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「すまない。お前にはいつも迷惑をかける」
「別にそんなことないですよ。結局、兄上は全部私のためにやって下さっているのでしょうし」
「勝手に家に閉じ込めていたのに、次はこちらに来い、とは身勝手な話だろう。私自身、そう思う」
「軟禁された挙句、次には強制連行。言葉だけを聞けば、兄上あなたは鬼畜です。でも兄上、それも私のためなのでしょう。これでは怒るに怒れないではありませんか」
「……いや、しかし、吹雪…お前…怒っているだろう!!?」
高速回転する足を持つ牛が引く牛車はがたがた、と尋常ならざる道――獣道を通る。
空には決して沈まぬ紅い夕日。
林は不自然なほど青々している。
人一人通らない緊急移動用のこの道を人は裏五畿七道と呼ぶ。
が、知る人は少なく、近道ではあるが道は荒れているため使用する人間は本当に少ない。
そんな事情があるのにも関わらず、この牛車である。
余程、急く理由があると見える。
牛車の中には額から角を生やした男女が何やら会話している。
「怒ってないですってば。しつこい、兄上。もう話しかけないで!」
妹と思しき小袖を着た女の名は吹雪。
両の眉上から雪の様に白い角を覗かせている。
表情こそ余り変わっていないが声色を聞くと、鬱陶しがっているのだろうか、とほのかに思える。
「…分かった、私はもう本気でお前に話しかけぬからな」
一瞬ジト目になって、目を逸らした狩衣の男の名は舞雪。
こちらは両の眉上から闇色の黒い角を覗かせている。
レベルの低そうな会話をしているが、この兄妹…20代後半から10代後半の年齢である。
しばしの間に沈黙が降り注ぐが、なんの舞いぶれもなく吹雪が盛大なため息をつくと、舞雪の肩は大きく跳ねた。
また沈黙が流れる。
響くのは牛の猛る唸り声と輪が軋む音だけだ。
まだまだ目的地、京に着くまで時間はある。
いかに裏五畿七道であれ、陸奥から畿内へ行くのであれば時間がかかるのだ。
それなのに久しぶりに会った妹と長時間密室での沈黙大会はきついものがある。
更に言ってしまえば、これから同じ家で過ごさなければならないのだ。
ずっと黙り続けるなんて無理な話だ。
「せめて…、せめて理由を聞いてくれぬか?」
顔ごと背けていたが、目をだけをちらり、と吹雪に注ぐ舞雪。
『あんなことを自分で言っておいて…』とは、今に限って言えば彼の頭にない。
が、吹雪は無反応だ。
振り返るでもなし、『うるさい』と邪険にするでもなし。
舞雪はどうしたものか、と顎に手をやった時。
くすり、と微笑んだと思しき雰囲気が溢れる。
「だから、怒っていないと言っているでしょう?」
振り向いた吹雪の口元には笑みが浮かんでいた。
それを見て安心したようにため息をつくと舞雪は口を開いた。
「お前も知っているだろう。兼ねてから縁があった大白蛇様だ、いや…お前は蛇殿様と呼んでいたか…。その方がようやくいい返事を下さってだな、私を弟子にしてくださると言うのだ!」
蛇殿、これはただの愛称だ。
蛇さん、とまぁ…身も蓋もない何だかなぁ、という愛称だが、別に吹雪が付けたわけでも彼女だけがそう呼んでいたわけでもない。
本名は大白蛇水希。
吹雪はその名を知っていた。
陰陽師である…と言っても役職の話では文章博士だ。
訳あって幼少期から籠の中の鳥状態であった吹雪によく会いに来てくれた男だ。
恐らく今では49歳になっているだろう。
あの頃の彼女の世界は自分を含め彼と兄とで、三人しかいなかった。
しかし、それも昔の話。
5、6年前からぱったりと来なくなったのだ。
まぁ…都から陸奥への通いというのはきつ過ぎるものがあるから仕方がないとは思っていたが。
「余計なことを…。あの人の考えていることは相変わらず分からない。しかも、あの人絶対色んなところ変ですよ。私たちより人じゃないですよ、絶対」
「それで直丁やら、陰陽生になってしまうと相当官位もなくなってしまうだろう」
妹の訴えを完璧スルーして、話したいことを話す舞雪。
「えぇ、ですから止めてください。家のこと考えてください」
だが、吹雪も気にした様子もない。
ただ呆れた様に兄に考え直すように言うのだ。
「大白蛇様の口添えですぐにでも陰陽師なれることになったから、そこは大丈夫だ」
「……」
理解が追いついていないのか、何も言わない吹雪の代わりに言った本人が何回か頷く。
数瞬後、やっと意味を理解した吹雪は目を見開いた。
「しょ、職権乱用ではないですか!いくら今は文章博士だからと言ってそのようなこと…!」
「いいではないか」
確かに丑は正直者が馬鹿を見る、の典型だ。
しかし、それを破っての世渡りは絶対下手くそだ。
世渡り下手だからこその、真面目さであり誠実さであり、その為に良い思いをすることもあったはずだ。
牛車は激しく上下しながら、獣道を行く。