第103話
屋敷の廊下を走って、走って、ふと誰かにぶつかった。どん、と尻もちをついて、慌てて謝罪した。
「きゃっ!?ごめんなさい!」
「いえこちらこそ…夏木先輩?」
ぶつかった相手は幸雄だった。
「急いでるんですか?」
「………」
転んでしまった宵に手を差し出す幸雄。その瞬間、ぽろぽろと、宵の目から涙が溢れ出てきた。
「!?」
驚いたように目を見開き、幸雄は辺りをきょろきょろと見渡した。
「…どうしよう…私っ、最低だ……っ…」
嗚咽混じりに小さく呟いた。それを聞いた幸雄は疑問を抱きつつも、ハンカチを手渡してくれる。
「あ…。…ありがとう…」
そっとハンカチを受け取り、眼鏡を外して涙を拭った。
「…何か…あったんですか?」
「なんでもないわ。ありがとう」
「何でもないのに…泣くんですか?」
驚いた。まさか幸雄にそのような事を言われるとは思っていなかった。宵は視線を彷徨わせ、観念したかのようにため息をついた。
「…聞いてくれる?」
「はい」
宵は立ち上がり、屋敷のバルコニーに向かって歩き始めた。その間に会話する事はなく、幸雄もただ黙って宵の後を着いてきていた。
バルコニーに到着するなり、宵は深いため息をはいた。
「…竜さんにね…別れましょうって言ったの」
「え…」
「嫌いになった訳じゃないの。でも…あの人の隣にいるのが苦しくて…。添人なのに…恋人なのに…私はあまりにも無力で…彼には似合わない」
穏やかな風が、宵の柔らかな髪を揺らしていく。顔にかかった横髪を耳にかけ、バルコニーから見える街の景色をぼんやりと目に映した。
「私のせいなの…あの時私がちょっと油断したから…」
竜の添人が、恋人が、自分でなければ。あの時、一瞬でも気を抜いていなければ。彼の人生を変える事はなかったはずだ。
それならば、今からでも距離を取るべきだ。これ以上、彼が苦しまないように。
「夏木先輩は…弥生さんが好きなのに離れたいんですか?」
「…本当は…離れたくない」
「なら、離れなくていいのでは?弥生さんが拒否した訳じゃないなら、離れる理由なんてないでしょう」
「そう…かもだけど…」
「それとも。誰かが、傍にいちゃいけないって言ったんですか?」
心底不思議そうに、幸雄は首を傾げた。正論に返す言葉もなく、宵は唇を結んだ。
「弥生さんは…夏木先輩の事、大好きですよ」
「………!」
「いつも夏木先輩の話してきますから」
胸がちくりと傷んだ。宵は目を丸めて、幸雄から視線を逸らした。
「そう…なんだ…」
どんな顔をすればいいか分からない。好きな人が、自分の知らない所で自分の話をしてくれている。
ほんのりと赤みを帯びる頬を隠して、早くなる鼓動を押さえつけた。
「もう一度、話してみては…?」
「…そうする。ありがとう、長月君」
一礼して去っていく幸雄を見送り、宵はバルコニーから見える庭園を見下ろした。
眼鏡で悪い視力が矯正されているとはいえ、三階からは流石に咲いている花は見えなかった。
赤、白、黄と点々としか見えない花を見つめながら、バルコニーの手摺に腕を乗せて頬杖をつく。
「嫌な事があったら高いとこに来る癖…変わらないんだな」
背後から、聞き慣れた声がした。振り返らずとも、数年の月日を共にした彼氏の声だと脳が認識する。
「…竜さん…」
「ったく…人の話を最後まで聞けっての」
隣に並び立った竜は、ペチッ、と宵の額を指先で軽く突く。
「…だって…」
「…宵はさ。真面目すぎるんだよ」
空に浮かぶ雲の流れを、軽く目で追いながら竜はそう口を開いた。
「そうですか?」
「あぁ。レポートレポートうるさいし。
朝の起こし方鬼みたいだし。
着替えろって言うから着替え出したら目の前で脱ぐな、って怒るし。
好き嫌いするなって俺の嫌いな物食わすし。
歩く姿勢が悪いって背中叩くし。
怪我したら気をつけろって泣きそうな顔するし。
髪長いんだからちゃんと乾かせって頭掴むし。
部屋が汚いって掃除させるし」
日々の生活でそんなにも口うるさくしていたのか、と言われて実感した。
少々言い過ぎたかな、と思う事は多々あったが、まさかそんなにも根に持たれているとは思わなかった。
「これ全部さ、宵の好きなとこなんだぜ?」
「………へっ…」
自分でも驚く位呆けた声が出てしまった。目を瞬かせながら聞き返す。
「ふ、不満な所じゃなくて…ですか?」
「不満な所なんて何一つないさ。…あ、一つあった。勝手に一人で決めつけて別れようって切り出した所」
「うっ…」
ぐさり、と何かが心に刺さる。竜は宵に向き直って目を細めた。
「お前の思ってる通り、たしかに生活は変わったさ。出来ない事が増えた。でもそれって裏を返せばさ…宵といる時間が増えたって事じゃね?」
「…私をこき使おうと?」
「じょーだん。口実だよ」
「…ふふっ」
この人には適わない。おかしそうに、笑みを浮かべる彼を、宵は心から好いているのだ。こうして隣に並んで、他愛もない話を交わす事が何よりも幸せに感じる。
「それにさ。魔物との戦いで無傷でいる方が難しいんだよ。
この際二つ名変えようぜ。『彼女を救うために腕をなくした男・弥生竜』でいいじゃん。俺、かっこいいっしょ?」
冗談めかして言う竜に呆気にとられたが、すぐに笑顔を浮かべ彼の右腕を肘で小突いた。
「何言ってるんですか。二つ名長すぎです」
「…まぁつまり、何が言いたいかというと…。俺はお前を離すつもりは微塵もないし、お前が気負う必要もないって事」
男らしい大きな手で、宵の頭をわしゃわしゃと撫でた。
清楚にまとめられたハーフアップの髪がぼさぼさになってしまうも、宵は気にする様子も見せずに竜を見上げた。
「…いいんですか?私は…竜さんの傍にいて…いいんですか?」
「俺がいいって言うんだからいいんだよ。ほら、今からレポートするんだから、部屋で一緒に勉強しようぜ」
そう言うなり、竜は宵から背を向けて歩き始めた。しばらくその背を見つめた後、宵も歩き出した。
「…はい…!」




