第100話
目が覚めるとそこは知らない部屋だった。
明かりの点いていない薄暗い部屋のベッドの上で、何度か瞬きを繰り返した後、手に違和感を覚えて視線を向けた。
「陽羽…目が覚めたのか…」
ベッドの脇で、幸雄が手を握っていてくれたらしい。
「…うん…。…ありがとう…」
久々に感じるその温もりに、陽羽は顔を綻ばせた。釣られてか幸雄もふっ、と頬を弛める。
「…そういえば…魔力の譲渡って…長い事してないよね?」
陽羽が連れ去られて実に二週間が経っている。一刻も早く魔力を渡さなければ、幸雄の中の魔力が分離してしまう。
急いで上体を起こすも、幸雄は焦る様子もなく陽羽の手を握った。
「大丈夫だ…」
しばらくの間、幸雄と手を繋ぐ。すると、いつものような、少し走った後のような疲労感が訪れた。
「!長月君…」
「あぁ。これからは…キスする必要はない…」
「そう…」
少しだけ、残念に感じられた。幸雄と触れ合える口実が無くなるのか。そう思うと、どことなく虚無感に苛まれた。
陽羽、と名前を呼ばれ顔を上げると、すぐ近くに幸雄の顔があった。驚いて少し身を引くと、軽く抱き寄せられる。
「な、長月君…?」
「好きだ」
どきり、と胸が高鳴った。聞き間違いか、と思うも、鼓動は早くなるばかりで、次第に顔が熱を帯びていく。
「ぅ…ぇ?」
「好きだ。…好きだ、大好きだ」
「へ…ぇ…え?」
繰り返して告げられる言葉に、陽羽は惚けた返事をする事しか出来なかった。幸雄の告白が、頭の中をぐるぐると駆け巡り、体温を上昇させていく。
「俺は陽羽の事が」
「ちょ、ちょっと待って…!」
赤くなった顔を隠しながら、陽羽は呼吸を整える。そしてゆっくりと視線を幸雄に向ける。
「ほ、本当に…?」
「あぁ。陽羽が…大好きだ」
心の中が嬉しさで満ち溢れる。しかし、陽羽は悲しげに目を伏せた。
「…凄く…嬉しい…」
「!」
「でも…私は…。前の…私じゃないから…長月君の隣に立つには…あまりにも汚れてしまったの…」
絞り出すかのように、陽羽は言った。
「陽羽は汚れてなんかない」
「…っ、私は…アルターに陵辱されたの…!一度はアルターの魔力を受け入れてしまった…私は───」
「俺が陽羽を好きなのは変わらない!」
陽羽の言葉に被せて、幸雄は強く言った。驚いて目を見開くと、幸雄はそっと陽羽の頬に手を添えた。
「陽羽はずっと綺麗だ。初めて会った時からずっと…優しくて可愛い。内面も外面も…何も変わっていない。陽羽のままだ…今までも…これからも。俺が好きになった師走陽羽に変わりはない」
「……私…」
「陽羽は…俺が嫌いか?」
その問いに、陽羽は首を振った。
「…私も…長月君の事…大好き…」
「…それでいいじゃないか…。今を見ていればいい…」
「…うん……、うん…!」
浮かんだ涙を、そっと拭ってくれる。そしてそのまま、唇が重ねられた。魔力の譲渡ではない。愛を確かめ合う口付け。
縋り付くかのように身を寄せ、陽羽は幸雄の手に自身の指を絡めた。
しばらくして唇が離されると、幸雄が嬉しそうに顔を綻ばせた。少年のような、無邪気な笑顔だ。海に行った時以来見ていなかったその笑顔にまたドキリ、と胸が高鳴る。
「こんなにも嬉しいんだな…嬉しくて嬉しくて…胸が苦しい…」
「…ふふっ…私も…」
もう一度、どちらかともなく唇を重ねる。魔界の薄暗い朝日が、部屋の窓から差し込み、二人を照らしていた。
アルターの政権が崩壊し、新たな魔王に霜月舞夜、もといノヴェンバーの弟、モーナトが即位した。
驚いた事に、陽羽の世話をしてくれていた女性は男性だったのだ。
新魔王、モーナトは海と不可侵条約を結び、許可なく人間界へ渡航する事を禁じた。それは逆も然りだ。お互いがお互いに距離感を守る。それぞれの世を歩むための条約。
それを結び終えた海達が、人間界に戻る時がやって来た。人間界に続く門の前に陽羽、幸雄、海、洋子、澪、舞夜が立ち並ぶ。見送りにはモーナトとエーラが来てくれた。
「皆様…どうか、お元気で」
「また詳しい事が決まったら連絡する」
「モーナト。頑張りなさい」
「…はい…」
海と舞夜が門を潜る。
あの、とエーラが手の平程のサイズの球体を取りだした。角度によって色が変わるそれに、澪は首を傾げた。
「それに魔力を流し込めば…いつでも連絡がとれます…。お仕事の事でも…日常の事でも…お話したい…です」
頬を赤く染め、エーラはそう言った。澪も嬉しそうに微笑んで、エーラの頭を優しく撫でた。
「俺も。エーラちゃんと話したい。またいつか会おうね」
「!は、はい…!」
「おぉ?神無月くーん?」
ニヨニヨと澪を小突きつつ、洋子と澪も門を潜った。残された陽羽と幸雄も門を潜ろうとしたその時、モーナトに呼び止められる。
「…御足労かけました…」
「どうか…お元気で」
「…はい…」
「…あぁ。…行こう」
「…うん」
幸雄と手を握り、門を潜った。浮遊感に包まれ、淡い光に包まれ、魔界を後にしたのだった。
屋敷に戻ってから二週間程は、屋敷全体の落ち着きがなかった。留守中、魔物による襲撃を受けた屋敷はかなりの損害を受けていた。
数十と攻め込んできた魔物達は隊長と、屋敷にいた隊員達によって制圧され、事なきを得た。
が、完全勝利であったとはとても言えない。
洋子は全身打撲。竜は左腕の欠損。幸雄は右手の骨折。澪は腹部の火傷。特に重傷だったのはこの四人だ。
他の者達も切り傷や打ち身があったが、日常生活に支障はないらしい。
テレビでは連日、突如起こった爆発事件で持ち切りだった。空曰く、魔物の仕業だったのだが、一般人に悟られる訳にはいかない。
テロリストによる犯行で防犯カメラの映像の偽装、架空の犯人をでっち上げる、等々。法に触れそうなあれやこれやを為し、事件は収束した。
陽羽は現在、幸雄と共に空の部屋を訪れていた。
そして一枚の紙を渡される。そこには陽羽の名前と、灰色のグラフと赤いグラフ、黒いグラフが三本並んでいた。一番長い灰色のグラフは陽羽の魔力。
二番目に長い黒いグラフはアルターの魔力。少しだけ記されている赤いグラフは幸雄の魔力を指していた。
「今陽羽ちゃんの中には三つの魔力がある。分かるね?」
「…アルターの魔力があるのは分かります…」
自然と手に持つ紙に力が入る。陽羽の親指を中心に紙に皺が寄った。
「でも…どうして長月君の魔力が…?」
「…魔力の譲渡の際の接吻で、少量の魔力が移ったんだと思う。それはよくある事だしね」
むしろ、少しの魔力が陽羽の中にあったからこそ、幸雄は陽羽の精神に入り込み、救い出す事が出来たともいえる。
「アルターも魔力は言わば君の心の闇だ。ディツェンバーさん…君のお父さんの魔力と結合すると、凄まじい力が得られるだろう」
「………」
「でも、それじゃあ精神が崩壊してしまう。話に聞いた所によると、経験してるね?」
「…はい。あの時は…全てが嫌になって…アルターの魔力を受け入れてしまいました…自分が自分じゃなくなる感覚…まだ覚えてます…」
自身を抱きしめるかのように腕を組み、陽羽は俯いた。後ろから幸雄が肩に手を置いてくれる。まるで、大丈夫だ、と言わんばかりに。
「残酷な事を言うけど、アルターの魔力は…この先ずっと君の中に残り続ける」
「………はい…」
「でも、その魔力を受け入れないで。君の傍には長月君が。君の味方に僕達がいる事を忘れないで」
「…はい…!」
空の部屋を出た後、幸雄は辺りを見渡してから陽羽を抱き寄せた。突然の事に胸が早鐘を打ち、頬に熱を帯びていく。
「な、何…?」
「いや…何もない…」
「…そっか…」
陽羽も幸雄の背に腕を回そうとした、その時だった。
「あら〜お熱いわね〜」
「廊下で抱き合うな。部屋でやれ部屋で」
いつの間にか、陸と海がそこに立っていた。慌てて幸雄から離れ、陽羽は頭を下げた。
「す、すみません!お疲れ様です!」
「お疲れ様です」
「あぁ」
「おつおつ〜」
海は無表情で、陸は手を振って、空の部屋へ入っていった。
「はぁ…びっくりした…」
「一応確認したんだがな…」
「神出鬼没ってこの事だね…」
軽く笑いながら幸雄を見上げる。
「…部屋に行こうか」
「う、うん…」
隣に並んで歩く。ふと、陽羽の右手と幸雄の左手が触れ合った。そのまま陽羽の右手が絡められ、きゅっ、と握られた。
「っ…!………」
そっと陽羽も手を握り返し、歩みを進めた。
─第1部・完─




