第3話
「(あ、そろそろ起こすか)」
朝食作りもほとんど終わった頃、窓の外を覗けば太陽が完全に顔を出しているのが確認できた。
料理自体もあとは皿へ盛り付けるだけで終わるので、足早にキッチンを抜け出して階段を駆け上がる。
師匠の部屋の前まで辿り着いて再びノックをし、今度はドアノブを回して中へと入った。
窓から入り込む太陽光に照らされた部屋の中は、いつも通り綺麗なもので感心するばかりである。
ユナだとこうはいかない。アイツの部屋は定期的に掃除してやらないと、キノコが生えてきてもおかしくないくらいだからな。
そんな友人のだらしない私生活を頭の隅に追いやり、気合いを入れ直す。ここからが本番だ。
人1人起こすのに何の気合いが必要なのか。そう思う人が大多数だという事は理解している。が、師匠の寝起きに関しては常人と比べてはいけない程に危険なのだ。
要するに、俺以外が起こせば死人が出る。
「師匠、朝食が出来てますよ」
「……」
掛け布団にくるまってベッドで眠る師匠に声をかける。
無駄だと理解しつつも一応数秒の間を置いてみるが、やはり師匠が起きる気配は無い。
結局いつも通り。どうしてこう毎朝毎朝死ぬ思いをしなければならないのだろうか。
「はぁ……せんせ――」
ため息ひとつ、意を決して掛け布団越しに師匠の体に触れた瞬間。
掛け布団が弾かれるように舞い上がり、俺の視界を遮る。いや、遮るだけじゃない。掛け布団の向こう側から何かが飛来した。
絶対に何かが来ると分かっていただけに反応する事は容易だった。バカ正直に真正面から防御に徹する愚行はせず、掛け布団ごと飛来した拳を横合いから左手で弾いて受け流す。
そのまま勢いに乗って倒れてくれれば万々歳、などという願い虚しく次の一手が襲い来る。
「っ!」
舞い広がる掛け布団越しから僅かに見えた師匠の挙動。既に突き出された拳は戻されている。
その場で横一回転する動きを見たかと思えば、今の一瞬でいつ振り上げたのか分からない踵落としが眼前に迫っていた。
受け流す選択肢は即座に排除。避けてしまったら床に大穴が空くのは明らかだから。ガードを選べば俺ごと床をぶち抜かれるのでこれも無し。
取れる選択肢は一つ。
腕全体に力を漲らせてタイミングを計る。直撃するその瞬間、それこそ皮一枚分の距離で体の重心をズラしてこれを回避。
すぐに両腕でガッチリと師匠の足を挟み込み、背後の壁めがけて放り投げた。
「(まぁ、だよな)」
おとなしく壁に叩き付けられて終わる人じゃない事は分かっていた。
空中で反転。迫る壁を両足で踏み締めて、間髪入れずに壁を蹴りこちらへ帰ってくる。繰り出されるのは飛び蹴りだ。
「っ!!?」
咄嗟に上体を反らす。顎先ギリギリを師匠の足が掠めていった。ホッと一息を吐く暇も無いまま、師匠を捕まえようと手を伸ばす。
が、いったいどんな鍛え方をすればそんな動きを可能とするのやら、師匠は空中で俺の手を躱し、人間離れした変態的な軌道で拳を振り下ろしてきた。
これは避けられないと確信した俺は、自ら右頬を差し出す。やがて感じる拳の感触。即座に拳が向かう方向へ頭を振り、衝撃の勢いを殺した。
その間に体勢を立て直し距離を取れば、師匠も同じく飛び退いて距離を開ける。とは言え休ませてはくれない。
すぐに師匠が上段蹴りを放ち、そして俺もまた合わせるようにして右上段蹴りを放つ。
互いの足と足が交差、衝突。尋常ではない衝撃を感じながら、さぁ次は何だと身構えようとした、その時。
「……んぁ?」
間の抜けた声が聞こえた。途端、師匠がフラフラと覚束無い足取りで後退し、そのまま背後にあったベッドにぼふんと腰を下ろした。
虚ろだった目には光が灯り、パチクリと瞬きを数度繰り返して、やがて見事な大あくびを披露。
この反応……ようやくお目覚めのようだ。
やれやれまったく、今日も肝を冷やされた。あと何日生き残れるかな俺。
「ん〜……おはよう」
「おはようございます。今日は覚醒まで早かったですね。あと数発は覚悟してましたよ」
「タイミングがよかっただけだと思うぞ。ちょうど眠りが浅い時だったんだろうさ。
……ん、今日は壁も床も破損無しか」
「そう何度も壊されてたまりますか。直すの俺なんですよ?」
「成長したな。師として鼻が高い」
「いい加減に寝起きの暴れ癖を直してくれれば、もっと誇れる師匠になりますがね」
「あ〜、それは無理な話だ。芯まで染み付いちゃってるから。あっははは〜」
何事も無かったようにカラカラと笑う師匠に苦笑を零す。
白く長い髪に白いまつ毛、銀色の瞳に白い肌、まさしく全身を白で統一したこの人こそが俺の師匠。
スラリと伸びた長い足と誰もが振り向く美貌は、同性すらも虜にしてしまう程だ。
名をリズリア・ヴァレンタイン。愛称はリズである。
「ん、この匂い……ベーコンを焼いたな。あとは昨日のカボチャスープか」
スンスンと鼻を鳴らして師匠が朝食の内容をピタリと言い当てる。犬並みの嗅覚は相変わらずなようだ。
「大正解です。早く着替えて下りて来てくださいね?」
「ああ、分かった」
寝起きの暴れ癖と壊滅的な料理スキルを除けば、しっかりとしているのが俺の師匠。だから返事の通り師匠が二度寝をする事はまずありえない。
安心して部屋を後にし扉を閉める。
そしてその場で膝に手をついて大きく息を吐き出した。
「はぁぁぁ〜……」
いやぁ、相変わらず生きた心地がしなかった。
無事な自分に心底驚きだよまったく。無理やりな姿勢制御から振り下ろされた拳にはかなり焦ったな。
これが毎日の日課。
朝を迎える度に俺は寝ぼけた師匠と殺し合う。弟子である俺だからこそ出来る芸当だ。一般人はまず生き残れない。
いい加減直してほしいと思う反面、仕方ない事だと割り切る自分も居る。
と言うのも、かつて師匠は冒険者ギルドに所属する冒険者だった。
特定のパーティを組む事は無く、いつも単独で行動する師匠だからこそ、こんな悪癖が付いてしまったと言える。
曰く、冒険者は野宿が基本である。そして自分は基本的に1人である為、寝ている所を襲われては対処が遅れる。
故に寝込みを襲われる事を前提として付けた癖が、自分の眠りを害する輩を問答無用で迎撃する半覚醒モードだった。
この癖のおかげで、師匠はこれまで一度たりとも奇襲を受けて傷を負った事が無いらしい。
素直に凄いとは思う。俺ではまず出来ないだろう事を当たり前のように実行できる師匠は、やはりとんでもない実力者だと。
だが、それはあくまでも1人で野宿をしている時ならの話だ。家で寝ている時くらい忘れて欲しい。主に俺の安全の為に。
まぁ直してくれと言ったところで、さっき師匠が言った通り体の芯まで染み付いてしまっているから絶望的だろう。
冒険者だった頃の名残として受け入れる他ない。
「(明日も無事でいられますように)」
人知れず心の中でお祈りを済ませて、俺は足早に階段を下って行った。
キッチンへと戻り、途中だった朝食の盛り付けに取り掛かる。
木製の皿にカリカリに焼いたベーコンとタマゴサラダを乗せて、温め直したカボチャスープも別の皿へと注いだ。
食料庫から黒パンを取り出してテーブルの上へ。最後にリーベルさんから貰ったトマトをナイフでスライスしてタマゴサラダの横へ飾り立てれば……よし、完成。
「おぉ、トマトじゃないか」
ふと声が聞こえた。タイミング良く全ての準備が終わった所へ師匠の登場である。
既に寝巻き姿からいつものスタイルへ着替え済みのようで、上等な革ズボンにブーツを履きこなし、上は簡素なシャツ1枚という出で立ち。長い髪は後ろで一括りにされていた。
「あ〜む」
「行儀悪いですよ」
「かはいほほいふは」
テーブルに置かれたままだったトマトの山から一つだけ掴み取り、師匠が豪快にかぶりつく。
普段はつまみ食いなどしないくせに、好物のトマトを前にするとこれだ。
あっという間にトマトを一つ完食。指についた汁をペロリと舐め取り師匠が椅子に座った。
早く食うぞと言わんばかりの視線を一身に受けながら、はいはいと肩を竦ませて俺もテーブルにつく。
「それじゃ、頂きましょう」
「ん」
短めのやり取りを終えた俺達は、会話もそこそこに朝食を食べ進めていくのだった。
──……。
「ところでレド、今年でいくつになった?」
「はい?」
朝食を食べ終え、食器類を洗っていた俺の背中にかけられたそんな言葉。肩越しに師匠を振り返ってみると、何やら真剣な面持ちで俺を見ていた。
質問の意図は分からないが、師匠の事だ。意味の無い事ではないだろう。
「19ですね。あと一月も経てば20ですが、それが何か?」
「そうか、もうそんなになるか。んー……」
今度は難しい顔して考え始めてしまった。
これは長くなりそうだな。今のうちに手早く洗い物を済ませて鍛錬の準備をしよう。
「……レド」
「今度は何です?」
俺の勘は外れて意外と早く師匠が口を開く。
しかし今度は振り返ることは無く、コップを洗おうと持ち上げた。
「結婚する気はあるのか?」
「はっ?」
あまりにも予想外かつ突然過ぎる質問が俺を背後から貫いてきた。その衝撃の破壊力は凄まじく、手に持っていたコップを落としてしまった程だ。
慌てて床に落ちる前に拾い上げようとする。そんな俺よりも早く、落下していたコップが俺の目の前から突如として消えた。そこにハラリハラリと舞い落ちるのは俺の髪の毛数本。
コップは消失した訳ではない。屈んだ状態で視線を動かせば洗い台の下にコップが張り付いていた。
正確に言えば、コップの持ち手の空洞部分にナイフが通っており、それに引っかかる形でぶら下がっている。
どうやら今の一瞬で師匠がナイフを投げてコップの窮地を救ったらしい。相変わらず人間業じゃないな。
「気を付けろ」
「今のは師匠にも非があります。突然何なんです、かっ」
ジト目を師匠に向けながら、ナイフの持ち手を掴んで引き抜きコップを回収。意趣返しとしてナイフを投げて返す。
「まぁ一応確認したくてな」
投げたナイフは軽く指でキャッチされてしまった。師匠は特に気にした風もなく山盛りトマトの一つを手に取ると、テーブルの上に足を投げ出して手にしたナイフでトマトを切っていく。
輪切りにされたトマトを口へ放り込み、何やら意味ありげな視線を俺に向けてきた。
「で、どうなんだ?」
「結婚云々の話でしたら、ありえないとだけ言っておきます。それは師匠もよく分かっているでしょう?」
「女に対する憎しみは未だ消えず、か」
「……」
師匠の言葉にズキリと胸が痛む。だが気にした様子は見せず、俺は洗い物に意識を移し背を向けた。
女、恋愛、結婚。その手の話題は嫌いだ。
今までこういう話は出してこなかったのに、何故このタイミングでそんな事を聞いてくるんだ。
「ユナはどうだ? 誰から見てもお前に夢中の恋する乙女じゃないか。あれは尽くすタイプだぞ? 逃すには惜しいと思うがな」
そうだな。確かにユナは魅力的な女性だろう。
容姿はもちろん、性格も申し分ない。事実、この村には彼女に想いを寄せる若い男は多い。毎年何人もユナに愛の言葉を伝えては振られている。
そんなユナが俺に対して特別な想いを抱いている事はもちろん知っている。
朝のようなやり取りは一度や二度ではなかったし、そんな事を何年も繰り返していればどんなに鈍い男だろうが嫌でも気持ちに気付く。
……とは言え、だ。
「ユナは友人です。それ以上でも以下でもない」
「女が嫌いか?」
「えぇ、大嫌いですね」
「泣けるな。私も女だし、このトマトをくれたリーベルも一応女なんだぞ?」
「この村の人達は好きですよ。人として、ですけれど。
師匠に関しては恩人な上に尊敬に値する人ですから、単純に好き嫌いで分けたくはないです」
「お、何だ私狙いか? いいぞ大歓迎だ。家事の出来る男は貴重だし、何より私の寝起きに付き合える男はそう居ない。私と添い遂げるか?」
途中一悶着はあったものの洗い物は無事に終わり、濡れた手を拭きながら再びジト目で師匠を見つめる。
「好き嫌いで分けたくないと言ったばかりですよ。それに一生師匠の寝起きに付き合うのはゴメンです」
「ん? 今私、振られたのか?」
「結果的にそうなるんじゃないですかね」
「なんて事だ。人生初の告白をこうもあっさりと」
「あれを告白と言い張るのは流石に無理があるでしょ……」
師匠はたまに本気なのか冗談なのか分からない発言をしてくるから困る。
今回のは確実に冗談だろう。その証拠に師匠の顔は特段ショックを受けてる風でもなく笑顔だ。
「まぁ直ぐにとは言わないが、何れ女嫌いは直しなさい。歳を重ねれば重ねるほど生きづらくなるぞ」
「善処します」
「それは遠回しに断っているようなものだぞ。……さて、と」
持っていたトマトもペロリと平らげ、徐に師匠が立ち上がる。体をほぐすように一伸ばしして、何やら挑戦的な瞳で俺を見つめて顎でクイッと外を指した。
「出ろ。今日もやるぞレド」
「はい、お手柔らかにお願いします」
「それは無理な相談だ。さっさと準備をして裏へ来いよ」
カラカラと笑って師匠はキッチンを後にした。
これから始まるのは日課の鍛錬だ。1日で一番疲れる時間であり、それ以上に得る物が大きい時間でもある。
師匠を待たせる訳にはいかない。
キッチンから出て階段を駆け上がり、自室へ。古い木造の衣装棚を開いて、中から取り出したのは簡素な革鎧と一振の両刃の剣。
武器防具共に特別な物では一切なく、師匠と共に街へ赴いた際、自分の貯金で購入した安物だ。安物という事はつまり壊れやすい。故に鍛錬の度にどこかしら破損するのがお約束。
革鎧はその度に修繕を繰り返しているので、もう見るからにボロボロである。繋ぎ目がいつちぎれてもおかしくない状態だった。
剣に至っては刃こぼれも酷く、折れていないのが不思議な程だ。鞘から抜くにも刃こぼれした部分が引っかかって抜きにくい事この上ない。
柄の部分も俺の血と汗で随分と汚れている。
いい加減買い替えるべきだとは思うが、ここまで使い込んでいたら大なり小なり愛着が湧いてしまうもの。
せめて本当に使い物にならなくなるまでは、これらを使い続けるつもりだ。
「(さて、今日の鍛錬は何をするのかな)」
鍛錬の内容は師匠の気分次第で毎回変わる。そういった部分も楽しみにしている俺はおかしいだろうか。
そんな事を思いながらも慣れた手つきで鎧を着込み、剣を腰にかけて俺は部屋を後にした。