IV 「ホームラン」
タイガーズ投手陣は粘りを見せていた。序盤の八失点以降目立った乱れはなく、試合の流れをわずかに、タイガーズに手繰り寄せているように見えた。
その勝利の一筋とは別に、真相への糸を紡いだ才華は得意げだ。そしてなぜだか、自慢をさせてあげるのがぼくの役目のように感じた。
「どんな話だったの?」
「まず、三人の立場を説明しないと。売り子さんは間違いなくおじさんにビールを売りに来ただけ。注目すべきは男の子とおじさんのほうだったんだよ」
「どうして? 何か共通点でもあったの?」
「弥、きょうは珍しく鋭いね」
いつも間抜けですんまへん。
「でも、弥の言うとおり共通点があったの。ふたりとも、背番号1のユニフォームを着ていたの。ただし、違う年代の」
なるほど、さっきぼくにタイガーズに関する質問を並べたのは、レプリカのユニフォームが売られるような人気選手を知りたかったのか。そして、その質問の内容からすると、
「おじさんは古いデザイン、男の子は最新のデザインのレプリカを着ていたんだね」
才華は嬉しそうに頷いた。散々無視するような態度をしてしまったせいだろうか? それとも、自分の発想について来るぼくを、単に保護者的視点から微笑ましく思っているのだろうか? 前者であってほしい。
それはさておき、才華は饒舌だ。
「ユニフォームの年代が違う。つまり、背番号が当てはまる選手も違う」
「おじさんはオリバーのファン、男の子は鳥崎のファンなんだね。でも、それがどうかしたのかな?」
「すぐには関係がないけれど……まあ、これは前提として憶えておいて」
うん、と返事をしながらちらりとテレビを見る。どうやらタイガーズがチャンスを作りつつあるらしい。
「次。男の子がおじさんのところへ行く理由」
「親御さんが来ないことも重要なんだよね?」
「そう。迷惑にもならない、ほんのちょっとの微笑ましいこと。きっとね、男の子はおじさんにプレゼントをしようと思ったんだよ」
プレゼント? 正直ぼくには理解できない。
「どういうこと? まず、男の子がおじさんの欲しがるものを持っていたっていうの?」
「持っていたよ。弥、忘れたの?
……ファウルボールが男の子たちのいるスタンドへ飛んだのは、一回だけじゃないんだよ?」
「そりゃあ、何度も飛んでいるさ」
「そうだけど、わたしが、売り子さんが長居しているのを変に思ったのは、二球ファウルが飛んだからでしょ? 二回目の打球はともかく、一球目はどうだった?」
一球目……あまり憶えていない。正直に尋ねると、才華の笑顔はきょう一番になった。
「おじさんのところへ落ちて、大きく跳ねたんだよ」
大きくボールが跳ねる。そのとき、ボールはどうなるか。おじさんの近くから離れてしまうだろう。すると、ボールは違う人が手に入れる。
そうだ、まさか。
「おじさんがボールを取れなかった代わりに、男の子が取ったんだね?」
「正解」
「うん、納得したよ。おじさんが取れなかったボールを、男の子はプレゼントしてあげようと思ったんだね。
でも、それならどうして、男の子はボールを渡すべきおじさんをしっかりと見つけられたんだろう? 男の子の目からしたら、みんな似たような縦縞の恰好だろうし、座席も五、六列くらいは離れていたと思うよ。そんな状況じゃあ、他人に話しかけようとする勇気も湧かないと思うんだけれど」
ぼくの反論は的を射ていたはずだけれど、才華は首を振る。
「売り子さんが長居する意味を忘れているよ、弥」
「お姉さんは、おじさんと男の子との会話に参加しているんでしょう?」
「そうだよ。熱心に男の子がボールを渡そうとするから、間に入りたかったんだろうね。でも、それ以前に、売り子さんは、おじさんにビールを注文されたからそこにいたんだよ?」
「それは、男の子がおじさんにボールを渡そうと思うのと、どう関係があるの?」
才華は小首を傾げながら、人差し指を立てた。
「たとえば、弥が売り子さんにビールを注文するなら、どう言う?」
そんなことがどうしたのだろうと疑問に思ったが、素直に答える。
「お姉はん、ビールひとつおくんなはれ」
「見ている人が関西の人の確率は高いけれど、訛りは別にいいよ。標準語で」
「お姉さん、ビールひとつください」
「そうだけど、ちょっと工夫して。騒がしい中なんだし」
工夫として、手を挙げ、声を大きくして言ってみる。
「お姉さん! ビールひとつください!」
「やっぱりうるさい中だから、短いほうが伝わるんじゃない?」
「ビールひとつください!」
「もっと短く!」
「ビールください!」
「もっと!」
「ください!」
言い終えてから気が付いた。
そうか。
おじさんが『ください』と言ったから、男の子は決心したんだ。
男の子は、手を挙げたおじさんの『ください』のひと言のみを聞いて、キャッチしたばかりのボールのことを言っているのだと勘違いした。しかも、おじさんは同じ背番号『1』のユニフォームを着ている。鳥崎の打球を、鳥崎と同じ番号のユニフォームの人が欲しがっているとなれば、鳥崎のファンである男の子は、おじさんも鳥崎のファンだとこれまた勘違いをするだろう。だから、ボールを贈ろうと考えたのだ。
男の子の勘違いから生まれた優しさが、売り子さんを引き留め、試合とは一歩離れた安らぎを作り出していたのかもしれない。スタンドにいるみんなを、男の子は『同好の士』として受け止め、間近でタイガーズの試合を見る喜びを分かち合おうとしていたのだろう。
タイガーズは大量点差にも食らいついて反撃していた。
そして、打席は鳥崎。
渾身の一振りが、快音を響かせた。
「よし! 満塁ホームランや!」
ぼくの喜びように、おっかなびっくり才華が画面を見る。
「すごい、鳥崎選手。八対五ってことは、四点も返しちゃったんだ」
「いやあ、よく打ったよ。でも、もう終盤だから、あと三点は厳しいかな」
ソファに腰かけ直す。一気に四点返せるのに勝てないということが、一体どういうことなのか解せないのだろう、才華が首を傾げている。
それにしても、杉内先輩が言っていたとおりだ。
ぼくや男の子が鳥崎のホームランを望んでいた。そして打った。けれども、勝ちは遠い。鳥崎が満塁ホームランなんて滅多にない活躍を見せても、試合が終わってしまえば、それはただの追い上げとしか見てもらえない。四点を取った意義が、鳥崎が打ったことではなく、追い上げたことに置き換わってしまう。
正直少し寂しい。
もちろん、それがまた面白いところ。野球も将棋も、全体を見る余裕を持てば、個々の活躍を期待できる。ふたつの楽しみを見ることができる。
そんな面白さは、才華に伝わるだろうか。
「ふうん、勝てる見込みはないんだ……」
いまひとつ伝わっていないらしい。興味がそれほどないだけあって、ぼくのさっきの話を単純に捉えすぎているようだ。
「でも、逆転を望んで応援を続けるのがスポーツ観戦の常識さ。あと少し、タイガーズを応援しようじゃないの」
「いいんじゃない」
テレビの向こうで起こった少年の件で、すっかり才華は機嫌をよくしていた。試合も楽しそうに見られているようだ。
「どや? 野球も面白いやろ?」
「うん、ちょっとそう思ってきた。
ところで、いまグラウンドに気になる人がいたんだけど……――」
『テレビの向こうの少年は』完結です。推理はできましたか?
おまけ タイトル・名前の由来
・テレビの向こうの少年は:米澤穂信『心あたりのある者は』より
・杉内京太郎:杉下右京より