8.ベルン
ベルン・アルヴァルトの低い声が響いた。
「——何の話だ?」
周囲のざわめきが一瞬で止まる。
グレイスがゆっくり振り返った。
「あら、ベルン様。おはようございます」
完璧な微笑み。
さっきまでの嘲りは、どこにもない。
「少し雑談をしていただけですわ」
ベラが頷く。
「ええ、そうですわ」
ディアナも続ける。
「アマーリエ様と、少しお話をしていただけですの」
ベルンの視線が、ゆっくりこちらへ向く。
鋭い目。
ベルンは数歩歩み寄った。
「アマーリエ」
落ち着いた声で名前を呼ばれる。
「今の話は、何だ」
グレイスがすぐに口を開く。
「本当にただの——」
「君に聞いていない」
静かな声。
けれど完全に遮られた。
周囲の空気がぴんと張り詰める。
ベルンの視線は、私だけを見ていた。
「アマーリエ」
もう一度言う。
「今の話は何だ」
私は少し考える。
ここで黙るのが、きっと今までのアマーリエ。
けれど——
私は小さく息を吐いた。
「……大したことではございません」
グレイスがわずかに笑う。
その瞬間、私は続けた。
「ただ……」
「婚約者に相応しくないと、頻繁に言われますので…」
空気が止まる。
ベラとディアナの顔が固まる。
グレイスの表情も一瞬だけ揺れた。
ベルンは動かない。
「……誰に」
短い質問。
私は視線を少しだけ動かした。
「……この場にいらっしゃる方々、でしょうか」
周囲がざわめく。
グレイスがすぐに言う。
「ベルン様、それは——」
ベルンの視線が彼女へ向く。
それだけで言葉が止まる。
数秒の沈黙。
ベルンはゆっくり私へ向き直った。
「……アマーリエ」
静かに言う。
「少し話がある」
それからグレイスたちへ視線を向けた。
「君たちは」
わずかに間を置く。
「後で話を聞く」
その声は、完全に命令だった。
グレイスの表情が一瞬強張る。
けれどすぐに微笑んだ。
「……かしこまりましたわ」
ベルンはそれ以上何も言わず、私へ視線を戻した。
「来い」
短く言う。
私は小さく頷き、彼の後について歩き出した。
校舎の横を抜け、少し人の少ない中庭へ出る。
噴水の音が静かに響いていた。
ここまで来て、ベルンは足を止める。
振り返る。
その表情は、先ほどよりずっと真剣だった。
「……アマーリエ」
低い声。
「先ほどの話」
少し間を置く。
「どういう意味だ」
私は少しだけ迷う。
けれど、ポケットに手を入れる。
取り出したのは、今朝書いた紙。
夢の中でアマーリエが書いていたものを、忘れないように書き写した紙。
私はそれをベルンへ差し出した。
「……うまく伝えられるかわからないので…こちらをお読みいただければ…」
ベルンは受け取る。
紙に目を落とす。
陰口を言われる
物を隠される
壊される
両親のことを馬鹿にされる
婚約者に相応しくないと言われる
ベルンの手が、ぴたりと止まる。
一行ずつ、ゆっくり読み進めていく。
そして。
最後まで読み終えたところで、紙を持つ手に力が入った。
「……これは」
低く呟く。
「いつからだ」
私は少しだけ視線を落とした。
「……しばらく前から、でしょうか」
沈黙が落ちる。
噴水の音だけが響いている。
ベルンは紙を見つめたまま、動かない。
そして——
低く言った。
「……なぜ」
ベルンの声が、ほんの少し掠れた。
「なぜ、今まで言わなかった」
私は少し考えた。
正直に言うべきか、迷う。
けれど、アマーリエの気持ちをきちんと代弁しようと口を開く。
「……両親が笑われてしまうからです」
ベルンの眉がわずかに動く。
私はつとめてアマーリエのような話し方で続けた。
「フェルナ侯爵家は、その…裕福ではございません」
「それでも、ベルン様との婚約をいただけたのは……とても名誉なことです」
視線を少し落とす。
「…私が問題を起こせば」
「両親がまた、…陰で何か言われてしまうかもしれません」
少し間を置いた。
「それに……」
小さく息を吐く。
「婚約者であるベルン様にも、ご迷惑をおかけしてしまうかと思うと…言えず…」
言い終えると、中庭に静寂が落ちた。
噴水の水音だけが聞こえる。
ベルンは何も言わない。
ただ、手の中の紙を見つめている。
やがて、ゆっくりと目を閉じた。
数秒の沈黙。
そして、低い声が落ちる。
「……違う」
私は顔を上げた。
ベルンはまだ目を閉じている。
「迷惑などではない」
静かな声だった。
けれど、はっきりしている。
「むしろ——」
そこで言葉が止まる。
ベルンは目を開いた。
その視線には、強い感情が宿っていた。
「気づけなかった自分が腹立たしい」
低く言う。
「それは私の責任だ」
私は少し驚いた。
ベルンは紙を握りしめたまま続ける。
「婚約者である私が」
「こんなことが起きているのに、何も知らなかった」
声が沈む。
「……失態だ」
その言葉には、怒りが混じっていた。
けれど、その怒りは私には向いていない。
ベルンは紙を見つめたまま言った。
「……すぐに断罪することもできる」
私は少し驚いて顔を上げた。
ベルンは続ける。
「だが、それではあの者たちは言うだろう」
紙を軽く持ち上げる。
「——誤解だ、と」
確かに、と思った。
グレイスは公爵令嬢。
証拠がなければ、いくらでも言い逃れができるだろう。
ベルンは静かに言う。
「証拠を集める」
短い言葉。
だが、その声には迷いがなかった。
「持ち物を隠される」
紙の文字を指でなぞる。
「壊される」
「陰口」
「それらは、繰り返されているのだろう」
私は少し考えてから答えた。
「……はい」
ベルンは小さく頷いた。
「ならば」
「あえてそうさせ、現場を押さえる」
その目は冷静だった。
怒りではなく、判断。
ベルンは私を見る。
「アマーリエ」
落ち着いた声で言う。
「協力してくれるか」
私は一瞬だけ迷った。
けれど、昨夜のカフェを思い出す。
紙に書いた言葉。
そして、アマーリエの顔。
私は小さく頷いた。
「……はい」
ベルンの表情がわずかに緩んだ。
「よろしい」
少しだけ考えるように視線を動かす。
「まず」
「侍女のリナは」
私は驚いて顔を上げた。
ベルンは続ける。
「…彼女は信頼できるか」
「はい…」
迷わず答える。
ベルンは頷いた。
「ならば協力してもらう」
「使用人は、貴族よりも多くのことを見ている」
それから、静かに言った。
「罠を張る」
私は思わず聞き返した。
「罠、…ですか」
ベルンは淡々と答える。
「貴族は体裁を守る」
「だが」
「誰も見ていないと思えば油断もする」
少しだけ口元を上げた。
「そこを捕まえる」
中庭に、しばらく沈黙が落ちる。
私は小さく息を吐いた。
「……なるほど」
ベルンが少し不思議そうにこちらを見る。
「怖くはないか」
私は首を振った。
「少しだけ」
「…楽しみかもしれません」
ベルンは一瞬、目を見開いた。
そして。
ほんのわずかに笑った。
「……それなら良い」
静かに言う。
「では」
「作戦を立てよう」
私は少し頷く。
「……でしたら」
少し考えてから言った。
「リナを呼んでもよろしいでしょうか」
ベルンはすぐに答える。
「ああ」
「むしろ、そのつもりだ」
私は中庭の入口の方を見る。
侍女控えの建物が見える場所だ。
しばらくすると、こちらの合図に気づいたリナが小走りでやってきた。
「アマーリエ様」
軽く一礼する。
それからベルンに気づき、すぐに姿勢を正した。
「ベルン様」
「失礼いたしました」
ベルンは短く言う。
「構わない」
そして視線を向けた。
「リナ」
「アマーリエから話を聞いたそうだな」
リナは静かに頷いた。
「はい」
「アマーリエ様から紙を見せていただきました」
その表情は落ち着いていたが、声は少し硬い。
「……大変、衝撃を受けました」
ベルンは低く聞く。
「内容は事実か」
リナは迷わず答えた。
「はい」
少し間を置く。
「すべてを見たわけではございません」
「ですが」
「持ち物がなくなっていたことは、何度もございます」
私を見る。
「学園から戻られたあと、机の中身が減っていたことも」
ベルンの目が細くなる。
「……そうか」
しばらく考えるように沈黙する。
それから静かに言った。
「ならば、やはり同じ方法だ」
リナが顔を上げる。
「方法……でございますか」
ベルンは頷く。
「現場を押さえる」
短く言う。
「貴族社会では、証言だけでは弱い」
「だが」
「現場を押さえれば話は別だ」
それから私を見る。
「アマーリエ」
「持ち物を狙われるなら」
少し間を置く。
「狙わせればいい」
リナの目がわずかに細くなる。
理解した顔だった。
「……罠、でございますね」
ベルンは頷いた。
「その通りだ」
少し考えてから続ける。
「学園では、どこでに物を置く」
リナがすぐ答える。
「教室の机の中か…」
「または更衣室でございます」
ベルンは迷わず言った。
「それなら教室だ」
それから私を見る。
「アマーリエ」
「明日、何か目立つ物を持って来い」
私は少し考える。
「……ブローチなどでしょうか」
リナが言う。
「美しい石のついた侯爵家の紋章付きのものがございます」
ベルンは小さく頷いた。
「それでいい」
そして静かに続けた。
「彼女たちは必ず動く」
少し沈黙が落ちる。
私は小さく息を吐いた。
「……なんだか」
ベルンがこちらを見る。
私は少しだけ笑った。
「少しだけ」
「面白くなってきました」
リナが思わず私を見る。
ベルンは一瞬だけ驚いた顔をした。
それから、ほんの少しだけ笑う。
「……それは良い」
静かに言った。
「では」
「準備を整え、捕まえる」




