メルシー
花粉が舞い人々がマスクを装着し始めた頃、また、二日前に卒業式を終えたばかりの青年が、下宿先のアパートを決めるための、両親同行の下見ついでに練り歩く、なんとも言えない観光をする最中、上京3年目の洋太は、はぁー。と情けない声で溜息をついた。
がっくりと首を下げた、目前の手のひらにはちょこんと座る妖精が上目遣いで洋太を見ていて、目には涙を浮かべている。
洋太が「どうしたんだい?」と聞いても、妖精は鼻をすする音を鳴らすばかりで、一向に応えようとしない。
しばらくして、痺れを切らした洋太が「何だって言うんだい!?」とつい声を荒げたものだから妖精は、断固として話すものか。と口を硬く閉ざしてしまった。
洋太ががっくりと首を下げたのはそれから20分が経った頃だった。
洋太はあぐらをかいて手のひらを目の前に差し出した状態で動こうにも動けず、
妖精は申し訳なさそうに座ったまま、肩を微かに震わせている。
すると妖精は小さな声で、「お、おかね。」
と言ったので、空耳か?と一瞬思ったが、洋太は「お金が欲しいの?」と優しく声をかけた。
妖精は恥ずかしそうに、首を3回縦に振った。
洋太は「あげるものか!これは僕のお金だ!」
この状況が漫画の一コマであるならば、洋太の顔の横には、へへんっ!という効果音が、バックには大文字でドンッ!という文字が表れていただろう。
一見けち臭いと文句を言いたくなるような状況でもあるが、カップ麺で生計を立てる洋太は頑なに妖精にお金をあげようとはしなかった。
それから、しばらく反応を見た洋太。
ついに泣くかとも考えたが、妖精の震えは止まって、含みのないやんわりした表情に変わっていった。
そして、妖精は言った。
「ピンポーン!正解ッ!」
意外な答えとその小ささからは考えられない声量だったので、洋太はびっくりして、
「シーっ。隣人に聞こえるから。」
と言って、妖精が潰れないように両手で妖精を囲んだ。
ゆっくり手を開くと、そこに妖精はいなかった。
すると、頭の中に「また来ます。」という言葉が木霊のように響いたので、一度言ってみたかったんだよ。という笑みを浮かべた洋太は、
「脳に直接話しかけるんじゃないッ!」
と一人言って、高らかに笑った。
隣人は一人で何をやってるんだろう?と不思議に思ったが、洋太の笑い声はすぐに収まったので、特に気にもせず元の作業に戻った。
洋太は、むくっと立ち上がり押入れの中に放り込んでいたスケッチブックに、妖精の絵を描いた。
「確かこんな色で、こんな形だったよな?」
12色の色鉛筆で描かれた妖精の絵はとても美しかった。
なにせ洋太は、美術大学の3年生だからだ。
スケッチを描くなんて、朝飯前だ。
完成したその絵を気に入った洋太は、
そうだ。この絵を元に卒業作品を描いていこう。と意気込んで、スケッチブックをショルダーバッグに放り込むと、学校へ向かっていった。
「なー、葛木。妖精って信じるか?」
「妖精?お前も見たの?」
葛木は洋太の親友で、共同で個展をしたこともある仲だった。
「お前も?って。お前も見たの?」
「ああ、ついさっき。トイレの便座の上でな。」
「もしかして。これか?」
そう言った洋太は、スケッチブックをめくり、あのページを開いてみせた。
「これか?って白紙じゃねぇか。」
「えっ。あっ間違えた。ゴメンゴメン。」
洋太はページを間違えたと思い、スケッチブックをペラペラめくったが、さっき描いたはずの妖精はどこにも描かれていなかった。
あれ。おかしい。さっき描いたはずなのに。もしかして逃げられた!?
しかし、妖精は確かに見た。それに葛木だって見ている。
それにまた来ると言っていたのだから、また来るさ。
洋太と葛木は、お互い見た妖精の記憶を頼りに、卒業作品を共同制作していった。
作品は、コンクールに持ち込まれ、最優秀賞を称えられた。
洋太と葛木は卒業後、妖精にメルシーという名前をつけ、絵本を出版した。
これがミリオンセラーの大ヒット。
その後、アニメーション会社と提携して映画を作成。さらにはハリウッド作品にも出演するなど、莫大な富を二人にもたらした。
しかし、妖精は洋太の前に一向に表れなかった。
洋太は歳をとった。
洋太は、家族に見守られながら自宅のベッドに横になっていた。
タンスの上には、ハリウッドの映画監督と握手を交わす洋太の写真、妻の絵美子と旅行に行った時の写真などが飾られていた。
妻に手を握られ、子供夫婦に孫の春樹まで、「お爺ちゃん。お爺ちゃん。」と、泣いてくれている。
しかし、まだ死ねない。
妖精にお礼を言っていない。
「オレはまだ死ねないんだ。」
洋太がボソッと言った直後、小さな地震が起きた。
カタカタと窓が揺れた。
洋太の手を、力強く握った妻の絵美子がボソッと言った。
「ああ、天も悲しまれてるんだわ。」
その時、天井の照明の上に溜まった埃がハラハラと洋太の上に落ちてきた。
洋太は、ハッとした。
妖精が洋太の肩に、座っていたのだ。
「ああ、メルシー。やっと会いに来てくれたんだね。」
妖精はあの時と同じ、にこやかな顔で洋太の顔を見つめている。
「メルシー?誰のことを言ってるんでしょう。」
「ああ、ゴメンよ。オレが勝手に名付けたんだ。死ぬ前になんとか君にお礼を言いたかったんだ。天に感謝するよ。」
妖精は、はぁっと息を吐き出して、
「おかね。」と言った。
「お金?お金が欲しいのかい?君のおかげでお金はたくさんあるんだ。君のおかげだよ。そこの引き出しに入っている。どうか好きなだけ持って行ってくれ。メルシー。」
すると妖精は、腹を抱えてカタカタ笑い転げ、ついにはヒーヒー言いだした。
笑いが収まり、真顔になった妖精は、深刻な面持ちで、
「ブッブー!不正解!」
まるで生気のない声でそう言った。
その声はとても恐ろしく、洋太は急に震えが止まらなくなった。
「ああ、メルシー。メルシー。」
こうして洋太は家族が見守る中、ゆっくりと目を閉じた。
妖精は風のように舞い、姿を消した。