2.
警報が鳴り響く中で、急に冷やりとした風が吹き抜けた。気がした。柔らかな羽に包まれて幸せだった「あたし」が、寒さにぶるりと震えた。
「アキ―、起きろー。」
誰かが「あたし」の肩を揺する。やめてよ、乱暴しないで。
「アキ、遅刻するぞ。」
遅刻?何言ってんのよ、ユウちゃんって誰なのか、「あたし」まだ聞いてない。
「遅刻したら、ランニング追加されるんじゃなかったっけか?知らねーよー。」
ランニング?馬鹿言わないで、何で罰ランなんてしなきゃ…。罰ラン?
「起きる!!」
腹筋の要領で飛び起きると、そこにはあずき色のウザったい前髪を、サラリと掻き揚げてあたしを見下ろしながら笑う顔があった。
「朝ごはん、ユウが用意してくれてるから、とっとと食べな。」
「はぁい。」
寝ぼけ半分の顔を擦りながら、階段を下りていくと、赤いエプロンに黒いスポーツ刈りという、何とも気持ち悪い…訂正意外な組み合わせの恰好をした大男が、キッチンから出てきたところだった。手に握ったお玉から、味噌汁がポタリ、と垂れる。
「おはようアキちゃん。すぐお味噌汁入れるから、顔洗っておいで。」
大男は目を糸のように細めて、変な顔の犬のように笑った。
「はぁい。」
洗面所に向かうあたしの背中に、大男の声が追ってきた。
「拓斗は?」
「起きてるよ。」
「知ってる。ネクタイしてた?」
「んー?知らない。」
「今日はサボる気だな…全く。」
大男はため息と共に暖簾の奥に消えて行ったので、再び洗面所を目指すことにした。
朝の水は…冷たい。地下水だか井戸水だかをくみ上げてる良質な水らしいけど、その分やたらと冷えてる気がする。目がきっちりと覚めるのがわかった。
鏡に映るあたしの顔は、いつも通り。切れ長の一重に、茶色くて大きめの瞳。ショートボブの黒髪は、いつもと同じように右ハネしている。あ、ニキビができてる…。チョコを、控えるべきなんだろうな。
「アキちゃん!!占い始まるよー。」
「今行く―!!」
いちいちあたしに甘い大男は、あたしが好きな占いのコーナーになると、必ず声をかけてくる。トイレに行ってて見逃していても、あたしの分は必ず、何位だったか、どんな内容だったか、ラッキーアイテムは何かまできっちり覚えていてくれるのだから、別に呼ばなくても構わないと思うんだけど。
リビングに入ると、そこには4人掛けのテーブルがあり、既に眼鏡のサラリーマンが座って経済系の新聞を読んでいる。何が面白いんだか、あたしにはサッパリ。
「おはよう、クリちゃん。」
「おはよう。丁度アキの射手座だぞ。」
「うん。」
いつものようにサラリーマンの隣の椅子に座ると、テレビに視線を向ける。今日の射手座は3位で、早とちりが原因で友達と喧嘩するかも。ラッキーアイテムは…夢であった人。夢を見なかった人はどうするんだろう、と考えたけれど、他人が占いでどうするかなんてそんなくだらないこと、どうでも良かった。あたしが夢で見たのは…拓斗だ。
「タクちゃんだ。」
「俺が何?」
あずき色ヘアーの男と大男が入ってきて、仲よく隣同士の椅子に座る。あたしがタクちゃんと呼んだのは、あずき色ヘアーの方だ。
ここで、あたしの家族を紹介しておく。
まずはあたし、秋元秋。回文の名前をからかわれることはあるが、「からかわれる名前だと、結婚へのモチベーションが上がる。」というよくわからない理由で母親が名付けたらしい。イカれた母親である。秋元秋、花も恥じらう女子高生―この言葉遣いは古臭いと担任は笑う。何で?―である。16歳と17歳の狭間の世界で惑う乙女で、一応バスケ部主将。2年生のなのに主将になってしまった理由は…長いからまたいつか。
あたしの隣で新聞を読みながらニュースを観、更には朝食を摂るという行儀の悪いサラリーマンは、秋元陸斗。33歳の独身。秋元家の長男として、家の家計を守っている。陸斗なんてスポーツマンに相応しい名前をもらいながら、運動神経は最悪。ただ、頭は切れると思う。経済系の新聞を理解できるあたりで、あたしとは頭の出来が違うんだろう。
あたしを起こしに来た、あずき頭が秋元拓斗。27歳独身。この年なら勤め人だろうと思われがちだが、既に起業して1会社の社長という身分。ふらふらしてるみたいに見えるのだが、所持品を見る限り、儲かっているらしい。きっと、共同経営者が優秀なのだろう。いつもニヤニヤしているから、会社の名前は『チェシャ・キャット』にしたんだと、嘘だかほんとだかわからない話をしていた。
そして最後に、赤いエプロンをしたまま味噌汁をすする大男が、秋元優斗。27歳独身。拓斗と双子。190弱の長身で、あたしの部屋に入ろうとしてはドアの上の部分で頭をぶつけている。見た目はごついが、名前の通りに優しく、秋元家の食事係は、彼が担っている。たまにあたしや別の兄弟が料理することもあるが、彼は料理が好きなので苦ではないらしい。3人の野郎どもの中で、唯一彼女がいる。
秋元家は、3男1女の4人で暮らしている。男が働き出しても実家にいるのか、だとか親はどうした、だとかいう疑問をお持ちの方もいらっしゃると思うが、やはり長くなるので、いつか機会があればお話ししようと思う。
「アキ、何遠くに行った目してんだよ。タクちゃんだって言っただろ?俺が、何?」
拓斗の声が、あたしを現実に引き戻した。現実の、紅鮭のムニエルに。
「おいしい。」
「はぁ?」
「んー?だからさ。占いで、ラッキーアイテムは夢で見た人だったんだけど、今日夢でタクちゃんをみたからさ。口に出しただけ。」
はぐはぐとムニエルを貪るあたしを見ながら、やっぱり拓斗はニヤニヤ。
「ほーう。お兄ちゃんたちの中で、拓斗お兄様が夢に出てきちゃうほど一番好き、と。」
「え、そうなの、アキちゃん。僕のことも、好きになってよ。」
しょんぼりした優斗。年の離れた妹が、余程可愛いのだ、この男は。
「タクちゃんよりユウちゃんの方が好きに決まってんじゃん。」
「照れなくてもいいんだぞ、アキ。ユウは彼女いるから別にお前に愛されなくても大丈夫だからな。」
ニヤニヤのまま、拓斗はぬか漬けをかじっている。ポリポリいう音が、小気味いい。
「3人とも、くだらないこと言ってないで、準備しろ。」
ほとんど無言だった陸斗が、眼鏡を光らせながら言った。
「アキ、中間テスト返ってきてるだろ。帰ったら見せろよ。数学勉強してなかったろ。あれほどサインコサインタンジェントは暗唱できるようになれって言ったのに。」
「げっ。」
「タク、またサボる気だろ。月末近いんだから、処理たまってるはずだ。志賀さんに迷惑かけるんじゃない。俺に電話かかってくるんだぞ。」
「ちっ。」
「ユウ、食事を作ってくれるのは良いが、最近ケーキを作りすぎだ。アキが接種許容カロリーを20日間連続でオーバーしてる。今月はもう、甘いものはなしだ。」
「うっ。」
陸斗はばさりと新聞を閉じると、茶を飲み干す。
「各自、確認したな。」
「はい。」
「はぁい。」
「…っち。」
「タク。」
「わーかーりーまーしーたー。」
拓斗の返事に満足したのかわからないけど、陸斗は立ち上がり、ぐい、と中指と人差し指で眼鏡の位置をなおす。
「じゃぁ、俺は行ってくる。ユウ、タクと一緒に出てくれ。アキ、もう出ないと遅刻するぞ。着替えてこい。」
あ、まだパジャマだった。
「クリちゃん…。」
「5分で着替えるなら、送ってやる。」
「やった!!」
食べ終わったご飯のお盆を、優斗が何も言わず片付け始める。お母さんだよね、ほんとうに。
「アキには甘い…。」
ぶーたれる拓斗に、陸斗は拓斗以上のニヤつきで答えた。
「タクも送ってやるぞ。30分早く着くだろうが。」
「遠慮します。」




