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水の帰る家

作者: 月白ふゆ

水音の記憶


 令和六年の盛夏。蝉の声が狂ったように鳴き響く午後、小学五年生の啓太は祖母の住む村へ、ひと夏を過ごすためにやってきた。


 東京のマンション暮らしとはまったく違う、木の匂いのする古民家。裏山が近く、昼でも薄暗い林が家の裏に広がっていた。祖母は、昔ながらの着物姿で啓太を迎え入れ、微笑んだ。


「こっちの水は、やさしいのよ。すぐに馴染むわ」


 その言葉の意味はわからなかったが、啓太は庭先にある苔むした古井戸に目を奪われた。木製の蓋は重く、錆びた鎖がぐるぐると巻かれている。


「ねえ、ばあちゃん。この井戸、使わないの?」


「……もう使ってないの。けど、覗いちゃだめよ」


 啓太はその夜、夢を見た。


 水の底から誰かがこちらを見上げている夢。


 目を覚ますと、喉が異様に渇いていた。





村の掟


 啓太は地元の子供たちと距離を縮めることができなかった。村の夏休み行事に参加する中で、彼はある“暗黙の掟”があることに気づき始める。


「裏の井戸には近づくな」

「水を汲むなら共同井戸の南側。北の水はダメだ」


 理由を尋ねても、誰もはっきりとは答えない。笑ってごまかすか、目を伏せて話題を変えるだけだった。


 ある日、啓太はふとした拍子に、古い木箱の中から一冊のノートを見つける。中には、子供の筆跡で書かれた日記。


 ——『わたし、あした井戸にいく。さゆりちゃんがよんでるから』


 ノートの表紙には、うすく「さゆり」と書かれていた。


 その日から、啓太は水の音に敏感になった。夜中に目覚めるたび、どこからか滴る音が聞こえてくる。洗面所でもなく、雨でもない。


 水の中から、何かが這い上がってくるような、そんな音だった。




さゆり


 ある夕暮れ、啓太は夢遊病のように裏山へと足を運んでいた。足は勝手に動き、気がつけばあの井戸の前に立っていた。


 蓋のすき間から、ひやりと冷たい風が吹いた気がした。視線を落とすと、そこにいた。


 少女。


 長い黒髪が水に揺れ、白いワンピースを着た姿が、底のない暗闇の中に輪郭を持って浮かんでいた。動かないのに、確かに“見ている”気配があった。


 「さゆりちゃん……?」


 そう声に出した瞬間、井戸の水面がぐらりと揺れ、耳元に小さな声が届いた。


「……また、きたの……?」


 その日から、啓太の体調は崩れ始めた。水を飲むと腹を下し、鏡を見ると誰かの姿が背後に見える気がする。祖母はただ黙って啓太の頭を撫で、「もうすぐ馴染むわ」とだけ言った。


 ある晩、啓太は再び夢を見る。水中で少女と手をつなぎ、ずっと下へ下へと沈んでいく夢。


「水の子は、水に帰るの」


 その声とともに、目を覚ました啓太の部屋は、なぜか畳まで濡れていた。





昭和の少女


 昭和六十三年、最後の昭和の夏。山あいの小さな村に、じっとりとした熱気がこもる。地面は灼け、蝉の声は耳を貫くように響き、どこにも逃げ場のない重さが空気中に漂っていた。そんな中、十一歳の少女・沙百合は、ひとり裏庭の井戸の前に立っていた。


 井戸の水は深く澄んでいた。底の見えない暗さと、吸い込まれるような冷気がある。だが、誰もこの井戸を使わなくなって久しかった。村の中央にある共同井戸が整備されて以来、ここは“忌み井戸”として扱われていた。


 沙百合は毎日、祖母の命じるままにこの井戸の水を汲んでいた。共同井戸の水は「合わない」と祖母は言った。「こっちの水でなければ、あんたの体に毒だよ」と。


 父は酒に溺れ、母は何年も前に家を出て行った。沙百合は村の誰からも愛されず、避けられ、時には蔑まれていた。「水子の家の子」「不浄な血筋」——そう言われるたびに、彼女は小さく唇を噛んだ。


 ある日、祠の裏手で遊んでいたとき、他の子供たちに取り囲まれた。「おまえのせいで、また水が腐ったんだよ」「おまえが井戸に何かしたんだ」


 泥を投げられ、髪を引っ張られ、罵られながら、沙百合は泣かなかった。ただ、じっと黙って耐えていた。


 帰宅後、井戸の前で彼女は立ち尽くした。水面が揺れていた。誰かが、下から見上げているような錯覚があった。


「みんな、いなくなればいい……」


 呟きは風に流れ、井戸の中へ落ちていった。


 その夜から、村の水に異変が起きた。味噌汁は妙に塩辛く、炊いた米は粘つき、犬が水を飲もうとせずに吠えた。


 だが誰も、井戸のせいとは言わなかった。ただ黙って、別の水源に変えた。ある者は川水を煮沸し、ある者は山から湧く水を探し始めた。


 それでも、沙百合の家の井戸だけは変わらなかった。


 数日後、沙百合は忽然と姿を消した。


 祖母は警察も呼ばず、静かに仏壇に線香を供えただけだった。「水の子は、水に帰った」と。


 そしてその日から、井戸の水は澄み、ひどく甘い匂いを放ち始めた。


 誰も、それを口にしなかった。





水の中の声


 八月の終わりが近づくにつれ、啓太は日増しに衰弱していった。顔色は青白く、瞼の下にくっきりとした隈を浮かべ、日中もぼんやりとどこかを見つめていた。


 「どうしたの? 具合悪いの?」と祖母が尋ねても、啓太は曖昧に首を振るばかりだった。


 夜になると、水の音が聞こえた。確かに、明確に、それは耳に届いていた。


 ぽちゃん、ぽちゃん。


 水面に何かが浮き沈みするような、いや、誰かがそこにいることを知らせるようなリズム。


 ある晩、啓太はとうとう井戸の夢の中で、さゆりと会話を交わした。


「どうしてここにいるの?」

「みんな、わたしを忘れたから」

「帰りたい?」

「もう……帰れないよ。だけど、さみしいの」


 さゆりは笑っていたが、その笑顔はとても人間のものとは思えなかった。


 翌朝、啓太の腕には水に濡れたような跡が残っていた。指の形をした赤い痣が、手首から二の腕にかけて薄く浮かんでいた。祖母はそれを見るなり、顔色を失った。


「……井戸に行ったのかい?」


 啓太は首を振ったが、祖母はしばらく何も言わなかった。やがて、ぽつりと呟いた。


「もう、時間かもしれないね」





祀られた水


 祖母は押し入れの奥から古びた箱を取り出した。中には、水神を祀る儀式に使われていたという紙人形や、青い絹糸で縫われた小さな布袋、そして使い古された鈴が入っていた。


「昔はね、この村にも水の神様を祀る祭りがあったんだよ」

「どうしてやめたの?」

「怖がったのさ。人が水を恐れなくなったから、祟りの意味を忘れていったの」


 啓太は祖母に連れられて、村の裏手にある誰も近づかない祠へと向かった。竹やぶを抜け、小さな石橋を渡り、湿った土を踏みしめて進む。


 祠の中は苔むし、湿気と沈黙に満ちていた。


「ここで、おまえの“水抜き”をしよう」


 祖母は真顔で言った。絹糸の布袋に啓太の髪を一房切り入れ、紙人形の胸に針でそれを刺し、祠の前で焚いた火の中にくべる。


「この子は水の子ではありません。どうか、お引き取りください」


 何度も繰り返すその言葉は、祈りというより呪文に近かった。風もないのに、木々がざわりと音を立てた。


 祈祷が終わった帰り道、啓太は背後から水音がついてくることに気づいた。


 ぴちゃ、ぴちゃ、ぴちゃ……


 歩を止めると、音も止む。


 恐る恐る振り返ると、誰もいなかった。


 ただ、足跡だけがひとつ、ふたつ、啓太のすぐ背後に刻まれていた。


 それは小さな足跡だった。裸足の、少女のものだった。






水の帰る家


 令和のある夏の日、都会から一組の若い家族が村に移住してきた。両親と、四歳の娘・愛美まなみ。自然に囲まれた子育てを求めて、築年数の古い民家を改装して暮らし始めた。


 家の裏には、使われなくなった古井戸があった。移住前の説明では「もう塞いであるし、危険はない」と聞かされていたが、蓋は錆びた鎖で留められ、木の板もいくぶん歪んでいた。


 愛美は初日から、井戸の前に立った。「ここ、すごくひんやりしてるね」「おともだち、いるよ」


 母は最初、空想遊びだと思って笑っていた。だが愛美は日増しに奇妙な言葉を発するようになった。


「さゆりちゃんね、ずっとここにいるんだって」「夜になると、あそぼって呼ばれるの」


 夜中、愛美は寝言を言った。「……つぎは、わたし……つぎは……」


 父は心配して井戸を金属チェーンで厳重に封じた。だが朝になると、必ずチェーンの向きが変わっていた。鍵は閉まっている。なのに、微妙にずれているのだ。


 村の人々は曖昧に笑った。「ああ、あの井戸ね。昔から、ちょっとね……」


 真顔で忠告する者はいなかった。誰も、彼らを本当には止めようとしなかった。


 二ヶ月後、家族は姿を消した。


 誰も、探さなかった。


 そしてまた、井戸は静かに封がされ、夏が過ぎていった。





水底に残るもの


 村の夏は、何も変わらなかった。風鈴の音は短く、蝉の声は飽和し、空気は湿り気を含んだまま、じっとりと肌に張りついた。季節は巡っても、あの井戸だけは、誰の記憶にも触れられず、そっとそこに在り続けていた。


 それは、まるで水がそこに“棲んでいる”ようだった。


 啓太が消えたあと、祖母は何事もなかったように日常を続けた。洗濯をし、縁側で茶をすする。近所の人々はあえて啓太のことに触れなかった。言葉にすれば何かが引きずり出されるような、不文律の恐怖がこの村にはあった。


 そして、また新しい家族が越してきた。都会から移住してきた、若い夫婦と四歳の娘・愛美。


 彼らは、表向きには「自然の中で子育てしたくて」と笑っていた。村人も歓迎の態を見せた。だが、どこか壁のある微笑みだった。表情の端が、わずかに引きつっていた。


 愛美はすぐに裏庭の井戸に気がついた。初めて見た日から、毎朝そこで遊んでいた。蓋の隙間に指を差し入れて覗き込み、話しかけるようにひとりで笑っていた。


 母親は気味悪がった。「最近、あの子、変なことばかり言うの。『さゆりちゃんが遊んでくれるの』って……」


 夜になると、愛美の寝言が聞こえた。「……水の中、あったかいね……さゆりちゃん、わたしもいくね……」


 父親は神経質になり、夜中に井戸を封じる作業をしたが、翌朝には蓋が少しだけずれていた。鎖はきつく巻いたはずなのに、錠前の向きが変わっていた。誰も触れた形跡はなかった。


 村の者に相談しても、誰も真顔で答えなかった。「ああ、それは子供の想像力さ」「田舎は夜が静かだからね」——言葉の奥に、本当の答えを隠すように。


 やがて、愛美の家族は姿を消した。家は売りに出され、数ヶ月後には次の住人が入った。


 誰も、理由を尋ねなかった。どの家族も、最初の数ヶ月で何かを悟っていく。それでも村は止まらない。誰かが消えても、何かが起きても、水はただそこにある。


 井戸の水は、村の記憶そのものだった。人が言葉にできず、封じ込めたまま放置したもの。濁り、腐り、時間と共に重さを増したそれは、子供の声を借りて呼び戻される。


 昭和の沙百合。令和の啓太。次は誰だったのか、あるいはもう……


 その名も知られぬまま、水底で眠っている子供たちが、今も誰かの足音を待っている。


 ある晩、井戸の前を通った老婆が、耳を澄まして立ち止まった。


 水の底から、小さな音が聞こえた。パシャ……パシャ……


 まるで子供たちがじゃれ合うような、あるいは誰かがもがくような、水音だった。


 老婆はしばらくじっと立ち尽くし、ぽつりと呟いた。


「また……呼ばれてるね」


 そして誰にも聞かれぬように、小さく手を合わせた。誰のための祈りだったのかは、彼女しか知らない。


 井戸のそばに咲いていた紫陽花は、誰も気づかぬうちに、赤から青、そして不気味な白へと変色していた。


 誰も、その理由を口にしなかった。


 夏はまた、やってくる。


 風鈴が鳴る。


 誰かが、見ている。


 水は、忘れない。


 人は、忘れようとする。


 その隔たりが生むのは、ただひとつ——沈黙。


 沈黙の底で、まだ、あの子たちは、遊んでいる。




この物語は、「水」をテーマに、昭和と令和という時代をまたぐ、不思議で理不尽な恐怖を描きました。


村という閉ざされた空間と、その中に根付く因習や忌まわしい記憶。そこに住む子供たちの視点を通して、目に見えないものの恐ろしさを表現したかったのです。


水は生命の源であると同時に、時には忘れられない記憶や祟りを蓄え、永遠に流れ続けるもの。そんな二面性を持つ存在として、物語の核に据えました。


昭和の因習や悲劇が令和の現代にも影を落とし、決して過去は消え去らないことを感じていただければ幸いです。


登場人物の子供たちが抱える孤独や恐怖は、誰もがどこかに持っている感情の象徴でもあります。彼らの物語を通じて、読者の皆様も何か心に響くものがあれば幸いです。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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