第二章 其ノ壱
第二章
次の日の朝―――
仁は公園のベンチで目を覚ました。
全財産は二十円が袋の中に入っているだけで、旅館やホテルなどに泊まるなどという贅沢な手段はなかった。誰かの家に泊まることができればいいのだが、あいにく素性の知れない人物を家に入れるほど、日本人はお人好しではない。第一、角を見られるわけにはいかないのだ。このあたりの街には、知り合いの妖怪もいない。
結局、公園が一番いい場所だった。金もいらなければ、夜は人も少ない。ホームレスが三、四人ほどいるのが気になったが、わざわざ寝ている隙を狙って、人の帽子を勝手に取ってしまうような人間はいないだろう。
「やっと起きたか、仁。あんたが早く起きてくれないと、俺が暇でしょうがないんだよ」
朝から悪態をついてくるのは、輪太郎だ。
仁の妖気によって存在している彼は、生き物ではない。そのため、寝ることもない。たしかに暇だろう。
太陽は東のほうに昇っていた。
本来ならば向かっているべきはずの方向を見て、輪太郎がため息をつく。
「で、どうしてまだこの街にいるんだよ。荷物は回収しただろ?」
「………」
仁は無言で明後日の方向を向く。
輪太郎が、正面に回りこんだ。
「仁?」
「ん、なんでござんすか?お輪」
とぼける仁。
輪太郎の頬が、ピクリと引きつった。
「……あのな、仁」
「忘れ物」
「は?」
仁の口から唐突につぶやかれた言葉に、輪太郎はわけがわからないという顔で聞き返した。
仁は続ける。
「この街に忘れ物をしたでござんす。しかも忘れられてしまった『物』が、拾った人間をいたく気に入ってしまったみたいで……。しばらくここにやっかいになることになりそうだと」
「ふうん」
それ以上は訊かない。
訊くのが面倒臭い。
仁が大きなあくびとともに、ぐっと伸びをした。
「さて、行くでござんすか」
「どこに?」
輪太郎が聞き返す。
仁は笑った。いますぐ鼻歌でも歌いだしそうだ。
今日の朝ごはんでも聞かれたような軽さで、仁が答えた。
「バイト探し」
輪太郎は、頭を抱えたくなった。
バイト探しに励む鬼なんて、威厳も何もあったものじゃない。
こんな人間を『鬼』にしてしまった前の『鬼』に軽い殺意すら覚えながら、輪太郎はそれにつきあわければならない自分に心の底から同情した。
「というより、当てはあるのか?」
「大丈夫でござんすよ。今時仕事なんか、その辺にごろごろして……」
「仁、今は不景気だぞ」
「……」
「それに、仕事がごろごろしてるんだったら、この公園にホームレスはいない」
「………」
仁はそのまま黙り込む。
黙りこむ。
輪太郎がため息をつく。
ふいに仁が顔を上げた。
「……そうでござんす」
「え?」
仁の目線は、輪太郎のほうを向いていない。どこか虚空を見つめていた。
「おい、仁?」
「……そうでござんした……その手があった…そう……そうだ……」
ぶつぶつとつぶやく仁は、輪太郎の声など聞いていない。
ついに壊れたかな、と冷静に輪太郎は考えた。
「そうだ!」
そう言って伸ばした手が、輪太郎をつかんだ。
「むぎゅう」
「そうでござんすよ、お輪!あるじゃないでござんすか、仕事!」
そのままその体を揺さぶる。
輪太郎の頭に、走馬灯が流れ始めた。
「嬉しいのは見てわかりますけど、その子、死んじゃいそうですよ。『仁鬼』さん」
突然かけられた声に、仁の動きが止まった。
「……」
ゆっくりと、緩慢な動作で振り返る。
輪太郎も仁の手の中からなんとか抜け出すと、声のした方向を見た。
そこにいたのは、ひどく美しい女性だった。
背中まで届くウェーブのかかった茶色い髪が、さらさらと風になびく。夏だというのにワンピースから覗く肌は雪のように白く、太陽の下には少し不釣合いだった。
帽子を目深にかぶったその下で、口元が笑みの形を作る。
「こんにちは」
「……こんにち…は」
仁は戸惑いがちにも挨拶を返した。
こちらの名前を知っていた。ただ通りがかった通行人というわけでもないだろう。
仁の警戒心が増す。
そんな仁の気持ちなど知るはずもなく、彼女はなんのためらいもしないで仁の傍まで歩いてきた。
警戒心丸出しの仁を見て、不快そうな顔をするでもなく、にっこりと微笑みかける。
「こんにちは。わたしの名前は、上風さやのです」
名乗った。
なんのためらいもなく、名乗った。
警戒心とか注意深さとか、そういうものがないのか、こいつは。
隣を見る。
輪太郎も、仁と全く同じ表情をしていた。
そんな二人を見て、さやのが笑う。
楽しそうに笑う。
一―――公園内を、仁のものとは違う別の妖気が満たした。
「なッ」
顔を上げる。
目の前にさやのがいた。やはり楽しそうに笑っている。
小物ではない。妖気を制御できている。
「何者でござんすか」
仁が尋ねる。
「場所を変えましょうか」
さやのが目だけで笑った。
***
さきほどから一度もこちらを見ずに歩いていくさやのに、仁はため息をついた。
仁とさやのとの間はかなり空いている。さやのが早足というわけではない。ただ単に仁がゆっくりと歩いているのだ。これではいつでも仁は逃げ出せてしまう。
仁が逃げ出しても捕まえられるほどの自信と強さがあるのだろうか。線の細い彼女からは、到底想像できない。
しかし見た目だけでは判断できないのもまた現実だ。仁に気が付かれないように妖気を公園内に満たすのは相当の精神力がいるし、彼女は仁が『鬼』であることを知っていた。
いまのところさやのは挑発してきただけで敵意は感じられないし、仁も逃げ出す気はなかった。というより、逃げ出すのが面倒臭かった。
「おい、大丈夫か?」
輪太郎が小声で訊いてくる。仁は肩をすくめた。
「どうでござんすかね」
「人事だな」
「現実逃避でござんす」
それもどうかと思うが。
ふいに、前を歩いていたさやのが立ち止まった。
仁はすぐには立ち止まらず、さやのの横に並んだ。
さやのがこちらを見る。
「『仁鬼』さんと呼ばせてもらっていいでしょうか」
「いいでござんすよ」
「じゃあ、仁さんと呼ばせていただきます」
「……」
確認した意味はあったのか。
仁は心の中で突っ込む。
さやのが再び歩き出した。
仁はそれについていく。今度は距離を開けない。開ける必要がないと思ったのだ。それほどまでにさやのからは敵意とか警戒心とかそういった感情が見受けられなかった。
そんな彼を、さやのは興味深そうに見ていた。
仁は気付かないふりを決め込んだ。
無言の状態が続く。
しかしその目がだんだんこちらを探るような気配になっていくので、仁は居心地が悪くなってさやのを見た。
「……なんでござんすか」
「……少し身長が高いですね」
その口からつぶやかれた言葉に、仁は思わず聞き返す。
「なにがござんすか?」
「約三百年前に生まれた人にしては、身長が高いなと思って。今では普通くらいですね。昔はいじめられませんでしたか?」
「……」
仁は無言でさやのから目を逸らす。別にさやのが言ったことが正しかったわけではない。間違っていたわけでもない。ただ、そのどこか日本人離れした外見に、全てを見透かされているような気がしたのだ。
そのせいで、気付くのが遅れた。
「―――おい」
ささやいたのは輪太郎だった。
仁の耳元で、いつにもなく緊張感の増した声で。
「ここ、『門』の道じゃないか」
「え?」
仁は立ち止まる。妖気が鼻先をくすぐった。
『門』の道。
それは、うつつと浮世というふたつの幻をつなぐ『門』につながる道。墓場や神社、古井戸などが、それに挙げられる。普通は妖怪が好き勝手に『門』を通って悪さをしないように、境目には必ず関所のような『門』がつけられていて、各門には門番がひとりずつつけられている。
しかし、たまにそういった門番の目をかいくぐって小さな『門』を見つけ、使う輩がいるのだ。
仁は唾を飲み込んだ。
この道の先にある『門』は、きっとそういう類のものなのだろう。門番に管理されている『門』から、これほどの妖気は臭わない。
仁が立ち止まったのに合わせて、さやのも足を止めた。
こちらを睨む仁に向かって、微笑みを浮かべる。
「そんなに怖い顔しないでください」
「何者でござんすか、さやの」
妖怪の中では、仁のことを良く思っている者のほうが少ない。
仁は、妖怪でありながら、『門』をくぐったことが一度もなかった。妖界に行ったことが一度もなかった。
さやのからは、相変わらず敵意が全く感じられない。
気が付くと、周りは妖怪に囲まれていた。
「チッ」
軽く舌打ちしてみる。目で数を数える。ざっと二十人弱。倒せるか。
さやのの目的はわからない。だがひとつだけわかることがある。
どんな目的であれ―――たとえそれに、正当な理由があったとしても。
彼女は仁に害をなそうとしている。つまり。
「敵でござんす」
仁は普段人には見せない、狡猾な笑みを浮かべた。
***
「おーおー、始まった」
その姿を遠くから見る者があった。
片手には望遠鏡をかまえ、もう片方は、木の枝を支えている。
歳は―――見た目だけではわからない。
二十代にも見えるが、好奇心旺盛に輝くその瞳は、十代のそれだった。しかし、どこか落ち着いたようなその仕草は、仙人のような雰囲気さえ醸し出している。
そしてその頭には、二本の角。
ひゅう、と口笛を吹く。仁はもうすでに五人ばかり倒し終えたところだった。
ふいに、上を見上げたさやのと目が合った。向こうからこちらは見えるはずもないが、彼女はまるでこちらが見えているかのように笑う。
昔はすべてを見透かされているような気分でいい感じはしなかったが、今はもう慣れた。
彼は望遠鏡をおろした。
仁がこの程度でくたばるとは思わない。
これはただの余興だ。
―――俺はただ、あいつの望みさえ叶えれば。
それでいい。
それでいいんだ。
それだけが、彼の望みだった。
***
十人目を倒したところで、仁は息を吐き出した。
―――あと六人。
さやのは先ほどから傍観を決め込んでいて、まったく動かない。
仁は息を整えてから、飛び掛ってきた妖怪を軽くあしらうと、後ろから手を振り上げた妖怪をつかんでもうひとりの方へ投げた。
―――あと四人。
「こンの……!」
一つ目の妖怪が、地面に手を叩き付けた。瞬間、そこから地面が割れる。
「うわ」
仁が緊張感のない声でつぶやき、ひらりと飛びのいた。
余裕を持ってかわされた地面がさらに割れ、仁を追う。斧を振り上げた妖怪が、その後ろでにやりと笑った。
「仁!」
「あらよっと」
くるりと後ろを振り向いた仁が、白刃取りの要領で斧を受け止めた。そのまま斧ごと割れていた地面に叩きつける。
仁は木の枝に飛び乗った。その肩に輪太郎が飛び乗る。
「やればできるじゃねえか」
「……偉そうに。よく言うでござんすよ」
―――あと三人。
飛び乗っていた木が傾いた。一つ目の妖怪が、仁の下の地面を割ったのだ。
「そんなことしても、被害が大きくなるだけでござんすのに」
仁はため息交じりにつぶやくと、木から飛び降りた。そのまま、逃げ出そうとしていた妖怪を踏みつける。その背後で、木が大きな音を立てて倒れた。
地面が揺れる。
散々地面を割ったせいで、土埃がすごい。
先がよく見えない。
「お輪、逃げるでござんすよ」
仁はつぶやいた。
これだけ派手にやったのだ。いい加減、あちら側の世界も気が付くだろう。
じきに視界も晴れる。
仁は来た道を駆け足で戻った。