II 「えらいことに」
四月。ぼくはようやく上京できた。しかも入学式のほんの五日前。
どうしてこんな羽目になったかといえば、年度末、年度初めの時期、我が家は機能停止に近い状態になるからだ。というのも、地方公務員の父さんは大車輪の勤労を求められるし、母さんのパートは幼稚園だからこちらも忙しい。『忙殺』って、こういうときに使う言葉なんだよね。毎年殺されるから、『謀殺』ともいえるかも。
新幹線で新大阪から東京までひとっ跳び、それから出荷されるジャガイモの気分で静かな在来線に揺られ、ぼくの新天地、窪寺まで辿り着いた。
前回来た道を何となく憶えていたので、今回は迷わず江川さん宅に辿り着いた。きょうからピンク色の青春……もとい、江川のおばさんとはとことの新生活が始まる。さて、そのはとこ、家入才華さんとのファーストコンタクトはどんなものになるだろう? ぼくだって男の子だし、楽しみだよ。
しかし神経というものは正直だね。緊張でぶるぶる震えた指が、心の準備を終える前にインターホンを押してしまった。びっくりしてインターホンに向かって名乗ることもできなかった。
……ううん? 返事がない。誰も出てこないぞ。
もう一度インターホンを押す。三十秒ほど待ったけど、返事はない。
じれったい思いが我慢できず、ちょっとばかしドアノブをいじってみた。すると驚いたね、鍵がかかっていないんだ。東京の人って、常に鍵をかけているものと思っていたよ。実際母さんはそうしているからね。
家の中を覗いて、声をかけてみよう。
「あの、すみませ――」
「はい」
急に扉が引かれた。そこには、女の子だ。
「ええと、その」
「久米、弥くん? 大阪から来たっていう」
「あ、ああ、うん。そう。久米弥」
「よかった。わたしは家入才華。さ、中に入って」
家入才華、そうか、同居することになる女の子だね。その子は居間に通してくれた。お茶まで準備をしてくれようとしている。
人当りのいい女の子だ。江川のおばさんは変な子と言っていたけれど、そんなことはなさそうに見える。ちょっと不思議だったのは、天保高校のブレザーを着ているってことだ。リボンもせずにね。
お近づきついでに訊いてみる。
「ねえ、どうして制服を? リボンもつけずに……ひょっとしてサイズ確認? タイミング悪かったね」
何がいけなかったのか、渋い顔をされた。
「入学式はもうすぐだよ? いまさら確認するはずないでしょ。もしも合わなかったらどうするの?」
ああ、うん。そうだね。ぼくがおずおずと頷くと、才華さんは続けた。
「決まってるよ、簡単な話。身内の不幸。リボンは派手だから」
「噓、そうだったんだ」
「まさか、聞いてない?」
「え? 何を」
「江川のおばさん、おととい、亡くなったの」
へえ、そうなんだ……
あれ?
「待って、いまなんて言った?」
「おととい、江川のおばさんがくも膜下出血で亡くなってしまったの。だから、きょうがお通夜で、あしたがお葬式。でも、キミが来るから家を離れられないでしょ? だから、正装して親戚のところに挨拶に行っていたんだ」
驚く前に、呆然とした。
どうしよう、聞いてないよ、そんなこと。お父さん、忙しかったからかな? にしたって、このままじゃ、ぼくに行き場はないよね――
「え、えらいことに……」
『ああ……そうだったのか』
携帯電話で事情を伝えると、流石にお父さんも困惑しているようだった。
『あんまり急だったから、おれのほうまで連絡が来なかったんだな……でも、おれもおれで大阪を離れられないから、ご冥福を祈る、とお葬式で伝えておいてくれ』
ぼくも神妙な声で訊く。
「ねえ、ぼくはここにいていいの? 居場所に関しては心配がないって、才華さんが言っているんだけれど」
『心配だが、世話を見てくれる人はいるんだろう? そっちにいてくれ。高校生のふたり暮らしなんて許してもいいかは判らんが、家入さんの家族はそれでいいんだろう? ちゃんと勉強しろよ』
江川のおばさんは旦那さんを病気で亡くしており、子供もいなかったため、土地は兄である田中のおじさんが引き継ぐらしい。田中さんは才華さんの伯父さんにあたる。所沢に住んでいて、税金みたいなお金の手続きはじめ、種々面倒を見てくれるという。田中のおじさんはいわゆる独身貴族で、ぼくたちふたりくらいは何とかしてくれると才華さんが言っていた。
家入家のほうはすでに才華さんが連絡を取った。田中さんが面倒を見るならば、とふたりで暮らすことを許した。
つまり、ふたり暮らしが確定だ。
前途多難、ピンク色の青春は厳しそうだ。
「長旅、お腹すいたでしょ。待ってて、簡単だけど作るから」
ぼくは椅子に座らされ、子供のように食事を待たされた。人の亡くなった重苦しい空気の中、荷物の整理も、心の整理もまだだというのに、女の子の手料理に心躍っている節がある。炊事や家事の分担もしなくてはならないのか。
ため息をついて、台所の才華さんを眺める。彼女の悲しみはいかほどだろう? 一緒に暮らしてきた伯母さんを亡くして。気丈に振舞っているだけなのか、そういう性格なのか、さっぱりと明るい姿だ。
ウェーブのかかった黒髪、背は女の子にしては高め。賢そうな目鼻立ちでありながら、可愛らしい感じでもある。ええと、どこかで見たような……あ。
「あの、才華さん」
「才華って呼び捨てにしちゃってよ。同居するんだから」
「じゃあ、才華」わお、これはえらく恥ずかしい。女の子を呼び捨てにするなんて初めてなのさ。「あのさ、高校の入試発表の日、高校にいたよね?」
「……うん、いたよ。だって、成績の問題で内部進学ができなかったんだもん。天保中学の生徒が、天保高校の外部受験をしたの。大丈夫、合格したから」
ままならない世の中だね。中高一貫、小学校も大学も置かれているというのに、エスカレーターのようにレールが敷かれているわけでもないのか。公立中学生には解らない世知辛さだ。まあ、内部生は高校受験を知らないのか。
ところで。
「あの、これからどうするの? 本当にふたり暮らし?」
「そうするって決めたでしょ。上京までしておいて、その度胸はない?」
「ある!」と言ってしまうのが、男にとっては条理ってものだ。「いい返事。感心だね」という才華の返事に顔が熱くなる。
「ねえ、どうして才華はここで暮らしているの? 家族と一緒に暮らせないの?」
これまで機嫌のよかった才華が、ちょっとむすっとした。
「質問ばっかり。少しは自分で考えたら? いまのご時勢、応用力の勝負でしょ?」
「まあ、そうだけど……思いつかないや」
真面目に考えていないのは正直なところ。
はあ、と才華は呆れるというよりも、親心を感じさせるため息をついた。
「妹の喘息が結構ひどくてね。かかりつけのお医者さんがいるから、わたしだけここに来たの。他の家族は江東区」
「へえ」と言っても正直ピンとこない。東京都で知っている地理なんて、いまのところ窪寺と新宿、そして東京駅の位置くらい。それに、二十三区の仕組みもよく解らない。大阪府大阪市淀川区にぼくは住んでいたわけだけれど、才華の家族は東京都江東区に住んでいるということだ。つまり、江東区って何市なのさ? ってね。政令指定都市云々ってことじゃないとは承知しているけどさ。
「さ、できたよ。適当だけど、食べて」
と言って出されたのは本当に簡単な焼きそば。うん、関西暮らしの続いたぼくだ、俗に言う粉物は大歓迎さ。ジャンクじゃないほうがありがたかったのは正直なところだけれど、文句を言う立場でも空気でもない。ありがたく、いただきます。
「才華はいいの?」
「うん。食べたから。お風呂の準備もしてあるよ」
「何から何までありがとう。これからは、ぼくも家事をするから。協力して頑張ろう」
「まあ、何とかなるでしょ」
「ああ、うん……」
ひとつ、才華について理解した。才華は少々のことなら気にしないところがあるらしい。しかも、その『少々』はかなり主観の混じった、世間的にアバウトなもの。
でも、そういう性格なら、一緒にいて楽しくなりそうじゃないの。
えらいことになったけれど、ピンク色の青春は、少し期待もできそうだ。