#1 脱出
何分ほど、ずっと見惚れていただろうか。少女の美しさに心を奪われていたロンドは、視界に『カプセル開放』と書かれたボタンが目に入ったことで我に返った。
どう考えても押したらヤバそうなボタンだが、どっちにしろこんな非常事態下にあり、しかも入るだけで軍機に触れそうな部屋に入ってしまったロンドにとってはぶっちゃけ関係ない話であった。それよりも、どういう経緯かは不明にせよ、少女がカプセルに監禁されているという状況は少なからず良心が痛むものがある。
多少の逡巡はしたが、押したところで誰も咎める人間はいない。そう思い込むことで不安を押し込み、ロンドはそのボタンに手をかける。ボタンに何重にもかけられたカバーを取り外し、剝き出しになったボタンに掌で触れ、そのまま押し込む。かなり力は必要だったが、しっかりと足を踏み込みながら押すと、じわじわとボタンは押し込まれた。
完全にボタンが押された瞬間、カプセルは眩い光を再び放ちながら開かれる。少女を縛っていたコードは引き剥がされ、液体が漏れ出すのと一緒に少女の体は投げ出された。
「おい、大丈夫か!?」
投げ出された少女の下にロンドが駆け寄った。つんと来る、液体が放っているであろう鉄のような匂いに顔を顰めながらもロンドは少女を抱え、揺さぶる。
カプセルの檻から解き放たれた少女は、しばらくぐったりしたままであったが、十数秒もしないうちに目を開いた。
「……良かった」
安堵するロンドを尻目に、目を開いた少女は――いきなり歯、というより牙を剥き出し、ロンドに飛びかかってきた。あまりにも突然の行動に、ロンドは反応できず、彼女に組み伏せられてしまう。何とか振りほどこうとするが、彼女の力は華奢な見た目には見合わない、というよりうら若き少女が持つにはあまりに分不相応なレベルであり、曲がりなりにも軍人として訓練を受けたロンドですら全く歯が立たなかった。
「離……せ……」
みっともなく懇願するが、少女はロンドのその言葉を聞く節を見せることなく――その牙を首に突き立てた。予想外の行動に、ロンドは驚愕の表情を浮かべるしかなかった。
「な、何を――ッ!!」
そして、寸秒も経たないままロンドは首に激痛を感じる。耐えかねて悲鳴を上げようとすると、少女に手で口を封じられ、無抵抗のまま成すがままにされてしまう。そしてその血の気の引くような感覚と、牙を突き立てられているという状況から、ロンドは一つの結論に辿り着いた。
(血を、吸われている!?)
数秒か、数十秒か。とにかく想定外の事態が起こりすぎて頭が混乱している間に、少女はロンドの血を吸い上げ、そして吸血をやめるとすくっと立ち上がった。恐怖を帯びた目でロンドが見つめる中で、少女は――恭しく礼をした。
「突然のご無礼、失礼いたしました。初めまして、ご主人」
「は……?」
またも想定外の行動を取り、剰えロンドを『ご主人』と呼ぶ少女に、ロンドはとうとうろくな反応を取ることが出来なくなっていた。それを見た少女は、フォローするように静かに告げた。
「ま、待ってくれ。俺には何が何だか分からない。説明をしてくれ。なんで君は俺の血を吸って、俺のことをご主人なんて呼ぶんだ!?」
ロンドが説明を求めると、彼女は少し首を傾げる。
「私の目を覚まし、そして血を吸わせてくれたのがあなたですから。従者たる私があなたを主と呼ぶことに何の不思議がありましょうか?」
「……君は、一体――」
何を当然のことをというように聞く少女に、その素性を聞き出そうとすると、ロンドたちの後ろから足音が聞こえてきた。
「……まずい」
後ろを向くまでもない。何とかして地下8階に辿り着いた武装勢力の戦闘員が、ここまで来てしまったのだ。
「どうかしましたか?」
「敵が来た。逃げられるかはわからんが、この部屋のどこかに裏道があるかもしれない。俺はここで足止めする。君は早く逃げ――」
「分かりました。主、私に命令してください」
「は?」
見当違いなことを言い出す少女に、ロンドは何度目か分からない頓狂な声を出してしまう。
「話を聞いていなかったのか?もうすぐここに武器を持った敵が来る。俺が止めるから君は逃げて――」
「ですから、従者たる私がご主人を見捨てて逃げるわけにはいきませんと申し上げているのです」
「……どうすればいいんだ」
ロンドは頭を抱えるしかなかった。しかし、圧倒的不利な状況と言えども少女一人逃がせず死ぬのは男として情けないことこの上ない。どうするかと難儀しているうちに――連中は見える範囲までやってきた。
「おい!誰かいるのか!」
「動くな!動くと撃つぞ!」
戦闘員と思しき男たちが声を張り上げ、しかも威嚇射撃のつもりか見当はずれな方向に撃ってきた。数十分前に潜り抜け、そして再び迫ってきた命の危機に、心臓の動悸は加速し、足は震えてきた。
(もうこの際、この娘の言うことを聞いておくか)
何も打開策が思い浮かばない状況は、ロンドに諦観のような意思が芽生えてきた。寸刻前に決意したはずの犠牲となる覚悟は縮こまり、ロンドは半ば自棄になり、神にも縋るような気分になりながら少女に言った。
「……そこまで言うなら君を信用する。この部屋……いやこの施設にいる敵を全員殺してくれ」
「承知しました。少し、得物を拝借しますね」
それだけ言って、少女はロンドが肩に下げていた小銃を素早い動きで奪い取ると――先頭を歩く戦闘員の方向に向かって跳んだ。軽く十数mはあるであろう距離を一跳びで詰めた少女に対し、戦闘員は驚愕の声を上げる。
「なんだこいつ!?」
「怯えるな!たかがガキ一人だ、何とでも――」
目の前まで距離を詰められた戦闘員たちはその銃を少女に向ける。
「あなたたちに恨みはないけど――命令なので、ご寛恕を」
しかし少女は放たれた銃弾を人間離れとしか言いようがない機動で躱し、小銃につけられた銃剣で先頭にいた2人の戦闘員の頭を刎ね飛ばした。いきなり目の前で仲間の首が飛んだことによって恐怖に取り憑かれたためか、少女に浴びせられた銃撃が一瞬止まった。
その隙をついて少女は殺した戦闘員から武装をはぎ取り、銃器をこちらに投げてくる。受け取ったそれは外国製の高性能小銃であった。なぜこんなものを武装勢力風情が……という疑問は、すぐに起きた爆発音でかき消された。少女が戦闘員から奪った手榴弾をその場で炸裂させ、集団ごと吹っ飛ばしたのだ。
「……え?」
要は自爆である。さすがに超人的な身体能力を持つ少女とはいえ、手榴弾の直撃を受けて無事でいられるはずがない。小銃を急いで構え、彼女がいた場所まで駆け寄る。煙が晴れたその先には――
「一通り片づけました、ご主人」
「……嘘だろ?」
傷こそついているものの、五体満足な状態の少女がいた。当然だが、彼女の周りにいた戦闘員たちは全員無残な死体と果てている。
「君は……一体何者なんだ」
「人ならざる者である、とだけは申しておきます。それ以上については、落ち着いてからお話いたしましょう。それより、これからどうしましょうか」
少女はこれだけの惨状の中、淡々と応える。身体能力だけではなく、精神力までも化け物じみているようだ。
「……取り敢えずここから脱出する。詳しい話はそれからしよう」
「了解しました。私はここの構造は知りませぬので、道案内はお任せしますね、ご主人」
「分かった。すぐに出発しよう」
自らの判断でとんでもない少女と行動を共にすることになってしまった。しかし、彼女によって命を救われたのは事実なので、彼女がそれを望む以上、一緒に行動することは双方にとって害はないはず。そう言い聞かせ、ロンドは少女と共に部屋を出た。
――――――――――
狭い施設内の戦闘で、少女の身体能力は遺憾なく発揮されていた。各階に配置されていた戦闘員の数は多かったものの、武装勢力側もこの施設の構造は把握していなかったようで、特に下の階は分散配置されており、会敵した途端に少女に先手を取られ銃を構える時間を与えられぬまま殲滅される、なんて事態も多かった。
「……何をしているのですか」
「いや、気にしないでくれ。外に出てから色々とやらないといけないことがあるからな。それのために備えをしているだけだ」
ロンドと少女は地下1階の敵を掃討し、脱出するための最後の準備を行っていた。ロンドは司令室であるものを探している。
「……あった」
戦死した警備隊長のものと推測される制服のポケットから目的のものが見つかり、静かに手を握る。少女は、それを覗き込んできた。
「何ですか?それ」
「パスポートだ」
「ぱすぽーと?」
目的のもの、高級将校専用の列車乗車許可証を示す。この国では人民保衛隊に所属する中隊指導者以上の士官に様々な特権が与えられており、その一つが警察組織として捜査を行う際の移動手段に困らないように与えられている無償での乗車許可だ。
「地域によるが無料で列車に乗れる手帳だ。これがあると色々便利だと思ってな」
「なんでそんなものを?」
「詳しくは後で話す」
パスポートを拝借し、ついでに偽装のために制服も拝借する。もう取るものはないかと見回すと、金庫が見えた。金庫の錠前が壊れているのを確認すると、扉を開けて中に入っていた小さな袋を取り出す。中身をちらっと見て、それを懐に入れる。
「探してたものも見つかったし、早くここを出るぞ……とその前に、君も着替えてくれ。俺は先に外に待っておく」
用事を終え司令室に出ようとしてから少女の服装を見て、少女を一旦引き留める。部屋の中に置かれていた予備の制服を持ってきて、彼女に差し出した。
「ありがとうございます。それでは失礼して」
「あぁ、待っている」
着替えを終え、さっきまでの露出が激しい装甲服から、サイズが若干ズレているような感じはするもののそこまで違和感はない制服に着替えた少女と共に、ロンドは階段を上って施設の出口までたどり着いた。外に人がいないことを確認すると、素早く外に出る。一緒に周りを見回すと、警備隊によって放棄されたと思われる装甲車が目に入った。
「あれを使おう」
「分かりました」
兵士や戦闘員が周りにいないことを確認してから、ロンドたちは装甲車に乗り込んだ。車両をよく確認したところ、いくつか弾痕こそあれど燃料タンクには十分な燃料があり、車載機銃なども正常に駆動するようだった。
「よく掴まっておけよ」
「はい、わかりました」
この時、ロンドは間違いなくヤバいことに関わってしまったということは理解しており、それは間違ってなかった。
しかし、見当違いなことがあるとすれば――それは彼自身の人生を大きく変える転機となるレベルの面倒ごとであったということである。