I 「期待しても」
...Why done it?
ぱちん。
またもや部室にたったひとりだった杉内先輩相手に、将棋を指していた。戦況はまだまだ序盤、駒の奪い合いも始まっていない。それでも杉内先輩は、すでにがっちりと守りを固めていた。ぼくの側はまだ方向性が定まっていない。
「なるほどねえ、久米くんは、どうやら居飛車が好きで」
挑発かと思って警戒した。確かにぼくは序盤から飛車を動かすのは好きではないから、居飛車が好きといえばそうかもしれない。
すると、杉内先輩は付け足す。
「いやいや、別に挑発ではないよ。単に、興味があっただけ。僕は迷うとすぐに振り飛車にしてしまうから」
む、『迷うと』だって? きょうも杉内先輩の飛車は遊撃隊として活動中だ。なんだか、ぼくにも勝機がありそうな気がしてきた。
「どうして飛車を動かすのが好きなんですか?」
「どうしてだろうねえ。まあ、僕がいままでそれで勝ってきたから、自然と選んでしまうのかなあ」
そう言って、先輩は戦況と全く関係のない歩を動かした。眼鏡の奥の眼はまだ穏やかだ、きっと勝負が動きはじめるのを待っているのだ。まだぼくから仕掛けてはいけない。いま仕掛ければたちまち包囲されて撃滅される。
それはそれとして、会話を続ける。集中力を持続させるのには邪魔な会話だけれど、返事できずに余裕のない姿は見せたくない。
「勝ってきた、というのは先輩たちにですか?」
「そうだねえ。みんな、パソコン部、ゲーム部の代わりにしていたところがある。自分で言うのは何だけれど、僕が勝つのも、当然と言えば当然だったかもしれないねえ」
「ははあ、幽霊部員になるわけだ」
ぼくの一手は待ちの一手。粘って粘って、それからだ。
「先輩はどちらかというと、待って戦うほうですから、将棋の知識が少ない人には難しい相手だったんでしょうね」
「ふふん」先輩は鼻で笑いながら、まだ待ちの手を指す。「とすると、久米くんには心得があるということだねえ。しっかりと我慢している戦い。どうりで戦いにくい」
「お褒めに預かり光栄です」
少しだけ攻めて、相手部隊の先頭にちょっかいをかける。戦況に大きな変化はない程度の攻撃、これを重ねればいつしかぼくが優位に立てるはずだ。
杉内先輩の眼光が次第に鋭くなっていく。
「なら、久米くんも待つほうか」
「そうですね。野球なんかを見ていても、傍から見たら地味な選手ばかり応援しますね。もちろん、ベテランが頑張るのも好きですが」
「ほほう、野球。あれはチームプレイ、期待の選手が頑張るのは嬉しくても、チームが勝てないと……無意味に思われてしまう」
かちん。ぼくの挑発から逃げる手だ。ここが勝負と見た、深追いする。
「そうですね。誰かを期待しても、その選手の活躍とチームの勝利は関係がないときもありますから」
「僕の言うことを、よく理解しているねえ…………ただ、口だけは、といったところ」
ぱちん。
気が付いたときには、ぼくの侍大将、飛車が首を撥ねられていた。
「え? 一体何が? 角道は閉じていたのに……そうか、桂馬か」
「気付いたかい? 桂馬を見逃したね。大駒以外にも、飛び道具には、常に警戒を解いてはいけないよ」
「…………」
やられた。もちろん、『待った』なんて選択肢にない。攻撃の先駆けを失おうと、早々に諦めず戦うのが将棋の美学、負けるときにこそ潔く、だ。
攻めの中心を二枚の銀と角にシフトすべく、まず銀を動かした。
「飛車を失っても、他の駒たちが集まれば、ともすると飛車より強い。それでこそ将棋。それでこそチームプレイだねえ」
「おかげで、勝負が面白くなりました」
「ふふん」余裕の笑みを浮かべて杉内先輩は再び戦況を窺う手を指し始めた。「なかなかの余裕、殊勝なこと。ただ、ひとつアドバイスするなら、久米くんは駒に期待をしすぎて空回りをしがち。温存のしすぎは無論、自滅になる。期待と勝負は無関係だと、さっき話したばかりじゃないかあ」
期待のしすぎは自滅、期待と勝利は無関係。
飛車の出撃に備えすぎて、かえって飛車が丸腰になっていた、ということか。ぼくが飛車に過度な期待をかけ、飛車のために指していた。おかげで勝利が遠のいた。まさに杉内先輩の言うとおり。将棋の勝負において無駄にしていい駒などない、墓穴を掘る手に気が付けないとまずいね。
まだまだ角と銀で攻めて行かなくては。一度大駒を奪われたからには、守っている手数が惜しい。杉内先輩もいまこそ攻めの好機と見ているはずだ。ぼくが先に攻め込めば、体勢は立て直せるはず。
それはそれとして、正直気に入らないことがひとつ。
「先輩。いまの話は、ひょっとしてぼくが待つ手を指すように誘導するための話ですか?」
「ふふん」
杉内先輩は、不敵に笑う。
やっぱりこの人、油断ならない。さっきぼくの手に戸惑っているようなことを言っていたけれど、どれもこれも口から出まかせ。騙されるつもりはないと思いながらも、いつの間にか流されてしまっていたか。
「久米くんも学習しているんだろうけれど、意識はできていないねえ。ほら、また無駄な期待をしていたようだあ」
杉内先輩の一手。
今度はぼくの角行が討死した。