(2)その人具合でも悪いんですか
時刻は昼過ぎ、アリシアはジンの奥さんからもらったアップルパイを頬張っていた。口の周りにはパイのかすがついていて、リスのように頰をパンパンにして食べている。
サクサクのパイ生地にフォークを入れると、中はしっとりとしたリンゴがたっぷり。
「んー、美味しいっ! 」
パイ生地のコクと甘み、林檎の酸味が口の中で溶けあってたまらない。サクサクぱくぱくもぐもぐ。あっという間に平らげてしまった。
ぼちぼちと客を迎え、薬を調合し、商品を陳列する。平和な午後だ。
夕刻を迎え店を閉めたが、この時期は日が落ちるまで時間がたっぷりある。今日はジンからの臨時収入が入ったので、アリシアは特別に外食をするつもりだった。食べることが大好きがゆえに、この街の誘惑はつらい。うすい財布と相談する毎日なのだが、今日はその誘いに乗るらしい。と言っても行くところは決まっている。
アリシアは何度も髪を撫で付け、服に汚れがないかチェックした。一張羅のよそ行きワンピースに着替えて向かった先は、極東の島国料理が食べられる飯屋だ。名をヤタガラス亭という。
ノレンと呼ばれる、カーテンを半分に切ったような布をくぐり抜けると、そこには数人の客がすでに晩飯を食べていた。店内は広くなく、カウンター席が四つと、四人掛けのテーブルがふたつだけだ。この店は主人が一人で切り盛りしている為、この規模が丁度良いとのこと。空いていたカウンターの一つに腰かけると店主の若い男が一杯の水と暖かいおしぼりを出してくれた。
「やあ、アリシアちゃん。いらっしゃい 」
名前を呼ばれたアリシアはかあーっと赤くなる。どうやらこの男が気になるようだ。
「こ、こんにちは、マサキさん」
マサキというのはこの店の主人の名前である。若いながらに店を繁盛させ、街の連中からは一目置かれていた。スラッとした体躯に黒目黒髪のエキゾチックな風貌の青年だ。年齢の割に幼く見えるのは顔立ちもあるだろうが、肌がきめ細かく美しいのもあるだろう。爽やかで甘い笑顔はこの街の女性の視線を熱くとらえていた。
「おまかせ定食ください」
この店の料理は遠く離れた極東の料理だけあって珍しいものばかりだ。しかし、材料が手に入りにくいのもあるのか、値段はそこらの飯屋よりは少々高い。その中でアリシアの頼んだおまかせ定食は、値段がまあまあ安い上に美味しいと評判の人気の料理だった。
「はいよ、了解 」
そう言ってニッと笑うマサキに、アリシアは脳がとろける思いがした。
◇
「今日もおいしかった…… 」
満足げにお腹をさする彼女は、マサキの料理を天下一品だと思っている。おまかせ定食は、食材の仕入れやマサキの気分によって内容が変わる。一人目の客と二人目の客で内容が違う時もある。基本は炊きたてのご飯、出汁のきいたお味噌汁、食感のいいお新香。これだけでも充分幸せを感じることができる。そしてメインのおかずがあるのだが、今日は脂の乗った魚の塩焼きだった。米つぶひとつ残す事なく平らげた彼女は、とても幸せなひと時を過ごしていた。
「あ、そうだ。アリシアちゃん、これ味見してみない? 」
客がアリシアだけになった時、マサキがふいに話しかけてきた。
「へっ? あっ、食べます、食べます! 」
言った後にアリシアは後悔した。即答するなんて食い意地の張った女だと思われただろうか、でもこんなチャンス滅多にない、と青くなったり赤くなったりだ。
マサキは小さな皿を持って、アリシアの隣の席に座った。何か小さくて赤い、キラキラした物が皿に乗っている。
「これ、甘納豆って言うんだ。こないだ市場で買った豆で作ってみたんだけど、こっちの人の味覚に合うか意見を聞きたいんだ 」
そう言われてマサキの手元を覗くと、皿にいくつか小さいものが並んでいた。ザラザラとしたもので覆われているが、どうやらその中身はいつも見慣れた赤い豆のようだった。ザラザラしているのは砂糖だろうか。アリシアは食い入る様に皿の中を見つめる。
「ほら、これ 」
皿の中からひと粒指でつまみ、アリシアに見せる。綺麗な仕上がりだ。
「豆を柔らかく煮たあとに砂糖をまぶして、乾燥させたものなんだ 」
白砂糖は高いから粗糖を使ったんだけどね、と付け加えたマサキはにこりと微笑む。へぇ、とアリシアは相づちを打った。甘いものは大好きで、さらに大好きなマサキの手作りとなれば、そうはもう味見などせずとも大好きに決まっている。
「口あけて。はい、あーん 」
子どもに言い聞かせるように言われ、アリシアも反射的に口を開ける。するとマサキが持っていたひと粒が、口の中にポイッと入ってきた。一瞬、マサキの指がアリシアの唇に触れた気がした。
「……ぐ、」
突然のことに驚いてむせそうになる。しかしすぐ、この甘納豆の甘みに舌鼓を打つ。噛んでみると思った以上に柔らかく、ホクホクとしていた。食べ慣れた豆の風味が鼻に抜ける。
「なにこれ、すっごく美味しい…… 」
砂糖の甘みと豆の味が絶妙に合っている。豆といえば料理に使うものなので、甘い豆なんて発想がなかった。だけどこれは素朴ながらも美味しい。
「そういってくれると嬉しいな 」
マサキは目を細めて笑い、自分の指についた砂糖をペロリと舐めた。赤い舌が妙に艶かしい。アリシアの脳は一気に沸騰寸前になった。
「じゃあこれ、味見してくれたお礼にあげるよ。包んでくるから待ってて 」
そういうとマサキは席を離れ、厨房に戻っていった。アリシアはテーブルに突っ伏す。顔は真っ赤で足をバタバタさせている。
「マサキさん、それ反則だよぉ…… 」
小声で嘆くも、それはマサキに届くことはなかった。
◇
アリシアの店は小さい薬局だ。医者にかかるまでもないが少し調子悪いな、という時のお店で、胃薬、軟膏、湿布、包帯などが置いてある。なかでも一番売れているのは酒酔い関係の薬だ。悪酔いを防止する薬、二日酔いを軽くする薬。これらは先代の父が酒に弱かった自分の為に調合したものが始まりで、スズムシ薬局の看板商品でもある。
酒飲みが集まるこの街は、基本的に酒に強い人間ばかりだが、それでも二日酔いする人間は後をたたない。あっちでオエオエ、こっちでアタマイタイー。そんな彼らへ送る女神のほほえみ。それがスズムシ薬局の薬だった。
そんなスズムシ薬局に、ジンが慌てて飛び込んできた。肩に誰か担いでいる。尋常ではないその雰囲気にアリシアは目を丸くした。
「どうしたんですか? その人、具合でも悪いんですか? 」
ジンが担いできたのは、隣の宿屋ふわふわのヒツジ亭の客だった。酷い二日酔いに見舞われているらしい。全く酒が飲めないのに飲んでしまったという事だった。フード付きマントをすっぽり着込み、背格好から男の様だとしか分からない。グッタリしていてアリシア達の会話も聞こえていない様な状態だった。
例のアレをやって欲しいとジンは頼むが、アリシアは素直にウンと言えなかった。このフードの男が誰だかよく分からないからだ。もちろん、普段世話になっているジンの頼みなら無下にしたくはない。だけどアリシアのこの力は、一見さん御断りなのだ。下手にやって噂を広められたら困る。最悪なのはマサキの耳に彼女の運動音痴が伝わることだ。恋する乙女の悩みはいかなる案件であっても切実である。
しかしジンも非常に困っていた。何でも、自分が酒を勧めたらしい。酒に弱いとは言っていたがこれ程までとは思わなかった。「エールをたった1杯だぜ?」とまるでオバケをみるような目つきでフードの男を視線をやる。アリシアは仕方なく条件付きで引き受ける事にした。一つはこのフードの男に目隠しをする事。二つ目は回復したらすぐジンが連れて帰る事。お互い詮索無しだ。三つ目は、ジンの奥さん特製アップルパイ。もちろん別に料金は頂く。
乙女の恥を切り売りするんだから、貰うもの貰わないと! とアリシアは言う。素晴らしい商売根性だ。
ジンは要求をのみ、即座に回復魔法の踊りをする事になった。フードの男を椅子に座らせ、綺麗な手ぬぐいでフードの上から目隠しを行う。ついでに音も聞こえないように耳も抑えてもらう。男は具合が悪そうにうなだれているだけだ。フードの隙間から見事な金髪が溢れていた。
アリシアは気合いを入れ、例のアレを踊る。椅子に座らされ、目隠しまでされたグッタリした男。その目の前には奇天烈な踊りを笑顔で踊る女。側に控えるジンが引きつった顔で笑いをこらえている。でも時々「くっ 」とか「ぷっ」とか声が漏れている。おい、こらえきれてないじゃないか。
天に両手を掲げ、ヤケクソで思いっきり笑顔で踊ってやった。上手いか下手かは置いといて、アリシアは踊る事自体は好きだった。願わくば、以前踊りを教えてくれた女性ダンサーのように踊ってみたい。……まあ無理だと思うが。
フードの男がぽわっと光に包まれた。すぐさまジンはフードの男を肩に担ぐ。「さ、戻りましょう!」とだけ言うとジン達ははそそくさと自分の店へ戻っていった。その場で立ち尽くすアリシア。フードの男がつけていたのか、香水の甘い匂いが部屋に残っていた。
「……いったい誰だったの」
後から謝礼という名のアップルパイが1ホールと、いつもよりだいぶ多い料金が届けられ、アリシアはこんなに貰えないと訴えた。しかし料金は全てあのフードの男がアリシアへと出したらしい。こんな大金をポンと出せる謎のフードの男は何者か。ジンはあの男を知っているふうだったが教えてはくれなかった。アリシアは全くもって恐ろしい予感しかしない。
でも考えてもしょうがない。ふっとため息をつき、アリシアはとりあえずヤタガラス亭へと足を向けた。財布いっぱいの臨時収入。そしてひとりでは食べきれない大きなアップルパイ。これはマサキのとこに行くしかない。
「おすそわけ、マサキさん喜んでくれるかな。あー、ドキドキするぅ!」
瑣末な不安は頭の片隅においやって、アリシアはマサキに会える嬉しさからルンルン気分だった。本人が無意識でスキップしていたのだからよっぽどだろう。るんたった、るんたった。実際はばったんこ、ばったんこ。壊滅的なスキップを町中にさらしながら、アリシアはヤタガラス亭へと向かった。なお、そのスキップを目撃した通行人は腹を抱えて笑っていたようである。




