心の授業はあさってから始まる。才華とは別のクラスとなり、同居のことは先生方を除いて、念のため隠すことにした。あくまで念のためであって、話すことでもないから話さない、というスタンスだ。
きょうは午前で放課となり、部活の勧誘が校内各所で行われていた。
まだろくに友達もできていないので、ぼくはひとり、将棋部へと赴いていた。もともと将棋は結構好きなんだ。
しかし、部室である国語科資料室には、
「どうも、人が来ないんだなあ」
二年生がひとり、机の上に対局の準備をして座っていただけだった。ぼくはその先輩と相対しているところだ。高美濃囲いでがっちり固めた四間飛車、後輩への戦法としてはあまりに慎重で手堅いものだった。
「杉内先輩、部員、まさかひとりではありませんよね?」
ふふん、と杉内先輩は笑った。
「そのまさかだったら同好会にもならないし、部室だってないんじゃない?」
「ああ、それもそうですね。なら、なぜいまはひとりで勧誘を?」
「みんな幽霊部員なんだよねえ。隠れ部活ってところかね?」
語尾がしばしば伸びる人だ。指す手を見る限り、決してのんびりした人ではないようだけれど、ちょっと調子が狂う。マシンガントークの大阪府民とはかなり違っている。
「どうして幽霊部員に?」
攻めに転じようとする銀将を、ぼくの歩兵が脅す。すると杉内先輩は銀縁眼鏡の奥で目を輝かせ、
「僕が、強すぎるんだよ」
脅しに屈せずぼくの陣内に歩を滑り込ませ、やがては飛車を襲わんと構えさせた。守るか攻めるか、悩みどころだ。
ここまで早打ちだったので、少し見栄を張って長考に入る。気を引き締めるため、緩めていたネクタイをしっかりと締め直した。
時計の長針がかつん、と音を立てたとき、ノックが聞こえた。
「入部希望だといいねえ……あれ?」
扉を開けたそこにいたのは、杉内先輩の知り合いだったようだ。
「京太郎、ちょっと見せてくれるか? 文芸部の部誌を捜したいんだ」
どうやら杉内先輩の下の名前は京太郎らしい。相手の男子生徒は同級生だろうか?
「ああ、いいよ」
許可を得ると、ごそごそと三人が入ってきた。上履きの色からして、二年生の男子ひとりに、女子は背の低い眼鏡の一年と、髪の長い三年がいた。その三人は、資料の置かれている棚を調べ始めた。
「あの、杉内先輩。どうして文芸部が?」
席に戻ったところに訊く。
「ん? ああ、部室が変わってねえ。国語科資料室は以前文芸部が使っていたんだよ。いまは部員不足で同好会になったんだっけ?」
少しからかったような口調で二年生の男子に言う。
「ええい、まだ部だって。図書室が部室になったんだよ。部誌のバックログは、まだここに置いてあるけどさ、じきに司書室に置いてもらえるようになるんだ」
「五人集まればねえ」
「集まるだろ。新入生の部員ふたりくらい」
つまり、文芸部は三人しかいないんだね。部誌を捜しているのは、勧誘の資料にしたいのかな? だったらもう準備していそうだけれど、どうしてしまったのだろう? まして、図書室で勧誘をしているはずだから、三人で来たら図書室がガラ空きじゃないか。
長考から決断し、駒を動かす。守りの一手だ。
「ないな……そっちはどうですか?」男の二年生。
「こっちにはないよ」女の先輩。
「ピンク色の冊子ですよね……ないみたいですよ」と一年生の女の子。
「ええ? 困りましたね」と男の先輩は女の先輩と話している。そのうち、「しょうがない」と呟き、「すまないな、京太郎。また来るかもしれないが、そのときも頼む」と手を挙げ、扉を開いた。
「いいや、構わないよ」と杉内先輩は三人を見送ると、盤面に目を戻す。ふふん、と口角を上げ、「守りの一手を指したんだねえ。この手でいいのかなあ?」
と言って、どこからともなく現れた角行がぼくの飛車の首を撥ね、龍馬へと出世を果たした。わお、えらいこった。いま指した歩は守りに使うと角道が開くのか……これはあかん手を指してしもた、先輩の手もしんどいわ。すっかりわやや。
正直、上手くいかないから気を紛らわせたい。ちょっと話を逸らそう。
「それにしても、文芸部、どうして部誌がないんでしょうか?」
「確かに、妙な話だねえ。もともと準備してあっただろうに」
ぱちん、と次の一手。
「それに、三人で来てよかったんでしょうか? 部員が三人みたいでしたから、図書室に誰も残りませんよね」
かちん、と先輩の一手。こりゃまたえらく対応しづらい手だ。先輩はまた鼻で笑った。
「図書室には留守番がひとりいるはずだよ」
「え?」
聞き返しながらその場しのぎの一手を返す。すぐに先輩の手でその抵抗は鎮められる。
「図書室には、おそらく二年生の部員がいるよ。なぜって、部員に一年生はまだいないはずだから」
「ああ、ひとりは一年生でしたね。赤い上履きでした」
「そう。新入生が入部届を最初に手に入れるのはきょう。きっと、部誌がないと騒ぎ始めたころに一緒にいて、手伝いをしたんじゃないかなあ」
「ははあ、なるほど」
ぼくがさらに一手返したが、一秒もせずに次の手が飛んでくる。ぼくの手は寸分の狂いなく読まれてしまっているらしい。
そして、ぼくの玉将は、城を丸裸にされて両手を上げていた。
「どうする?」
「……参りました」