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シュレディンガーの猫たち(仮)  作者: レイ
第一章 es gibt Keine HilfesMethode.
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KHM.11

 奪われた視界に、アリスは慌てた。

 闇とはこれほどに懼るるものだったか。


 光の残滓がちらつく最中へ伸ばした掌が、硬質な何かを摑む——手摺だ。

 引き寄せられるままに、縋りつく。階下のざわめきが近くなった。凝視してもそこにあるはずの姿は見えない。


 不意に、足音が響いた。


 残響が余韻を残して消えるよりも早く踏み出される一歩。遠近を失し、どこからともなく響く硬い音が、屋敷を震わせる。


 かつん。

 遠く、頭上で響く音を睨め付けた。


 こつん。

 次は階下。彷徨い歩く靴音を恐々と視線が追い掛ける。

 不規則な音が恐怖心を煽り立てる。


 そうして再び、一歩が踏み出された。


 かつん。


 刹那。

 アリスはぎょっとして、背後を振り返った。残響が耳を撫で、するり、と闇へと溶けゆく。そこに人影なぞ在りはしない。けれども。確かにアリスの本能は残滓を捉えた——確かに、そこを“何か”が過ぎった軌跡を。


 思わず、闇に紛れて消え入る音へと手を伸ばす。

 虚無の中で指を閉じる——そのはずだった。


「……かはっ!」


 息が詰まる。腹部に強い衝撃を受けた。

 咄嗟に空気を取り込もうと足掻いて余計に苦しさが増す。


 ほんの一瞬、意識が白く濁った。

 反射的に絞り出した声で、彼の名を呼ぶ。


「——シャ……ッ!!」


 無意識に傾いだ身体を支えようと後退させた足は、しかし、宙を掻く。

(え——?)

 かくり、と力無く膝が曲がり、常闇の中で天を仰ぐ。踏み外した——気付いた時にはもう遅かった。階下に向かって動径(ベクトル)が容赦なく降り掛かる。


 痛みを覚悟した。予見した衝撃から抗うように摑んだ手摺は塗り込められた仮漆ワニスで頼りにならない。


 一瞬の浮遊感。そして——。


「……っ」

 右肩を強かに段鼻に打ちつけた。骨が軋んで、激痛が全身を駈け巡る。それでも一心不乱に頭を抱えて、四肢を(すぼ)めた。

 何所かで悲鳴が聞こえた気もしたが、もはや四方など逸し、腕から、背から——四肢の全てから襲い来る痛みに堪えることで精一杯だった。鈍痛が運ぶ闇の先は永遠に続くようにも思えた。


 期せずして、背中を打ちつけた。息の詰まる一瞬。

 支柱に身体を叩きつけたのだと悟った。

 幸いにも勢いが殺され、アリスの身体は踏み面に転がる。


「……ぃたっ」

 段上で何やら鈍い音がしたかと思うと、一陣の風が吹いた。


 そうして、それはさながら掬い上げるように優しくアリスを抱き上げた。


「アリス、大丈夫? アリス?」


 鈍く脈打つ肢体を労り、やんわりと(かいな)に抱く彼は、それでも焦燥に駆られて必死にアリスの名を呼び続ける。


「だい、じょ……ぶ」


 瞳を開けば、今にも悲嘆に暮れてしまいそうな表情のチェシャがいた。

 なんて顔をしているんだろう——。

 酷く不釣り合いな表情を浮かべる彼に、痛みも忘れて苦笑した。


 彼が驚愕に目を見張る。安堵させたくて再び、大丈夫、と口にしていた。恐る恐ると云った態でアリスを踏み板に降ろす。あちこちが痛んだが、幸か不幸か大した傷ではないように思えた。


 手摺に縋りながら段上を見上げて目を凝らせば、かろうじて五、六段は視認できた。さして顚落した訳でもなさそうだ。尤も蹴上げが高いだけなのかもしれないが。

 数段上の踏み面で痛みを堪えるように臀部を摩るのは、あの娘だ。チェシャを見返れば、酷く不服と云った態で頭を振られる。手加減はしたと言いたげな瞳がアリスを映す。——瀬戸際の呼び掛けでも、どうやら意向は通じたようだった。


 彼女を刺激しないよう、そうっと身体を庇いながら手摺を頼りに一段踏み上がったつもりだったが、きりりと鋭い眼光で睨まれた。


 そこへ——。


 かつん、と忘却していたはずの音が、まざまざと思い起こさせるように反響した。遥かに音像が近く、明瞭になっている。不意に欄干で感じた気配を思い起こして背筋が冷えた。


 こつん。

 それを嘲弄するように靴音が不意に立ち止まり——消えた。


 しん、と重い静寂(しじま)とばりが落ちる。

 息を潜めて辺りを窺う程に耳の隣で鼓動が微かな鈍痛を伴って拍を打つ。きりきり、と弦を引き絞るように張り詰めた神経が——ふと、妙な音を捉えた。

 じっと耳を澄まして音を辿る。


「……チェシャ」


 神妙な面持ちでチェシャは頷いた。ぴん、と頭部で反り立つ獣の証。

 彼の耳はしかと音像を捉えたようだった。


「来る」

 何が、とは聞かなかった。聞くまでもなく——声がした。


(これは、唄……?)

 律動的(リズミカル)な楽音が旋律となって、闇底から洩れ出てくる。


「Nous entrerons dans la carrière(僕らは自ら進み行く)」


 かつん。こつん。再び響き渡った靴音が拍を刻む。

 静謐に、(たお)やかに——淀みない歌声は、のったりと近づいてくる。

 チェシャが階下を指差し、睥睨した。音像はすぐそこに迫っていた。

 空間を満たす深淵を覗き見る暇もなく、金切り声を上げて、どこかの扉が開く。


「Quand nos aînés n'y seront plus(先人の絶える時には)」


 仄かな光が差し込み、一つの影を縁取る——現れたのは一人の青年だった。

 遠目にも分かる精緻な顔つき。気怠げに伏せる瞼が蠱惑的な雰囲気を醸す。それでいながら、寸分の狂いも無く整った身なりは一段と彼の纏う異質な空気を高めていた。


 不意に、彼が音程(ピッチ)を外した。

 雅致で緻密な旋律が一瞬にして霧散し、聞くに堪えない噪音と成り下がる。されど、猶も彼は唄うことを止まず、靴音を響かせ、詞を唱す。


 その様子に誰もが言葉を失った。

 否。

 誰も彼を止めようとしなかったのは狂った音程(ピッチ)で歌い続ける様ではなく、その背後を追随する七の灯火があったからだ。


「Nous y trouverons(僕らは見つけるだろう)」


 彼が靴音を響かせ歩みを進める毎に、灯火がふわりふわりと宙を滑って浮遊する。燭台に灯したわけでもないのに規則正しく、揺れ踊った。


 自らへ集中する視線を意にも介さず、彼は物々しさを孕んだ佇まいで玄関口(ロビー)の中央——シャンデリアの真下まで進み出る。


「leur poussière(先人の亡骸と)——」


 突然の休止符ポーズ。しん、と静寂に帰す空間を堪能するように彼は目を閉じた。

 誰もが彼の挙動に注目するなか、やおら彼はくるりと反転。

 シャンデリアを仰ぐように、高らかに両手を伸ばす。


「Et la trace de leurs vertus(彼らの美徳の跡を)!」


 灯火が彼の唄声に導かれるように弾け飛んだ。咄嗟にアリスは腕で眼前を庇う。


「Et la trace de leurs vertus(彼らの美徳の跡を)!」


 得も言われぬ響きを孕んだ声が、不協和音を奏でて唱和する。伸びやかな唄声が灯火を四方へと導き、玄関口ロビーを光で満たした。

 そうして消え入る唄声を惜しむように青年の肩を伝って、這い出てきたのは黒い影。


(あれは、人形(ドール)……?)


 空虚を見つめる碧眼の陶人形(ビスクドール)が不意に脳裏を過ぎる。が、すぐさま頭を振った。そんな生易しいものではあるまい、と警鐘が鳴る。眼前では、闇色に染めた頭巾(フード)を目深に被ったそれが青年の手を離れ、灯火よろしく浮遊を始める。


 ふわり。ふわり。

 重みを感じさせぬ軽やかな動きで、それは宙を揺らぐ。


 目を奪われていれば、視線がかち合った。


 頭巾(フード)の奥に潜む肉体を持たぬ白い顔に、虚無が二つ。

 しかとアリスの双眸を見つめ返す。途端、背筋を冷たいものが駆け上がった。魂を引きずり込まれる。冷や汗が吹き出た。

 狼狽えながらも断ち切った視界の端で、にぃっと不気味に口元が歪んだ気がする。底冷えするようなおぞましさ——アリスは自分の顔が強張るのを感じていた。


「Bien moins jaloux de leur survivre(生き長らえるよりは)」


 青年がだらりと掲げていた腕を徐に降ろす。最弱音ピアニッシモから音節は始まった。繰糸を失った傀儡くぐつのように頼りなく弛緩した彼の肩に、漆黒の外套を纏ったそれが降り立った。


「Que de partager leur cercueil(先人と棺を共にすること欲する)」

 

 青年の定まらぬ視線は、虚ろを見渡す。

 およそ感情の窺い知れぬかんばせは冷然として。


「Nous aurons le sublime orgueil(僕らは気高い誇りを胸に)」


 出し抜けに漸強音節(クレッシェンド)が煽り立てる。だのに青年が表情を滲ませることはついぞ無い。その相反が酷くアリスを蒼惶そうこうさせる。


 高らかに伸びる唄声が空間を震わせ、最高潮に達するその瞬間——見計らったように青年はたっぷりと息を吸い込んだ。

 内包した全ての物を放出するように、彼は再び天を仰ぐ。


「De les venger(先人の仇を討つか)、」


 四方に散った灯火が燻り、猛る。


「——ou de les suivre(後を追って死ぬのみ)!」


 びりびり、と屋敷を震わせた唄声が各々の胸中に某かの確かな余韻を残し、残響を伴って収縮した。執拗に絡まる糸から解放されたかの如く、虚脱感がアリスを襲う。


 やおら彼は力無く腕を垂らした。およそ高らかに歌い上げた人物とは到底思えぬような、感情が抜け落ちた表情で気怠げに周囲を見渡す。


 その瞳に映るのが怖ろしくて、思わず手摺を握る両手に力が入った。

 異様な雰囲気に飲まれたまま、誰もが身動きを取れず、ただ息を潜めて、成り行きを見守っていた。


 やがて——黒い外套に身を包んだ何かがくつくつ、と肩をふるわせた。


 振動でずれた頭巾(フード)の合間からは白い頭蓋骨が垣間見える。気にも留めずに空虚な口腔が露わにして笑い続けた。灯火が倣うように忙しなく揺れる。

 そうして、何の前触れもなく、頭蓋骨は口を開いた。


「ケケケ、ようやく全員集まったな」


 骨と骨を打ち合わせるような気の抜けた音が駆けてゆく。


「だが、なかなか上出来だ」


 骸骨が不敵に笑った、気がした。示し合わせたように青年が洗煉された所作で深々と頭を垂れる。熟れた滑らかな動作に、虚を衝かれる。

 再び擡げた双眸に宿った怪光に全身が戦慄した。


 徐に口を開けば、「僕はアンリ」と青年が言った。

 次いで、「俺はトート。死神だ」と骸骨が気味悪く笑う。


「ようこそ」

 災殃(さいおう)たる悪夢は誘うように手を招く。


「——我らが統べる、常闇の館へ」

 それは甘美な響きを伴って——。


「歓迎するぜ」

 こてん、と首を傾げると、死神は嘲笑うように目を細めた。

文中において、某国歌の原文歌詞と日本語訳を使用しておりますが、これらはWikipedia(https://ja.wikipedia.org/wiki/ラ・マルセイエーズ)を引用しております。

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