I 「残念だったな」
...How done it?
『天才』ともてはやされたぼくはいま、ひどく後悔している。
この二字熟語はとても危険だ。安易に使ってはいけない。おかげさまでぼくは勉学において天狗となり、温室育ちをしてしまった。
温室育ちが祟って、高校受験という戦争に苦戦している。
無謀にも、『ここに行けば名門大学にも行ける、就職だって向こうから欲しいと言われるレベル』の高校を上から順に抜粋。受験案内を通販カタログの如く斜め読みして、ろくに見学もせず受験を迎えてしまった。地元大阪で三校、お隣兵庫県で一校、さらに遠征して東京都で一校の全部で五校。すでに兵庫、大阪のそれぞれ一校は不合格となった。大怪我である。
大阪の滑り止め一校は、かろうじて合格。
残る二校の結果発表はきょう。そのうち片方、東京の名門校である天保大学附属中学・高等学校の高校キャンパスにいる。
二校ともダメだったらもう後がない。天才が地元の中堅校に入学するとなったら、周りにどんな後ろ指を指されることか。いや、すでに二校で敗戦を喫している。後ろ指はもう立てられていることだろう。公立中学期待の星は、見事に空中分解してしまったのさ。
さて、ぼくの番号はあるだろうか?
『ありますように』や『あるに決まっている』ではなく『あるだろうか』と探している時点で、ぼくも落ちぶれたものだ。いや、レベルで言えばこの高校が最も上だから、それくらいでもいいよね。正直な話。
ええと、あのあたりか。
わお。合格だ。
反省が必要だから、驚きはしてもあまり喜べない。それにまだ大阪の一校が残っている。大阪府内で最もレベルの高いそちらが合格なら、大阪を離れる必要もないから、もっと嬉しい。
携帯電話でお父さんに電話を掛ける。大阪のほうは、本人が出向かなくてもいい決まりだから、両親に任せてきたのだ。
意外と遅く、六コール目で繫がった。
「あ、お父さん?」
『おお、弥』
軽快な声だ。ひょっとして?
『残念だったな』
これまた軽快な声だ。そうか、不合格か。
って、えらいこった! 落ちてしもた!
……こほん。おっと、ぼくは騒がないぞ。何があっても怒らないし、発狂しないぞ。東京都出身の両親が標準語を喋るから、大阪弁だって口にしないんだ。
「本当に? 不合格だって?」
『ああ。噓だったら余計に損だろうが』
ごもっともです、父上。
「ええと、お父さん。東京は合格だったんだけど」
『そうか、それは良かったな。なら、そこで決まりだ』
お父さんのテンポのいい口調は不変だ。
「大阪で一校合格してるよね。あそこじゃダメかな?」
ここまで来て弱音を吐くのもみっともないが、東京の『超』がつく名門・天保高校で生き残る自信など、すっかり削がれてしまったのだ。
『何を言っているんだ、弥。東京はおろか日本でもびっくりするような名門校だぞ。入らないでどうする』
「でも、地元じゃないし」
『それは下宿先のアテがあるから大丈夫だと言っているだろ。ほら、手続きしたら、挨拶して帰って来い。新幹線、乗り間違えるなよ』
はっはっは、と豪快かつ痛快に笑って電話は切れた。東京都民とはこうも大雑把な人種なのか? それとも府民に毒されたのか? もう知らん。
自棄になるのは見苦しいが、もう東京で暮らすしかないだろう。手続きをさっさと済ませて、下宿させてもらう親戚に挨拶をして、早いこと帰ろう。
手続きをする事務室へ向かうべく体の向きを変えると、ふと少女の姿が目に入る。
ウェーブしたセミロングの黒髪を持つその女の子は、儚げな表情で掲示板を見ている。彼女の制服は、この学校の中等部の制服だ。
可愛い子だな――――おっと、軟派な発想はよくないか。
どうしてこんなところにいるのだろう? 受験日は関係者以外構内立ち入り禁止のはず。忘れ物かな?
まあ、正直なところ、とりあえずぼくには関係ないね。さ、急いで挨拶に行かないと。遅くなったら失礼だ。
親戚の家は天保高校から歩いて十分ほどだ。携帯電話に地図を表示させ、住宅街を歩く。
でも、十分だなんて、そんなの嘘だ。歩けば十五分かかるだろう。東京の人はせっかちだから、この差異には腹を立てるだろうね。まあ、住宅街をGPSに案内させようってほうが無謀だけれど。
しかし東京といえど、イメージは結構違う。滅茶苦茶高いビルが乱立していたり、電車の中がえらく静かだったりしたのはイメージ通りだったさ。新大阪の街でも敵わないと思ったよ。けれども、ここ、ど田舎じゃないか。そこかしこが畑で、ガードレールは錆びている。何だか歴史のありそうな立派な家なんかもある。これじゃあ地元の淀川のほうがよっぽど都会かもしれない。
目的地である親戚の家は、えんじ色の屋根だと言われている。そんな家結構あるよ?
仕方なく、電信柱と表札で住所を確認しつつ、住宅街をうろうろ。住宅街だから携帯の地図検索ではわけがわからなかった。目安の時間より大きく遅れ、三十分は徘徊したころ、ようやく目的の表札、『江川』さんを発見。
緊張のせいでかすかに震える指でインターホンを押す。親戚といえども関わりの薄い親戚だから、他人の家に上がるに等しいのだ。
中からおばさんが出てくる。いや、ややこしいけれど、親のきょうだいのおばさんじゃないんだよ?
「はい……ああ、弥くん? はじめまして」
「そうです、久米弥です。はじめまして」
おっとりした口調の、のんびりした人だった。大阪のおばちゃんたちはパワフルを絵に描いたような人たちだったから、調子狂うな。
疲れているでしょう? と家に上げてもらった。仏壇を見つけたので手を合わせると、大いに褒めてくれた。
お茶を頂きながら世間話をしたあと、家を案内してもらった。二階の南側の部屋を見せてくれて、
「ここが弥くんの部屋になる予定の部屋だよ。また来るときまでには片付けておくから」
「ああ、すみません。わざわざ」
「いいえ。東京まで来るんだから、勉強、頑張ってもらわないと」
南向きの窓もあって良い感じの部屋だった。居間の真上らしい。
「ところで」
「はい?」
「隣の部屋、誰か使っているんですか? 扉が開いていますけど」
指した先を見るまでもなく、おばさんは即答した。
「ああ、聞いてなかったのね。うちね、わたしの姪っ子にもここに下宿しているの。弥くんと同じ天保、同じ一年生だよ」
へえ、そうなんだ。
……はあ? どういうことやねん?
「本当ですか? 女の子と暮らすんですか? しかも同級生の」
シチュエーションとしては嬉しいけれど、素直に喜ぶとぼくの人間性が疑われしまう。建前というやつだね。
「心配しなくても平気だよ。そんなにませた子じゃないから」
いや、それって本当に平気なの? ああ、でも確かにその子が許可しなかったらぼくはここに来られないわけだ。平気……なんだろうね。
開けっ放しにしなってたのね、とおばさんはそのドアを閉めた。
「あの、一緒に住むことのになるのは、どういう女の子なんですか? 正直な話、気になるので」
階段を降りながら、おばさんは笑う。
「これが変わった子でね。家入才華って聞いて、憶えてる?」
いえいり、さいか。知らない。
「いいえ」
「忘れててもしょうがないか。二歳か三歳のころに何度か会ったくらいかもね。どういう親戚か、知ってる?」
「いいえ」正直、くどくど訊いてないで、さっさとひと息に話してほしい。
「弥くんのはとこだよ。弥くんおばあさんに、弟がいるのを知ってる?」
「はい」じれったいなあ。
「当時は働き手が必要で、養子にもらった人なんだよ。で、その人の孫が、才華」
「はあ……」
ん? つまり、親戚ではあっても、同じ血は流れていないのか。
そう考えると緊張してきた。あかん。高校生が異郷の地で、血が繫がっているようで繫がっていない女の子と同じ屋根の下……そりゃあかん。
「まあ、そんなに心配しないで。いまは出掛けちゃっているけど、次来るときにはたぶん会えるから。才華のことだし大丈夫」
「はあ……」
ぼくが大丈夫じゃないんだってば。
ああ、ぼくはどんな青春を東京で過ごすのだろう? そのスタートはどんなものだろう? 桜の咲く街できょろきょろと戸惑い、えらく難しい勉学に悩み、新たな友人を探し求め、女の子と同居…………変だね。不安と期待の入り混じった爽やかなぼくの青春が、とても不純に聞こえる。
いきなりつまずいたスタートだ。受験に敗れたと思ったら、かえってとんでもない名門校に入学。東京で下宿生活かと思ったら、偶然にも同い年の女の子と同居。どうしてこうも、不安要素に望みもしない嬉しいおまけがついて来るんだろう。複雑に嬉しくて、複雑に悲しいな。
こんなラッキーなのかアンラッキーなのか判らないぼくの青春は、どうなっちゃうのかな? 黒歴史になるか、薔薇色の思い出になるか――――いや、もっと曖昧で、色味のない感じだろうね。
ピンク色なんかがしっくりくる気がするよ。