第一章 其ノ参
右隣の和室では、仁が寝ている。
左隣の物置部屋では、平段堂拓正が寝ている。
そしてこの部屋には、自分ひとりだけ―――。
伊織はごろんと寝返りを打った。
「………」
眠れない。眠りたくない。
こんな夜なんかは、眠りが怖い夢をつれてくるから。
赤い色。
始めはそれを布だと思った。
真っ赤な、真っ赤な布。
綺麗だけど、どこか毒々しいその赤は。
血だった。
目の前で、倒れた人の。
頭の奥で、黒い何かが蠢く感じがした。
意識が、後ろへ引っ張られる。
視界が、くすんだ色をしていた。
「……なんで……うそや……うそやうそやうそや………うそや」
自分はただ現実を認めずに泣くばかりで。
「なんで……そんな」
「怖いか?娘」
頭上から、声が降ってきた。
「それとも復讐したいか?その男の」
「……復讐」
それもいいかもしれない。そして、復讐を達成するとともに死ぬのだ。もうこの世界にいいことなんて何ひとつない。
ふらり、と立ち上がろうとする。
しかしそれを止めたのは、自分の大切な人を殺したその人だった。
「今はやめとけ。今のあんたじゃ無駄死にがオチだ。それともなにか?そんなに早くしにたいのか?それがその男の望んだことか?」
親のような存在。
それが自分にとって、今倒れている男の価値だった。
自分のことを一番よくわかってくれた人。
でもその人はもういない。
死にたい。でも、死にたくない。
目の前に立つ男は、ため息とついた。
「やめとけやめとけ。あんたまだガキじゃねえか。死んだって何ひとついいことないぜ?そうだな、生きる目標がないってんなら、俺がくれてやるよ」
彼は、にやりと嗤った。
「復讐したいんなら、今はだめだ。何十年後でもいいさ。俺を探しに来い。もちろんあんたが強くなったらな」
彼は、自らを『鬼』と呼んだ。
***
「―――ッ」
唐突に目が覚めた。
東の空はまだ薄暗い。時計を見る。四時五十七分。
「……あほらし」
ぽてん、と頭の上に何かが落ちてきた。
手紙だ。かなり古いものだろう。汚い字で、何か書いてある。「い、お、り、へ」
声に出して読んでみた。
「げ、ん、き、だ、し、て」
そしてその下。
「た、く、ま、さ、よ、り」
読んでから恥ずかしくなった。いったい何年前の物だろう。よくこんなものを取っておいたと思う。
そして、わざわざ取っておいた理由を思い出して、伊織はさらに恥ずかしくなった。
「……ああ、そうやったな。これ、あの人が死んだときに平段堂拓正からもろた手紙やったわ」
あのときは本当にショックで。
あのあとその場所で彼の死体は見つからなかった。だから彼は、いまでも行方不明者として登録されている。
彼の弟―――自分の父は、いまだ彼が死んだことを信じていない。
自分も―――信じたくは無い。
「ほんま、あほらしいわ」
いまさら二度寝する気にはなれなかった。
「平段堂拓正起こしに行ったろ」
伊織はのそのそと布団から這い出した。
「ン…なんだよ……まだ三時じゃん」
拓正の眠たそうな声。
「知るかボケ。ほら、はよ起きへんと給料減らすで?」
拓正がガバッと起き上がる。起きたついでに布団をたたみ、さらには寝癖まで整えた。
この不景気の中、減給の力はすごいと思う。
「……」
そんな拓正をジトッとした目で見る伊織。
「どうでもええけど平段堂拓正」
「なに?」
「顔に枕のアトついてるで。さっきまで幸せそうな顔して寝てた証拠やな」
「………!」
拓正は赤面して顔を隠す。
「うそや、うそ。あ、でもさっきまで幸せそうな顔して寝てたのはホンマやな。寝てる時は可愛い顔してるやん、あんた」
うそ、ありえない。伊織に寝顔を見られた?
焦って彷徨った視線が、伊織と合う。
「あ」
思わず声を漏らしてしまった。
伊織は息を吐いて、拓正の横に座り込んだ。
「なあ、平段堂拓正」
「なに」
「うちのこと、どう思う?」
「どうって」
しばらく考えるような仕草を見せて、拓正は答える。
「変人」
「もう給料やらん」
「うそだろ?」
涙目の拓正。伊織は舌打ちをして、頭を拓正の肩に乗せた。
「伊織?」
「黙って」
拓正は黙った。
静かだ。今は夜中である。当たり前だ。静かに決まっている。
自分と伊織の呼吸の音だけが、小さく聞こえる。なんだか小さい頃みたいだった。小さい頃悪戯が見つかって押入れに隠れた時の感覚と似ている。
「平段堂拓正」
「ん?」
急に肩が軽くなった。伊織が頭をどけたのだ。
伊織はそのまま横になる。
「そこ、布団ひいてないけど」
「別に構わへん」
ぽつりと、伊織が言った。
「平段堂拓正は、約束守ってな」
「え?」
拓正は思わず訊き返す。
すぅ、と静かな寝息が聞こえた。
ふっと拓正は微笑み、その隣に寝転んだ。
なかなか眠れないと思っていたが、伊織の寝顔を眺めていたら、いつの間にか眠ってしまった。
***
トントントン、と聞こえてくる小気味のいい包丁の音。
窓から差し込んでくる日の光が眩しい。
伊織はがばっと跳ね起きた。
「何時や!」
時計は九時を指している。完全に寝過ごした。
チッと舌打ちして、伊織は部屋を飛び出す。
階段を駆け下り店に行くと、拓正が厨房に立っていた。
「あ、伊織。おはよ」
「平段堂拓正、なんで起こしてくれんかったんや!」
伊織は開口一番叫んだ。
包丁を持つ手を休めて、拓正が言う。
「いや、だって、伊織があまりにもぐっすり眠ってたから」
「寝過ごしたやないか!」
焼肉屋えらいこっちゃ(店名)では、伊織の提案でモーニングとランチを行っている。朝七時からの開店で、十一時まではモーニング、三時までランチ。その後五時まで店を閉めて、五時から夜の十一時まで店を開く。
朝の開店時間はとっくに過ぎている。
伊織は急いで自室に戻ると、寝巻きを脱ぎ捨て服に着替えた。台所の卓袱台の上に朝食が乗っていた。とっくの昔に冷めてしまっている。それを急いで口の中にかきこむと、伊織は店に続く階段を駆け下りた。
「平段堂拓正、うちのエプロンは?」
「え?厨房の冷蔵庫の横にあったけど」
「おおきに」
厨房に入ってエプロンをつけると、伊織は息を吐き出した。
今日も忙しくなるだろう。ありがたいことだ。それだけ儲かっている。
―――そういえば、仁、何してんやろ。
ふと気になった。台所には彼のぶんの朝食まで用意されていなかった。もう先に起きて、食べていったのだろうか。そもそも鬼―――いや、『鬼』は、何を食べるのだろう。
―――あいつ、自分で『鬼』やて言うとった。
夢の中に出てきた彼も、昨日出会ったばかりの仁も。
同一人物なのだろうか。それにしては全く似ていない気がする。でも妖怪なのだから、化けられるのかもしれない。
もし、おじさんを殺したのが、仁だとしたら。
―――うちは『鬼』を殺す。
うつむいたまま動かない伊織を、拓正はちらりと見た。
目が怖い。ああいう時は、大抵ろくなことを考えていない。
自分のことを実の娘のように可愛がっていた叔父が死んで、伊織は少し変わった。言い方は大げさだが、自分を犠牲にするような行動もしばしばある。その度に心配するこっちの身にもなってほしい。
伊織がこうでは、仁がこの家から出て行ったことは話さないほうがいいだろう。殺しに行くとか物騒なことを言われたら怖いから。
***
「仁、もういいだろう」
焼肉屋えらいこっちゃ(店名)の裏には公園がある。そこのベンチに座ったまま、頭を抱えて動かない仁に、輪太郎が痺れを切らせて声をかけた。
「確かにあそこはいい家だった。仁が『鬼』って知っても助けてくれたし、飯まで用意してもらった。でもな」
一拍置いてから、輪太郎は言った。
「あんたは、トラブルメーカーなんだよ。あんたがいるだけで、他の妖怪が寄ってくる。あの家に、これ以上迷惑掛けたいか?」
氷のように冷たい声だった。
『鬼』は、そこにいるだけで妖怪の恨みを買う。禁術を使って妖怪になった者を、本物は妖怪とは認めてくれない。
輪太郎の言葉に、うなだれながらも仁はうなずいた。
「……そうでござんすな」
角を隠すためにかぶった帽子は、彼の顔まで隠していて、表情はわからない。しかし、輪太郎には、仁が嗤っているように見えた。嘲笑っているのだ。自分自身を。
仁はゆっくりと立ち上がった。
「さて、行くでござんすか」
夏の日差しがまぶしい。これから他の町へ行くとしたら、熱中症に気をつけなければならないだろう。
わかっていたことだった。
自分がそこにいれば、迷惑がかかる。迷惑どころの騒ぎではない。下手をすれば、関わった人間の人生すら変えてしまうかもしれないのだ。
だから、関わらない。できるだけ関わらないほうがいい。人に関わったら、最後に傷つくのは、自分だから。
傷つくのが、怖いから。
大切な何かを守るため、自らが孤独を手にする。
それは宿命。
『鬼』の宿命。
そして彼は―――
―――『鬼』になった。
その日、仁と輪太郎は、街を離れた。
と、言いたいところだが。
次の日になっても、仁たちはまだ街にいた。
本当は今すぐにでもこの街を離れたかったのだが、しばらく歩いたところで重大なことを思い出してしまったのだ。
「どうした?」
急に足を止めた仁に向かって、輪太郎は尋ねた。
仁は引きつった笑みを浮かべ、振り返った。
「オレはどうして、あんなところで気絶なんかしてたんでござんすっけ」
「ん?」
眉をひそめながらも、輪太郎は答えた。
「そんなの、一ヶ月間何も食わなかったからだろ」
「なんで一ヶ月間、食べることを我慢してたんでござんすかね」
「金が無かったんだから、仕方ないだろ」
「あれから金は貯まったでござんすか?」
「………………」
長い沈黙が返ってきた。
次の契約者が現れるまで、基本的に『鬼』は死なない。
だから腹が減っても命に別状は無い。しかしそうかと言って、何も食べなくてもいいというわけではなかった。食べなくても死ぬことはないが、そのかわりあまり食べないと、元気が無くなるのだ。
ぎゅるるるるるる………。
仁の腹の虫が鳴いた。
「…………おまえな」
「拓正に用意してもらった昨日の朝ご飯だけでは、足りなかったみたいでござんすね」
右手をひらひら振りながら言い、仁は笑った。
「それに……」
「まだなんかあるのか?」
輪太郎が睨む。
うっ…と言葉につまりながらも、仁は言った。出来るだけ許してもらえるように。
「持ってきたもの、全部置いてきちゃった」
輪太郎が口を開けた。
すううぅぅぅと息を吸う。
そして叫んだ。
「アホかぁッ、お前はああぁぁァァァァッ!」
仁を泊めた部屋を片付けていた拓正は、布団の下に何かが入っていることに気付いた。
「?」
それは、小さな灰色の袋だった。
中を見てみる。
そこには、透明な紫色の石が入っていた。
しばらく考えて、拓正はその袋をポケットに入れた。