II 「相談があるんだ」
「じゃあ、久米。答えろ」
「ええと、3<a<24」
「うん? そうか?」
先生は手元のプリントを凝視する。うわ、ぼくはまた間違えたのか。これは、いつぞやかにもあったようなシチュエーション。そう、このあとぼそりと呟く奴がいるんだ。
「24<a<56じゃないですか?」
「よし、それだ。ここは問題ないよな?」
きゅっきゅと黒板消しが上下し、板書がデリートされた。ああ、もう少し板書を読んでいたかったのに。参ったものだね、ぼくは数学が本格的に苦手になってきたようだ。
チャイムが鳴り、きょうの授業が終了した。きょうは担任が休みで終礼もないから、ぞろぞろとクラスメイトたちは帰宅の準備を始めた。
手元に視線を戻す。数学の問題、てんでわやや。えらいこった。
中間テストへの漠然とした不安は募るが、一方で古典や現代国語、英語のライティングもリーディングも、我ながら非常によく頭に入っている。いまだに楽観視した態度から緊張感ある態度になれないのは、それらの教科での安心感のせいだろうか。思えば、言語や文学といった単元を、ぼくは楽しんでいるかもしれない。知らず知らずに、才華と好みが似てきたのかな?
そんな数学をはじめ、まだまだ天保での生活に不安はある。それでも、楽しむことはできるようになってきたということだ。
勉学だけが理由ではない。交友関係でも、
「平馬、またきみに答えられたよ」
荷物を整理している最中の男子生徒に声をかけた。さっきぼくが間違えた問題を答えた生徒だ。
「久米は数学がザル守備だからな。いい助け船だっただろう?」
「船頭の多い泥船だけどね」
「それは面白い喩えだな。それなら、久米の数学はすでに沈没船ってところか?」
平馬はぼくに興味を持った内部進学の生徒だ。興味を持った、というのは、他のクラスメイトとあまり絡まない共通点にある。どちらかというと単独行動や、気の置けない人としか行動しない、という性分だ。たとえばカラオケだと、平馬はカラオケが嫌いだし、ぼくはカラオケに行く生活の余裕がない。
気が合えば、もう仲良くなるのは早かった。まともに会話するようになってから二週間ほどだけれど、過激な冗談も平気で言える。
「ぼくだって古典や英語はできるのさ。得意とまでは言えないけれどね」
「まあ、おれも久米も主要科目が主戦場というだけで、個性はさほど目立たないからな」
ぼくは数学が苦手、平馬は実技と言われる科目すべてが苦手だ。選択した芸術科目が書道なのも、『芸術科目の中では最も才能に左右されない』という理由らしい。書道にも才能はあると思うが。
強烈な持論を展開する平馬の根源は、幕末の志士高杉晋作の辞世の句にあると語る。座右の銘としてしばしば口にするその句は、『面白きこともなき世を面白く』だそうだ。将来就職で失敗しないか不安になる少年である。
不意に、ぼくの携帯電話が鳴った。メールのようだ。
「あ、お呼び出しだ」
「そうか。じゃあ、おれは先に帰るぞ」
そう言ってぼくの事情も気にせず、平馬は荷物を背負ってさっさと教室をあとにした。
友達の少ない平馬の帰宅は、早くて速い。
呼び出しは江里口さんだった。滅多にメールもしない江里口さんから呼び出しだなんて、何事だろうかと好奇心に胸が躍るような躍らないような。
場所は裏門。最寄り駅へは遠回りになる裏門といえば、自転車通学の人の一部が使うだけの寂しい所。えらく妙なところに呼び出すものだ。人気のないところを選んだのだろうか? ……あかん、邪念の混ざった愚考や。
実地に着くと、江里口さんが門に寄りかかっていた。
「どうしたんだい、突然呼び出して」
何でもないふうに歩み寄ると、呆けていた江里口さんはぎょっとしてから苦笑した。
「いや、その……ごめん、久米くん。たいした用事じゃないんだけど」
「うん、構わないよ」
「じゃあ、早速本題。実は……相談があるんだ」
目を逸らし、短い髪の端をいじりながら話す。
「あの、私、去年から付き合ってる彼氏がいるんだけど」
「へえ、そう……」
…………ん?
「ええ? 初耳だよ!」
「ああ、やっぱり知らないか。そのほうが話しやすくて良いんだけどさ」
「そう、解った。覚悟して話を聞くよ」もやもやとした気分で念のため訊く。「その前に、どんな彼氏さんなのかな?」
「一言で言うと変人」
ああ、恋人に向かって『変人』か。仲のいい証拠やね。羨ましい限り。
「ぼくが知っている人かな? 具体的に」
「知っていると思うよ。久米くんと同じクラスの、平馬梓」
「ええ! 平馬だって? あの変人の平馬だって?」
とても釈然としない……いや、納得のできない気分だ。……いや待てよ?
「平馬、あずさ? 梓って……女の子の名前だよね? ぼくのクラス、平馬さんってふたりいるの? というか恋人が女の子なの?」
江里口さんは、はあ、と息をついた。
「知らないの? 久米くんの知ってる男の平馬が、平馬梓。男だけど梓。本人は『三島由紀夫の父親と同じ名前だ』なんて言ってプライドを持ってるから、女の子の名前なんて言わないでやって」
平馬のことをちゃんと知っているからには、恋人で間違いがないようだ。えらく気に入らないけれど、事実は事実。むう、こんなにも胸がざわざわするのは高校入試以来だ。
いろいろと渦巻く何かを嚙み殺し、にこやかに問う。
「まあ、それはそれとして、相談したいことって何だい?」
「ええと、恥ずかしい話なんだけどさ……ここ最近、梓が会ってくれないんだよね」
恋愛相談? 正直なところ勘弁してほしいけれど、我慢して聞き続ける。
「しかも、女の子に会ってるとか、ゲームセンターに現れるとか、そんな噂もあるんだよ」
「ええ? ゲームセンターだなんて、平馬が嫌いそうなところへ?」
江里口さんが頷く。
「『面白い』が口癖のあんな変人でも、あいつはあいつなりの正義が堅いから、妙なことではないと信じてはいるんだけど……連休中、一切会おうとしてくれないのはいつもと違う。本人に旅行なんかの予定はないらしいし」
「なるほどね」
恋人をほったらかしにして、平馬が遊び呆けている、ということか。なんてもったいない話なんだ、一発殴ってやりたい気分だよ。
しかし、それこそ殴るくらいしかぼくに思いつく解決策がない。恋人の江里口さんですら動かせない平馬を、ぼくの説得で動かせるとも思えない。
その旨、正直に伝える。
「それで、ぼくにできることって? あまり解決の自信がないんだけれど」
「いいや、そんなことはないな」江里口さんがにやりと口角を上げる。「事件解決ならもってこいの天才がいるじゃない」
「天才……」何秒か考えたのち、はっとした。「まさか、才華に頼めって言うのかい?」
「そういうこと」依頼人はおどけた言い方をする。「尾行するわけにはいかないし、本人も答えてくれないから、いっそのこと家入に推理してもらいたいの。梓がどういう事情で私と会ってくれないのかを」ひと息に言いきると、決まりの悪そうな声で付け足す。「流石に、さほど難しい事情はないと思うし」
それなら自分で頼めばいいじゃない、と喉まで出かかったが思い出した。才華と江里口さんはどういう理由だか犬猿の仲。直接話して『お願いします』とは言いたくないわけだ。ぼくもお願いされていないけれど。
平馬以外には素直じゃない女の子だこと。
「解ったよ。才華に話してみる」
「やった、助かった」
「もし才華が嫌だと言っても、ぼくが何かしら助けになるよ。あの変人とは曲がりなりにも友人だからね」
ありがとう、と嬉しそうに笑った。ぼくにも、才華の退屈しのぎというメリットがある。お悩み相談も才華の推理力の応用になるはず。
お礼を言った江里口さんは、その笑顔のまま声を低くした。
「でもさ、久米くん。梓も一応私の恋人だから、『変人』とはあまり言ってほしくないな」
……きょうは背筋が寒いね。