II 「たかがファウル」
序盤から大量ビハインド。きょうは地元球場で一方的にやられている。
ぼくには爪を噛む癖はないけれど、悔しくて爪を嚙みつつ、ソファから身を乗り出して画面を注視してしまう。今季初登板の先発投手が予想外に打ち込まれ、救援陣も消火しきれず。今年はなかなかに順調に勝ちを重ねてきたから、もどかしくてならない。
それでも、いまはチャンスを作っている。正直手に汗握る展開とは言えないけれど、ピンチヒッターがついこのあいだまでの四番打者となれば話は別だ。
「頼む! ホームランで三点返せ!」
しかし結果はゴロ。一点返すことはできたけれど、これではまだまだ。
ついつい、ため息が漏れる。
背後でも、ため息が漏れる。
ぼくの同居人が買い物から帰ってきたのだ。背後でドアを開けて呆れ顔。
「おかえり、才華。どうしたの? ため息なんて」
「いや、弥。もう少し静かにテレビ見られないのかなって。それに、またタイガーズ?」
「そら、選んで野球をつけとるんやから当然や。毎日でも見たいわ」
才華はさらに呆れる。
「あのさ、弥の両親って東京の人なんだよね? 訛るのって変じゃない?」
「ううん、向こうは標準語がカタコトの奴もおるような世界やったから、似非の大阪弁でもこのほうが浮かなくて正直楽なんよ。下手な大阪弁を使われるのが嫌な人もおったけど、ぼくの周りの連中はむしろ面白がってくれたから」
冷蔵庫に食品を移しながら、才華は「はいはい」と呆れきった返事をする。
「どうや? ちと羨ましいやろ?」
「全然」突き放すように言ってこちらに歩いてきて、ソファに座った。「まあ、少し見てみようかな。大阪府民が大好きなタイガーズの野球を」
「あれ? 珍しいね。才華、野球のルールは知らないんじゃなかったの?」
「知らないよ。だって興味ないんだもん」
どうでもいいと思ったらとことんどうでもいい、これも才華だ。
同居人のお姫様にとっては気分が悪いようなので、標準語で説明する。
「試合はまだ五回表、八対一。あと半分残っているけれど、消化試合、つまり捨て試合だろうね。いろんな選手を試したうえで、何点返せて、何点取られないかの勝負だよ」
「ふうん。トーナメントとかじゃないってことね」
「リーグ戦だよ。毎日のように見てるじゃない」
言い方が気に入らなかったのか、むすりと睨みつけてくる。『知らない』ことが嫌いなところを逆撫でしてしまったようだ。話を少し逸らして続ける。
「まあ、とにかくリーグ戦だから、きょう負けてもそれほど悲観しないよ。去年主力が怪我で引退したり、今年も四番打者が怪我でスタメンから落ちたりしているけど、今年のタイガーズは強いんだ。何せメジャー帰りのキャッチャーが守備の要になってピッチャーを支えているし、攻撃では新外国人がそれはもうたくさん打つしね。ホームランだって何人もの選手が絶賛量産中さ」
「へえ、そうなんだ」
ぼくの熱弁も適当な返事をされる。才華にはやはり興味がなさそうだ。隣に座ってまで見ているのだから、ぼくを落胆させないでほしい。しばらくは黙って観戦していた。
しかし才華にも次第に興味が芽生えたのか、小さく頷いたり首を傾げたりしながら見るようになりはじめた。
「ねえ、弥」
久しぶりに才華が話しかけてきた。試合は五回裏、タイガーズの攻撃中だ。
「さっきからさ、打っても試合が進まないときがあるけど、何?」
「うん? ああ、ファウルのことだね。守備をする人たちは、流石にグラウンドを全部守れるわけじゃないでしょ? だから、決められた範囲の外に打ってもそれはノーカウントになるんだ」
「ふうん、なるほどね」
本当はストライクになるけれど、才華に何かを教えるのはちょっと怖い。語彙の指摘をされたり機嫌を悪くされたりしそうだ。
ちょうどテレビ画面の中で、タイガーズの三番打者の背番号1、鳥崎が一塁側スタンド方向へファウルの打球を飛ばした。ふわりと上がったボールがそのままスタンドの真ん中の方へ飛び、観客の何人かが手を伸ばすも、大きく跳ねて前列の方へ消えて行った。
「打ってくれないかなあ……」
次の投球は、溜めに溜めた渾身の一球だった。それでも打球は同じ所へのファウル。その数秒間、才華は熱心に画面を注目していた。
「どうしたの才華? たかがファウルが、何か気になった?」
と言って勘付いた。そうだよ、才華はきっとまた『気になった』んだよ。
「弥。いまの見た?」
「鳥崎のファウルボールだね。……よし、ボールだ。よく見たぞ」
才華が眉間に皺を寄せる。
「ちゃんと聞いてよ、弥。いまね、二球目のファウルのとき、スタンドの同じ所にビール売りの女の人がいたの。二球もファウルになって、どうして同じ所にいたのかな? 注文があったにしても、ちょっと長いと思うの。それに、何か小さな男の子を気にしていたようにも見えたけれど……」
「迷子の子じゃない? お姉さんが相手をしているんでしょ」
「球場に来て、五、六歳の男の子をひとりにするかな? 自分でふらふらするような歳でもないと思うけれど」
「ふうん……」
正直それどころではない。いままさに、ピッチャーが腕を振り上げ――
「弥、ちょっと考えてよ。すごく気に――」
「ああ! ショートゴロかいな!」