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衆道の話をしているので苦手な方はご注意ください。
ようは「文章博士と音博士で飲みしたよ」、「でもすっごい嫌な飲みだったよ」ってだけの話です。
「いやぁ、最近の歌はいけませんなぁ!こぉう、神代から伝わる厳かさ、艶やかさ。風情がございませんにょ…それにあの、何でしたかぁ、堤の中納言だが大納言だが、小豆だかの物語?あっっはっは!ありゃあいかん、花桜折る中将とかぷぎゃー」
酒とは恐ろしいものだ。
適量であれば薬にもなり得るが、それを越すとこれである、これ。
酒の肴を目の前に男が機嫌良く満面の笑みを浮かべ、調子が上がってきたのか無意味に床を叩く。
空いた手では薫酒の注がれた猪口を持っており、事ある毎にそれを口に運んでいる。
そしてそれと同じくらい猪口から酒を零している。
大学寮にて貴族の子弟に詩文、歴史を教える文章博士は従五位だ。
実は文章博士の定員は二名なのだが、内一人は私としてもう一人は誰だ。
こいつだ。
この、べろんべろんに酔った陽気な男の名前は紀馳雄。
白楽天の再来と呼ばれた男も酒が入れば、管巻く酔っ払いである。
「双六やりますかぁ、双六!おい、お前!持って参れぇ!」
詩文を愛すと同時、双六の名手でもある紀は控えていた女房に喚く。
双六を取ってこようと部屋を出る女房を片目で何気なく見ていると、視線が交わった。
女房はすぐに視線を逸らし、足早に部屋を後にした。
裏から何やら騒々しく話す声が聞こえる。
きっと裏では“またあのをこ者、酒ばかすか飲んで…何時死ぬのよ!”とでも話しているに違いない。
もしくは“やだ☆蛇殿様と目が合っちゃった、きゃー!”というところか。
……冗談を思い浮かべても返してくれる相手がいないとつまらぬものだ。
「ふっ、双六とは…また。いや、結構。双六は止めましょう」
「何をぅッ!?私と双六に興ぜぬと言うのか、続ッ!」
両手を床に叩きつけ紀が怒りを露わにすると、振動で徳利が横倒しになった。
この怒り様、不知火を思い出させる…。
怒りを剥き出しにされても続兼言は極端なほどの吊り目の上にある眉一つ動かさず、平然としている。
続は大学寮にて白読を教えている音博士である。
元来、大陸から来た者がこの博士を務めることが多いのだが、例に漏れず続も帰化人の血筋であった。
博士が三人も揃っているのだ、では他にも博士がいて大学寮での宴会でもやっているのか。
いや違う、ここには私を含め三人の他、紀の家の女房、数人しかいない。
完全に個人的な集まりであった。
別に私はこれらと特別仲が良いわけでもない。
ただお勧めの白拍子がいると紀が言うから来たのだ。
この結構前から取り付けていた約束、今この忙しい時に、と心の内では思ったが辞退すれば路雅の耳に入るやもしれん。
結果、平常を装うために来た。
来た。
来たのだが、白拍子がいないではないか!
「いやいや、これは言葉足らずでございました。紀文章博士には敵いませぬ、丸裸にされるだけでしょう。だから双六はしたくない、と」
「おおぅ!すまなんだ、すまなんだ!」
くそ、何が楽しゅうて私はここにいるのだ。
挙句、手酌だと?
女房がおろう、女房が。
「どうしました、蛇殿さ…」
「阿呆ッ!無礼講じゃ、無礼講!蛇助で良かろぉ!!」
良いわけなかろう、この肥え固まりめ。
「紀、白拍子はどうした」
「白拍子ぃ?あうあ、あれか、あれならばな、路雅の所に急に呼ばれてだな、来れのうなった、とだなぁ!いやぁ、私も何事か言いたかったのだか、路雅であろう?路雅ぁ…末恐ろしゅうて」
「そう言えば最近その荒三位のもとに妖怪が入り込んだとか何とか聞きましたが実際は如何に?」
「ふっふふふん、なんだぁ知らぬか、続…入り込んだがその物の怪、しくじったのよぉう。しかもそのしくじった原因が、この蛇助よッッ!」
…なに。
路雅め、随分余裕ではないか…人の女を掠め取るとは。
「ちっくしょうめ、あそこで死んでくれればどれほど良かったか!恨むぞ、蛇助ぇ!」
紀、長生きは出来ぬかも知れぬな。
酒が入って気が大きくなったのか、普段では言えぬことを言っておる。
そんなことを話していると紀の女房が双六を持って来た。
だが、知っての通り、もうここには双六をしようと言う雰囲気はない。
「双六はよい、もうやらぬぅ!」と紀が回らぬ舌で言い放つと、女房もカチンときたのか、乱暴に双六を端に置くと私の隣に座った。
「酌を致しますわ」
ふむ、ちょうど良い。
「ところでその白拍子とは…」
「む?」
音博士が猪口に張った酒の水面に目を落としながらぼそ、と口を開いた。
「男ですか?」
「……」
「……」
「……」
黙らずを得なかった。
こいつも酔っているのか。
紀に目配せすると、あちらも”こいつ何言ってんだ、お前分かるか”と言う視線でこちらを見ていた。
文章博士が分からないのだ、誰が分かろうか。
本人のみだ。
「…白拍子には確かに男もおるがお前、それがどうかしたか」
「男の白拍子だったら私も興味が御座います」
…お前も男であろう、などとは突っ込めなかった。
背筋を冷たいものが奔っているからだ。
何を言っているこいつ…気が違ったか。
再度、紀を見る。
既にその目には酔いの色など失せていた。
意味の分からんことを聞いてか、素面に戻ってしまったようだ。
おお、可哀想に…ついでに少し前を思い出してみると良い。
酔いなど吹き飛んだ紀であったが、無理矢理酔っぱらったふりをし出した。
どうやらその勢いでこの状況を打破したいようだ。
酒が満ちている徳利を手に、紀は続に駆け寄った。
「ははっ!どうした、続!お前も酔うたか!そうか、酔うたか!ほれ、もっと飲め、従七位上のお前にはかような高い酒、滅多に飲めまい!」
呂律はしっかり回っている。
「いいや、酒は十分飲んでおりますが、あまり酔ってはおりませぬ」
「ほうほう、そうか!しかし、お前、また男に興味があるとは!はて、男とはなんであったか……って男とは私どものことではないかっ!」
「……紀、止めい。見ているこちらが恥ずかしいぞ」
「何を、蛇助!何に恥ずかしがるか!色狂いのお前が!……そうか、お前、若衆道を嫌う性質であったな!損な男よ、人生の十割り損をしておる!」
…違う、これは……どうやら何もかも私の勘違いであったようだ。
こいつは確実にまだ酔いの中にいる、普段はこのような無礼なことを言う奴ではない。
それに紀はどうも、無条件でこの手の話を聞きたいらしい。
あれは酔ったふりをして状況を打破したがってる風のはしゃぎ様ではない、ただ単純に興味があり、はしゃいでいるのだ。
「ふん、ざまぁないな!女にちやほやされ、風流人だなんだと持て囃されておる割には流行りものが分からぬとはっ!今のお前は大層な間抜け面であるぞ!」
「…まさかお前、私に嫉妬でもしていたのか」
「まさか!哀れんでいるのだ!」
………。
さて、どの隙をついて家に帰ると言おうか。
「さぁ話せ、続。流石は大陸から渡ってきた者よ、流行に敏感であるな!」
続が得意そうににやりと笑う。
なるほど、これほどざわざわと怒りが湧く笑みもあるまい。
しかし何故だ、目には瞼、口には唇。
蓋がしっかりあるのに、耳にはない。
何故だ?
如何にかして耳を塞ぐか。
「ふふ…話して宜しいのですね?大白蛇文章博士がどうも嫌がっているようですが……」
この野郎、口を引っぺがして、その辺に放ってやろうか。
「まぁ、知っての通り…日の本での事の起こりは弘法大使空海殿ですな。彼が我が祖国からこの素晴らしい文化を持っていらして下さったのです」
何が素晴らしいだ。
帰化したのなら日本書紀を読め、余裕があれば続日本書紀もだ。
そしてその素晴らしい文化とやらのせいで何が起きたとされたか、確かめろ。
「そもそも、仏教の戒律にもある通り、女犯とは犯罪でございます!お分かりでしょうか、つまり女とは穢れているのです!!」
よく言うわ。
お前、女はおらずとも子持ちではないか。
どっから来たのだ、あ?その子はよう。
自然発生か、おい。
「大体、女よりも男の方が良いではないですか!想像なさられよ、あの薄紅色のふっくらした頬を…!」
死ねば皆、骸よ。
肉などなく骨ばかり。
大体それは子供ならば男女関係ないではないか。
「…とまぁ、若衆道の中でも稚児が専らの人気ですな。ですが、私が今心奪われているのは……」
やっすい心だな、値打ちがない。
……何だ、こっちを見てにやつくな。
これほど人が嫌がっていると言うのに、楽しそうに話すとは。
見下げたものだ。
「稚児よりも歳を重ねたほうです。…正味な話、歳も官位も上の方が良いですねぇ、苦痛に歪む顔が美しく映える、そんな方々が多い……」
…きっと紀のことだ、肥えているとは言え高官であるし、歳も上だし、何かしら魅力を感じたのだろう…だからきっと紀のことだ。
そう言う性癖の人間もおろう。
……非常に座り心地が悪い。
それでもここで帰る、と言うとまるで逃げたように見えるので嫌だ。
「閨房を貸せ、紀。お前の女房を借りる」
「まあ!」
女房はすぐ様立ち上がり、こちらです、と案内し始めた。
余裕があれば可愛い奴め、とでも言えたであろう。