水都
峠の道を下り、麓まで出れば末広がりの運河沿いに出る。この辺りから人の気配がしてきた。運河にはいくつもの商船や屋形船が浮かび、それらの行き先は決まって水都である。もちろん、時計屋の目的地も彼らと同じくして水都。乗船する金がないために仕方なく、遠回りかつ険しい山道を進んでいるのだ。しかし、秋の快適な気候だとは言え、長旅の疲労が溜まれば足元がふらつく。そんな時計屋を見て、良識ある旅人は放っておかないだろう。
案の定、すぐに「お乗りになってください」と手が差し伸べられた。豊かな栗色の髪を肩で切り揃えた、うら若き少女の手。齢十三歳あたりの顔立ちに、青色の瞳。その碧眼は空より青く、水より澄んだ、なんとも魅力的な目だ。少女は小型のゴンドラを川沿いに近づけ、天使のような笑みで時計屋を迎えた。
「せっかく水都に行くのに、そんな辛そうな顔してちゃ勿体ないですよ」
「……恩に着るよ」
既に体力が限界の時計屋は、その少女の手に身を委ねて、ゴンドラへ飛び移った。「ふー」と腰を落ち着かせる時計屋。峠の駅から麓まで歩きっぱなしだったので、座るのは久しぶりだ。
「観光ですか?」少女がゴンドラ操縦しつつ尋ねる。
「ううん、ちょっと頼まれ事をね」
「お仕事ですか」
「そうだよ。私は『時計屋』。あなたは?」
「私は『郵便屋』です。水都には手紙を届けに来たんですよ」
郵便屋の足元には、茶封筒が詰まった包みが置いてあった。
「偉いね。子供のうちから商人か」
「あ……」郵便屋は決まり悪そうに目をそらす。そして運河の先を指差して叫んだ。
「水都が見えましたよ!」
郵便屋の指先の延長線上に見つけた『水都』は、時計屋の予想を遥かに上回った。
「……噂には聞いてたけど」
海に続く大運河のど真ん中にそびえ立つ巨大な神殿。それを囲うようにして並ぶ煉瓦造りの建物の群。街じゅう、蜘蛛の巣のように張り巡らされた水路。"水と共に在る都"は驚くほどにその名に誠実だったのだ。
「すごいなこりゃ」
「そういえば、水都は初めてだと仰ってましたね」
「あ、うん。そうだけど」
「宜しければ案内致しましょうか? よく来るのである程度はお力になれるかと」
時計屋は一瞬、郵便屋の親切さに何が裏があるのではないかと訝しんだが、結局は「乗せてもらったうえに悪いね。助かるよ」と礼を言う。こうしている間に、二人の女商人を乗せたゴンドラは、水都の門内へ侵入していった。水都の門は運河から入る水門と、地上から入る陸門に分かれている。陸路はあまり使われないため陸門が閑散としているのに対し、船での交通が活発なため、水門は様々な船がごった返し、非常に賑わう。トンネル状の水門をしばらく進むと、陸から門番風の装いをした男に声をかけられた。
「こきげんよう。許可書を見せていただけますか?」
「ここに」郵便屋が何やら羊皮紙を取り出して見せる。門番の男はそれを見るとニカっと笑って「素敵な時間を」という言葉と共に敬礼を送った。
「素敵な時間を」笑顔で返す郵便屋。
「……す、素敵な時間を」一応合わせる時計屋。
「ここでは挨拶の決まり文句なんです。どんな時でも『素敵な時間を』です」
「へぇ……全然知らなかった」
「ふふ、ではひとまず宿まで行きますね」
「よっ」郵便屋が少し強く一漕ぎすると、ゴンドラはぐんと前進した。その勢いで水門を抜ければ、眩しい水都の街並みが目の前に広がる。水門から続く水路の左手に船着き場があって、少し開けた広場になっていた。広場の中央で、噴水が時計屋達を歓迎するかのように水を押し上げる。その周りで商人達が露店を出しており、昼時なためそこそこ繁盛している模様だ。
「そういえば、朝から何も食べてないや」露店の焼きトウモロコシの匂いを嗅ぎ、時計屋がボヤく。
「それでは、宿に行く前にレストランに寄りますか?」
「いや、予算がカツカツすぎて贅沢できないんだ。あそこの露店で何か買ってきていいかな」
「ええ、構いませんよ」
郵便屋はすぐ左手の船着き場までゴンドラを進ませ、杭にゴンドラを結びつけた。ゴンドラから降りた二人は広場まで歩く。すると、焼きトウモロコシ屋の脇に立っていた奇怪な格好をした男が、軽快に踊りながら近づいてくる。赤や黄色や白の縞模様のふっくらとした帽子と服を身につけていて、顔は白塗り、鼻は赤玉、目には縦に黒いラインの化粧をした男。
「どこかの国でも見たような……」既視感はあるが思い出せない時計屋。一方、郵便屋はその男を見て、途端に明るい表情になった。
「わぁ、ピエロですよ! 小さい頃サーカスで見たのと同じです!」
「ピエロ……」時計屋はしっくりきていない様子で反芻する。
「『道化屋』の別名です。彼らは笑いを売る商人なんですよ」
道化屋は時計屋達にお辞儀をし、大袈裟にバランスを崩してこけた。そして大袈裟に頭を掻き、ペロッと舌を出す。
「ふふふ」と楽しそうに笑う郵便屋。それに対し時計屋は無表情。誰かさんが言った「売り物から間違ってやがる」という言葉が頭に浮かんでいた。
「なんでアンタ喋んないの?」時計屋が素朴な疑問をぶつける。ノーコメントは可哀想だと思ったのだろうか。しかし、道化屋は両手を大きく広げて、さぁね、とでも言うように首を傾けるのみ。
「それは、彼の"動き"に注目させるためだで」近くにいた焼きトウモロコシの露店商の男が代わりに答え、続ける。
「邪魔な語りを無くすことで、ピエロの仕草だけに集中できるんだで」
「そうなんだ」時計屋は興味なさそうに言った後、広場をぐるりと見渡してみる。みたらし団子、雷饅頭、串焼き、水飴、五平餅……焼きトウモロコシ。やはり、香ばしい醤油の香りの焼きトウモロコシが一番食欲をそる。
「トウモロコシ一個ちょうだい」
「まいど。銅二枚だで」
時計屋は袖から銅貨を何枚か通した紐を取り出し、その中から二枚外して差し出す。郵便屋も小腹が空いているようで、もどかしそうに言い出した。
「あの……私お団子買ってきますね」
「奢るよ。船代とガイド代も兼ねて」
「ダメですよ。カツカツなんでしょう?」そう微笑み、向こう側の団子屋まで歩いていった郵便屋。その健気な優しさが時計屋の心に突き刺さっていた。
「あの子しっかりしてるでしょ? 今日あった子なんだけど」
時計屋は、何となく焼きトウモロコシ屋に話を振ってみる。すると、予想外の言葉が返ってきた。
「一発で分かる。ありゃ奴隷だでな」
「え、奴隷……?」
「んま、奴隷は奴隷でも"良い方の奴隷"だで」
「この都には奴隷がいるの?」
「奴隷がいなくて、こんな素敵な都があるわけねえでよ」
「そんなもんなのかな」
「時計屋さーん!」郵便屋が何やら嬉しそうな顔をして小走りで戻ってきた。手には二つ分の団子を持っている。「一つサービスしてくれましたよ! なんでも、今日は祭りがあるそうです」
それを聞いた時計屋が「へー」焼きトウモロコシ屋をジッと見つめた。言わずもがな、といった空気が流れ、焼きトウモロコシ屋は参ったように二つ分の焼きトウモロコシを差し出す。「確かに、今日は聖なる日だで」
道化屋が楽しそうにステップを踏みながら、ぱちぱちぱちぱち拍手した。
「何の日なの?」
「一年に一度、神様が水の都にやってくる祝日です。繁栄をもたらしてくれるんだそうですよ」
郵便屋が焼きトウモロコシ屋のサービスに、ぺこりと頭を下げつつ時計屋に説明する。
「あ、中央の噴水のとこに座って食べようか」
「そうしましょう」
道化屋が飛び跳ねながら両手を振って、二人に別れを告げる。郵便屋はこれまた楽しそうに手を振って返すが、その横顔を見て時計屋は物思いに耽っていた。
"一発で分かる。ありゃ奴隷だ"
その言葉が、時計屋の頭から離れない。
「………あの、さ」
「なんでしょう」
二人が噴水のブロックに腰掛けてから、時計屋が話を切り出した。
「あんた、奴隷なの?」
時計屋は気になったことはすぐに口に出す性格である。郵便屋は少し驚いたように「え」と詰まったが、落ち着いて言葉を紡いだ。
「……そうですよ。どうしてそれを?」
「いや、さっきの焼きトウモロコシ屋が"一発で分かる"って」
「ああ」と郵便屋が自分の目を指差して言った。「この目の色でしょう。被差別民族『ユアン』の特徴ですから」
「『海の民・ユアン』。聞いたことあるけど、この辺りの文明を築いた一族でしょ? 」
「よくご存知ですね。ユアンは水都の先住民族でもあります。しかし、今からおよそ五百年前、峠の村からやってきた『山の民・セシラス』に占領されてしまったのです」
「それで被差別民に」
「ええ。と言っても、ユアンはかなり厚遇されていますけどね。セシラスと共に、都の繁栄を影で支えてきたのもユアンですから」
「それで"良い方の奴隷"ってわけね」
「……はい」と郵便屋がばつが悪そうに答える。どうやら、この話を終わらせたいらしい。"悪い方の奴隷"についても気になったが、時計屋もそれを察し、ピタリと話すのをやめた。
流れる沈黙と、トウモロコシをかじる音。気を利かせたのか、郵便屋はこんなことを言い出した。「よろしければ、時計屋さんのお仕事についても聞きたいです」
「近々、水都の教会に時計塔を建てるらしいから、時計の設計の手伝いに来たの」
「西の国の技術らしいですね」郵便屋は、トウモロコシをかじった。美味しそうに目を細めている。時計屋もトウモロコシを一かじりして「そうそう」と首を縦に降った。
「時間を意識して生活することは、大切ですもんね」
「そうだね」時計屋は味気ない返事をする。「大切なことだよ」