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「何よっ!」
その剣幕にモロびびった吹雪はそれ以上何も言えなかった。
『でも、病の際に…』にと言って過去夢を回想したものの、それを口に出す勇気はなかったのだ。
それほどまでに不知火は恐ろしい。
火を噴きださんばかりに激高しているのだ。
取りあえず、無意識に万力を持って首を横に振る。
すると、不知火はふん!と鼻息荒くすると、「飯は!?朝餉でも夕餉でも八つ時でもいいけど飯はないの!?」と室外で控えていた女中に声を荒げた。
不知火一人いなくなっただけだというのに、部屋が最上級に静かになった。
「……不知火って蜃気楼のはず」
不知火とは八代海で夏に見られる蜃気楼のことだ。
その静やかで、幻想的で美しい印象がある蜃気楼・不知火の名を冠する蒿雀不知火。
……。
「……。そうだ、寝よう」
吹雪が何を思ったかは知らないが、こうして件の妹は夢ならぬ過去の中へ逃げ込んだ。
決してそこが良い世界であると断言はできないが。
「こいつ、まさかこれほど堂々としているとは……」
目の前で何の悩みもなさそうにぐーすかと不知火はドでかい鼾をかいていた。
客室として通されたのはあまり広くもない適当に空いていた一室である。
帰って来て早々、大白蛇は不知火の様子を見に行ったのだ。
陽炎の無事のために所々を周って来たが、それだけでは不十分である。
当然、不知火の助力もなければならない。
頭は悪いが、それなりの力はあるのだ。
そして少々の期待をされていた不知火がこれである。
「不知火さん、暴飲暴食後に爆睡に入りました」
「…凄まじい女だな」
後ろの戸から吹雪が入ってきた。
どうやら騒々しさで大白蛇と舞雪が帰ってきたことを察知したらしい。
桜色の小袖の姿の吹雪は興味津々に事の次第を聞く。
「で、どうだったんですか?」
「どうもこうも、普通に手回しをしてきた。それだけだ」
「むう、そうですか。じゃあ兄上は?」
「お前の兄上が私に夢について語ることは少ないぞ。あれが有益な情報を寄越した試しがない。第一、舞雪は私を信用しておらん」
「…そんなんで師弟関係は大丈夫なんですか」
「師弟がどうのこうのなどどうでも良いではないか」
ちら、と脇目で大白蛇の目が吹雪を捉えた。
じゃあ何が重要なのだ、と吹雪が首を傾げる。
その純粋無垢よりもどちらかと言うと阿呆、と形容した方がぴったりな吹雪の表情は見えずともそれを感じ取ったのだろう。
大白蛇はふつ、と浮かんだ笑みを隠すように紙扇を口元に持ってきて。
「お前と私との間に信頼があるならば、それで良いではないか」
「ぐむぅ!?」
有無も言わさず閉じていた吹雪の口に無理矢理、扇を捻じ込み、開いた。
当然のように、突然の出来事に吹雪はあわあわするしかない。
息が上手くできず苦しいのか、目に涙を溜め、吹雪は頬を紅潮させていた。
そんな様子に大白蛇は満足して、鼻息を荒くする。
口に突っ込んだ扇を奥に押し込めば喉は異物を押し返そうと働き、引き抜こうとすれば唇の内側に扇が引っ掛る。
その様子を楽しみつつ、大白蛇は訳も分からず抵抗している吹雪の様子をいやらしい視線で観察していた。
「小さく可愛らしい口だなぁ、おい。歯並びも良いし、尖っている歯もないようだな。ふふ、これで雁が音とは……そうだ、お前。雁が音はしたこッ…!?」
しかし、何時までも大人しくしている吹雪ではない。
どうにかこうにかして大白蛇の鳩尾に一発食らわせたのだ。
結果、吹雪は割と簡単に大白蛇をのした。
兄の師であり、文章博士であり、殿上人である、大白蛇を。
「…ごっごめんなさい!蛇殿様!!」
「ゆ、許さん。可能な限り永久に…」
途切れ途切れに笑い声を零す大白蛇に最早、吹雪は殺すしかないと思い始めた。
犯罪である、婦女暴行一歩手前だ…自分が蹴りをつけなければ……、と心中にあるのかもしれない。
――…にゃあ。
と、その時に響いたのが、先日蛇神に喰われたので腹で消化されつつあるはずの愛玩動物の鳴き声だ。
この屋敷に今、それはいないはずなのだ…蛇神の腹の中にしか。
ごろん、と鳩尾を抑えていた大白蛇の袖から何かが零れ落ちた、いや転げ落ちた。
したっ、としなやかに着地するその姿は見紛うことなく……。
「猫ですッ!」
わぁ、と吹雪が真っ先に真っ黒な猫を抱き上げた。
そして返り討ちにあって、手放し、よろめいた。
凶暴な猫である。
しかし全身の毛を逆立て威嚇する相手は吹雪ではなく、復活を果たした大白蛇だ。
「しつこい奴め、さてはあの時のにゃん公だな」
「にゃ、にゃん公…」
明らか、時代を外したその呼称に吹雪が無意味にときめいたのはまた今度の話としよう。
大白蛇はまるで汚いものでも持つかのように、猫の首皮を引っ張るようにして持ち上げた。
「まぁ、ちょうど良い。次の蛇神の餌にしてやろう」
「可哀そうです、止めてください!もっと違うものあげればいいじゃないですか、そこら辺の蛇とか」
「蛇が蛇を食うかよ、蛇神」
大白蛇がその名を呼ぶと猫が転がり出た袖と反対側から白蛇がぬらぬらと蛇特有の動きで這い出してきた。
全身が出るとすぅ、と白子の蛇は襦袢だけを身に纏った妙齢の女人となった。
紅を引いた唇を三日月にし、にこりとその式神は笑う。
「まだ小そう御座います、もっと大きゅうして下さいませ」
「食べる気満々だッ!!」
最早大白蛇の四次元袖に驚いている場合ではない、と吹雪は思わず叫んだ。
しかし蛇神は動じた様子もなく、吹雪にすら笑む。
逆に吹雪が恐れて後ずさる始末である。
「蛇は肉食で御座いますよ、助手さんの妹さん。“しし食った、報い”など“しし食った、温い”にしか聞こえないのですよ、私たちには」
公で言ったら大変なことになりそうな台詞だが、吹雪は蝦夷、陸奥の田舎出身で山鯨も食べたことがあったので「は、はぁ…」としか返せなかった。
満足したのか真っ赤な目を細め再び妖艶に微笑む蛇神。
次の瞬間、女人は白蛇となり再び大白蛇の袖に這って戻った。
大白蛇がそのような命令を印かなにかでやったのだろう。
「…いつもそこにいるのですか」
「まさか。外出時はここに忍ばせておるだけよ」
再び吹雪は一歩後ずさった。
元々吹雪は蛇があまり好きではなかった、それを袖に忍ばせているそうだ。
気持ち悪い。
喉から溢れそうになった言葉を飲み込み再度“そうだ、寝よう”と思い至った吹雪は後ずさりながら部屋を出ようとする。
「何だお前、妙なことをして」
が、当然すぐバレた。
「…いえ、別に。もういいかなって、退室しようかなって…」
「そうはいかぬ、お前は今日、この不知火の傍にいた訳だが…どうであった。これの陽炎に対するそれは」
「不知火さんはすぐ寝ちゃったんですよ。詳しいこと、分かんないです」
まだ春だと言うのに不知火は置き畳も敷かず、衾も被らずに快眠している。
しかも体を丸めて寝ているわけではなく、堂々と大の字で寝ているのだ。
寒いという概念がないのではないか。
起きる気配の全くない不知火を確かめ、吹雪は続ける。
「でも、もう大丈夫でしょう。滞りなく……」
大白蛇も正常な片目の目端で不知火を確かめた。
「ああ。だが、これだけでは甘かろう。不知火にも何かしら動いてもらわねば」
陽炎のために不知火にも動いてもらわなければならない。
不知火が陽炎のために何かする気がありそうか、それを大白蛇は聞いていたのだ。
「そうですか、それなら…何と言えばいいのか……酷く歪んでいます」
本家と分家、八咫と蒿雀、八咫烏と送り雀。
血に優劣はつけてはいけない。
しかし、それでも大和国まで導くあの烏が相手であるならば、そこに尊さがある。
酉家・本家末裔、八咫陽炎と酉家・分家、蒿雀不知火。
この腹違いの姉妹は皮肉なことに能力が逆転していた。
陽炎が操れるはずの火遁は不知火が得意とし、不知火が操れるはずの幻術は陽炎が極めていた。
姉と妹。
そこには最初から人為を無視した、仲違いをするような種があったのだ。
しかし、それは種でしかない。
芽が出たのは、鬼病だった。
三条主上の女房もその病を罹った。
その時はその女房、急に傍にいた童に向い何度も足蹴りしたそうだ。
「少々違うのですが、三条主上が身を挺して童を庇った様に酉家には良い乳母がいました。しかしまぁ、子供と言うのはどこまでも真っ直ぐで…そしてそれが徐々に大人になって歪んでしまいまして……」
「要領を得んな。吹雪、可能であれば不知火を焚き付けろ。下手を打てば酉の家自体が消えるぞ」
「…まぁ、既に必要な夢は視ましたけど。いまいち、手を付けてはいけない気がしまして」
別に睨みつけられているわけでもないのに吹雪は真っ直ぐ大白蛇が見られずに、視線を宙に漂わせた。
何が言いたいのだ、と大白蛇は吹雪のあやふやな態度を感じ取り眉間にしわを寄せる。
「まさかお前まで舞雪のように…」
「いえ、違いますよ!いや、違うのはその認識と言うか…。ええっとですね、兄上は未来を知っています。それが良いものであれば万々歳です、それ以上何もする必要はありません。しかし悪いものも視たりするのです、」
前回のように、と危うく繋げそうになった吹雪は誤魔化すように咳払いを一つした。
「未来は現在の干渉を受けます。だから兄上は未来を変えようと現在で行動します。その時に誰かに話した場合、ややこしくなってしまうのですよ、だから誰にも話さないようにしているのです」
「ほう、舞雪のくせに偉そうだな。まぁ、それは良い。で、お前は何だ」
「…別にそのような話がしたかった訳ではなくて!あの二人が仲良かったのは昔の話なんです、今はもう違うのかもしれないのです!」
「…では吹雪。お前、この先5年、10年、20年後、舞雪とあのように憎まれ口を叩き合う仲になっていると思うか」
「それは……だって家族の縁が」
それはない、吹雪は瞬時にそう思った。
この世で一番強い縁は家族の、血の縁だ。
一度結ばれた縁は決して解けない。
この世で一番強い縁が血の縁ならば、昔であろうと今であろうと本心では憎み合っているはずがない。
そう思っている吹雪だからこそ言葉を失った。
俯いている吹雪を尻目に大白蛇は何を思ったのか、一瞬複雑そうな表情をしてすぐにいつもの微笑を浮かべ扇で隠した。
そして低い位置にある吹雪の頭に手を乗せる。
「舞雪とお前がそうであるように、陽炎と不知火もそうなのだ。教えてやれ」