第一章 其ノ四
夜―――。
時刻は深夜一時。
誰もが寝静まったころ、仁と輪太郎は焼肉屋えらいこっちゃ(店名)に忍び込んだ。
「やっぱり、お輪に行ってほしいでござんす。小さいし、姿も見えないし」
「だめだ」
輪太郎はきっぱり断った。
「そんなことじゃ、あんたは絶対反省しない。それに、伊織には俺の姿が見えるから、俺が行ってもどうせ同じだ」
輪太郎が、仁をまっすぐに見つめる。
「行け、あんたが。ひとりで」
「お輪も一緒でござんすっ」
仁はそう言うなり、輪太郎を捕まえて服のポケットに突っ込んだ。
「ぐふっ、おいテメェ何を」
「静かにッ」
仁の鋭い声に、輪太郎は黙った。
シーンと静まり返った店の中に、かすかな足音が聞こえた。
サッと物陰に隠れる仁。
カツン、カツン―――。
息を殺す仁のすぐ横を、拓正が歩いていった。仁に気付く素振りはない。
足音が聞こえなくなると、仁は溜まっていた息を吐き出した。
今のが伊織でなくて良かったと思う。
もし伊織だったら、妖の気を感知してすぐに自分達の存在が気付かれてしまう。気を抑えることもできないことはないのだが、集中力がいるので仁は苦手だ。
息を殺して、ゆっくりと立ち上がる。
―――自分は忘れ物を取りに来ただけだ。何も悪いことなどしていない。
この時点で、不法侵入という立派な犯罪をしているという事実に、仁は気付かない。
なるべく音がしないように歩きながら、仁は進む。
やがて、目の前に階段が現れた。
ごくん。
唾を飲み込んだ音が、聞こえた。
最初の一歩を踏み出す。
ギィ。
「!」
死ぬかと思った。
仁は大きく息を吐き、もう一段上がる。
今度は音がしなかった。
一歩一歩上がっていき、二階へ辿り着いた。
疲労感溢れるため息とともに、仁は輪太郎を見た。
「……いいでござんすよね。お輪は足音がしなくて」
「無駄口叩くな。伊織が起きたらどうするんだ」
肩をすくめる。
板張りの廊下を慎重に進みながら、仁は尋ねた。
「なあ、お輪」
「なんだ?」
「あの伊織って子、昔、どこかで見なかったでござんすか?」
仁が泊まっていた部屋の前まで来た。
「さあ、俺は知らないけど」
輪太郎が首をかしげる。
「見間違いじゃないのか?」
「そうかもしれないでござんすが……」
仁は扉に手をかけた。ゆっくりと開ける。
そっと、中を覗き込んだ。
室内をじっくり見回してから、輪太郎を手招きする。
部屋の中に、入る。
「……あれ」
中に入って―――
仁は思わず、声をもらした。
何も無かった。部屋の中に。
「………」
仁は絶句した。
部屋の中は、惚れ惚れするくらい綺麗に片付けられている。
呆然とする仁の肩を、輪太郎がぽんっと叩いた。
「まあ、ドンマイだな」
「……」
仁はがっくりと肩を落とす。
輪太郎が室内を飛びまわりながら、「あっ」と声を上げた。
「これ、仁のじゃないか」
「え?」
ぱっと顔を上げる。タンスの上に輪太郎がいた。
「どれでござんすか」
「これこれ」
輪太郎がタンスの上から、茶色に色あせした袋包みを引っ張り出した。
下で仁が受け取る。
「ああ、確かにオレのでござんす」
中身を確かめる。全財産である二十円と、何に使うのかわからない藁人形、それに布に包まれた小刀が入っていた。
「うん、何もなくなってない」
仁は満足げにうなずくと、袋包みを肩に背負った。
「拓正が起きているようだし、長居は無用でござんす。行こう、お輪」
窓からほのかに照らす月明かりが、仁の瞳を捉える。
森の奥にたたずむ大樹のような落ち着いたそれを見て、輪太郎はふっと笑った。
ああ、やはり彼は、『鬼』だ。
輪太郎は、仁の表情の小さな変化に、気付いていない。
仁も気付かれることのないように、輪太郎から顔を逸らす。
仁は窓を開けると、ひらりと夜空へ舞った。
輪太郎は律儀に窓を閉めてから、仁の後に続く。
奥ゆかしくそこにある月は、半月だった。
カツン、カツン―――。
夜中にふと目が覚めて外に出た拓正は、足音を聞いた。
気配をまったく殺そうともせず、暗闇に怯えることもなく。
その足音は、ただ歩みを進める。
カツン、カツン―――。
気のせいだろうか。いや、気のせいではない。
足音は、大きくなっていく。
ぴたり、と足音が止まった。
拓正の、すぐ後ろで。
すぐさま振り返ろうとしたが、スッとその目を塞がれた。
「……仁?」
反射的に手が石の入ったポケットを守った。
ふっと笑う気配。
吐息が耳を撫でた。
「残念だな、お前のこと、気に入ったみたいだ」
なにが、とは言わなかった。
拓正も、訊かなかった。
訊けるような余裕はなかった。
「拾ってしまったのも、オレが忘れていったのも、なにかの縁かもしれないが」
話し方が違う。
しかしそれは、確かに仁の声だった。
拓正は呻く。
「仁、」
そのとき、遠くで仁を呼ぶ声。
「―――輪太郎だ」
仁は小さくため息をもらした。
「お前と会っているのを見られたら、また小言を言われるかな。あいつは小姑みたいにうるさい奴だから」
手が離れた。
強い風がふく。
風の音に混ざって、声が聞こえる。
「―――じゃあな。くれぐれも飲み込まれるなよ」
「え?」
拓正は振り返った。
しかしそこに仁の姿はなく、薄暗い街灯が、ほのかに街を照らしているだけだった。