第一章 其ノ弐
神社といえば、そこは神社に見えるだろう。
祠といえば、そこは祠に見えるだろう。
はたまた、ただ年季が入った日本家屋だといえば、そう見えるかもしれない。
つまりそこは、そんな場所だった。何に使われたかすらもわからない。使われていたのかすらもわからない。
そんな場所で。
カタン、と。物音がした。
続いて、傾いた引き戸を無理やり開けようとする、ガタガタという音。
しばらくその音は続いて、
「抜け道から入ったのはいいですけど………開かないですね」
女性の声がした。
「まあ、いいでしょう。ここも古いですし」
ガンッと硬い音とともに、扉が蹴破られる。
中から出てきた女性は、ひどく美しかった。
おそらく地毛であろう、軽くウェーブがかかった茶色の髪。肌は、雪のように白い。帽子を目深にかぶっているため表情は見えないが、それでもその輪郭は、整った顔を連想させるようにラインを描いていた。
彼女は幼い子供のようにふふっと微笑み、つぶやいた。
「何年ぶりでしょうか。こんなに『嬉しい』のは」
くるくるっと回ると、ワンピースの裾がまるで生き物のように踊る。
「あはは……はは…。『楽しい』ですよ。やっと、やっとあなたとの約束を―――」
その後の言葉は、自分だけのもの。味わいながら、小さく歌う。
―――『大好きです。邪鬼さま』
***
「伊織ぃ、どこにいるー?伊織ぃぃ?ちょっと大変なんだけどぉぉぉおおぉぉおぉぉぉ」
すでに閉店した暗い店。
家として住んでいる二階に伊織の姿がなかったので、拓正は一階まで降りて、伊織を探していた。
「おーい、伊織ぃ?」
「ここや」
ちょうどゴミ箱を覗き込んだところで、伊織の声がした。
「ああ、伊織。そんなところに」
振り返ってみると、伊織が冷めた目で拓正を見ていた。
「なんやさっきから伊織ぃ伊織ぃって。そんな不気味な声で言われたら、怖くて出てこれへんわこのボケナスが」
不気味な声と言われてショックを受けながらも、言われてみればそうかもしれないと思う心と、伊織って怖がりだなー、と微笑ましく思う心がぶつかりあって、苦笑いになった。
そのとき。
「仁ッ、お前腹へって気絶するって、前回の反省してんのかぁぁぁぁ!!!」
怒鳴り声が聞こえた。二階からだ。
「聞こえなぁーい、聞こえなぁーい」
続いてなぜか爆発音。
「ちょっ……ッ、お輪、今は夜でござんす。静かにしないと近所に迷惑―――……」
「知るかンなことッ!」
再びドカーン。
「……」
伊織は、拓正を見た。
拓正は、ため息をついて肩をすくめた。
「で、ちょっと大変なんだ。どうすればいい?」
「それは大変やな」
それきり、伊織は黙った。
拓正はそわそわする。落ち着かない。伊織が黙っていると落ち着かない。
「……」
伊織が、ちらりと拓正に目をやった。しかし何も言わない。
「…」
本当に落ち着かない。
落ち着かない。
どうしよう。
拓正はおそるおそる手を上げた。
「……俺が止めてきます……」
伊織は満足そうにうなずいた。
拓正が二階に上がっていくのを見て、伊織は今まで溜めていた息を吐き出した。
「ホンマ堪忍やわー」
頭の上で結わえている髪が、汗でしおれてうっとおしい。
「見えるこっちの気も知らへんで、妖怪を見つけるなんて」
じわりと額に汗がにじむのは、蒸し暑さからだけではない。
二階で騒いでいる鬼―――仁とかいう名前だったか。
上級の妖怪から発せられる妖の気が、いやでも見えてしまうからだ。それゆえ、その恐ろしさを十分に知っている。
伊織は明かりの消された薄暗い店内を見た。
隙間風がどこからともなく入り込み、戸を小さく揺らす。
「……ああ」少し納得のいったような顔で、伊織は嘲笑った。「平段堂拓正のせいやないわ」
その表情は、どこか諦めの色を含んでいた。
「見つけられてるのは、うちか」
足元にいた小さな妖怪が、伊織を見て、首をかしげた。
そして、伊織が拓正の様子を見に行こうと歩きかけたとき。
「うわぁぁぁああああぁぁぁぁ!」
叫び声とともに。
なにか大きいもの―――そう。人のような大きさのものが落ちる音。
二階へ続く階段からだ。
「平段堂拓正ッ?」
伊織は駆け出した。
二階へ続く階段。
焦る気持ちを抑え、伊織は拓正の名を呼ぼうとした。
そして。
「………」
言葉を失った。
なぜならそこには。
鬼が倒れていたから。
「あ、どうもでござんすー」
倒れたままの格好で、鬼―――仁が笑った。
***
「とりあえず、色々説明してほしいねんけど」
二階の居間にて。
そこには仁王立ちで見下ろす伊織と、なぜか土下座させられている拓正。と、仁。
「えっとぉ……伊織?」
「ああ、ほんま心配して損したわ。うちが心配したぶんの時間返せアホ」
「は?」
めちゃくちゃなことを言う。
仁はため息をついた。
「っていうか、オレにはお礼の一言もないんでござんすね」
「なんやお礼って」
伊織の言葉に、拓正は肩をすくめる。
「さあ?」
「………助けなければ良かった」
「見返りを求めるのか?あんたが?」
そういって笑ったのは、仁の横でふわふわと浮いている小さな妖怪。
「ひどいでござんすー。お輪」
鬼はがっくりと肩を落とした。
いまから五分ほど前。
伊織と拓正が店にて会話しているころ。
仁は目を覚ました。
和室の天井が目に入る。まだ頭が完全に目を覚ましていないのか、ぼんやりとしか映らなかったが。
そのぼんやりとした頭に、突然声が降ってきた。
「仁ッ、お前腹へって気絶するって、前回の反省してんのかぁぁぁぁ!!!」
一気に目が覚める。
きょろ。誰もいない。
きょろ。輪太郎がいた。
「…………」
仁と目が合った輪太郎は、たまっていた小言を吐き出すべく、口を開く。
が、仁が手で耳をふさぐほうが速かった。
「聞こえなぁーい、聞こえなぁーい」
続いて爆発音。
「!」
驚いて仁が目を開けると、そこには仁のスマートフォンを持った輪太郎が。
爆発音はそこから響いてきている。
「なんだ……。無駄に驚いたでござんす」
すると、輪太郎が不敵に笑った。
「いいのか?もしかしたら、たまたま俺の手が滑って、開いてる窓からスマートフォンが……」
「ちょっ……ッ、お輪、今は夜でござんす。静かにしないと近所に迷惑―――……」
「知るかンなことッ!」
再びドカーン。
「で、本当にいいのか?もしかしたら、たまたま俺の手が―――」
「早まるなぁぁぁぁ!やめるでござんす!お輪っ」
仁は輪太郎に跳びかかった。
しかし、輪太郎も素早い。さっと仁をよけ、廊下へ躍り出た。
「取れるものなら取ってみな!」
「オレを誰だと思っているでござんすか!あまりなめると―――」
そのとき。
目の前に。
拓正が。
「―――え?」
そして、下には。
階段。
ドン、と。
ぶつかる音がした。
「うわぁぁぁああああぁぁぁぁ!」
―――やばっ……。
ほぼ条件反射だった。
考えるよりも前に、体が動いていた。
今まさに落ちようとしている拓正の体に手を伸ばし、腕を掴んだ。回転をかけて、引っ張りあげる。
そして。
バランスを崩した。
「あ」
同時に拓正の体が廊下に落ちる。「痛ってぇ!」
仁は階段から落ちていく。「え?えええぇぇぇぇぇええぇえぇぇ!」
当たり前だが、この状況で仁を助けられる者はいない。
「……それって、事故っちゅうか、なんやろ。あんたら二人の喧嘩に平段堂拓正が巻き込まれただけなんちゃう?」
うんうんと拓正がうなずく。
「そうなんだよー。だからオレがお礼言う義理ないよな」
「……でも助けたことには変わりないでござんすし」
仁が不満そうに口を尖らせるが、完璧に無視された。
「………」
畳に「の」の字を書き始めた仁を見て、輪太郎は頭を抱えたくなった。
―――こいつ、本当に二百八十年間生きてる『鬼』なのか?
「……ちッ」
伊織が明らかに舌打ちした。舌打ちしてから手を叩く。
「はいはいはい、この話は終わりや終わり。ってことで、質問タイムー」
ぱちぱちぱち、と手を叩いたのは仁。
「質問タイム?」
拓正がいぶかしげに訊いた。
むふふと伊織は鼻を鳴らす。
「そうや」
それからびしっと指を差す。
「謎過ぎるんやっ、鬼!」
「え、オレ?」
仁が自分を指差して、伊織を見た。
それから隣に助けを求める。
「あー、お輪、どうしよ」
「俺は知らね」
薄情者だ。
「ということで質問タイムやな」
伊織はにこにこと笑う。拓正はそれを悪魔の笑みだと思った。
「ほんで、まず、名前やけど」
「いや、名前はまず訊く前に自分から」
ふむ、と輪太郎がうなずく。
「仁にしてはまともな意見だな」
伊織は面倒臭そうにため息をついた。
カツカツと指で机を叩いてから「まあいいか」とつぶやく。
「うちの名前は伊織や。苗字は―――もうなんでもいいわ。住民票には平段堂って登録してあるけど」
「なんでオレの苗字で登録するんだよッ。もっと他の、」
「ああうっさい!いいやろ別に。あ、こいつは平段堂拓正な。よろしゅう」
ぺしぺしと拓正の頭を叩きながら伊織が言う。
「こっちは名乗ったで。鬼、あんたの名前は?」
「オレは―――」
一瞬何かを迷った後、彼は名乗った。
「オレの名前は仁。苗字は申し訳ない。忘れたでござんす」
「まあ、そんなもんやろな」
わかっているのかわかっていないのか知らないが、伊織はうんうんとうなずく。
「で、そっちの小さいのは?」
ぐさっと輪太郎になにか言葉の矢的なものが突き刺さった音がした。
伊織のターン!輪太郎に五十のダメージをあたえた!
仁は昔にやった試作品のゲームを思い出した。
「……小さいの……」
案の定ショックを受けたらしく、ぶつぶつとつぶやきながら、輪太郎は畳に「小」の字を書き始める。
「……」
仁が代わりに答えた。
「こいつは輪太郎でござんす。えっと……確かに今は小さいでござんすが………実体化すれば大きくなるし……」
だから気にするなというように、仁は輪太郎の頭をなでた。
「うっせえ!」
その手を輪太郎は振り払う。素直でない。
そのやりとりを見ながら、拓正がぽつりとつぶやいた。
「……こいつ、本当に鬼なのか?」
「あー、鬼っていうのは少し違うでござんすね」
独り言のつもりで言ったのだが、仁が反応した。
頭の角をなでながら、仁は笑う。
「鬼って言ったら、本物は怒るでござんすよ。オレの場合は鬼じゃなくて『鬼』でござんす」
「それ、どう違うんだ?」
拓正の言葉に、仁は苦笑した。
「まあ、そう言ってしまえばそこまででござんすが」
その表情に暗い影が落ちていたことに、拓正は気づかない。
そして、その横顔を眺める伊織の表情の変化に、誰も気付くことは無い。