25
「父上…」
そう言ったのは、俺の息子だった。
身なりの立派な、身分の違う息子。
心の底では憎んでいたはずだった。
言葉にも出さなかったが、心の底では憎くて仕方なかったはずだった。
いや、憎くて仕方がないんだ。
「……」
沈黙を返す。
いつも通りのすました表情で呼びかけた息子は、昔の記憶…最後に彼を見た記憶そのまんまだった。
何一つ変わらず、皺一つ増えず、髪色もくすまず…老いていなかった。
俺だけが老いた。
そしてその眼球は空気には晒されず、目蓋で覆われ続ける。
光の入らない、その目。
そうだ、これには罪が無い。
知らなかったことが罪なわけがない。
知りたくても知れない状況に常にあるのだから。
「…話は後になさいましょう、今は時間が御座いません」
滅多に聞けない敬語で、そう俺に言った。
この男はどんな時であれ、父となった俺にすら敬語を使うことは無かった。
そう言う身分だからか、そういう性格だからかは分からないが、その男が今、敬語を使ったのだ。
挙句には気まずそうに、そっぽを向いた。
あぁ。
そうか、お前。
「……」
紫寿のことを、気にしているのだな。
まだ、紫寿のことを覚えてくれているのだな。
浮名の多いこの男が、果たして今でも紫寿を覚えているだろうか、負い目を感じているのだろうか。
そうずっと思っていたが、存外答えはすぐ手の届くところにあった。
いや、最初から手の届くところにあったのは分かっていた。
何がそこにあるのかも分かっていた。
ただ今やっとその姿に触れたのだ。
この男は俺の誇らしい娘を未だに思っている。
だが、それに比べて俺はどうだ。
ふと我に返って、自分がやってきたことを振り返る。
病を亡くしたいと思った。
だが、それは正直に息子に、この男に文句一つ言えなかった俺の弱さが屈折したもの。
人を殺した。
しかも、もう何年も経ったと言うのに未だに紫寿のことを思い続けてくれている男に見立て、何度も何度も道行く男を殺した。
あの時の幸福感はいつまで経っても、今でさえ手に残っている。
百鬼夜行を呼び寄せた。
そうして、俺は自業自得のため、その百鬼夜行に食い殺されそうになっている。
そんな阿呆な俺を、自分の頭の中で何度も撲殺した息子が助けに来た。
果たして俺は……何のために百鬼を呼び、人を殺し、病を憎んだのか。
一体いつ俺は紫寿のために何かをしたのだろうか…。
一度、人喰い人になったら、きっともう…普通の人には戻れない。
「大白蛇…殿」
息子とは言えど、俺はいつもそう呼んでいた。
だが、今日からもう止そう…今からもう止める。
「水希。」
そう呼ぶと水希は俺に顔を向けた。
俺は懐から一枚の紙を出した。
人型に切られたその紙の真ん中には俺の名前と理解できない呪が書かれている。
「俺はお前が憎くて仕方がなかったよ。紫寿が死んでから一度たりともお前を忘れなかった」
でも、感謝もしていた。
ただ生きて、ただ死ぬだけのこんな底辺な人生を過ごすはずだった紫寿にお前は色んなものをくれたから。
誰も認めなかった俺たちをお前は認めてくれたから。
「今も憎い。お前が憎い」
でも、浮名の多いお前が一体いつまで紫寿を覚えていてくれるのだろうか。
俺が紫寿のためにやってやれることは、これだけだろう。
水希の表情が僅かに動いた。
構わず、俺は人型の紙を引き裂いた。
名前が二つに千切れる。
事態を察したのか、水希は常々隠したがっていた目を剥く。
先程、俺の家を壊した蛇が眼球の上をのた打ち回っている様子がよく見える。
「…お前が憎くて仕様がないわ」
こうすればお前は私を、紫寿をずっと忘れないだろう。
悠久に等しく生きるお前であっても、きっと忘れない。
あのお方に教えてもらった呪は上手く使いこなせなかった。
だが、この呪は上手くいきそうだ。
背後に迫る百鬼の息遣いを感じる。
ほとんど意味を成さなかったとは言え、微力の効果を発し、百鬼をぎりぎりの所で制御していた呪。
それを今引き裂いたのだ。
百鬼は急に軽くなった身体を、まず術者にぶつけるだろう。
水希が何かを言おうと口を開き、袖から白い大蛇を飛び出した。
だが、もう遅い。
徐々に視界が下がっていく。
そうか、胴か…俺の胴がまず喰われたのだろう。
でも、後悔など何処にもない。
紫寿は幸せだったさ、誤解があってもそれを享受してお前を信じたんだ。
その記憶をずっと覚えていてくれれば、お前にずっと覚えていてもらえれば、それで良いんだ。
蝋燭の炎を吹き消すように、俺の意識は途絶えた。