第89話
─人間界─
陽羽が連れ去られて、幸雄達が魔界に言ってから一週間が経った。空には美しい三日月が浮かび上がり、沢山の星が輝いていた。
街灯がついているとはいえ、足元は暗く、寝不足の伊央にとっては危険な道のりであった。
ふらりと足を覚束せては何もない所で躓く、を繰り返し、会社から屋敷へ帰る。
「あぁぁぁ…休みが欲しい〜…土日休みたい〜…天変地異起きて会社だけ潰れてくんねぇかなぁ…明日朝起きてたら会社が瓦礫の山に…あ、書類消えたら困る」
ぶつぶつと呟きながら歩き、またもや何もない所で躓いた。 かけていた眼鏡が顔から外れ、飛んでいってしまう。
手に持っていた鞄も放り投げるようにして手放してしまい、深いため息を吐きながら上体を起こした。
「あぁぁぁ…課長のズボンのケツの部分破けねぇかなぁ…人に残業押し付けてキャバクラなんざ行きやがって…ズラ取れろ…!ズボンのケツの部分破れろ…!そんでもって嬢に引かれちまえ…!!」
辺りに人がいないのが幸いだろう。悪態をつきながら眼鏡をかけ直し、はぁ、とため息をついた。
「アホくさ。つか明日会議じゃん…飯食って練習しよ…」
伊央は人前に立つ事が得意ではない。
学生時代、人前で発表する際にも、部屋で何時間も練習した。それは今も同じだ。ましてや、失敗しなくてもネチネチと小言を言ってくる上司の前だ。失敗はしたくない。
だからこそ戦慄が走った。明日の会議を進めるにあたってのメモ(流石に内容は持ち出せなかった)が入った鞄が、何者かの刃によって貫かれてしまった。
「一番隊睦月…みぃーっけた」
あどけない幼いの声を響かせ、伊央の前に一人の少女が現れる。
鮮やかなビビットピンクの髪をツインテールにまとめている。琥珀色の大きな瞳を伊央に向ける。
そして耳は魔物特有の尖ったものだった。鮮やかなピンク色のワンピースを着こなし、ナイフをクルクルと回して遊ぶ。伊央の鞄に刺さったナイフと同じ物だ。
少女は丁寧にワンピースの裾を摘んでお辞儀する。
「初めまして。私の名前はタウ。以後お見知りおきを」
可愛らしくも美しいお辞儀に一瞥もなく、伊央はわなわなと肩を震わせた。
「………の…この…この…クソガキがっ!!!」
ビクッとタウは肩を震わせた。
「俺は明日大事な大事な…課長をぎゃふんと言わせるチャンスの会議があるんだよ…」
「え?」
「え?じゃねぇよ。テメェの投げたナイフが大事なメモが入った鞄に刺さってんだよ分かってんのかあぁん!?」
「ご、ごめんなさい…」
伊央の剣幕に押され、タウは眉尻を下げて謝罪した。伊央は盛大に舌打ちした後、スーツのポケットからスマホを取り出した。
「ごめんで済んだら警察はいらねぇんだよ!それと、子供がこんな時間に出歩かない。ナイフも危ないから使わない」
「…子供…?」
タウがナイフを投げる。それは伊央が待っていたスマホに当たった。音を立ててスマホが地面に落ち、液晶画面にヒビが入る。
しかし伊央は何も言わず、ただじっと割れたスマホを見つめていた。
「………」
「子供だと!!貴様の目は節穴か!?」
子供と言われたことが癪に障ったらしい。顔を歪めてタウはナイフを振るう。伊央はスーツジャケットのポケットから取り出した魔石を発動させ、剣を構えた。
「俺のメモだけならず…スマホまで…」
目の前の可憐な少女を見据えたまま、伊央は前髪をかきあげた。
「ぶっ殺してやる…」
ぎらりと鋭く目を光らせ、伊央は剣を振りかぶった。軽々と避けたタウは飛び上がってナイフを一気に投げる。
雨のように降り注ぐそれらを剣で弾き、着地したタウに剣を突き出す。
しかし、その攻撃は彼女の横腹を掠めるだけであって、致命傷にはいたらなかった。
「この服気に入ってるのに…何してくれんのよ!!」
怒りに任せたかのようにナイフを伊央の腕に突き刺した。
それを無理矢理振り払い、剣を構え直す。タウもまたナイフを取り出し、真っ直ぐに伊央を睨み付けた。
強く踏み込み、剣をタウ目掛けて振り下ろす。タウはナイフを使って防いだが、伊央の力には抗えずに、仕方なく後退する。
また、ナイフが投げられる。全て薙ぎ払い、接近してきたタウ目掛けて一閃するも躱されてしまう。
「っ!!」
その時だった。伊央の耳に遠くから近づいてくる足音が聞こえてた。
タウがナイフを振り下ろす。伊央は握り締めていた剣を手放し、ナイフを避けて少女の腕と首根っこを容赦なく掴み上げた。
「わぁっ!?!?」
持ち上げられると思っていなかったのか、足をじたばたさせる。そんなタウに構う事なく、伊央はそのまま少女を宙に放り投げた。
訳が分からないまま、タウは伊央目掛けてナイフを投げようと空中で身を引いた。その瞬間だった。
少女の後ろから水色の槍が飛来してきた。背後からグサリと槍が突き刺さり、胴を貫通していた。
「………えっ?」
手に持たれていたナイフを落とし、着地する事も出来ないままに自身も地に落ちる。
全身に痛みが訪れ、タウの身体を淡い桃色の靄が包み込んだ。
「無事かい?睦月」
「槍…投げたんですか?四季さん」
うん、と無表情に頷く空。少女が魔石を残して消えると、伊央はその魔石を回収した。
「屋敷の近くに魔物、だけじゃ分からないよ…全く…」
空はスマホ画面を伊央に見せながらため息をつく。
タウの前でスマホを取り出した時。伊央は真っ先に空に『屋敷の近くに魔物』、と連絡したのだ。
走ってきた空に居場所を知らせるために彼女を投げたのだが、空が槍を投げてタウを仕留めてしまった。
「ちょっと…テンパってて…」
「まぁいいよ。屋敷に帰ろうか」
「はい…」
鞄を抱えて伊央は空と並んで屋敷へ戻った。
この時はまだ、二人共屋敷の惨状を知る由もなかった。




