子供の記憶
ふと思い出す、遠い日の記憶。
それはとても大事なもの。
それは遠い記憶。
「ねえ、おねえちゃんはどうして僕と遊んでくれるの?」
僕は目の前の少女にそう尋ねる。
「それはね、あなたがとっても良い子だからよ」
彼女は、全てを包み込むような声でそう言う。
「僕そんなこと初めて言われた!いつもお母さんは、僕のこと悪い子だって言って怒るんだ」
そう唇を尖らせる僕の顔を見て、彼女はふふ、と笑う。
夕暮れ。
畦道から見渡す田園はどこまでも広がっている。夕日は僕達を優しく包み込んでいる。
ひぐらしが、うるさいくらいに鳴いていた。
「でもおねえちゃんもいつか僕と遊んでくれなくなるんでしょう?」
「ん?どうしてそう思うのかしら?」
「だって、大人は忙しいから子どもとはあんまり長く遊べないんだって、お母さんとお父さんが言ってたよ」
「……」
彼女は黙ってしまう。そんな彼女に、僕は無邪気に再び質問を投げかける。
「おねえちゃんはいつまで僕と遊んでくれるの?」
「心配しなくていいわ」
彼女はそっとそう言う。
「え……?」
「ずっと遊び続けられるわ」
突然の言葉に僕は驚く。
「ずっと?それっていつまでもってこと?」
「そうよ」
彼女は優しく笑いかける。
「あなたが(……)になるまでは。それまではずーっと遊び続けましょう」
「(……)になるまで?」
「ええ、あなたが(……)になるまで」
「……じゃあ、僕は(……)にならない!」
僕はそう断言する。(……)にならなければ、僕はこの人とずっと遊んでいられるから。
「そうすれば、ずっと一緒だね!」
「……そうね。そうだったら幸せね」
そう呟き、眩しそうに遠くを眺める彼女の横顔は、夕日と同じオレンジ色に染まっていた。
「じゃあ約束」
俺はそう言って右手の小指を彼女に差し出す。
それを見た彼女は少し翳りのある表情をしたけれど、静かに右手の小指をその指に絡める。
「うん、約束」
会社の帰り道。俺は眠りから目を覚ました。
どうやら寝ていたようだ。最終に近いバスに揺られながら、自分の降車駅までもう少しなことに気がついた。
たった今見た夢。いや、これは夢ではなく記憶だろう。俺自身の昔の記憶。その中にいる彼女。
彼女といつ頃出会ったのかも、一緒に何をしたのかも思い出せない。
唯一記憶の欠片として思い出せるのは、十年前に死んだ田舎のおばあちゃんの家。
その裏に大きな山があり、そこでよく一人で遊んでいたと思う。
友達がいなかったのか、それともそのころは友達なんて概念がなかったのか。思い出すのは難しかった。
あの時の彼女の言葉。
「あなたが(……)になるまでは。それまではずーっと遊び続けましょう」
その言葉。
彼女は一体何と言っていたのだろうか。どうしても思い出せない。
おばあちゃんに彼女のことを聞いたことがあった。そうすると、「座敷童子かねえ」と言っていた気がする。なんでもおばあちゃんも昔は見えていたけど、大人になってから見えなくなったという。
だとすると、彼女は妖怪か何かだったのだろうか。
「はあ……」
俺はため息をつくと再び目を閉じた。
最近の自分はとても疲れている……と思う。朝早く家をでて、夜遅くまで仕事をして家に帰る。就職して3年。1年目は忙しいながらも働くことに充足感があった。2年目になり少し余裕がでてきた。
そんな生活を送っている自分が、時折とてもちっぽけな存在に思えてきてしまう。自分は何のために働いているのだろう。何のために生きているのだろう。そんなことをよく帰り道で考えてしまう。
あの頃は何の心配もなかった。時が経つにつれ自分のできることは増えていき、それが周囲から評価されていた時代。結局のところ、誰しもが迎える成長期。身の回りの状況はめまぐるしく変わり、飽きることはなかった。
彼女は俺が何になるまでは遊んでくれるのだろうか。今はもう無理だろうか。俺はすでに彼女の言う「(……)」になってしまっているのだろうか。
わからない。
バスを降りて15分ほど歩いて自宅の前についた。あたりは暗闇につつまれ、街灯の光だけが明るい。
ポケットから鍵を取り出すと、ドアを開く。
1Kのマンション。人が一人住むだけなら申し分のない広さの部屋。
就職して最初の頃は、それまでの実家暮らしの反動もあって初めて自分だけの力で生活することに興奮していた。
最近になって、この部屋に住んでいることも実家に住んでいることも大差がない気がしてきた。
どうせ住んでいるのは自分なのだから、変わりはないだろう。
服を脱ぎシャワーを浴びる。そうしたら後はベッドに入って眠るだけ。また朝がやってくる。朝が来たら会社に行って、仕事をして、またこのくらいの時間に帰ってくる。
そんな毎日が明日もやってくる。
そんな毎日の繰り返し。
そんな毎日に嫌気がさしていた。
変わらない毎日。
俺は何か変化を求めていた。
翌日の帰り道。
俺はいつもと同じような一日を繰り返し、いつもと同じようにバスを降りた。そのまま俯きながら歩き始める。
悩みはない。悩みはないのだが。
なにか心に引っかかるものがあった。
それは本当に奥底にあって、とれそうもない。はずしたくても正体がわからない。
結局それは悩みなんだろうな、と一人納得する。
俯いていた顔をあげた。
どこにでもありそうな住宅街。いつもと同じように街灯が光り輝いている。
そこに見慣れないものを見つけ、俺は立ち止まった。
十mほどの先の街灯の光りの下に、女の子が佇んでいるのが見えた。周囲の暗闇から、ぼうっと儚げに浮かび上がっている。
年齢は10代後半から20代前半だろうか、幼さが残っているがとても整った顔をしているのがわかる。今で言ういわゆる美少女風だ。真っ黒な黒髪をひとまとめにして、頭の後ろで小さく結んでいる。
服装は異質だった。藤色のすっきりとした和服。こんな都会のど真ん中で、妙な古めかしさを感じる。
そんな女の子が、どういうわけかこんな深夜に一人で立っていた。
一見すると幽霊か何かと勘違いしてしまいそうな容姿。しかしそれは、どこかで見たことがある気がした。
俺が立ち止まっていると、ふいに彼女がこちらを振り向いた。そうして目が合うと、とても嬉しそうな顔をしてこちらに向かって走ってきた。
「久しぶりね」
駆け寄ってきて僕にそう告げる彼女。その顔を見て俺ははっとした。この子は……。
「二十何年ぶりかしら。大きくなったわね」
間違いない。昨日俺が夢でみた、小さい頃の記憶にいた彼女だ。当時と同じ服装、同じ背丈、同じ声。二十年以上経過しているのにも関わらず、容姿が全く変わっていないのが不思議ではあるが。
でも紛れもなく、俺が再び会いたいと願った彼女の容姿そのままだった。
「貴方には私はまだ見えるかしら。私は約束をまだ忘れていないのよ」
俺は何も言えなかった。この子は一体何者なんだ?俺がかつて一緒に遊んでいた彼女なのか?それともとても良く似た別人なのか?
顔はみたところ同一だとは思う。思うが、正直詳しくは思い出せない。こんな顔だった気もするし、全く違うような気もする。
どちらにせよ、今の俺に判断をつけることは難しかった。
「その顔は覚えているのかしら?ふふふ」
そう言って彼女は笑った。
この笑顔は……たしかに俺が覚えている彼女の笑顔だ。
『あなたが(……)になるまでは。それまではずーっと遊び続けましょう』と言って俺に優しく笑いかけた時の。
「私が見えているなら、貴方はまだ大丈夫みたいね」
彼女の手は、いつのまにか俺の手を握っていた。
びっくりするほどの冷たさと、柔らかい感触が伝わる。
「さあ、一緒に行きましょう。私と一緒に」
そう言って彼女は駆けだした。手をひかれながら、追いかけるように走り出す俺。
真っ暗な住宅街の道路を二人で走る。周りには誰もいない。いや、誰かがいても俺は気がつかなかっただろう。
それほど、俺の目は彼女に釘付けになっていたから。
走っているうちに周りの景色がどんどん変わっていった。周囲の暗闇は段々と赤みをおびて明るくなっていき、蹴る地面はアスファルトから砂利道に変わっていった。都会の無機質な匂いは、懐かしい草と木の香りに変わっていった。
ここは見覚えがある。そう思ったとき、彼女が止まった。
俺は慌てて少し転びそうになるも、何とか踏みとどまった。
目の前には記憶にあるままの、あの日のあの時間のあの場所が広がっていた。
「覚えているかしら。約束したあの時のこと」
彼女は俺の隣で、あの時と変わらず同じ姿で立っていた。夕日を眺める彼女の横顔は、あの時と同じようにオレンジ色に染まっていた。
「私はずっと待ってたの。あなたが思い出してくれるまで。そしてやっと思い出してくれた。会いたいと思ってくれた。とても嬉しかった。だってあなたは……」
彼女は俺の方を見て満面の笑みを浮かべた。
「まだ大人になっていないっていうことだから」
俺は、はっとした。
そうか。俺が思い出せなかった(……)。
それは“大人”の二文字だった。
「あなたが大人になるまでは、それまでは遊び続けましょうって約束をしたの。どう?あなたはまだ大人になっていないわよね?」
彼女は笑顔で俺に問いかけた。
急に投げかけられた問いかけに、俺は悩んだ。
大人になっていないのだろうか。
年齢はとうに20歳を越えている。身長だって体重だって体格だって大人そのものだ。
そう、外面は立派に大人になったと思う。
ならば内面はどうだ?頭の中は本当に大人なのか?
そもそも大人とはなんなのだろうか。
対義語は子供でいいのだろう。では子どもではないと大人なのか?いつから大人になるのか?
この二十何年間で、俺は常に成長してきたつもりだった。体が大きくなった頃に内面も成長し、自分の考えもできてきた。自分で思って自分で行動する。それが自我というものであると思うし、それを自分が持っているとも思う。自我を持っているということは自分は大人でいいのだろうか。
だが今の俺には彼女が見えている。
現実にはありもしないこと。つまり彼女の存在を認めており、あまつさえ自分から求めてしまっている。
そんなものは子供であることの証明ではないのだろうか。大人にそんなことがあっていいのだろうか。
俺は気がついた。
彼女と会いたいと思っているのは、子供であることの証だ。だが、それが大人でないことの証明になるわけではないと思う。
そもそも、子どもであって大人でもあることの何が悪い。彼女に会いたくても、大人でいることは可能ではあるのだろう。
だけど……やっぱりその気持ちは隠さなければならない。押し込まなければならない。押し込んだ上で、自分が大人であると自覚できた人間だけが、大人になることができる。
そう思うのだ。
「大人、子ども。そんなものはどんなに考えたって、辞書を調べたって、定義を作ることはできやしない。本人がそう自覚した時に大人になることができるのだと思う。今の俺は自分が大人だと思っているよ。だから君のことは見えていないし、君の声は聞こえてはいない。それが大人になるということだと思うから」
そう俺はポツリ、独り言を言った。自分に言い聞かせるように。
沈黙が続いた。
きっとしっかり聞こえていたのだろう。隣の彼女はとても悲しそうな顔をしている気がした。
でも俺は彼女に声をかけてはいけなかった。触れてもいけない。見てもいけない。反応してもいけない。
それでも彼女を感じながら、認識しながら無視しなくてはならないのだ。
彼女を忘れてはならない。なかったことにしてはならない。でもそれに触れてはならない。
彼女にとっても俺にも、それは残酷なことだった。
俺は目の前の景色から目を逸らせるように、目を瞑った。
気がつけば俺は自宅の目の前にいた。
彼女はもういなかった。
後日、実家に帰った際に古いアルバムを見る機会があった。
俺は意識しないまでも、自分の昔の記憶をたどる様にアルバムを開いていった。
そこに俺が覚えていたおばあちゃんの家の写真があった。そして俺が裏の山で遊んでいる写真も何枚かあった。
写っていたのは確かに田舎だったけど、俺が覚えていた場所とは全然違っていた。
俺の記憶はなんだったのだろう。自分が作り上げた妄想だろうか。願望だろうか。
あんな子ども時代を過ごすことができたら良かったなという捏造の記憶だったのだろうか。
それでも、今俺の心の中には彼女がいる。俺はそれを知っている。
でも、無視しなくてはならないのだ。
それが大人になるということだと、俺は思っているから。
お読み頂きありがとうございました。
羽栗明日です。
大人になった時にふと思い出す遠い日の記憶。それはおとなになった自分にとってとてもかけがえのないものです。それにとらわれている間はきっとまだ子供なのでしょう。
もちろん、子供の心を忘れないのは重要です。でもそれは隠さなければならないものでもあります。
存在するのに無視しなくてはならないもの。子供心とは、そういうものなのでしょう。
コメントなどいただければ幸いです。