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第08話 1人目の願い 剣と魔法の世界(08)

更新が大分空いてしまったにも関わらず、お待ち頂いた方々、ありがとうございます。

今後は1月以上更新が空きそうな時は、活動報告なり何なりで近況報告をさせて頂こうと思います。


それでは、今回も読んで下さった方々に少しでもお楽しみ頂ければ幸いです。



「カーラ様、殺すべきです」

「ぐ、駄目だ、カーラ、殺すな、ぐおぉぉ」


 可愛らしい声で、きっぱりと死刑判決を下すメリルちゃん。

 まだ足の傷が痛むのか、呻きながらもそれに反論するガルゼ。


 ――さて、どうしたものか。


 現在、私たち三人と半死半生のバウトは、魔物の森の中のとある洞窟にいた。


 洞窟とは言っても奥行きは20メートル程度で、中には簡素ながら寝袋や非常食等が備えられている。下調べしたところによると、魔物の森のように資源が豊富で魔物が生息する土地には、必ず冒険者ギルドによって冒険者のための『拠点』が複数作られるものらしい。この洞窟はその内の一つだった。

 洞窟の周囲は視界が開けており、鬱蒼とした木々の影から奇襲を受けるような心配はない。入口付近には魔石の柱が立てられ、そこに描かれた魔法陣には魔物避けの効果があるという。魔物の森においては、この洞窟こそが最も安全な場所の一つと言えるだろう。


 自称マッパー(=地図作成者兼先導者)志望の私は、当然『拠点』の位置を地図に記録していたので、怪我をしたガルゼを休ませるために最寄りの『拠点』であったこの洞窟まで移動したのである。


 我らがパーティーの要――メリルちゃんは、回復用の魔法陣も持ってきてくれていたので、ガルゼの『重傷』もある程度はあの場で治すことが出来た。しかしそれはあくまである程度の範囲なので、今は広げた魔法陣の上にガルゼを寝かせ、ゆっくりと回復を図っている最中だった。


 ……そう、『重傷』を負ったのだ。我がマスターは。

 あの瞬間は本気で訳が分らなかった。

 ガルゼの身を案じて短期決戦を挑み、どうにか勝利し勝負を終わらせようと言う場面で、ガルゼが空から降ってきたのである。降ってきて死にかけたのである。思わず「ちょwwwおまwwww」というテンプレを使うことも出来ないぐらいパニクってしまった。あれだけ焦ったのは本当に久しぶりである。


 メリルちゃんが「カーラ様、落ち着いて下さいっ。大丈夫ですっ、カーラ様にはこのわたしが着いていますからっ!」と言いながら私の胸めがけてタックルをかましてきてくれたおかげで正気に戻れたが、「もう大丈夫です。ご心配おかけして申し訳ありません」と言っても、胸に顔を押し付けたままなかなか離れてくれなかったあたり、傍から見ていて相当ヤバい感じだったのだろう。


 まあそんな訳で、個人的にはガルゼに言いたいことが色々とあった。


 あったのだが、逆に契約者とメリルちゃんから、瀕死状態のバウトと私の体に出来た傷(もう既に傷は塞がり始めていたが)に関して質問責めにあい、『ガルゼの自爆』の問題に関してはうやむやになってしまった。


 私はその場で経緯を簡単に説明し「――今後同じようなことがあっても、対処し切れるかどうか分りません。ですので、バウト=カチェット様にはここで死んで頂きます」と言って、少し先でノビているバウトの首を刎ねようと歩みを再開したのだが、今度はガルゼに太ももにタックルをくらい動きを止められた。

 両足を治療中であった彼の突進は随分と弱々しいもので、回避するなり何なり対処のしようはあったのだが、下手にかわして契約者の傷を深めるような事態は避けたかったので私は大人しく受け止めることを選んだのである。


「ぐぐ、駄目だカーラ、お前は、殺してはいけない、ぐおぉ――――ぐはっ!?」


 ――そして、私の太ももにしがみついたガルゼは次の瞬間にはメリルちゃんに引き剝がされて、地べたに叩きつけられ呻き声を上げた……おいいい!?


「あの、メリル様、怪我人に暴力は……」

「だって、だってカーラ様っ、こいつ今、カーラ様のおみ足に顔を擦りつけていましたよっ! しかも手はカーラ様のお尻にっ、許せませんっ、汚らわしいっ、ああ、なんと汚らわしい生き物なのでしょうかっ、この男はっ!」

「ぐ、ぐおぉお。黙れ愚民、お前と、一緒にするな。ぐっ。結果としてそんな体勢になったが、僕の行動にカーラを止める以外の意図はないぞ。ぐぐぐっ。大体お前の方こそ、さっきカーラの胸に顔を埋めて――」

「ああ嫌だ。これだから心のいやしい男は嫌なのです。自分がやましいことを考え行動しているから、他人の行動もそういう風に映るのです」

「……お前が言うな」


 ……うん、まあ、あれだ。取りあえず、ガルゼが元気そうなのは良かった。


 良かったが、『この状況』はあまりよろしくない。


 私は言い争う二人の会話を聞きながらも、周囲を警戒していた。

 視覚、聴覚、嗅覚、そしてそれ以外の全ての感覚が人外の域に達している今の私の体は、近づいてきている『いくつかの気配』を感じ取っていたのである。

 恐らく人間ではない。

 バウトの血の臭いか、二人の声の音かは知らないが、ここに人間がいると知った魔物の森の住人が、かなりの数近づいてきているようだ。


 はぐれメタルの逃走本能は、今近づいてきている相手が、バウトに比べれば遥かに危険度の劣る相手であると告げていたが、怪我をしたガルゼを守らねばならない状況ではそうそう油断も出来ないだろう。


 ――退くべきだな。


「ガルゼ様、メリル様」

「ぐ、何だ、カーラ」

「は、はいっ、な、何でしょうか、カーラ様。あとわたしはカーラ様の大きなお胸に顔を埋めてその暖かさと柔らかさにああ幸せだなー天国ってあったんだなーここにあったんだなーとか思っていませんでしたよ本当ですよ」

「……魔物が複数近づいてきています。話の続きは、最寄りの冒険者の拠点で致しましょう。この場はいったん退きます」


 ゆっく○並みにふぬけた顔をしていたメリルちゃんの表情が、一転、真面目なものへと切り替わる。


「分りました。先ほどお預かりした地図をお返しします」


 そう言って、毒霧を回避するために二人に空に上がってもらう際に預けていた、私の荷物袋を返してくれた。

 私は袋の中から、地図を取り出すと目的の『拠点』がある方角とそこまでの距離を概算する。

 ……恐らく、私たちが洞窟に到達するよりも魔物がこちらに辿りつく方が早い。


「ガルゼ様、メリル様、これから魔物を牽制します。お二人にも影響があるかと思いますがご容赦下さい」

「む」

「ふぇ?」


 『紫陽花』の抑止を解除する。


 その瞬間、近づいてきていた魔物らしき気配は全て動きを止め、大半が慌てて道を引き返していった。

 僅かに残った連中が、機会を伺っているのか、それとも逃げることすら出来ないほどに怯えているだけなのかは分らないが、少なくとも紫陽花を発動させている限り――世界に対し私を『冷酷非情な存在』として認識させている限り、魔物でさえ下手に私には近寄ってこないようだ。


 ……正直、未だに好きにはなれない能力だが、その利便性のほどは認めざるを得ない。


 私は『紫陽花』を発動させたまま、ガルゼとメリルちゃんに視線を向けた。

 パーティーのメンバーにどんな影響を与えているのか確認するためである。可能であれば、紫陽花を抑止せずに『拠点』である洞窟まで向かいたかったが、二人の反応いかんによっては抑える必要も出てくるだろう。


「ど、どうした、カーラ?」


 痛みと怯えで顔を青くしながらも、毅然とした態度を崩さないガルゼ。

 地べたに転がってさえいなければ中々様になっていたことだろうが、例えその体勢であっても魔物さえ逃げ出す今の私を相手に堂々とした態度を取れるのは、充分尊敬に値する。

 まあ考えてみれば、この青年はもともと紫陽花の抑止を解除していない私に対し「僕の使い魔になれ」と言えた男なのだ。

 紫陽花を発動したままで何の問題もないか。


「は、はうぅぅ、い、いかが致しましたかカーラ様?」


 対するメリルちゃんは逆に顔を赤くしていた。潤んだ目で、頬を紅潮させていた。

 ……何だこのリアクションは?

 何故か私の中の逃走本能が若干反応していたが、この状況のどこに危険があるのか理解出来なかったので無視する。

 ……よく分らないが、怯えて逃げられたり、固まられたりしている訳ではないので、取りあえずよしとしよう。


「いえ、何でもありません。それでは私に着いてきて下さい」


 私は瀕死のバウトを荷物でも扱うように右手で担ぎ上げると、左手に地図を広げ先導を開始した。

 『私がバウトを殺すこと』を我がマスターがお気にめしていないことはタックルを受けた時点で理解していたので、この男の始末は後回しにする。

 いつ魔物の襲撃を受けるか分らないこの場では、バウトの始末を話し合うことにもリスクがある。まずは『拠点』に到着することが先決であろう。


 怪我人のガルゼとメリルちゃんにはペガサスに乗ってもらい、私は早足で拠点を目指した。道中、『紫陽花』発動時の悪辣な本能が、瀕死のバウトの傷口を抉りたいと訴えかけてきたりもしたが、それは理性をもって全力で押さえ込み、どうにか10分程度で目的の洞窟に到着することが出来た。


 そして、現在に至る。


 方や『バウトを殺すべきだ』と言うメリルちゃん。

 方や『バウトが反省しているのなら殺す必要はない』と言うガルゼ。


 洞窟に入ると同時に紫陽花は抑止していたため、心情的にはガルゼ寄りである。

 だが、理性が導き出した結論はメリルちゃんと同じだ。そして重んじるべきは、本能や心情ではなく、理性である。


 やはり結論は変わらない。契約者には悪いが、リスクを考えるならばバウト=カチェットはここで殺しておくべきだ。


 ふと視線をガルゼに向けると、傷の痛みは引いてきているようで顔色も大分よくなっていた。

 ……そして、こちらを見返す瞳には、傲岸不遜な普段の彼らしくもない、とても真摯な輝きが宿っていた。何かを訴えかけるかのように、何かを信じるかのように、力強い眼差しで私を見つめている。


 正直、とても苦手な視線だった。


「……マスター、やはり私の結論はメリル様と同じです」

「むう」

「ですがガルゼ様、私は貴方の使い魔です。貴方がバウト様のお話を伺った上で、最終的な決断を下すとおっしゃるのであれば、私はそれに従いましょう」

「そ、そうかっ」


 どうにも私は昔から、こういった視線を向けてくる手合いに弱い気がする。


「カーラ様っ!」


 非難の表情を浮かべるメリルちゃんから視線を逸らした。

 金髪碧眼の小柄な少女が頬を膨らませて涙目になっている姿は、思わずのんびり眺めていたくなるほど愛らしいものであったが――委員長キャラのメリルちゃんが見せる年相応な子供っぽい仕草は本当に可愛らしかったが、今回は気まずさが勝った。


 まあ、言いたいことは分るのだ。事実として、先にも述べた通り私もメリルちゃんの方針こそが正しいと認識している。

 合理的結論を無視して、個人的な感情からガルゼの視線の訴えを聞きいれた今の私の行動は非難されてしかるべきものだ。言い訳のしようがない。

 ……言い訳はしないが、視線は逸らそう。


 気まずげに目を逸らした先には、相変わらず苦手な眼差しを向けてくるガルゼ。キラキラした、と表現したくなるような瞳だ。私をそんな目で見るな。

 耐えきれず、視線を逸らす。


 その先には、相変わらず可愛らしく非難の視線を向けてくるメリルちゃん。ぐぬぬ、と表現したくなるよう表情だ。私がコラ職人だったらぐぬコラを作っている愛らしさである。

 気まずくて、視線を逸らす。


 キラキラ。

 視線を逸らす。

 ぐぬぬ。

 視線を逸らす。

 ……。

 …………。

 ……………………。


 早く目覚めろっ、バウト=カチェット!



*********************************



 カーラに『バウトを殺すな』と言ったガルゼフォードであったが、バウトが行った暴挙に怒りを感じなかった訳ではない。


 人間の命を重んじるが故に、バウトの殺害を止めたガルゼフォード。そんな彼が、自らの使い魔の命を脅かされたことに対して憤怒の念を抱かないはずがないのだ。


 むしろ、理性で殺す必要があると判断したカーラや、感情で殺したいと願っているメリルと比して、感情理性ともに怒りを感じながらも殺してはいけないという結論に至ったガルゼフォードこそが、三人の中で最も深い怒りを溜め込んでいると言っても過言ではなかった。


 それでも、彼は自らの使い魔に『殺し』を行わせることだけは避けたかったのである。


 ガルゼフォード=マキシが初めて命の重さを実感したのは、15歳で両親を失った時のことだ。

 ガルゼフォード同様、魔術師としては平凡な両親であった。死因も魔術の実験によるものでこそあったが、その実験自体は目新しいものではなく、取り立てて人々の記憶に残ることもなかった。


 両親の死後、ガルゼフォードに残されたものは、幾ばくかの遺産であった。

 マキシ家が生業としていたのは、他の魔術師から依頼を受けて行う魔法陣の代筆である。魔術師が魔術を発動させるためには、自分の血を混ぜた特性のインクで描かれた魔法陣が必要となるが、別段それを自分で描く必要はないのだ。血のインクと魔法陣の図案さえ用意出来れば、その執筆は他人に任せてよい。

 そんな『代筆屋』で蓄えたマキシ家の貯金はさほどのものではなかったが、残された魔紙や魔石等の仕事道具は、ガルゼフォードが学園生活を行う上での大きな支えとなった。


 遺産のおかげで、ガルゼフォードの生活にそんなに大きな変化はなかったが、彼の内面に関して言えば、それまでとは大きく変わった部分がある。

 それが、命の重さに対する認識だ。

 

 失われた命は戻らない。

 そんな当たり前のことを、彼は15歳にして初めて実感として知ったのである。


 偉大なる魔術師であるはずの自分ですら、『死』という絶対的な現実の前ではあまりに無力で、あまりにちっぽけな存在に過ぎないことを知ったのだ。


 その実感は両親が死んだ直後よりも、ふとした日常の中でこそ感じられた。

 何かの拍子で連絡をとろうとした時、ちょっとした用事で実家に帰ろうとした時、そんな時々に望む相手がもう存在しないことを思い出し、途方に暮れるのである。


 かつては誰それが死んだと聞いても、特に何も感じなかったガルゼフォードだが、両親の死後は、誰かの死の影にはその事実に苦しむ自分のような人間が存在することに気付き、『死』自体を忌避するようになった。

 そして、誰かの命を奪う『殺人』という行為を、この上なく唾棄するようになったのだ。


 故に、そんな『行為』をあの美しい使い魔にさせるのは、とても許されないことのように思えた。

 ――しかし。

 同時に、冷たい美貌の女の命が失われることを想像すると、背筋が凍りそうになるのも事実だった。


 カーラにバウトを殺させたくない。

 バウトにカーラを殺されたくもない。

 二つの矛盾した欲求の板挟みの中で、ガルゼフォードが出した結論は単純だった。

 ――バウト=カチェットがカーラの命を奪うことを諦めればいい。仮にまだ諦めていなければ、説得して諦めさせればいい。

 それがガルゼフォードの出した結論である。

 甘い、結論である。


 メリルがその考えを聞いたならば、呆れたように冷笑を浮かべたことだろう。あるいはカーラが聞いたならば、普段の冷たい眼差しの中に、憐憫と羨望の念を交えて彼を見たかもしれない。


 メリル=フォン=クラーゼも父を喪っていたが、彼女は強い人間だった。その事実に立ち止まることも、後ろを振り返ることもなく、一夜泣き崩れた後はそれまで通りにまっすぐに前を向いて進むことが出来ていた。

 そんな彼女には、ガルゼフォードが抱くような『他人が死ぬこと』に対する異常なまでの恐怖感や、『他人を殺すこと』に対する途轍もない忌避感を理解出来ない。

 理解出来ぬが故に、彼の『理想論』としか言いようのない結論は、単なる甘さの現れとしか思えないのである。


 カーラもまた、かつて『自分の命よりも大切な人間』を喪っていた。

 彼女にはガルゼフォードの気持ちがよく理解出来る。何故ならば、その喪失こそがカーラという魔人を生んだとも言えるのだから。

 だが仮に冷たい美貌の女が、彼女の契約者と同じ立場に置かれたならば、全く異なる結論を導き出していたことだろう。

 大切な誰かを殺そうとしている相手がいて、大切な誰かに手を汚させたくないならば――――自分がその相手を殺せばよい。

 それがカーラという魔人の在り方である。

 命を重んじるのはガルゼフォードと同じだ。だからこそ、可能な限り闘争を避けようとしている面もある。

 しかし、誰かの命を重んじるが故に、他の誰かの命を犠牲に出来るのが、カーラという魔人にあって彼女の契約者にはない強さであり――弱さだった。

 自身が抱えるそんな『矛盾』を自覚するが故に、冷たい美貌の女は正論を結論とするガルゼフォードの姿を憐れみ、羨むのである。


 そういった諸々の感情が、カーラにガルゼフォードの甘い結論を認めさせていた。そして、そんな彼女だからこそ、銀色の餓狼を生かしておくことが『彼女の目的』の障害となると再度判断したならば、契約者からどんな不況を買ったところで即刻バウト=カチェットの命を奪うことだろう。


 ガルゼフォードは自らの結論に賛同してくれた時点で、自分と使い魔の想いが同じであるものと誤解していたが、実際のところ青年と冷たい美貌の女とでは、その行動原理においてあまりに大きな相違があった。カーラはそのことに気付いていたが、ガルゼフォードはついに最後までその事実に気付けなかった。


 だから彼は、自らの信頼の眼差しが、彼の使い魔に対して精神的なプレッシャーを与えていることにも気付けなかったのである。


 ガルゼフォードが見る限り、カーラの美しくも冷たい相貌に浮かぶ表情は、いつも通りの余裕に満ちた悠然としたものであった。気だるげに岩肌に寄り掛かる姿もまた、常と変らぬ何とも言えない蠱惑的な色香を放っている。


 しかしその実、冷たい美貌の女は二人の注視から逃れるように、さりげなく洞窟の端の方に移動しおり、岩陰に身を隠そうとでもしているのか、その長身を心なしか縮こまらせたりしていた。

 ……カーラが右にスリ足で移動すれば、それに合せるようにガルゼフォードとメリルも視線を動かし、カーラが少しでも自らの面積を小さく見せようと肩を狭めれば、その拍子に突き出された豊かな双丘に二人の視線が釘付けになっていた……何と言うか、色々と無駄な努力だった。


 幸か不幸か、ガルゼフォードもメリルも、カーラのそんな懸命な(虚しい)努力が彼等の視線に対する気まずさに起因するものだとは気付いていなかったが、もしこの状態があと10分も続いていたならば、冷たい美貌の女は更なる奇行に走っていたかもしれない。


 その『騒音』がカーラの耳に届かなかったのならば、そんな可能性もあった。


「マスター、メリル様、洞窟の近辺で争っているような音がします」

「っ、魔物ですかっ?」

「恐らく、魔術を使える人間と、複数の魔物が争っているようです。魔物の数の規模からして『トロールの反乱』ではないでしょうが、魔術を使っている側の方が劣勢のようですね」

「よしっ、助けにいくぞっ!」

「マキシさんっ、そうやって思いつきでものを言うのは止めて下さい!」


 ガルゼフォードもその頃には傷が回復しており、立ち上がって臨戦態勢を整えていた。

 彼の最大の武器は、長大な筒の中に収めた人間大の火球を放つ魔法陣である。それをいつでも広げられるように構えた姿はそれなり様にならないこともなかったが、そんなガルゼフォードを見るメリルの視線は冷ややかであった。


「カーラ様、どうしますか?」

「私が先行して様子を伺ってきます。本当はお二人にはここで待機して頂きたいところですが、バウト様が目覚めて敵対的な行動を取った場合、対処しきれない危険性があります。洞窟の出入り口付近まで一緒に着いてきて下さい」

「はい、分りました」

「……何故お前はカーラの言うことは聞いて、僕の指示には従わない?」

「信頼の差です。そんなことも聞かなければ分らないのですか?」


 この時のガルゼフォードは、メリルの辛辣な言葉に対し苦々しげな表情を浮かべながらも、反論しなかった。

 自尊心の塊のような彼らしからぬ反応である。


「……ふん、まあ、いい」

「え?」


 そんなガルゼフォードの意外な反応に、メリルも僅かに鼻白む。


 単純に、この時の彼は急いでいたのだ。

 魔物に誰かが襲われているという状況――誰かの命が今すぐにでも奪われようとしている現状は、ガルゼフォード=マキシのような『甘い』結論を出す男にとって看過出来るものではなかったのである。


「誰かが襲われているのだろう。無駄話をしている時間もおしい。ゆくぞ、カーラ」

「はい。畏まりました。メリル様もよろしいですか?」

「……はい」


 ガルゼフォードが『襲われている誰かの身を案じて対応を急いでいる』と察したメリルは、少しばかり気まずくなった。

 先ほどの自分の言動が子供じみたものに思えたのである。

 15歳という彼女の年齢を、大人と分類するか子供と分類するかは難しいところだ。しかし少なくとも、一人前の貴族を目指しているメリルにとって、自分の中の子供っぽさは許容していいものではなかった。

 ガルゼフォードとカーラの前では比較的子供っぽさを発揮しているメリルだが、それはガルゼフォードが明らかに子供であり、カーラが明らかに大人だったからだ。

 あるいは、ガルゼフォードのことを心底嫌っており、カーラのことを誰よりも好いていたからだ。

 だが、真剣な表情で誰かの身を案じるガルゼフォードの姿は、子供っぽいとはとても言えず、嫌悪の念を抱くようなものでもなかった。

 メリルの中でガルゼフォード=マキシの評価が揺らいでいた。


 冷たい美貌の女も常とは違う二人の様子に気付いていたが、状況が状況であったため無視した。基本的に全ての物事に優先付けを行う彼女にとって、少年少女の悩みよりも、見知らぬ誰かの命の方が重かったのである。

 そういう意味で言えば、やはりカーラとガルゼフォードは似た者同士と言えるのかもしれない。例え部分的ではあったとしても。


「本当に時間がなさそうです。先行しますが、決して無理はなさらず着いてきて下さい」


 その言葉と同時にカーラの姿がかき消えた。凄まじい速度で移動を開始したのである。

 一瞬遅れて、ガルゼフォードも慌てて追走する。

 その更に後ろに着いたメリルは、ガルゼフォードの後ろ姿に思うところがあったが、いったん気持ちを切り替えた。その表情はもう少女のものではなく、冒険者、あるいは魔術師のものとなっていた。


 そして、真っ先に洞窟の外に飛び出したカーラは、視線の先で斬り落とされた人間の腕を確認し――瞬時に『紫陽花』の抑止を解除した。



*********************************



 その日、魔物の森を訪れた人間の中に、とある若い夫婦の姿があった。


 夫の名はアル=イニシェ。

 赤髪赤眼の長身な青年である。身に纏う皮の鎧と、腰に差した二本の短剣は、彼が戦士――中でも速度を重視する軽剣士であることを表している。

 短く切り揃えた赤髪と、小麦色に焼けた肌、そして意志の強そうな赤眼が特徴的で、27歳となった今でも、見る者にどこか活発な少年のような印象を与える男であった。


 妻の名はベティー=イニシェ

 青髪青眼の小柄な女性である。ゆったりとした外套で身を包み、巻物を収めた長い筒を何本も腰に下げているその姿は、彼女が魔術師であることを表している。

 肌こそ健康的に焼けているが、よく手入れをされた長い青髪と、楚々とした印象をあたえる右目の泣き黒子は、23歳の彼女に年齢以上に成熟した印象与えている。


 Eランクの戦士であるアルと、Dランクの魔術師であるベティーは、ともに突出した才能を持つ冒険者ではない。

 しかし、息の合った連携でDランクのクエストを二人だけで達成したこともあり、パーティーとしての実力は本物だった。本来クエストが、クエストと同ランクの冒険者が複数人いなければ達成できないものであることを考えると、二人の連携の巧みさが伺い知れるだろう。


 5年前、とあるクエストに挑む際の臨時パーティーで一緒になったことがイニシェ夫妻の馴れ初めである。以来5年間、互いに背中を預けながらいくつものクエストを乗り越えていく内に、二人の間の信頼関係は形を変え、パーティーの仲間ではなく人生の伴侶として供にいたいと望むようになったのだ。


 冒険者として着々と力を蓄え名前も知られるようなっていった二人だが、去年めでたく結婚したことを期に、彼等は冒険者から足を洗うことを決意した。


 理由は、冒険者という仕事の危険性を妻であるベティーが嫌ったからである。しっかり者でおっとりとした性格の彼女にとって、最愛の夫がいつ死ぬかも分らない状況というのはなかなか受け入れ難いものであったのだ。

 普通であれば27歳の男の冒険者が妻に「足を洗え」と言われてもそうそう素直に話を聞く訳がなかったが、アルという青年は心底ベティーに惚れ込んでいた。

 赤毛の青年はあっさりと冒険者ギルドから脱退し、ベティーも時を同じくするようにして魔術師の派閥から抜け、実家から勘当された。


 そうして二人は、旅の行商人の夫妻となったのである。

 互いにそれまでの人生を捨てたに等しかったが、彼等の愛はむしろ深まっていた。


 冒険者時代に培った人脈や、他の行商人では真似出来ない強行軍などのおかげもあり『イニシェ商会』の滑り出しはなかなか順調であった。

 ベティーとしては、冒険者の頃とさして変わらない無茶をする夫の姿にヒヤヒヤしたものであったが、自分の我がままで『子供の頃から冒険者として世界を回ってみたかった』と言っていたアルから冒険者の道を奪った手前、あまり強くも言えなかった。

 アルの方は、単純に妻に少しでもいい生活をさせてやりたかったので、妻が心配していることに気付きながらも『軌道に乗ったら無茶はやめよう』と自分に言い聞かせながら仕事をしていた。


 そんな二人が魔物の森を訪れたのは――訪れてしまったのは、いくつかの不幸が重なった結果だが、何と言っても彼等の最大の不幸は『トロールの反乱』の情報を知らなかったことであろう。


 この一週間の間で話題となり始めた『トロールの反乱』という事件は、まだ魔術学園都市フェルトの住民にしか広まっていない。例外は、冒険者や魔術師などの特殊な情報ソースを持つ人間ぐらいだろう。

 元冒険者であるアルや、元魔術師であるベティーならば、それなりの規模の都市にさえ訪れていれば『トロールの反乱』の情報も拾えていたかもしれない。しかし、今回の行商で二人は、名産品のある田舎の村々を回って仕入れを行っていたのである。

 故に知らなかったのだ。今の魔物の森がどれだけ危険な場所であるかを。


 イニシェ夫妻が魔物の森を訪れたのは、この森にしかないある薬草が必要となったからである。

 商談相手の老村長の孫娘がとある流行り病に倒れたと聞き、その治療に必要となる薬草の採取依頼を受領したのだ。

 老村長とは二人が元々冒険者であった頃からの付き合いであった。彼の幼い孫娘とも面識があり、孫娘がすぐに治療が必要なほど重病であることを知ったアルとベティーは、久しぶりに冒険者の真似事をすることに決めたのである。


 引退して一年近くが経つとは言え、Dランクパーティーの実力は本物だった。

 元々達成出来ない依頼を受けるような二人ではないのだ。

 特にベティーは、自分たちの実力が落ちていることを考慮した上で、薬草を手に入れる過程で遭遇する可能性のある最強の魔物にも勝てると判断したからこそ、この依頼を受けたのである。

 途中立ちふさがる魔物たちを難なく斬り伏せる、アル。ベティーも、氷の礫を撃ち出す魔術で上手くアルの援護を行っていた。


 二人の進行速度は、Cランクのパーティーと比しても尚速い。

 その原因は彼等の戦闘力などではなく、アル=イニシェのとある才能にあった。

 本来ならば魔物の森は天然の迷路であり、多少通い慣れた冒険者であっても地図を見ながらゆっくりと進む必要があるのだ。しかし、剣才を有さないアル=イニシェには抜群の方向感覚と人並み外れた記憶力があった。一度でも訪れたことのある場所ならば、例え途中道を外れたとしても100%目的地まで辿りつくことが出来る才能があったのだ。

 カーラあたりがそんな彼の姿を見たならば「マッピングの天才」、「仲間を目的地に導くために生まれてきたような男」とでも称したことだろう。事実、知る者こそ少なかったがその才は数十年に一人と称されるに値するものだった。

 冒険者を止め、旅の行商人となった今でも『マッピングの才能』は幾度なくアルの助けとなっていた。むしろ行商人になってからの方が役立つ場面が多かったかもしれない。


 そんなアルの才能の助けもあり、二人は比較的あっさりと薬草の群生地に辿りつき、採取を行うことが出来た。


 そして、帰る前に冒険者の『拠点』の一つである山小屋で小休止を挟もうとしたのだ。

 冒険者の『拠点』は自然災害などで壊れる危険性を考慮し、一つの土地に必ず複数作られるものであったが、この時彼等が訪れた山小屋は幸いなことに特に損傷している様子はなかった。

 山小屋の周囲の樹木もきちんと伐採されており、小屋の周りに魔物が潜んでいる気配もない。

 また、ベティーが特に注意して確認したのは、出入り口付近にある『魔よけの魔法陣が描かれた魔石の柱』であった。

 そこに損傷がない限り、少なくともCランクまでの魔物はこの山小屋には近付くことも出来ない。そしてBランク以上の魔物が訪れるような場所に『拠点』が作られることはないため、柱が機能している限りは『拠点』において魔物の襲撃を受ける心配はないと言えた。

 ベティーが確認したところ、柱に描かれた魔法陣には何の損傷もなかった。

 だから、彼女は安心して小屋の扉を開こうとして―――夫に横から突き飛ばされた。


 この時のアルの俊敏性は、Dランクの戦士をも凌駕していた。

 彼の人生において最高最速の動作であった。


 だから、間に合った。

 だから、防げた。

 扉の中から突き出された剣が、妻の胸を貫くのを。


 そして間に合ったが故に、代償として彼は自らのわき腹を貫かれた。


 ベティーの悲鳴が魔物の森に木霊する。


 夫としての彼は、最愛の妻に笑顔の一つも見せて安心させてやりたかったが、冒険者としての彼は、この状況における優先順位を誤らなかった。


 腰に差した双剣を抜き放ち、扉に――扉の向こう側の敵に、突き立てる。

 魔物の悲鳴が上がった。


 その瞬間アルの背筋が凍る。

 魔術的な知識が深い彼ではなかったが、少なくとも魔術師である妻が『魔よけの魔法陣に損傷がないこと』を確認していたことは知っていた。

 もし今聞えてきた悲鳴が人間のものであったならばいい。盗賊の類が、冒険者を狙って拠点で待ち伏せしていたならば、よくはないが、まあ、いい。

 だが――。


 アルはわき腹の痛みに堪えながら刺さった剣を抜き、山小屋の扉を開け放った。

 視界に入ったのは四つの人影。

 扉を開けた瞬間に、もたれかかるように入口に倒れ込んできた一つの死体。

 事態を把握し切れていないのか、慌てた様子で武器を手にする三つの敵影。

 それらは総じてゴブリンと呼ばれる魔物であった。その魔物は、遠目に見たならば緑色の肌をした小男という印象である。だが、眼前にした際の威圧感はとてもではないが『小男』と呼べるような代物でない。小柄ながらも血管が浮きだす程に隆起した筋肉、鋭い牙と邪悪な眼光によって形成される凶悪な形相。小さなトロールと呼ばれるその魔物は『街の力自慢』程度ならば素手で捻り殺してくる。


 ――そんな『魔物』が、魔物避けの結界が張られているはずの冒険者の『拠点』で待ち伏せしていたのである。


 聞いたこともない――あってはならない事態であった。

 まともな冒険者であれば、ランクに関わらず混乱しても仕方がない場面だろう。


 しかし、ここでもアルは判断を誤らなかった。


 Eランク相当とされるその魔物は、本来同ランクのアルが複数を同時に敵に回して勝てる相手ではなかった。

 独力では勝てないと判断した彼は、妻の名を大声で呼んだのである。


 傷口のわき腹から血を流す夫の姿を見て、恐慌状態に陥りかけていたベティーだが、冒険者時代と変わらぬ力強いアルの声を聞き、行商人の妻から戦い慣れた魔術師に思考が切り替わった。瞬時に最速で放てる魔法陣を広げ、夫の傍まで走る。


 赤毛の剣士が出入り口から下がるのと同時に、青髪の魔術師は山小屋の内部に氷の礫を連続で撃ち放った。

 狭い室内であったこともあり、ゴブリンたちはかわすことも耐えることも出来ず、全員が一瞬で氷の針の剣山と化した。

 ベティーが魔法陣の準備を開始してから10秒足らずの間に行われたその虐殺劇は、彼女が実戦経験豊富な魔術師である証拠だった。 


 ゴブリンの全滅を確認すると同時に、緊張の糸が切れたのか、よろめき倒れかけるアル。ベティーは慌ててそれを支え、夫の傷を確認した。


 幸いなことに、アルの傷はすぐに命に関わるようなものではなかったが、治療せずに放置出来るほど浅い傷でもなかった。

 平民の魔術師であるベティーは、金銭的な問題で回復用の魔法陣の描き方を学べていない。また仮に魔法陣を持っていたとしても、消費する魔力量の問題で、凡才の彼女にはその魔術を使うことは出来なかっただろう。

 故に、ベティーがアルを救うためには、夫を連れてこの森から脱出し、傷を治療してもらえる場所まで辿り着く必要があった


 青髪の魔術師は、意を決して二つの魔術を発動させる。

 一つ目は、筋力強化の魔術、それを自らにかける。

 二つ目は、普段は荷物などにかける重量軽減の魔術、それを意識を失いかけている夫にかける。


 夫に「必ず助けます。絶対に、死なせたりなんかしませんから」と涙ながらに声をかけた彼女は、長身の夫を支えながら移動を開始した。


 しかし、移動を開始すると同時に、更なる追い打ちが二人を襲う。

 笛の音が森に木霊したのである。


 二人ともその音には聞き覚えがあった。

 通称『ゴブリンの呼び笛』と称されるその笛は、ゴブリンの群れの長が、手下であるゴブリンに指示を出す際に鳴らされる。

 不気味な音階で奏でられるその音は、Eランク以下の冒険者にとっては恐怖の象徴であった。何故ならばその笛が吹かれるのは、多くの場合『ゴブリンが人間を襲う時』だからである。


 Dランクの魔術師であるベティーであっても、負傷した夫を守りながらでは、ゴブリンの群れを相手にするのは危険だった。


 呆然とするベティーに対し、アルが近場の『拠点』まで逃げるよう指示を出す。

 山小屋の結界が意味を為さなかったことを思い出し、咄嗟に反論するベティーであったが、夫に全ての拠点が同じ状態であるとは限らないと言われ渋々納得する。

 アル自身も決して楽観視している訳ではなかったのだが、二人に残された時間や戦力を考えた場合『何らかの賭け』に出るのは仕方がない事だと判断したのである。


 そこからの逃走劇は、過酷なものであった。


 最初、負傷した夫に負担をかけてはならないと魔術による誘導機能がついた地図で道を確認していたベティーだが、アルに地図が間違っていると言われて、すぐに道案内を夫に委ねた。長年の相棒でもある青髪の魔術師は、赤毛の剣士のマッピング能力に絶対の信頼を寄せていたのである。

 また、アルの指示に従いながら『拠点』を目指す最中、確実に笛の音が近づいてきていることをベティーも感じていたが、急ごうとする夫をむしろ妻はたしなめていた。アルの傷口が広がってしまうことを恐れたのだ。


 とは言え、確実に近付いてきている笛の音は、確かに彼女を恐怖させていた。

 ゴブリンの斥候らしき連中と出くわした際には、格下相手に悲鳴を上げてしまったぐらいである。


 ――本隊に追いつかれるのも時間の問題だな。


 そう判断した、アルはもしもの時には自分を捨てていくようにと妻に指示を出した。

 ベティーは涙ながらにそれを拒んだ。


 足を進めながらも「冒険者ならば、負傷した仲間の命と、自分の命、どちらを優先するべきか分かるだろう」と語りかけるアルに対して、「分かりません。今の私は商人の妻です。旅の行商人アル=イニシェの妻なんです。冒険者の流儀なんて知りません」と涙を流し反論するベティー。


 『拠点』での魔物の待ち伏せ。

 狂わされた地図。

 迫りくるゴブリンの群れ。

 様々な要因が絡み合い、本当に『絶望的』としか言いようのない状況であったが、それでも二人が諦めずに歩を進められたのは、お互いの存在があったからである。


 アルを助けたいベティーと、ベティーを死なせたくないアル。


 お互いがお互いのことを思っていたからこそ、二人は絶望することなく『拠点』を目指すことが出来たのだ。


 そして、あと100メートル程度で『拠点』に辿りつけるというところで――追いつかれた。


 先頭を走ってきているのは、他のゴブリンよりも2回りは大きい、赤銅色の肌をした悪鬼=ハイゴブリンであった。

 大きさと肌の色以外はよく似た外見をしているため同一の種族と誤解されがちだが、ハイゴブリンは、ゴブリンとは異なる種族である。生まれながらにゴブリンの上に立つことが宿命付けられており、個体によってはCランクの魔物であるトロールをも殴り殺すほど強力なものもいる。

 冒険者にとっての幸運はハイゴブリンが希少種であるため滅多に出会わないことであったが、もし、ハイゴブリンに率いられたゴブリンの群れに出会ったならば、Dランク以下のパーティーでは生還は不可能であるとさえ言われている。

 そして、今二人の目の前にいるハイゴブリンは、通常30匹いれば多いとされるゴブリンの群れをその倍以上従えていた。


 イニシェ夫妻にとっては、絶望的な敵である。


 アルが何か言うよりも先に――ベティーに逃げろと言うよりも先に、青髪の魔術師は魔術を発動させて臨戦態勢を整えていた。

 それでも口を開こうとした夫を、彼女がキッと睨みつける。赤毛の剣士は困ったような顔をして溜息を吐き――次の瞬間には、力強い笑みを浮かべて「二人で生き延びるぞ」と言った。


 二人の奮闘は見事なものだった。


 次々と氷の弾幕を撃ち続け、ゴブリンを寄せ付けないベティー。

 密度よりも範囲を優先させているため、なかなかゴブリンの命を奪えなかったが、それでも自分たちの十倍以上いる敵の足を止めているのだ。充分な戦果と言える。

 屋外であることもあり、稀にかわしながら近づいてくる敵もいたが、それは妻の魔術で筋力を強化されたアルがすぐさま斬り伏せていた。傷口が開かないよう最小限に抑えられた動きであったが、妻を守るためのこの戦いにおいてアル=イニシェはDランクの剣士に匹敵する実力を発揮していた。


 身体能力で劣る人類が魔物に勝るには、とにかく一撃で相手を仕留める必要がある。

 魔術師であれば魔物に近づかれる前に撃ち殺し、剣士であれば魔物の反撃を受ける前に斬り殺す。

 個々の力では防ぎきれないまでも、巧みな連携でその基本を完璧に実戦してみせているイニシェ夫妻は冒険者として理想的なパーティーと言えた。


 そのまま戦闘が続いていたならば、あるいは『ゴブリンを』全滅させることは出来たのかもしれない。事実、およそ5分程度の間に5、6匹のゴブリンを殺害することに成功している。

 闇雲に繰り返される突撃で突破出来るほど、二人の連携は甘いものではないのだ。

 だから敵――『ハイゴブリン』も作戦を変えた。


 冒険者にとっての危険度は、トロールに劣るゴブリンだが、実のところその知性はトロールよりも高い。個体として弱い種族こそ高い知性と団結力を発揮するのは、人間という種族を見ればよく分かることだ。

 そして、ゴブリンを支配する種族であるハイゴブリンの知性は、戦い限定であるとはいえ、時として人間に迫るものがあった。


 ハイゴブリンが取った作戦は『一見すると』単純だ。ゴブリンを後ろに下げ、被弾を厭わず自らベティーに突進してきたのである。右肘を突き出した、エルボータックルのようなその突進は、ハイゴブリンの巨体も相まって巨岩が迫ってくるような威圧感がある。


 ベティーが咄嗟に放った氷の礫は全弾命中したが、ハイゴブリンの勢いはまるで衰えなかった。

 魔術師であるベティーに、野生の魔物の攻撃を回避するような身体能力はない。攻撃で仕留めることが出来なかった時点で、終わりなのだ。

 だから、そんな彼女を守ることこそがアル=イニシェの役割であった。


 人間としては筋肉質なアルだが、ハイゴブリンの突進を受け取めることは重量差的に不可能であった。だから彼が妻の命を守りたければ、ハイゴブリンを攻撃し進路を変えさせるしかなかった。

 突進するハイゴブリンの足を斬り落としにいった彼の判断は正しい。


 だが、この場合は相手が悪かった。


 ハイゴブリンが取った作戦は『一見すると』単純だったが、その実、魔物の狙いはそれなりに巧妙だったのだ。

 赤銅色の肌の悪鬼は、ベティーがパーティーの火力であることを理解していたが、同時にその火力を潰すためには先にアルの方を始末する必要があることに気付いていた。

 だから、『狙い通り』赤毛の剣士が斬りかかって来たことに気付くと急停止をかけ、カウンターのようなタイミングで、腰に下げていた手斧をアルの頭部目がけて振り下ろしたのである。

 斬撃のモーションに入っていたアルは、急に止まったハイゴブリンに対応することが出来なかった。彼は何とか脳天を打ち砕かれることだけは回避し――対価として右腕を差し出すこととなった。


 交差するようにハイゴブリンを通り過ぎたアルだが、その右肩から先が消失している。

 噴水のような鮮血が、彼の右腕があったはずの場所から噴き出す。


 満身創痍の体で戦い続けたアルだったが、ここにきてついに意識を失った。


 ベティーは崩れ落ちた夫の傍に駆け寄ると、悲鳴を上げる代わりに、全力で魔術を放ち続けた。

 ハイゴブリンは既に後ろに下がり、ゴブリンの数頼みの突撃に戻っていたが、その数と質はもはやベティー一人で支えきれるようなものではなかった。

 それでもベティーは懸命に氷の礫を撃ち続けたが、とうとうその弾幕も突破されゴブリンの持った錆びた剣が彼女目がけて振り下ろされたのである。


 ただの魔術師であるベティーにその攻撃を回避する術などない。

 今までずっと彼女を守ってきた夫も、既に地に伏している。

 だから、彼女の死は必然だった。

 ゴブリンの錆びた剣は、彼女にとって死神の鎌のようなものだ。振り下ろされた以上、その死から逃れる事は出来ない。



 ――だが、その日、その時、その場所には、死神の鎌さえも容易くへし折るような怪物がいた。死神の首すらも、冷たい微笑を浮かべて刈り取るような、そんな恐ろしい怪物がいたのだ。



 死神の鎌――錆びた剣を手刀でへし折ると、その勢いのまま『彼女』は腕を振り切りゴブリンの首を切断した。


 胴体だけになったソレを、冷たい微笑を浮かべて見つめるその『怪物』は、美しい女の姿をしていた。


 ゾクリと、ベティーの背筋が震える。


 状況だけ見れば助けられたはずなのに、青髪の魔術師には、今自分たちを取り囲んでいる50匹以上のゴブリンの群れよりも、その『冷酷非情を形にしたような女』一人の方が遥かに恐ろしい存在に思えた。


 美しい女だった。

 蠱惑的な美貌も、官能的な肢体も、魔物の森の中で見るにはあまりに場違いなものであったが、女性のベティーですら思わず見惚れるほどに美しかった。


 恐ろしい女だった。

 その美しさの中には毒があった。冷たく退廃的な毒を秘めた美しさであった。頭部を失ったゴブリンの死体を楽しそうに眺める姿が、これほど絵になる女もいない。

 死体を楽しそうに眺め、死者を嘲るように笑うその姿がこれほど様になる人間など、存在していること自体が何かの間違いのように思えてくる。


 青髪の魔術師が呆然と彼女を眺めていると、冷たい美貌の女はクスリと笑った。自分を見て笑っている、そのことに気付いたベティーの心臓が凍りそうになる。


 だが、この時、『怪物』に対し恐怖を感じていたのは何もベティーだけではなかった。ハイゴブリンが、自らの怯えを誤魔化すように咆哮する。

 同時に、50匹近いゴブリンが一斉に『女』に襲いかかった。


 ――そこから先の光景は、ベティーにはとてもこの世のものとは思えなかった。


 ゴブリンの凶悪な筋力によって振り下ろされる剣、振り回される拳、そのどれもがアルやベティーでは直撃=即死確定の暴威であった。だから彼等は、攻撃を受ける前に仕留めていたのだ。

 しかし、その女の形をした何かは冷たい微笑を浮かべたまま全ての暴威を受け止めていた。否、受け止めるなどという大仰な動きではない。その女がそっと手を添えるだけで、全ての攻撃が意味を失っていたのだ。

 彼女が優しげに手を触れると、ゴブリン達の剣はへし折れ、手斧は打ち砕かれた。あるいは拳に触れられたものは、火球の直撃でも受けたかの如くその腕を爆散させていた。


 そして、女が気だるげに手を横に振るだけで、ゴブリンの首が冗談のようにポンポンと飛んでいく。


 攻撃をしようとしたゴブリンの首が飛ぶ。

 防御をしようとしたゴブリンの首が飛ぶ。

 逃げようとしたゴブリンの首も、当然飛んだ。


 ――冷たい美貌の女が、舞うように美しい指先を踊らせるだけで、楽しそうにクスクスと笑っているだけで、50以上にも及ぶ血の噴水がその場に完成していた。


 数や戦術をねじ伏せる、絶対的な暴力による蹂躙。

 それは本来、魔物から人間に対して為されるはずのものである。

 武器や技を嘲笑うかのような、力任せの素手による虐殺。

 それも本来、魔物が人類を弄ぶ際に為されるはずのことである。


 だが、この瞬間、この場所においては、その立場は完全に逆転していた。ゴブリンたちの数も戦術も武器も技も、ただ一人の『人間の女の形をした何か』の圧倒的な暴力によって、一方的に蹂躙され、虐殺されたのである。


 ハイゴブリンも咄嗟に別の指示を出そうとはしたのだ。

 だが、魔物が眼前の『怪物』を『決して手を出してはならない相手である』と認識した頃には、もはやゴブリンは全滅していた。

 アルとベティーに数を減らされていてなお、50匹以上いたゴブリンは、その『怪物』の戯れのような舞いによって30秒足らずの間に皆殺しにされたのだ。


 既に逃げることも許されないと悟っていたハイゴブリンは、怒声の如き咆哮を上げると、右肘を突き出しエルボータックルのような体勢で突進を開始した。

 ベティーの攻撃に耐え、アルの右腕を奪った突進である。


 それを女は気だるげな仕草で、冷笑すら浮かべたまま受け止めた。

 魔物の肘に右手をそっと添えるだけで、突進の勢いを完全に殺す。彼我の重量差を嘲るように無視した、理外の怪物の所業であった。


 ハイゴブリンが必死の形相で全身全霊の力を込めると、只でさえ丸太の様であった悪鬼の太ももが一回り以上隆起し、脚力に耐えきれなくなった足場の地面が陥没していく。

 冷たい美貌の女はそんな相手の『必死の奮闘』を眺めながら―――退屈そうに、空いた左手で美しい黒髪をすいていた。

 魔物の表情が憤怒と屈辱で歪んだが、その刺し殺すような視線を受けても『女』の気だるげな様子に変化はない。しかし、何の前触れもなく彼女の足が動いたかと思うと、ハイゴブリンの両膝が砕かれた。


 勢い余って顔面から地面に突っ込むハイゴブリン。

 位置的には、女の貫頭衣の真下。見上げれば、見てはいけないものが見えてしまう位置であったが、ハイゴブリンが顔を上げるよりも先にその後頭部に女の足がトンと乗せられる。

 長身とは言え、所詮は人間の女の重量、本来であればCランク相当の魔物の筋力で押しのけられない重さではない。だが、ハイゴブリンが両手を地面に付けて、どれだけ力を込めても――数100キロの巨岩を持ち上げるだけの怪力を発揮しても、女の細足は微動だにしなかった。

 それどころか、少しずつハイゴブリンの頭部が地面に埋没し始めていた。

 そして、女が力を込めるのに合せてミシミシという音が辺りに響き始める。


 ハイゴブリンから怒声の類は上がらなくなった。

 代わりに聞えてきたのは、惨めで無様な命乞いの声。人間が解する言語ではなかったが、それでも聞く者に憐憫を抱かせずにはいられない哀れな鳴き声であった。


 それを聞いて、無表情に近かった冷たい美貌の女の表情が僅かに変わる。

 女の顔に覗いた感情は――歓喜と愉悦。

 足に込められる力が更に増した。

 悲鳴が断末魔の叫びに変わる。

 それに合せるように女の口角はつり上がり、頬は上気していった。

 そして、足の力が増す。

 ……………。

 ……。

 いつまでも続くかと思われた拷問の如きその時間も、ある瞬間、あっさりと終わりを迎えた。


 ハイゴブリンの頭部が石榴の如く砕け散ったのである。


 途端に冷たい美貌の女から狂気が消え、嫌そうな顔をして足に着いた血や脳しょうの類をハイゴブリンの死体に擦りつけ始めた。


 そして、それが終わると『怪物』は、ゆっくりとベティーの方を向いた。


 青髪の魔術師が未だに恐慌も気絶もせずに済んでいたのは、ひとえに守るように抱きかかえた夫の存在のおかげである。

 傷口を塞いでもなお溢れ続けるアルの失われた右腕の出血は、限りなく致命的なものであったが、彼女は夫の生存を諦めていなかった。


 そしてベティーは賭けとも言えないような賭けに出る。

 『怪物』に命乞いをしたのである。

 自分の命ではない。夫の命を助けてくれるように乞うたのだ。

 心の底から怯えながら、心底体を震わせながら、涙を流しながら、必死に夫を助けて欲しいと叫び続けるベティーの姿に何を思ったのか、『怪物』から冷酷非情な気配が消える。


 冷たい美貌の女は、気だるげながらもどこか真摯な声音でベティーの言葉を聞き入れた。

 その言葉を聞いた瞬間、既に魔力と体力を使いきっていたベティーは、夫を抱きかかえた姿勢のまま意識を失ったのである。


 残された虐殺の元凶――カーラという名の魔人は、自分が作った数多の残骸を眺めながら軽くため息を吐くと、回復用の魔法陣を有する金髪碧眼の少女を呼びに最寄りの拠点――洞窟への帰路についた。


 ――引き返す道すがら、頬に付いた返り血をぬぐいながら、そっと呟かれた女の声音は、物騒な内容に反して意外なほどに静かで儚いものだった。




「――きっといずれ、私は人間で『同じこと』をするのだろう。『お前』にするなと言われたことを、『お前』に生きていて欲しくてやろうとしている……我ながら、度し難い話だが、私らしいと言えば私らしい、か」


 どこか自嘲的なその言葉は、誰にも聞かれることなく森の中へと消えていった。


本当は、もう少しのんびりした話を書く予定でしたが、はやく話を進めるためにバトルシーンを前倒しました……。


次話こそはもう少し温い話になるはずです。

そして今回出番がなかったバウトが復活する予定です。

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