第102話
「別れましょう」
愛おしい彼女が、そう言った。
とても清々しいとはいえない、思い悩んだような表情で。眼鏡越しに映る瞳には薄らと涙すら浮かんでいる。
それに何より、向かいに立つ自身の目を見ようともしない。怒っている訳でもなさそうだが、冗談という訳でもなさそうだ。
ふと、彼女の目がある一点に集中した。あったものが無くなっている左腕部分に。
普通にあるはずの左腕は、ない。
そうか、そういう事か。
別れる理由が、そういう事なら…申し出を断らねばならない。たとえそれが、彼女を追い詰める事になろうとも。
日常に戻りつつある。
そう感じるのに時間はかからなかった。魔物による爆発があったが、対応は海の仕事だ。
現にニュースではテロリスト達の犯行で、犯人も捕まったという嘘のニュースが報じられている。
怪我をした幸雄達も回復し、普通に生活出来るようにまでになっている。
平和が帰ってきたのだ。といっても、人間界に現れる魔物と戦う日々は続いているのだから、完全な平和とはいえない。
(そう…戻ったの…)
それでも気が晴れない理由は分かりきっている。隣を歩いている竜をおもむろに見上げた。
前と変わらない眠そうな目。前と変わらない声。前と変わらない性格。前と変わってしまった、左腕。
「………」
魔獣使い・ドンナーの魔獣によって食われてしまい、竜の左腕は肩口から無くなってしまっていた。腕のない服の袖が、歩く度にひらひらと揺れる。
街を歩けばすれ違う人々が振り返る。興味無さげに一瞥して去る者、遠巻きに小声で憐れむ者、あからさまに態度に表す者。
明らかに、竜の世界が変わったはずだ。
本人は何でもない事のようにしているが、実際はどうかは分からない。
彼女である宵にでも、隠し事はあるだろう。それでも確実に察してあげられない事が、とても歯痒かった。
一番傍にいるのに、彼の事を何も分かってあげられていないと。彼の話題に生返事を返す事しか出来ずにいる日々が、もう何日か続いている。
このままではいけない、そう思いふと、脳裏に浮かんだ疑問を口にした。
「竜さん。レポート終わりました?」
ぎくっ、と竜の視線が揺れた。あからさまに宵から視線を逸らし、口の端をひくひくと動かした。
「さ、さぁな〜…?そんなものあったっけ〜?」
「………」
普段なら『留年しますよ!手伝いますから早くやりましょう!』と、腕を引いて竜の部屋へ戻る所だが、何故か気力が起きなかった。
「…出来るだけ早く仕上げるようにして下さいね…?じゃないと…留年しちゃいますから」
自分でもなんて弱々しいのだろうと思う。俯きがちに紡がれた言葉に竜は首を傾げつつ、返事をした。
「あ、そうだ。今度の休み、映画行かね?宵が見たいって言ってたやつ。それまでにレポート終わらせておくからさ」
元気のない宵に違和感を覚えたのか、竜が初めて自分から『レポートを終わらせる』と言った。
その事実が嬉しかったものの、顔に出ることはなく、宵は無言で竜を見上げていた。
「………」
「………」
二人の間に沈黙が訪れる。果てに、宵が口にした言葉は…。
「竜さん……。別れましょう」
きっと自分は、竜の隣にいてはいけないのだと。その思いが心の中に渦巻く。
竜は驚いたように目を見開いた。それもそうだろう。デートの誘いを断られるならまだしも、別れると言われて戸惑わないはずがない。
「…どうして?」
「………」
「何で別れたいのか教えてよ。俺の事嫌いになった?」
「………」
「怒ってるのか?」
「………」
「違うだろ…宵は───」
それ以上、聞きたくなかった。駆け足でその場を離れる。
「あ、おい…!」
後ろで竜が牽制する声が聞こえる。それでも止まらない。
止まってはいけないと、心が叫んでいた。




