KHM.2
「何が起こりましたの!?」
突然の事態にシンデレラの驚嘆の声が響く。呆然とシャンデリアを凝視するアリスに倣って彼女も其方を向く。すると、その視線の先でまたもや、ぼっ、ぼっ、と新たに火が灯った。全部で三つ。橙色の小さな灯火が、雫の形にあしらわれた硝子細工に乱反射して辺りをぼんやりと照らす。窓のないこの広間において、唯一の光源。しかし、その温かみのある色合いとは裏腹に、アリスは薄ら寒さを感じざるを得なかった。
「なんて不気味な……」
アリスの心境を見事に代弁したのは、はたしてシンデレラであった。
蝋燭に火が灯る直前、そこには何者の気配もなかった。まるで最初からそうであったかのように、瞬きする間すらも惜しむように、刹那のうちに火が灯ったのだ。
「おかしいですわ、こんなの……」
シンデレラの表情から戸惑いの色は消えない。むしろ色濃くなっていると言えよう。アリスも思わずこくり、と頷いていた。
見たところシャンデリアは天井高くで吊るされている。心もとない灯りの先に、細いが、丈夫そうな鎖。その先は簡素な意匠の天井を這ってどこかに繋がっているのだろう。
シャンデリアは天井から縄や鎖で吊るのが一般。これは蝋燭に火を点し、あるいは煤で汚れた装飾の手入れをするために逐一手の届く範囲まで降ろす必要があるからなのだが。
(つまりーー)
その先を思案するのは愚かだと言い聞かせる自分がいる。アリスは息を呑んだ。
シャンデリアはその存在を主張するかのように広間の中央に鎮座しているのだ。無論、その周囲には何もない。すなわちーーあの蝋燭に火を灯すには一度、シャンデリアを降ろさなければならい。
すっと血の気が引く感覚がアリスを襲う。早鐘を打つ鼓動がうるさかった。
一体、誰が、どのようにして、あの火を灯した?
「こんなのおかしいですわ!」
シンデレラが怒るように、嘆くように、願うように叫んだ。双肩を上下させ、浅い息を繰り返す。その傍らでヘンゼルが心配そうに彼女の様子を窺っていた。
「き、気のせ……」
「そんなはずがありませんわ!」
シンデレラの気分を落ち着けようとヘンゼルが声をかけるが、その意に反してシンデレラは食ってかかった。苛立ちを体現するように、ずん、と踵で床を踏みつける。その音にヘンゼルが「ひっ」とたじろいだ。
「そもそも、知らぬ間にわたくしをこんな処に連れてきて一体どういうつもりですの!? これでは誘拐同然ですわ!」
云々とヘンゼルに噛みつく。それを宥めようとしてヘンゼルが善意の一言を発するが、それは油となってシンデレラの炎を盛んに燃やす。恐怖とも憤怒ともつかぬやり場のない彼女の感情の大波におたおたと狼狽するヘンゼルを傍目に、アリスは改めてシャンデリアへと目を向けた。
視線の先に火のついた蝋燭は変わらず三つ。アリスは胸に手を当てた。どくん、どくん、と大きく拍動するのがわかる。二人のおかげで幾分か落ち着きを取り戻せたようだ。目下、問題は視線の先の蝋燭なのだが。
(……あれ?)
思考の邪魔をするように何かがアリスの脳裏をよぎった。見落としてはいけない綻びがあると訴えかけてくる。何か。何かが、おかしいのだ。
シャンデリアを見上げる。蝋燭に変わりはない。硝子細工にもこれといった異変は見られない。
アリスは辺りをきょろきょろ、と見回した。
「どうしたの、アリス?」
チェシャが不思議そうに首を傾げる。
アリスの瞳には、未だ怒り心頭のシンデレラが映った。勿論、その横にはヘンゼルがいた。だがーー。
「グレーテルが、いない」
「……なんですって!?」
それほど大きな声を出したつもりはなかったのだが、シンデレラは耳聡く聞き取ったらしい。
「グレーテル! どこへ行きましたの! グレーテル!」
行き場を失くしていた不満はどこへやら、飛んでいったらしい。シンデレラのよく響く声が玄関口一帯を包む。先ほどまで居たのだからそれほど遠くへは行っていないはず。それでも、状況が把握しきれていない今、一人になるのは何故だか危うい気がしてならなかった。
「ヘンゼルーっ! 返事をなさい!」
なおもシンデレラは呼び続ける。ヘンゼルも片割れが行方知らずと分かり、焦ったように忙しなく顔を巡らせる。だが、めぼしい場所にその姿はない。
「アリス…?」
「私たちも探そう」
チェシャが拗ねたような顔をしてから、渋々頷く。
どこを探すか迷って、まずは玄関口へ向かった。真っ先に目についたからだ。
裕にアリスの背を越す大きな扉だった。
蝋燭の乱反射された光が、年記の入った濃茶色の色合いをより際立たせ、重厚感を醸し出してアリスを威圧する。その風格を際立たせるように扉の表面には様々な意匠がこらされていた。木目に沿って繰形が枠作られている。その合間を這うように飾り鋲が散らばり、それを貫くように片面に二丁ずつ、碇を象った蝶番が走っていた。忠実に左右対称を貫徹した、屋敷の顔にふさわしい重厚な装いだ。
そうして、順々に視界を下ろしていき、取っ手へと目をやりーー。
「えっ…」
思わず目を疑った。