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全く、吹雪め。面倒だと思って逃げたな。
舞雪なぞ、どうでも良いではないか。
どうせ朝餉でも摂っているのだろうよ。
あー、しかし参ったものだ。
女漁り仲間の路雅の頼みだからと適当なところに式神を何体か仕込んでおいたが、まさか見事に発動してしまうとは。
己の才能が怖いわ。
「ちょっと!あんた聞いてないでしょ?寝てるでしょ!」
「寝てなどおらんわ」
「目ぇ、瞑ってたじゃない!」
「何を今更。私は常時目を伏せているではないか。兎にも角にも私に出来ることは、その式を解くことぐらいだ。それで良かろう」
破格の条件を示すも不知火は不服そうだ。
しかし、これ以上に何かをすることは不可能だ。
まさか私が路雅を弑する訳にもいかない。
「嫌よ!まず謝りなさいよ、話はそれからよ!」
どうやらこれはすっかり頭に血が上ってしまっているようだ。
元々頭に血が上っているような系統であったが、今確信した。
間違いなく、午より後で一番に頭に血が行っている干支が不知火だ。
「馬鹿を言うな。私はこのことを路雅に言わんでやると言っているのだぞ」
「それが何よ!」
「捕まればそれが最期よ。しかし、ただで死ねるとは思うなよ。荒三位の“荒”の字を忘れるな」
「……。ふん。あたしは忍よ?拷問やら何やらなんて…」
「それで済むかよ。お前の家の長老どもにも知れたことになるとしたら…さぁ、どうする」
「うっ…」
怒涛の勢いで喋っていた不知火も流石にその勢いを失う。
酉の家の者は大抵長寿である。
そのため代替わりをしても、先代は勿論、先々代もそれ以上前の先代も生きているのだ。
そんな老人がすることと言ったら、若者に対する指導だろう。
しかし、これは当の若者にとっては文句にしか聞こえないのが現状だ。
それに加え、この長老どもは昔ながらの過激で厳格な部分をしっかりと保持していた。
歳によってその点が温くなることはなかったのだ。
要は些細な問題・罪であろうと、厳しい罰が下ると言う事だ。
「まだ今ならば、この失態そのものをなかったことに……」
私が嘘を突き通せば“路雅邸に誰かが侵入したが、それは不知火ではない”ことはギリギリで承認されるだろう。
できるのではないか、と繋げようとした声は闖入者の姉によって遮られた。
「出来ませんよー?だって私が報告すんですからねぇ…」
「……陽炎ッ!」
軽い調子のその台詞は間違いなく、不知火の首を絞め尽くすものだった。
声の主、陽炎がにこやかなのに対し、不知火は忌々しそうに舌打ちをした。
不知火の姉は烏の濡れ羽のような長い髪を棚引かせながら、当然のように丸窓の障子を開けて室内に侵入したようだ。
馬鹿の姉とは言え、流石は忍びと言ったところか。
そして双方、流石は姉妹と言ったところか…共に行儀がなっていない。
「大白蛇サン、不出来な妹を庇ってくれてありがとーございます。でも、駄目ですよ」
随分風の便りで耳にしていた話と様子が違う。
相当、調子が良いようだ。
聞いた話では……。
「罪は罪。ならば、罰は甘んじて受けるべし。それが必ず将来役に立つんだからねぇ…?」
意地の悪い笑みを浮かべ、不知火を見下ろす陽炎。
不知火は歯噛みすることしか出来ないようだ。
「だいじょーぶ。……今なら、不知火の腕一本切断で済むと思うの!!あたし頑張って交渉するから!」
「ッッ!あんた…!」
共に当主の座を狙っている以上、相手より良い条件を望むのは当然だろう。
必然的に、五体満足でなければこの争いは大きく不利となる。
「他人の邸で姉妹喧嘩をするのは止めよ」
「あら!ごめんなさーい」
「ふん!」
「安心してね…不知火ィ……。あたしがさー、あんたの代わりにバシッと始末するから。ただあんたは腕一本切ってもらうまで動かないでじっとしていれ…」
「ぶっ殺すわよ!!」
こうなると一方的に虐げられている不知火が哀れに見える。
それにやはり女とは謙虚で健気でしおらしい方が良いではないか。
喧しいのは少々でいい。
「陽炎」
「あー。ごめんなさーい。喧嘩じゃないのよ、これは。ただの妹を思う姉の…」
「―-鬼病はもう大丈夫かよ」
しん、となった。
喋り出したら止まらないこの姉妹に沈黙なんてほぼありえないものだと言うのに、だ。
陽炎の様子を悟られないように伺おうと、不知火はちらちらと姉を盗み見た。
その動作は忘れていた恐ろしいことに怯えているようにも見える。
陽炎は何も答えない。
表情が失せていた。
鳥の如き目だけが、時折明るさを調節しているのか瞳孔の大きさを変える。
「ふ、どうした。鬼病は大丈夫かと聞いているのだ」
「ちょ、ちょっと…。もう…いいわよ……」
珍しいことに、不知火が顔を引きつらせていた。
まだ何事か言葉を繋げようとしていた不知火だったが、それに対し黙れとでも言うように陽炎は自らの進入口である丸障子に拳を叩きつけた。
拳は容易に障子を破り、木枠まで破壊する。
耐え難い怒りを表すその目は背景を琥珀として、瞳孔を限界まで拡大させる。
不知火は瞬間、爆発した姉の殺気から逃れるように跳びさすった。
なるほど、この話題は未だに酉の家では禁じられていたか…。
いやしかし、だが……なんとまぁ。
「ほう、まだ大丈夫ではないようだなぁ?」
愉快なことか、扇で笑みを隠すのも忘れて言った途端、陽炎は目で人を殺しそうな勢いで睨みつけていたのを解き、にこやかに微笑んだ。
しかし、それはつい先程の状況と比較すれば異常さばかりが目立つ不気味な笑みだった。
「そー?あたしはもう大丈夫だと思うけど?それより大白蛇サンこそ大丈夫??忍びの情報網を舐めないでねぇー。死んだらしいじゃないの、あなたの奥さんの…紫寿サンのお父上が」
「…耳が早いなぁ、おい。しかし私は別に父上を正妻に頂いたわけではないぞ。あぁ、それは忍びの情報網には入らないのか」
「いやぁ、ホント凄いですよー……正妻だけじゃなく、義理の父親まで殺すなんて。毒喰らわば皿まで、忍びとして手本にしなければいけませんよ」
にこにこと朗らかに微笑を浮かべて陽炎が吐く毒は、同時に自身の不安定さも露見させていた。
「…何も知らないくせに一体、あなたは何の権利があってそんなことを言うのですか」
後ろから吹雪を連れた舞雪が静かに障子を開けて入るなり、そう言った。
眉上から闇色の角を生やした男、舞雪は予知夢で見た陽炎を睨む。
だが、その程度の剣幕では恐ろしくとも何ともないと言うように陽炎はせせら笑う。
「物言うことに権利なんてないわよねー?違う?」
「物言うことに権利なんてない、それは確かです。…ですが、まるで自身が言っていること真実であるように言うことは間違っていると思います」
「真実よ、それこそ。それこそ事実ではなく真実。そーだと思わない、過去夢の巫女?」
突然話を振られた吹雪は、厄介事か回ってきたと言うような不景気な顔をして、その前に…と口を開いた。
「非常に聞き辛いのですが……ご病気はもう大丈夫で?……ッ!」
言い切った直後、吹雪の眼前に火の玉が現れた。
いや、現れたのではなく、現在も接近してきているのだ。
ここまで迫って来たものを避けられるわけがない。
当たれば当然のように顔は焼けるだろう。
しかも、この火力では中途半端に焼け、余計に痛々しくなりそうだ。
そして過去夢だけが能の吹雪にはこれを打ち消す能力なんてものはない。
出来る事といったら、取りあえず目を瞑ることだろう。
いざ当たるかと思われた時、火の玉はじゅ、と言う音を立てて消えた。
見れば、大白蛇が印を結んでいることに気付く。
「八つ当たりをするなよ。吹雪はただお前を心配しただけだろう?」
大白蛇が軽口を言うが、陽炎は一時も吹雪から目を離さず恫喝するような視線を送り続けていた。
「なっ……」
予想外の事態に何もすることができなかった吹雪は、驚きの声を上げて不可抗力であったことを示すほかない。
しばらく鷹のような目で睨んでいた陽炎だったが、また不意に場には不釣合いな笑みを浮かべる。
足は、最初に入ってきた丸障子にかけて、ただし丸障子は大破しているので開ける必要も閉める必要もない。
そして不知火に死刑宣告のような重みを別れの挨拶として。
「まぁ、お姉サンに任せなさい」