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「吹雪、褒めろ。昨晩の私は菩薩のようであったぞ」
「ちょうど良いや。蛇殿様、私を褒めて下さい。上手く不知火を焚き付けました!」
日に高さを見る限りに、まだ時刻は早い。
大白蛇邸に大白蛇が帰ってきたのは明け方のことらしい。
これは珍しいことだ。
よっぽど何か嫌なことでもあったのだろうか、と女中どもが思うほどである。
「良くやった、吹雪。しかしお前の一番褒められるところは女であることだ、憂い奴、憂い奴」
吹雪の頭を撫でる大白蛇。
真実を言うならば、彼は嘗てないほど自らの邸に帰ってほっとしたのだ。
故に彼は昨夜の彼らと比べると全く毒のない吹雪相手ならば、何であろうと許してやれる心内であった。
「はんっ!そんなあなたは昨日、飲みに行かれましたね!良い身分です!」
そう例え、どんなことを言われようと。
「分からぬ女だな。良いか、あんなものは楽しくともなんともないのだ。付き合いだ、付き合い。早う帰ってきただろう」
【白拍子のいない】あんなもの、のことなのだろう。
「ふーん、まぁ良いでしょう」
「で、不知火は今何処へ」
自ら干渉することに渋っていた吹雪。
大白蛇に如何に言われようと、やはりそこの所は今朝になるまでもやもやしていた。
が、紅葉美しい森を視たのだ。
彼女にとって森とはただの視覚的なものだった。
そこを夢の中で駆け周って遊んでいた、陽炎と一緒にだ。
これが答えだと思った。
「あの人、素直じゃないんですよね。嫌われる位なら嫌う、みたいな人なんですよ。ようはきっかけだったんですね…で、“あちらも恩を感じれば物で返しますよ、腕とか”と言ったらあれですよ、“それもそうね”とか馬鹿にした笑みを浮かべてそのままの姿で出ようとしたのですよ。あの忍装束と言うのですか?いや、ただの裾の短い小袖ですよね?平静を装っていたつもりでしょうが、大童でしたね。女中さんが引き留めて、“せめてこれを”と虫垂れ衣を渡していました」
「そら、言うたであろう。あれはあれで案外、姉が好きで堪らぬのよ。昔からそうであったからな。…しかし、なるほど。これでこちらも平静を装える余裕が出来た。舞雪を陰陽寮に行かせなければな」
これで大白蛇と吹雪の会話は終了した。
続いて大白蛇は、一応の弟子である舞雪を探しに行ったが、案の定すぐに見つけることができた。
南池近くに童のように髪を後ろに垂らした長身の男の影がある。
生真面目なことに舞雪は邸内の南池近くで式神に関する鍛錬をしていたようだ。
が、見たところ滑稽なほどに四苦八苦している。
舞雪は卜占やら暦、天文と言った学術的なもの以外、陰陽道に関する全てが苦手だった。
「……何だか、亀がひっくり返って起き上がろうとしているようだなぁ」
これが師の台詞である。
弟子もすぐにその発言に気づいて、紙で象った人型を片手にくわ、と口を開いた。
「では指導やら何やらをしてくださいよ!それは弟子に対する師の言葉じゃないですよ…!」
「ああ、だからこれから陰陽寮に行くぞ」
「…まさかまた私を春明殿に押し付けようとッ!?」
「せんから、安心しろ。あまり不出来なのを見せつけるのも恥ずかしい。お前は端で暦でも作ってればよい、一生」
もうダメだ、とでも思ったのか舞雪はそれ以上は言わなかった。
そもそも強く言ったところで効力はないし、あちらは高官であるし……と不利尽くしなのだ。
のそのそ、と牛の如き歩みをした間抜けそうな牛飼いが牛車の準備を整える。
「……私待ちですか?」
舞雪は牛飼いの蜥蜴丸を見て、次に大白蛇の服装に目を移した。
烏帽子直衣、平常服だ。
対して、舞雪は狩衣である。
「ああ、早うせい」
急いで舞雪は部屋に駆け戻った。
そしてしっかり直衣を纏った舞雪が戻ってきた頃には、牛車の中で大白蛇は待ち草臥れた、とでも言いたげな表情で寝っ転がっていた。
「あの…私の座る場所がないのですが……」
「そうだな、お前は独活の大木だからな」
舞雪が控えめに言うと、大白蛇は場所を作った。
そこに舞雪が座る前に牛車は動き出した。
この牛飼いは妹とは仲が良いようだが私のことは嫌いなのだろうか、と舞雪はふと思ったが、それは口に出さず、聞き辛いが明らかにしておきたいことを自分の師に聞く。
「大白蛇様」
「何だ、吹雪だけでなくお前もか。良いか、言っておくが私は昨晩あれに行きたくて行ったわけではないのだぞ。現に良くないことしか起こらなんだ」
「いいえ、昨日の話ではなく……路雅様についてなのですが」
「何だ、今更」
「良いのでしょうか…その、陽炎さんのために行動することは間違いなく路雅様を……」
「ああ、あれ。死ぬだろうな」
一瞬の間もなく大白蛇は当然のように言った。
むしろ動揺しているのは聞いた舞雪の方だ。
「な!ならば、やはり…いえ、これは何をしようとしているのですか…?」
「お前もよく知っておろう、八咫の血を引く陽炎を生かすがため、あれの任務が成功するように手伝うのだ。そのために荒三位が死のうと、不知火が不具になろうと知ったことではない」
「…しかし!」
「お前、八咫烏が何か分かっているのか」
言うまでもなく神武主上を導いた三本足の烏である。
十二支の妖怪の中で唯一大白蛇よりも尊い血を引いているのが、陽炎なのだ。
その一言で舞雪は黙った。
文字通り、大事の前の小事なのだろう。
そしてその小事には如何なるものも当て嵌まる。
元より抱いていた不信感が少し積もっただけである。
だから付かず離れずで良い。
得られるものは全て貰おう、そして何かあったらすぐに去ればいい。
ずっと愚直な丑ではいられない。
ただ舞雪は妙に気に入られている妹のことを心配した。