さようなら御姉様(2)
「キョクチョウさん?」
駅の近くの落ち着ける雰囲気の喫茶店で、女性は本名ではなくハンドルネームを名乗った。
「そ。あたし創作活動をしていてね。第二の本名みたいなもの。だから貴女も別に本名を名乗らなくてもいいよ」
それは私の性格を見抜いたキョクチョウさんの気遣いだったのだろう。
「クウネルです……」
私は昔から考えていたハンドルネームを言った。苗字をちょっと捩っただけだし、我ながら浅はかだ。
「可愛い名前だね」
キョクチョウさんは笑顔を作って言う。それはいつも見る下卑た笑いとは違って眩しかった。だけど嫌いじゃなかった。
「あの……ありがとうございます」
「どういたしまして」
「………どうしてあのおじさんを捕まえてきたんですか?」
私はこの人の原動力が知りたかった。なぜ危険な目にあってまであんな行動をしたのかが知りたかった。
「んー。先ずはムカついたからかな」
「ムカつ……え?」
「あたしもあのおっちゃんと同じ電車に乗ってたんだけどさ、降りてからあのおっちゃんがなーんかキョロキョロしてんなあって思ったのよ。そしたらクウネルちゃん見つけたら明らかに狙いに行った動きしていたんだよね。案の定ぶつかって逃げて行ったし。止められなくてごめんね」
「い、いえ私の注意力が無かったのが悪かったし、キョクチョウさんが謝る事じゃないですよ」
「いやいや悪いのはあのおっちゃんだから」
「それも……私がぶつかっても何も言い返さないと思われたから悪いんです」
堂々巡りになる会話に休憩を挟むように注文していた紅茶が二つ置かれた。
「そこがムカついた要因なんだなあ」
「えっ、あっ、ごめんなさい……」
「あ、違う違う。クウネルちゃんが言い返せないからじゃなくて、あのおっちゃんが敢えてクウネルちゃんを狙った腐った根性と、理不尽な出来事にだからね」
「理不尽……ですか?」
「そ。クウネルちゃんが被害者なのに、ただ嫌な思いをして内に溜めるだけになんて理不尽でしょ」
理不尽という言葉は私にお似合いだった為に、もう受け入れて生きていた。だからそんな風に言われるのは初めてだった。
「で、でもあの人は訴訟とかどうとか言っていましたよ……大丈夫なんですか?」
「大丈夫大丈夫」
からりとした笑いで言うキョクチョウさん。でも私のせいで訴訟問題になってしまっていたら、助けて貰ったことよりも申し訳なさが勝ってしまう。
「あのおっちゃん詰められた時、逃げる為に理論武装してたでしょ? でも大体ああいう人って専門性の知識を持っている訳じゃないんだよ。専門知識がない人には聞いたことあるけど内容をよく知らない用語と、それらしい言い分で怒鳴っておけば相手の考える余地を削って騙せるからね」
まるでそういう人達を相手にしてきたような言い方だった。
「キョクチョウさんは詳しいんですか?」
「いんや」
「え!?」
予期せぬ否定に素っ頓狂な声がでた。
「全部口八丁だよ。それっぽい事を真似して言っただけ。あの手の小悪党の中の小悪党みたいな人にはあんなんで十分だよ」
「でも……それで本当に専門性があったらどうしていたんですか?」
「そん時はお叱りを受けるね! か、殴る!」
「な、殴っちゃ駄目ですよ……」
「冗談だよ冗談」
そう言って紅茶を飲むキョクチョウさん。
「キョクチョウさんは失うのが怖くないんですか……」
あのまま訴訟されればいつも通りの日常を失っていたかもしれないのに、どうして身も知らない人間をムカついたという理由で助けられるのか。
「怖くないね。失ったらまた作ればいいんだよ」
ああこの人は自分で自分の居場所を作れる強い人なんだ。誰かに強いられてその場所で不幸な主人公を演じている私とは違うんだ。そう自分に酷く後ろ指を指されている気がした。
「………ていうのは嘘」
「え……」
「カッコつけだよ。ただ後先考えずに理不尽に立ち向かっちゃうんだよね。あたしの悪い癖だ」
キョクチョウさんは自嘲気味に笑った。その笑顔からは哀愁を感じられて、陰がちらついていた。
「で、でもおかげで私は助かりました!」
「そう言って貰えると嬉しいな」
困ったように笑って返してくれた。キョクチョウさんの笑顔が戻ってきて私は内心喜んでいた。
なんでだろう、凄く美人とかそんなんじゃないのに、この人の笑顔は惹かれる。
「ん? あ、ちょっとごめんね」
キョクチョウさんはスマホを取り出して通話し始める。
「え? できた? 明日できるって言ってなかった? ……できちゃったんだ。じゃあ今から行くよ。ん、三十分くらいかな」
通話を終えたキョクチョウさんは持っていた鞄の中から財布を取り出そうとしていた。
「ごめんね。大事な用事ができたから行かなきゃ。ここは私が払うから、話せて楽しかったよ」
お世辞の言葉なのに、話せて楽しかったなんて言われて私は舞い上がったんだと思う。私みたいな奴がこんな太陽のような人と対等に話せただけで終わりで良かったのに、心地良さに身を任せてしまった。言ったこともない本心を言った。
「あ、あの! また……会えますか?」
言葉にしてしまうと呆気ないものだった。ただキョクチョウさんは面を食らっているようだ。マズい、やっぱり迷惑だっただろうか。
「うん。いいよ。これあたしの電話番号。何かあったらいつでも電話してきて」
紙ナプキンに電話番号を書いて渡してくれた。
「それじゃ、またね」
キョクチョウさんは支払いを済ませて慌てて店を出て行ってしまった。
またね。なんてありきたりの言葉がこんなにも素敵に聞こえる日がくるとは思いもよらなかった。
12日 21:10投稿予定です。
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