第99話
昏睡した陽羽を見下ろして、幸雄はため息をついた。城の庭園で倒れてから、陽羽は目覚める兆しはない。
エーラの屋敷の一室で、幸雄は陽羽の手を握りしめた。
「陽羽さん…目覚めませんか…」
エーラがそっと後ろから声をかける。幸雄は力なく頷いた。
「ですが…もう遅いですし…そろそろお休みください」
「…もう少ししてから休む。ありがとう」
有無を言わせない目力に、エーラは渋々と部屋を後にした。
海は戦闘があったにも関わらず無傷だったらしい。洋子、澪、エーラは負傷したが、エーラと舞夜の治癒魔法によって、歩けるまでには回復した。
幸雄の右手はまだ時間がかかるらしく、痛々しい包帯が巻かれていた。
しかし今は自身の傷の痛みはきにならなかったあ。血色の悪い陽羽の顔の輪郭をそっとなぞる。返ってくるのはか細い呼吸だけだった。
「陽羽…」
こうして名を呼ぶのは何度目だろうか。それでも彼女は目覚めない。さらり、と髪を撫でて、陽羽の手を握る。やがて、重くなった瞼をそっと閉じた。
瞬きをするようにして、目を開けた瞬間。目の前に移る景色が一変した。一面真っ白で、右も左も上も下も分からない。
「ここは…」
ゆっくりと一歩ずつ歩いてみる。しかし何故か『そっちではない』と言われている気がした。
その声に従ってある一定の方向に向かって走り出す。ここに、陽羽がいる気がした。
なんの根拠もない、幸雄の思い込みだとしても。自身の中にある直感を信じて。
大切な、彼女の名を呼びながら。
ふわふわ。
身体が鉛のように重い。それなのに浮遊している感覚。ぼんやりと目を開けて、辺りを見渡す。
黒い靄のようなものが身体にまとわりついている。自身の腕を見ると、白かった肌が黒く染まっていた。
この黒い靄の正体等、とっくに気がついていた。
アルターの魔力だ。
「………」
陽羽は先程、この魔力を受け入れてしまった。拒んでいた運命を、受け入れた。
胸が締め付けられ、頭がどんよりとして重い。そんな中、透き通るような凛とした声が響き渡った。
「陽羽」
優しく名を呼ばれ、おもむろに目を見開いた。すとん、とその声は陽羽の心に落ちた。
「陽羽…いつまでここにいるつもりだい…?」
「………お父、さん……」
黒い靄の塊の外から、陽羽の父でありアルターの兄、ディツェンバーがにこやかに微笑んだ。
「…どうして…?」
何故父がここにいるのか。
ディツェンバーはふふっ、と小さく笑って答えた。
「緋月陸から、お守りとして魔石を貰っただろう?あの中には、僕の魔力が…少しだけど込められていた。いざって時に…こうしてお話出来るように」
「………」
「陽羽。今ならまだ戻れるよ」
「………どこに…」
絞り出すようにか細い声で口にする。ぽろぽろと涙が頬に伝って落ちる。
「居場所なんて…もう…どこにもないよ…」
「…そうかな?陽羽は一人じゃないと思うけど」
「………」
「………ん?」
ふと、ディツェンバーは顔を上げた。そして、ふっ、と頬を緩めた。
「朗報だ、陽羽。今お前がいる闇の外に…長月君が来てる」
「………!」
鼓動が早まる。来てくれて嬉しいという喜びと、何故来てしまったのかという悲しみが混ざり合う。そんな陽羽を知ってか知らずか、ディツェンバーは黒い靄の周りをぐるぐると歩く。
「さぁ、こんな辛気臭い所、早く出てしまおう。お父さん、魔石の中からずっと見てたけど、長月君に一言言いたい事が」
「やめて!!」
悲鳴に近い叫びに、ディツェンバーは歩みを止めた。
「……どうして…来ちゃったの…嫌っ…」
「…会いたくないのかい?彼は…お前を探してここまで来たんだと思うけど」
「…会いたいよ…でも…でも…!私は…前の私じゃないの…」
今の陽羽は純潔を失った。生娘を無くしただけではない。アルターの魔力を受け入れ、アルターを殺めようとした。その事実は陽羽の心に重くのしかかった。
「穢れてしまった私なんて…長月君も会いたいはずない…」
「それは違うと思うよ。陽羽。長月君はここまで来てくれた。その事実は変わらない」
「お父さん…」
涙を拭って、陽羽は光のない目を声のする方向へ向けた。
「長月君はね…優しい人なの。家を追い出されて彷徨っていた私を助けてくれたのだって…善意であって好意じゃないもの」
自嘲気味に目を細める。ディツェンバーは少し考えてから言葉を紡いだ。
「…人はそこまで出来てないと思うよ。僕が言うのも何だけど。赤の他人のために、命懸けで守る?身寄りのない子を傍に置いてくれる?」
「………」
「善意でそこまでしないよ。大丈夫。お前は…お前が思う程以上に彼に愛されてる」
言葉が出なかった。止まりかけていた涙がまた溢れ出てくる。顔を覆って、込み上げてくる嗚咽を押し殺した。
「自分で考えなさい。このまま闇の中に囚われて全てを投げ捨てるか。ここを出て前に進むか」
その時だった。待っていた声が。求めていた声が。聞こえた。
「陽羽ーー!!」
「………長月…君…っ……長月君…!!」
闇を振り払うようにして、薄らと見える光の方向へ走り出す。途中何度か足をもつれさせて、それでも視線は光から外さない。
手を伸ばすが再び闇に引きずり込まれそうになる。
必死にもがいていると、誰かに手首を掴まれた。
「陽羽!!」
「……長月君…!」
ぐいっ、とそのまま引っ張られ幸雄の胸に飛び込むようにして闇から発した。
黒く染っていた肌が、元の透き通るような白い肌に戻っていく。輝きを取り戻した瞳を潤ませて、幸雄の背に腕を回した。
「陽羽…良かった…良かった…!」
ぎゅっ、と力強く、それでいて優しく抱きしめられる。そうだ。求めていたのは、この温もりだった。
「長月君…ありが…とぅ…」
急に眠気に襲われ、陽羽の意識はそこで失われた。
ふっ、と倒れそうになった陽羽を支え、幸雄は陽羽を見つめた。
「やぁ、長月君」
安堵していると、一人の男性が幸雄と陽羽の前に現れた。銀色の髪をした、鋭いつり目の男性。しかし纏う雰囲気は柔らかく、どことなく陽羽に似ていた。
「貴方は…」
「僕は陽羽の父、師走満。又の名を、先代魔王ディツェンバー」
その言葉に幸雄はハッと目を見開く。構わずディツェンバーは口を開いた。
「ずーっと君に言いたい事があったんだ。といっても、僕はあんまり強く思ってないから、妻の代弁になるのかな」
「な、何ですか?」
ディツェンバーはすぅ、と深く息を吸って、眉根を寄せた。
「君のような男に娘は渡さん!!」
「……………」
しばしの沈黙。呆気に取られた幸雄はまじまじとディツェンバーを見上げる。
「……はははっ。僕の妻がよく言ったんだ。こんな可愛い娘を腑抜けた男にやるか、って」
ディツェンバーは歯を見せて笑った。まるでいたずらを仕掛けた子どものような笑みに、幸雄は戸惑うしかなかった。
「は、はぁ…」
「でも、君はここまで来てくれた。陽羽を助けてくれた。あの世で僕が妻を説得しよう。……長月君、いや、幸雄君。陽羽を…愛してあげてくれるかい?」
おちゃらけた雰囲気から一転して、目を細めて、凛とした声で問う。幸雄は力強く頷いた。
「はい」
「……任せたよ…」
ディツェンバーがそう言うと、すでにそこに彼の姿はなかった。役目を果たしたので、消え去ったのだろう。
腕の中で眠っている陽羽を見つめて、幸雄は目を伏せた。
「……帰ろう」




