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第13話 1人目の願い 剣と魔法の世界(12)

 更新の間隔が開きがちで申し訳ありません。


 前話では(前々話でも)「クラーゼ邸に行ってエイプリルさんとキャッキャウフフをします」と言いましたが、例によって今回も辿りつけませんでした……次話こそはっ、次話こそは必ずっ。


 そんな訳で今回は、残念カーラとダメリルちゃんのお話です。


 それでは、今回のお話も読んで下さった方々に少しでも楽しんで頂ければ幸いです。

 


 一般人の感覚で言えば、約束した時間のどのぐらい前に待ち合わせ場所に到着しているのが『普通』と言えるだろうか。


 私の場合、プライベートで待ち合わせをした際は、基本的に15分前には目的地に到着するようにしている。

 この辺の『待ち合わせ時間に対する感覚』は正直、人によって異なるものであろうし、かつTPO次第で変わるものだとも思うが、大抵は前後15分ぐらい、多少極端な場合でも前後30分ぐらいの範囲で目的地に到着するものではないだろうか。


 だが――。



 ……今日、ガルゼを医療機関に送り届けた私は、今回の治療代で財布の中身が尽きることに気付き、とっとと冒険者ギルドに『ゴブリン10匹の討伐』の達成報酬を受け取りに行くことにした。

 達成の証であるゴブリンの耳は、魔術学園の『魔物の死体安置所』(……そんな場所が普通にあるのだ)に預けてあったので、私はボーグさんから頂いた巨大なリュックサックを背負いまずは魔術学園を目指して出発した。


 ちなみに、ガルゼは医療機関で睡眠中だ。

 治療を担当してくれた魔術師曰く「怪我の治療自体は終わったが、疲労具合なども考えると数時間はベッドの上で寝ていた方がいい」という話だったので、契約者とは寮で合流する旨を約束して、一旦あの場で別れたのである。

 正直、今後の予定を全てキャンセルしてガルゼのベッドの傍らで待機していようかとも思ったのだが、本人に「さすがに、いらん」と言われたのと、担当魔術師に「アンタがいると、他の患者が怯えて眠れない」と心底迷惑そうな顔で注意されたのを受けて、私はしぶしぶ医療機関を後にしたのだ。


 街中を多少急ぎ足で移動した結果、学園には10時少し前ぐらいに到着した。

 急いだ理由の一つには、メリルちゃんとの待ち合わせを、正午=12時丁度にしていたことがある。ギルドの換金手続きにかかる時間が明確ではない以上、移動時間等、短縮可能なところは極力詰めておきたかったのだ。


 そして、いつも通りの真っ暗闇の門を潜り、学園内部に足を踏み入れた瞬間――私は見た。


 12時に――2時間後に待ち合わせをしているはずの少女が、待ち合わせ場所である噴水の縁に腰かけ、待ち人が現れるのを今か今かと待ちわびる姿を。


 ……さて、そこで、待ち合わせ時間の話となる訳なのだが、果たして『待ち合わせの2時間前から待ち続ける』のは一般的なことなのだろうか?


 更に言えば、寒さでかじかんでいる様子の指先などから察するに、彼女は『2時間前』である現時点よりも大分前から待っていた可能性が高い。

 3時間前、4時間前からこの場所で待っていた可能性すら、普通にあるのだ。


 足元で、ジャリ、という石畳の上の砂が踏まれる音がした。

 どうやら、無意識の内に半歩ほど後ずさっていたらしい……。


 いかん、いかん、何を気押されているのだ、私よ。

 状況だけを見るならば、中学生ぐらいの女の子が私との待ち合わせで、予定時間より少し前に――本当にちょっとだけ前に――来て待ってくれているだけの話ではないか、感謝し、申し訳ない気持ちになりこそすれ、恐れる要素などどこにもない。

 ほら、こわくない、こわくない。ほらね、こわくない。

 某風の谷の姫姉様の言葉を思い出しながら、私は必死で自分を励ました。

 うん、きっと今の私は姫姉様に対し、いたずらに警戒心を抱いていた頃の黄色いげっ歯類(的な生き物)の様なものなのだ。メリルちゃんはきっと、いたわりと友愛の心を持った優しい子のはずなのだ。


 そんなことを考えていたら、先程の後ずさる音を聞かれたのか、別の方向を向いていたはずのメリルちゃんが視線をこちらに向けた。

 私の視線と、あちらの眼鏡越しの碧眼が重なる。

 メリルちゃんのまだ幼さの残る顔立ちに、花が咲いた様な満面の笑みが浮かんだ。


「カーラ様っ!」

「おはようございます。メリル様」

「おはようございますっ、カーラ様!」


 髪型こそいつも通りの二房に分けた三つ編みであるが、服装は普段の学生服の様なものではなく、まるでお嬢様が着る様な高級感漂うワンピース姿である。

 いやまあ、メリルちゃんは実際に貴族のお嬢様なのだろうが、ガルゼとかに対する委員長っぽい態度や、私に対する過剰なスキンシップなどの関係で、どうにも彼女の印象はお嬢様というイメージからは少しかけ離れた所にあった。

 しかし、こうしてお上品な私服姿を見せられると、メリル=フォン=クラーゼという少女が確かに貴族の子女なのだと納得させられる。それだけの気品に満ちたオーラが今の彼女にはある――。


「嗚呼、お会いできるのが待ち遠しかったですっ、カーラ様っ、カーラ様ああぁぁっ!」


 ――様な気もしたが、そんなことはなかったぜ。


 お上品なワンピースの裾が捲くれるのを気にした様子もなく、金髪碧眼の少女は猛烈な勢いでダイビングタックルをかましてきた。

 彼我の間合いと身体能力の差を鑑みれば、充分に回避は可能であったが、仮に私がかわした場合メリルちゃんが顔面から地面に突っ込みかねない様な速度と角度であった。

 止むを得ず、大人しく胸元で受け止める事を選んだ私。

 MAXスピードでチャージをかましてくるメリルちゃん。

 直撃の瞬間が見事に呼吸のタイミングと重なり、この体になって以来初めてむせるという事を経験した。


「か、カーラ様、大丈夫ですか!?」

「大丈夫です。問題ありません」

「あ、あの、申し訳ありません……」


 心配そうに、上目遣いでこちらを見つめてきたメリルちゃんは、実質ノーダメージの私の様子を見てホッとした様な笑顔を浮かべたが、すぐに自分の行動を反省したのか肩をガクンと落としてしまった。

 本当に、感情表現が豊かな子である。


「あまりお気になさらないで下さい」


 一応甥っ子にライ○ーキックをかまされても、過程で物さえ破壊されなければ、笑って『爆発する怪人役』を務められる程度には私も大人だ。


 10代後半の頃の私ならば、幼さすら感じさせるメリルちゃんの態度に苛立ちを覚えた危険性もなくはないが、三十路を目前に控えた今の私の眼には、その幼さも微笑ましく映る。


「嗚呼っ、何とお優しい。カーラ様ぁ」


 そして、こちらの一言で元気を取り戻したらしいメリルちゃんは、顔を赤くしながら私の胸の中で頬ずりを開始した。

 ……あれ? おかしいぞ、微笑ましさを、感じ、ない? 


 保身なき零距離頬ずりを敢行する彼女の姿に、私の中の大人の余裕達は「まずいぞっ、罠だっ、ここは危険だ! 退けっ、退けい!」とただちに戦略的撤退に入るが、時すでに遅し。

 メリルちゃんの碧眼は、まるで『死沼へ誘う鬼火ウィル・オー・ウィスプ』の様に爛々と輝き、純然たる狂気を宿して私の顔を見つめていた。

 ……恐いよ、メリルちゃん。


 私には分かる。例えその体を灼かれても、例えその翼をもがれても、メリルちゃんは決して頬ずりを止めない。『死沼へ誘う鬼火ウィル・オー・ウィスプ』の狂気に導かれるがまま、保身なき零距離頬ずりを敢行する!


 ――などと、某戦災復興漫画で見た、『死地を踏破する兵士』に対するものにも似た恐怖をメリルちゃんに感じたり感じなかったりしながら、私は必死で現状打破に向けて思考を走らせた。


 前回は腕力で挑んでメリルちゃんのCQC的な体術の前に敗れたので、今度はその反省を活かし言葉で訴えかける作戦を採用する。

 大切なのは言葉の多さではあるまい、シンプルでダイレクトな内容だ。あとは、大人の威厳を込めて多少強い言い回しをする必要もあるだろうか。


「……メリル様」

「はいぃ、なぁんですかぁ~、カーラしゃまぁ」


 ヤバい。メリルちゃんが色々と崩壊しかけている。

 人間の顔がここまで蕩けられるとものだったとは……可愛いは可愛いのだが、何と言うか、もう一押しで天国に旅立ちかねない表情である。


 どうやら、こちらの都合を抜きにしても、早く彼女を引き離す必要がありそうだ。このままではメリルちゃんが駄目になる。色々と。

 心を鬼にした私は、毅然とした態度でメリルちゃんに離れるように促した。


「離れろ」

「……………………ふぇ?」

「私の体に触れるな」



*********************************



 メリルは絶望した。


 この世のありとあらゆる理不尽を一身に背負わされたかの如く、膝から崩れ落ちた。

 少女は、高級そうなワンピースが地面で汚れる事も気にせず、orzの姿勢になると、その幼くも整った顔立ちを悲痛に歪め、ポロポロと泣き出したのである。


 ――な、何が。一体何が起こったというの?


 呆然と見上げた彼女の視線の先では、自分の体に触れるなと口にした時と同じ、冷たく突き放す様な表情でカーラが立っている。

 まあ内心では「ヤバいっ、女の子を泣かせてしまったぞ!」と焦っていたのだが、それが表に出ないのが冷たい美貌の女の基本仕様。

 退廃的な瞳の輝きは常人を寄せ付けず、気だるげに浮かべている微笑にもどこか周囲を拒絶する様な酷薄さがある。


 ――あ、う、あううう、カーラ様に、カーラ様に嫌われてしまったの?


 普段であれば、その冷たさも酷薄さも魅力的にしか映らないフィルターかかりまくりのメリルの視界だが、冷たい美貌の女から初めて発せられた拒絶の言葉の後では、まるで少女個人を拒むために浮かべている表情の様に見えてしまう。


 ――何でっ、私はただカーラ様のお胸に頬ずりしていただけなのにっ。一体何がカーラ様を怒らせてしまったというの? 


 学年次席という、かなり優秀な頭脳を持っているはずのメリル。

 しかし、桃色のエンドルフィンで濁った彼女の脳細胞は、何故カーラが離れる様に促したのかではなく、どうしてカーラに嫌われたのかという事を疑問とし、思考を開始してしまった。

 そもそも、冷たい美貌の女はメリルを嫌って今回の様な発言をした訳ではないので、彼女が現在必死で行っている思考は、存在しない問題に対して、有りもしない回答を求めている様なものなのだが……。


 数分間メソメソ泣きながら考え続けたメリルだが、当然の如く答えなど見いだせるはずもなく、最終的には縋りつく様な視線をカーラに向けるしかなかった。

 傍から見たならば、退廃的な美女が冷たく笑いながら、真面目そうな少女に土下座させ泣かせているという、非常に問題ありありな光景である。


「ご、ごめんなさい、カーラ様、わたしに悪いところがあったなら、直しますからっ、どうか教えて下さいっ、だからっ、わたしを嫌いにならないで下さいっ」


 カーラが表情を変えずに後ずさる。

 内心で冷や汗を流し続ける女の実情など知る由もないメリルは、距離を取られた事に更に涙を流しながらも四つん這いでカーラとの間合いを詰めた。


「カーラ様あぁあぁっ、カーラ様あぁぁぁあっ!」


 自らの右足に縋りついて来た少女にどう対処するべきか、冷たい美貌の女は大いに悩んだ。

 無理もない。彼女の30年に近い人生の中でも、今回の様な窮地を経験したのは初めてのことである。

 もし、この時のカーラの混乱する脳内会議の様子を議事録にでもしていたならば、大体以下の様な感じになっただろう。


 ・理性「さて諸君。どうすればこの状況を打破出来るか、存分に話し合おうではないか」

 ・本能=はぐれメタル「にげるのが、すてきだとおもう」

 ・感情=紫陽花「いっそ、このまま頭を踏みつけてみてはどうでしょうか? きっと泣いている余裕など無くなりますよ」

 ・理性「……お前ら。相手は中学生ぐらいの女の子だぞ。大人の男の度量を見せろ。話し合いが大前提だろ。常識的に考えて」

 ・本能「はなすのこわい。にげたい。ただただ、にげたい」

 ・感情「でしたら、彼女に抱きつかれて私がどれだけ不快な気持ちになったのか、じっくりと、懇切丁寧に説明してあげるのがよろしいのでは?」

 ・理性「泣いている女の子にする事じゃないだろ。常考」

 ・本能「なにもおもいつかない。もうだめだ。こわい。とてもとても、こわい」

 ・感情「でしたら、彼女が泣いている姿を見てこちらがどれだけ気分を害しているのかを、きっちりと説明してあげましょう――涙が枯れ果てる程に罵りながら」

 ・理性「……もういい。お前達に期待した私が馬鹿だった。私がどうにかする」

 ・本能「りせいは、おうぼうだとおもう。もっと、ひとのいけんをそんちょうするべき」

 ・感情「そうです。本能もたまには良い事を言います。理性は横暴です。DQNです」

 ・理性「……お前達にだけは『他人の話を聞かない』とか『DQNだ』だとか言われたくないぞ。いいんだよ、決定権は私にあるんだからな。はい、決定! メリルちゃんをフォローして、取りあえず泣きやんでもらう事に決定しました! はい拍手!」

 ・本能(ほんのう は にげだした)

 ・感情「チッ、つまらない結論です」

 ・理性「お前達に感じるこの怒りは自己嫌悪に等しいのだろうが、私は今、ソレで己を半殺しに出来そうな気分だよ」

 ・本能(ほんのう は さらにとおくに にげだした)

 ・感情「? 自分を傷つけて何が楽しいのですか? 殺すのなら他人にして下さい」

 ・理性「駄目だこいつら。早くどうにかしないと……」


 冷たい美貌の女は、そんなアホらしくも物騒な脳内会議が開かれていた事などおくびにも出さず、常と変わらぬ気だるげな仕草でメリルを足から引き離すと、膝立ちの少女に視線を合せるために腰を屈めた。


「落ち着いて下さい、メリル様。私の目的はあくまで貴女に離れて頂く事で、その目的は既に達せられています。これ以上貴女に何かをして頂く必要はありません」

「つまり……わたしはもう用済みという事ですかっ! そんなの嫌ですっ、カーラ様あぁあぁっ、カーラ様あぁぁぁあっ! 嫌いにならないで下さいぃぃ」


 メリルは冷たい美貌の女の肩を掴みユサユサと揺すりながら、泣き叫んだ。

 揺すられている女の方は「もう、どうにでもなれー」とばかりに無抵抗である。表情もいつにも増して気だるげ――と言うかダルそうである。


「きらいにならないでくださいいぃ~、う、うううううう~」

「……落ち着いて下さい、メリル様。私は別に貴女の事を嫌ってなどいません」

「う、うう、ほんと、う、ですか? 本当の本当に嫌いじゃないんですか?」

「はい」


 言葉の真偽を確かめるためか、涙目のまま、不安そうにカーラの冷たい瞳をジッと見つめる金髪碧眼の少女。

 しばらくすると彼女は納得した様に女の両肩から手を離し、全身の力を抜いた。


「……よ、よよよ、よ、良かったですうううぅぅ、良かったですよおぉぉ、う、ううう」


 メリルは地面に両膝を突いたまま、右手で眼鏡を外し、左手の甲で涙を拭いながら泣き続けた――その姿を、かなりの人数に目撃されている中で。


 カーラの世界で言うところの小学校から大学院までの機能を内包しているこの魔術学園では、平日の10時ぐらいであっても外を歩き回っている人間の姿をよく目にする。

 そんな道行く人々の大半にとって、二人の女が噴水の前で演じている修羅場(に見えなくもないもの)は中々どうして興味をひかれる光景だったらしい。


 そして、現在のカーラの超人的な聴覚は、普通では聞き取れないはずの遠方のヒソヒソ話も鮮明に拾っていた。

 一見いつも通りの余裕に満ちた微笑を浮かべている女の顔色が、白を通り越して蒼白になっているあたり、相当ろくでもない内容が語られているのだろう。


 少女が泣きやむのを待ちながら、カーラは懸命に胃の痛みと戦い続けたが、彼女の経験した精神的疲労は、鬼姑を持った嫁がお盆休みに夫方の実家に帰省した場合に匹敵する凄まじいものであった。

 故に、泣きやんだメリルが恥ずかしそうに冷たい美貌の女に迷惑をかけた謝罪をした時、カーラの精神は既に立っているのもやっとな程に消耗していたのだ。


 だから、少女がそっとカーラの服の袖を引いて歩き出した際も、それを止めるだけの気力はもう魔人の女には残されていなかったのである。

 必然的にゴブリンの耳を換金する予定も、後回しになった。


 北門周辺にあるクラーゼ邸を目指して歩き始める二人。

 愛らしい小柄な娘が、美しい長身の女の服の袖を引いて歩く姿は、まるで仲のよい姉妹の様に見えなくもなかったが、容姿の違いというよりも冷たい美貌の女の疲れ切った足取りが『仲の良い姉妹』である事を必死で否定していた。

 見る人間によっては、天真爛漫な『お嬢様』の我が儘に振りまわされている、苦労人の『女執事』の様にも見えただろう。


 それにしても、メリルという少女はやはりただ者ではない。

 先程の接触を拒む言葉が効いているのか、冷たい美貌の女に対する直接的なスキンシップこそ自重している様だが、限りなくグレーゾーンであろう服の袖に手を伸ばし、そこを引っぱりながら歩けるあたり、少女の精神の強靭さが伺える。


 ビクビクとカーラの一挙手一投足を気にする素振りを見せている少女の怯えは、本心からのものだ。充血した瞳が物語る涙の痕跡に偽りなどない。

 しかし、それにも関わらず、現状の最善手である(とメリルが勝手に思っている)『服の袖を掴んで横を歩く』という行動が取れたのは、やはり少女の精神が根本的に『強い』からに違いない。


 比較対象としては些か微妙だが、ガルゼフォードあたりがまがり間違って使い魔の体に自分から触れる機会があったとして、直後にカーラから「私の体に触れるな」などと言われたならば、立ち直るまでに相当の時間を要するはずだ。

 一昼夜にわたり、部屋の隅っこで灰になっていたとしても、何ら不思議ではない。


 そういった意味で、メリルとガルゼフォードの冷たい美貌の女に対するスタンスは対照的である。

 カーラに出会う以前に、他人に特別な感情を抱いたことがないのが同じならば、その反動の様に、初めて好きになった相手に偏執的とさえ言える好意を抱いているのも同じだ。

 だが、なまじ同じ部分があるだけに他の部分――相違点もよく目立つ。


 金髪碧眼の少女は、魔物の森でカーラの錯乱した姿や、彼女が作り上げた『地獄』を見て以来、冷たい美貌の女の存在をより身近に感じる様になっていた。

 それまでの『遥か遠くにあるものに対する憧れ』だけではなく『傍にいて支えてあげたいと思う人に対する好意』を持ち、『忌避すべき本当の自分を受け入れてくれる存在に対する偏執』を抱いたのである。

 故に少女は、自分の好意を隠すつもりが無くなった。

 偽りの無い、ありのままの自分を受け入れて欲しいと思ったのだ。


 対して茶髪茶眼の青年は、魔物の森でカーラに崩れかけた自尊心を支えられて以来、むしろ冷たい美貌の女に対する距離感というものを意識し始めた。

 それまでの『美しく魅力的な異性に対する好意』だけではなく『己を認め、道を示してくれた存在に対する感謝』を抱き、『いつかは対等な関係になりたいと願う、憧憬の対象への尊敬』を持った。

 故に青年は、自分を変えようとやっきになっている。

 未だ完成していない自分を、少しでも相手と並ぶに相応しい存在に近づけようと努力しているのだ。


 この対比だけを見たならば、メリル=フォン=クラーゼという少女が堕落した様にも見えるかもしれない。弱くなった様にも見えるかもしれない。

 しかし、見方を変えたならば少女は自ら望んで堕ちているのだ。

 正しくある事しか考えていなかった少女が、幸せになる事を望み始めたのである。

 ならば、ひたすら己の幸福を目指して邁進し続ける、今の彼女の姿もまた『強さ』の一つの現れと言えるのではないだろうか。


 想い人の言葉に容易く傷ついたとしても、相手がそれ慰めてさえくれれば、すぐにそこから立ち直れる。

 過度の甘えを拒絶されようとも、甘えられる限界まで果敢に甘え続ける。

 それが、少女が幸福になるために手に入れた強かさなのだとすれば、やはりメリルは依然として『強者』なのだろう。


 まあ、実のところ、メリルにせよガルゼフォードにせよ、自身の変化をそこまで明確に把握出来ていた訳ではないのだが、それでも自分が何となく変わってきていることぐらいは――『成長』の過程にあることぐらいは理解していた。


 ――だからメリルは『この時』も、次に取るべき行動に悩んでしまったのである。


 この時、クラーゼ邸のある北門周辺を目指していた二人は、人通りの少ない路地裏を歩いていた。

 当初は大通りを進んでいたのだが、袖を引く相手の顔色をチラチラと伺いながら先導するメリルと、それに力なく引っ張られていくカーラの姿は例によって人目を引いてしまっていた。

 冷たい美貌の女の胸部や臀部に男の視線が集まっていることに気付いた少女は、そんな『汚れた視線』から想い人を守るために路地裏を進むことを選んだのである。


 並みのお嬢様ならばともかく、冒険者としても優秀な部類に入るメリルは、自分のテリトリーの地図を裏道一本単位で頭に入れていたため、路地裏を進んでも大通りを歩いた場合とそう変わらない時間で自宅まで辿りつける自信があったのだ。


 そこで二人は、とある『悪行』に出くわしたのである。


 通常、貴族や魔術師の領域である北門周辺で、西門付近に巣くう職業的犯罪者や、南門近辺にたむろする荒くれ者達の姿を目にする機会は滅多にない。

 だからこの時も、路地裏で『悪行』を働いていたのは一般に犯罪者と言われる様な者達ではなく、悪意ある笑みを浮かべた『幼い貴族』達だったのである。


「やめてっ、やめてよっ、ミーちゃんが死んじゃうよっ」

「ハア、うるさい平民だな、お前らみたいなドブネズミが僕に指図するなよ」

「ひひひ、そうだっ、平民のクセに生意気なんだよっ」


 黒い子猫の首を締め上げる中学生ぐらいの少年と、それを必死で止めようとしている幼い少女。

 止めようとする幼女を押しのける、少年の取り巻き風の子供達。

 それが、その状況の全てだ。


 メリルの中の『貴族』としての思考は、瞬時に少年達を『虐げる者』、幼い娘を『虐げられる者』として認識した。

 そしてクラーゼの名を継ぐ少女は、『正しき貴族』である自分には、不当に虐げられている者達を守る義務があることを理解していた。


 そう。

 彼女は、認識し理解していたにも関わらず、次の行動を悩んでしまったのである。


 ――コレは、カーラ様と一緒にいる時間を潰してまで、対処しなければならない様な問題なのかしら?


 そんな疑問を、抱いてしまったのだ。


「どうしますか?」


 硬直する少女の耳に、カーラの蠱惑的な声が響いた。

 策敵能力の差から、少年達が二人の存在に気付くよりも先に、メリルと冷たい美貌の女は状況を捉えている。

 道を引き返すなり、少し前方にある横道に入るなりすれば、二人はこの『悪行』に全く関わらずにクラーゼ邸を目指せる可能性が高い。


 『成長』する以前のメリルであれば、正義のために躊躇なく幼女を救いに走ったことであろう。

 あるいは『成長』しきり、自らの変化を理解し、受け入れていたならば、己の幸福のために迷うことなく横道に逸れることが出来ただろう。

 だが、この時の彼女はそのどちらの立場でもなく中間にあった。故に、自分にとっての『正しい行い』が何であるかが分からなくなり、悩んでしまったのである。


 想い人に回答を返すのも忘れ、必死で思考に没頭するメリル。

 冷たい美貌の女はその様子を静かに見つめていた。


 既にカーラの中で、自分の取るべき行動は定まっている。

 幼女達を救った場合のリスクと、救わなかった場合のリスク。彼女はそれらを己の『天秤』の両皿に乗せ、傾き具合から『幼女達を救うべきである』と判断した。

 もし、この場に出くわしたのが、冷たい美貌の女一人であったならば、彼女は既に行動を開始していたはずである。


 故に、魔人の女が動かなかった理由は、一人ではなかった事――メリルの存在にあった。

 これは対ガルゼフォードの場合にも言えることだが、この女は成長過程にある人間が自らの意思で何かを為そうとしている時に、自分の側から過度の干渉を行う事を避ける傾向がある。

 可能な範囲でという枕詞は付くにせよ、助言を求められれば言うだろうし、助力を請われれば行うだろうが、基本的には『彼ら』が出した結論を尊重するスタンスでいるのだ。

 だからカーラはこの時も、頭を悩ませている様子のメリルが自分なりの答えを出すまで待つつもりでいたのである。

 だが――。


 ――駄目か。間に合わないな。


 女の観察眼は、メリルが回答を出すよりも先に、黒猫の命が尽きると判断した。


 カーラは最後に少女の様子を伺い――まだ悩んでいる姿を見て、この場の対応は自分が行う事に決めた。そして、淡々と行動を開始する。


「ご迷惑をおかけしたら、申し訳ありません」

「えっ?」


 掴んでいた袖がスッと抜けたのに気付いたメリルが、慌てて視線をカーラの方に向けると、そこには『巨大なリュックサック』が立っていた。


「え、えーと、カーラ様?」

「それでは行って参ります」


 そう言うと『巨大なリュックサック』は――背負っていたリュックの中身をぶちまけそれを頭から被ったカーラは、ズンズンと少年達の方に向かって歩き始めた。

 巨大過ぎるリュックは、長身とはいえ細身の女の体のほぼ全身を覆っている。

 正面から見たならば、逆さになったリュックの下から貫頭衣の裾と細い女の足が覗いているという、たいそうシュールな外見だった。


 カーラがこんな奇行を取るに至った経緯は単純だ。

 黒猫を助けるにあたって、正体を隠したかったのである。


 街のごろつき相手にもめ事を起こす場合、顔を見せずに済むのなら可能な限り見せたくないというのが女の持論であった。端的に言って、顔を覚えられ、後日報復されることを恐れているのだ。


 かつての『彼』ならばともかく、今の彼女がどう不意をつかれたところで眼前の少年達に敗れる事など絶対にあり得ないのだが、自身ではなくガルゼフォードあたりを標的にされた場合の事まで考慮するならば、確かに報復されるリスクを完全に消すのは難しい。

 更に言えば、彼らの背後にどんな暴力や権力が控えているかも分からない状況で、今目の前にいる敵だけを見て『危険度』を判断するのは些かリスキーである。


 ならば、そもそも報復が出来ない様に――自分が誰かも分らない様にすればいい。カーラの奇行の背景にはそんな考えがあった。


 かくして、路地裏に突如出現したリュックサックの怪人は、その見た目のどこにそんな要素があるのか不明だが、蠱惑的で排他的な雰囲気を纏いながら、狭い路地裏の中を窮屈そうにノソノソと歩いていったのである。



*********************************



 黒猫を虐待し幼女を虐めている少年達にも、それなりに背景――彼らなりの立場や事情というものはあった。

 あったが、この場でその説明は割愛する。

 中学生ぐらいのリーダー格の少年――少年Aと、小学校高学年ぐらいの取り巻きの少年が三人――少年B、C、Dがいることさえ分かっていれば充分だ。


 そんな四人の少年達が日課となっている小動物への虐待を行っていると、この日は珍しく飼い主らしい幼女の妨害が入った。

 しかし、あまりに幼く、あまりに弱い娘の力と言葉では、彼らの暴虐を止められるはずもなく、逆に少年達から酷い言葉を浴びせられ彼女の方が泣き出してしまった。

 泣きわめく幼女の姿に、嗜虐的な気分をいつにも増して募らせる少年達。あるいはこのままいけば、彼らは平民である幼い娘にさえ何らかの暴行を働いていたのかもしれない。


 しかし結論から言えば、そんな機会は訪れなかった。

 何故ならば、彼らはすぐにそれどころではなくなったのだ。


「ん、何だ?」


 ソレの接近に最初に気付いたのは、黒猫にも幼女にも興味がなかった、本当に少年Aの取り巻きをしているという理由だけでこの場にいた少年Dである。


 ノソノソと近付いて来るソレを見て、何故か性的な興奮を覚えた自分に混乱する少年D。

 それはそうであろう。

 ひっくり返した巨大なリュックサックに――それを被っているであろう変人に、人生始めてとも言えるセクシャルな魅力を感じたなど、小学校高学年ぐらいの彼に、おいそれと認められる様な事ではないはずだ。


 例えば周囲の男子が「最近気になってる女の子っているか?」「俺はA子、優しいから好きだ」「僕はB美ちゃん、笑顔が可愛いよ」「オイラはC乃かな。話していて楽しいぜ」という会話をしている中で、少年Dだけ「ぼくはリュックサックかな。なんかエロいよ」と発言する事になるのである。

 悲劇だ。


「お、おい、誰だお前っ」


 自らを奮い立たせるように少年Dは威嚇の声を上げた。

 猫の首絞めに夢中の少年Aと、幼女を泣かせる事を楽しんでいる少年Bは気付かなかったが、少年Bとは違い暇つぶし程度の感覚で幼女を虐めていた少年Cがその声に振り向き、リュックサックの怪人の姿を視界に収めた。


「うおっ、何だあれ?」

「いや、わかんないけど、何か来た」


 全く要領を得ない少年達の会話だが、相手が要領を得ようがない存在である以上それも仕方あるまい。

 僅かに緊張する二人の少年に向けて、リュックサックの中から、これまで彼らが聞いた事もない様な蠱惑的な美声が響いた。


「猫と少女を解放して、今すぐこの場を立ち去りなさい。3秒待ちます」


 少年Dはその声にすら興奮している自分に気付き自己嫌悪を募らせたが、少年Cは少年Cで別の理由から自分を責めていた。

 彼は恐怖したのだ。リュックサックに。

 貴族であり、魔術師でもある少年Cは同年代の子供よりも少しだけ魔術の才能に秀でており、親に連れられ魔物の狩りに参加した事もあった。

 さすがに、まだ子供である彼に倒せる魔物などいなかったが、ゴブリンという凶悪な魔物を父親が水の魔術で溺死させた光景は、まだ幼い少年の記憶に『英雄の姿』として強く焼きついている。

 自分もいつか、魔術で魔物を倒せる様な勇敢な魔術師になりたい、少年Cは常々そう思っていた。

 そんな彼が――魔物を倒そうと思っている彼が、リュックサック如きに恐怖したのである。とても認められる様なことであるまい。


 例えば周囲の男子が「この世で一番恐いものって何だ?」「俺は父さん、怒らすと殴られるんだ」「僕は物語に出てくるメデューサだと思う、見られただけで死んじゃうんだよ」「オイラはゴブリンって魔物かな。実際に見たけどあんな恐いものは世の中にないぜ」という会話をしている中で、少年Cだけ「おれはリュックサックかな。正直今でも見ただけで全身の震えが止まらなくなる」と発言する事になるのである。

 悲劇だ。


「う、うるさい、誰だお前?」


 自らを奮い立たせるように少年Cは威嚇の声を上げた。

 そして――3秒が経った。


「仕方ありませんね」


 その言葉を合図に、リュックサックが二人の少年に猛然と襲いかかる!

 ……具体的はノソノソと近付き、少年Cに体当たりをしかけた。

 

「えい」


 どす。

 やる気のない声と同時に、リュックサックの布地が少年Cの体を吹き飛ばす。

 少年は自分の身に何が起こったのか理解出来なかった。というのも、あんなに遅い動きをしている物体の攻撃を、何故自分がかわせなかったのか分からなかったのである。

 彼の動体視力では追えない世界の話だが、リュックサックの怪人は体当たりする直前の一歩だけAランクの戦士ですら対応出来ない様な速度で間合いを詰めていた。そして体当たりする瞬間に減速し、やる気なく少年を吹き飛ばしたのだ。


 地面に倒れた痛みと、混乱した頭のせいで少年Cは立ち上がる事も出来なくなってしまった。


「何者だっ、お前!」

「おいっ、僕達が誰だか分かっているのか! 父上に言いつけるぞ!」


 仲間が倒された物音に気付き、少年Aと少年Bが駆け付ける。

 ちなみに、リュックサックの中の人物はほとんど目隠し状態で行動しているのだが、それにも関わらず的確に敵を攻撃出来ているのは、視覚以外の五感と、第六感とでもいうべき感覚の性能が尋常ではないからである。

 だから、リュックサックには少年Aの手にぷらんと下げられている黒い子猫の存在もきちんと把握出来ていた。


 少年Aに向かってノソノソと動き始めるリュックサック。

 その前に少年Bが立ちふさがった。


「おいっ、いい加減にしろよっ。お前、どうせ平民なんだろうが、こんな真似してタダで済むと思って――」

「えい、えい」


 どすどす。

 とてもやる気のない声と同時に、リュックサックによる左と右のワンツーが少年の体に叩きつけられる。

 両手を袋の中に隠しているその人物がいかにして左右の連撃を実現させたかと言うと、単純に高速で少年の左側に回り込んで体当たりをし、彼の体が右側に吹き飛ぶより先に残像すら生む速度で右側に回り込みもう一度体当たりをしただけである。

 スローモーションで眺めたならば、さぞシュールな光景であろう。

 当然の事ながら少年Bにそんな動きを追えるはずもないので、彼は気が付いたら体の左右に鈍い痛みが走り地面に叩きつけられているという、恐ろしい体験をした。


「ひ、ひい」


 少年Aが完全に怯えた表情で後ろに下がる。

 恐怖に包まれた彼は無意識のうちに手の拘束を弱めていたらしく、少年の指から解放された黒猫が地面にぽとりと落ちた。

 リュックサックは子猫がまだ息をしている事を聴覚で確認していたが、一向に立ちあがる様子を見せない事に不安を覚えたのか、黒猫の傍らでその歩みを止める。

 

 ――次の瞬間、猫はビクリと怯えた様に跳ね起き、その怯えの対象であるリュックサックの存在に気付くと、全力で逃げ出した。


「……」


 心なしか、肩を落とした様に見えなくもないリュックサック。

 そんな怪人の姿を余所に、子猫は走っていった先で幼女の胸元に飛び込んだ。


「ミーちゃんっ」


 嬉しそうな幼女の声に、黒猫もニャンと鳴く。

 微笑ましく思ったリュックサックがそちらに体を向けると、幼い少女はその怪人に恐れを為し、猫を抱き抱えたまま全速力で逃げ出した。


「……」


 幼女の悲鳴に、リュックサックは心の中で泣いた。

 

 そして、一瞬の沈黙の後、怪人はノソリと少年Aの方を向いたのである。


「ひ、ひいっ」


 怯えきった少年Aは気付いているだろうか?

 リュックサックが攻撃を加える際に、少年Bと少年Cで故意に攻撃の威力に差を作っていた事を。

 幼女を消極的に虐めていた少年Cは、ただ吹き飛ばされただけだった。

 幼女を積極的に虐めていた少年Bは、左右の連撃の痛みと共に地面に叩きつけられている。

 では、黒猫を殺そうとしていた少年Aはどうなるのだろうか?

 この路地裏に転がっている、何匹かの猫や小動物の死骸を作りだした少年には、どのような攻撃が加えられるのだろうか?


 完全に怯えきった彼にそこまでの思考を巡らせる余裕はなかったが、まあ別にそれはそれでよいのだろう。

 何故ならば『少年Aがどうなるのか』など、彼が考えるまでもなく、すぐに彼自身の身をもって知ることになるのだから。


「ひ、ま、待って――」

「右腕を折ります」


 バギッ。

 やる気なく「えい」とか言っていた時とは明らかに異質の破壊音が、少年Aの体から響いた。


「ぎ、ぎぃ、ぎゃあああああああああああっ、う、腕が折れ、う、腕が、僕の、腕が――」

「静かにして下さい、男の子でしょう?」


 からかう様に、嘲笑う様に、艶然とした女の声が少年の耳朶を打つ。

 少年Aは痛みと恐怖で足をもつれさせ、顔面から大地に激突した。

 そして、そんな彼の後頭部に、リュックサックから覗く女の細足がトンと乗せられる。

 ……この場の四人の少年達は知る由もない話だが、つい先日魔物の森で虐殺されたハイゴブリンは似た様な体勢から頭部を踏み砕かれて『死』んだ。

 

 ――リュックサックが、少年の頭部に乗せた足に僅かに体重をかける。


「ひぎいぃいぃ、や、やめ、許してくれえぇえ」

「貴方は幸運です。人命を尊重する私の価値観では、小動物数匹分の命の『重さ』は、貴方の腕一本分の『重さ』で釣り合いが取れます」


 ――人命を尊重する。

 その言葉がこれほど白々しく聞える存在を、少年Aは他に知らない。リュックサックから零れる女の美声は、明らかに『全ての命』を軽んじる者の音色を帯びていた。

 しかし、それでも既に右腕を折られている彼は、ここぞとばかりにソレを主張する。腕一本で釣り合いが取れると言うのであれば、もうバランスは取れているのだろうと喚き散らす。


「だ、だったら、もういいだろうっ、今すぐその足をどけ――ひいっ、ぎいぃい、う、嘘です、すみません、い、痛いっ、あ、足の力を弱めて下さいぃっ」


 己の頭部に乗せられた足の重みが増した瞬間、少年Aの心はあっさりと折れた。

 だが、そんな彼に追い打ちをかけるかの様に、リュックサックの怪人は袋の中で邪悪な微笑を浮かべ、いっそ優しげな口調で言葉を続ける。


「貴方は本当に幸運です。これから腕一本――『もがれる』だけで助かるのですから」

「ひいいいぃぃぎいいぃいっ」


 少年Aが怯えきっているのを確認したリュックサックは『前振りの脅し』はもういいだろうと判断し、話をまとめに入った。


「そんなに怯えられるとは心外ですが――まあ、いいでしょう。貴方の情けなさに免じて、次に会う時までその右腕は預けておいて差し上げましょう」

「ひあっ?」


 怪人の言葉と、乗せられた足の感触がなくなった事に驚く少年A。

 右腕の激痛を堪えて何とか立ち上がった彼に、リュックサックは『とどめの脅し』を口にした。


「その代わり、次に今回の様な状況でお会いしたならば――」


 その瞬間、ただでさえ恐ろしい空気を纏っていたリュックサックが、まるでせき止めていた何かを――抑止していた何かを解放したかの様に、冷酷非情な殺意を撒き散らした。

 

 化物は優しく、そして酷薄に囁く。


「――首から上も、頂きますよ」

「ひいいいぃぃいいいいいっ!!」


 完全に恐慌状態に陥った少年Aは、右腕の痛みも忘れて全速力で逃げ出した。

 それに続く様に少年BとCも走り去る。


 ちなみに、この場におけるリュックサックの過剰とも言える少年Aに対する脅しは、やはり報復を恐れてのものだったりする。

 正体を隠すのもそうだが、可能であればアフターケアも――報復する気力をへし折る事も、きちんと行うべきだというのがリュックサックの持論であった。


 そもそも、そういった理由でもない限り、リュックサックに無暗矢鱈と他人の頭を踏んだりする様な趣味はないのである。

 怪人にとってのベストは、最初の警告で少年達が猫と幼女を解放する事であり、暴力による制圧と脅迫はあくまで次善の選択肢でしかなかった。

 

 だから、リュックサックは悩んだのである。

 冷酷非情な殺意を抑止し、路地裏の道を引き返そうとした怪人の前に突っ立っている、少年Dをどうするべきかを。


 ――どさくさに紛れて逃げておけばいいものを。


 そんな、八つ当たりにも似た事を思いながら、しぶしぶといった様子でリュックサックはノソノソと少年Dの方に近寄って行った。


 さて、この場の争いの中で少年Dが一体何をしていたのかというと――何もしていなかった。

 少年Cが吹き飛ばされるのを、怯えて見ていた。

 少年Bが二連撃を食らうのを、怯えて見ていた。

 少年Aの右腕が折られるのも、怯えて見ていた。

 もちろん、三人が走って逃げる瞬間だって、怯えて見ていた。

 更に言えば、子猫や幼女に対する虐めすらも、少年Dは怯えた様子で眺めていただけだ。


 リュックサックもそのあたりの事は把握している。

 だから、少年Dを攻撃することにモチベーションが湧かず、放置していたのだ。


 集団が少数に暴力を振う場合、集団の側に所属し『ただそこに立っている』だけで少数に対する加害者足り得ることは、リュックサックも理解している。

 しかし、子猫や幼女に対して面識も思い入れもないリュックサックは、あくまで『社会通念上の正義』を為すためだけにこの場での対応を行っていたので、少年D相手に積極的に暴力を振うだけの気力もなかったのだ。


 リュックサックは少し悩んだ後、最終的には少年Dの今後のためにも、彼に痛い思いをしてもらう事に決めた。

 どこぞの戦闘狂風に言うならば「この痛みからも何かを学ぶこった」と思ったのだろう。


 ノソノソと近付いていくリュックサック。


「えい」


 ぽふ。

 非常にやる気のない声と同時に、リュックサックの布地が少年Dの体を――押す。

 尋常ではない手加減がされた一撃に、少年Dが一歩後ずさる。


 ……もう、何と言うか、恐ろしい程に下手クソな手加減だった。

 『最悪、壊したら壊したで仕方がないか』ぐらいの感覚で攻撃していた少年B、C相手には、結果として上手い具合に加減が出来ていた様だが、そこまで徹し切れていない少年D相手の攻撃は、色々と残念な感じになっている。


 そして恐るべきは、当人にその自覚が全くない事であろう。

 怪人的にはこれで懲らしめているつもりなのだ。


「えい、えい」


 ぽふぽふ。

 極めてやる気のない声と同時に、リュックサックの二連撃が少年Dの体を――押す。

 びっくりするほど手加減がされた二つの衝撃に少年Dが数歩後ずさる。


「えい、えい、えい」


 ぽふぽふぽふ。

 やる気とは、果たして一体何なのだろうか? そんな疑問さえ湧いてくる声と同時に、よく分からない三連撃が 少年Dの体をこれでもかとばかりに、押して押して押した。

 とうとう路地裏の袋小路に追い詰められる少年D。果たして彼の運命やいかに。


 ――うむむ、なかなか倒れないぞ。壁まで追い詰めてしまったが、一体この後、どうすればいいんだ? 


 そんな自業自得な自問自答を、袋の中にクールに押し隠したリュックサックは、さも「ふふふ、計算通りに追い詰めたぞ」とばかりに、少年Dにジリジリと迫る。

 そして――。


「えい、えい、えーい!」


 ぽふ、ぽふ、むぎゅー!

 ――やっぱり、押した。


 たが、ニ撃目の段階で既に壁に密着していた少年Dに対して行われた三撃目は、『押した』というよりも『のしかかった』感じの動きになっていた。

 更に言うと、リュックサックの中の人は、少年B達に対しては袋の中で肘を構え、肘打ち気味に体当たりをかましたりと、それなりえげつない事をしていたのだが、少年Dに対しては終始一貫してやる気がなく、ダランと腕を下げて正面から体をぶつけにいっていた。


 まあ、何が言いたいのかと言うと、要するにだ。

 リュックサックの中の女は、袋越しとは言え、正面から体を――胸を、少年に『押しつけて』いたのである。


 果たして袋越しに『その感触』は伝わり得るのか?

 その疑問に対する回答は、顔を赤くして鼻息を荒くしている少年Dの姿で充分であろう。


 あるいは「単純に壁に押し付けられて呼吸が荒くなっているだけでは?」「少年Dはそんな悪い子ではない」という意見もあるかもしれない。

 しかし見よ。無意識の内に延ばされた少年の指先を。その伸ばされている位置と、不審な『もみもみ』とでも言うべき動きをしている彼の両手を。

 小学校高学年ぐらいの彼が、一人の漢になった瞬間である。


 そして、そんな漢を目がけて――数本のスローイングナイフが、どこからともなく飛んできた。


 咄嗟に少年から飛び退いたリュックサックは、彼を守るために、超人的な反射神経と体捌きでそれらを叩き落とそうとし――『投擲者にあてるつもりがない』事と『軌道的に叩き落とすまでもない』事を悟る。


 自分の身に何が起こったのか、少年Dは正確に把握出来ていた訳ではない。

 しかし飛来したナイフの一本が、彼の顔から1メートル程離れた『煉瓦の壁に突き刺さった』のを見て、今更の様に自分が追い詰められている事を理解した。


 そして、彼は逃げ出したのである。


 リュックサックは怯えた風に走り去る少年Dの姿を見て「ふふふ。私の脅しであんなに怯えているのか。これに懲りたらもう馬鹿な真似はしない事だな」と、袋の中で満足気に微笑む。

 無論、少年が怯えて逃げ出したのは、スローイングナイフ及びそれを投擲してきた存在に対してであり、あれがなければ少年Dはいつまで経っても『先程の体勢』から逃れようとしなかったはずだが、残念ながらこの場にそれを突っ込める人間はいなかった。


 まあ、過程はどうあれ少年Dが走り去ったのは事実である。

 そして彼以外の少年達の姿も、子猫と幼女の姿も、もうこの路地裏にはない。


 つまり、この日この場で起こった揉め事は、取りあえず決着が着いた訳である。

 リュックサックの中の人は、どうにか上手くいった事を悟り、ホッと溜息を吐いた。


 余談となるが、最後にこの場にいた者達の後日談を少しだけしておこう。

 

 幼女と黒猫は、今回の事を反省し、二度と路地裏などの危険な場所に近づかなくなった。

 もっとも、彼女達は『貴族の不良に絡まれること』以上に、『リュックサックを被った、見ているだけ恐ろしくなる謎の存在に出くわすこと』を恐れていたのだが。


 少年Aは、回復魔術で傷の治療を行う際「何故腕が折れたのか」と周囲から問い詰められたが、その真の理由は最後まで隠し通した。

 化物ともう一度関わらなければならなくなる様な事態を、恐れたのである。

 更に言えば、その日を境に彼は路地裏や夜の繁華街に近づかなくなり、誰かが動物虐待を行っている現場に出くわしでもしたら「馬鹿な真似はやめろっ、死にたいのか!」と止める様になった。

 人が変わった様に善人になった彼の姿に周囲の人間は首を傾げたが、おおむね良い変化として受け入れられる事になる。


 少年Bは、幼女を虐めていた時の快感が忘れられなかったが、またあんな化物に出くわすリスクを考えると、とてもではないが直接的な行動に出る事は出来なくなった。

 代わりに、彼の自室の書棚には『幼い少女の裸婦画』が収拾されていく事になる。


 少年Cは、弱い者いじめを止めた。強い力と心を手に入れようと努力し始めた。しかし、道すがらリュックサックの様な物を背負っている人間を見ると、足が竦んで動けなくなった。彼がそのトラウマを克服するのは、当分先の話である。


 少年D。本名、イスキ=ディン=オパ。

 彼は後に、大きな論争の世界に身を投じていく事になる。

 『貧しき平原を愛する者達』と『巨大な霊峰を信仰する者達』の長き渡る闘争の歴史の中で、イスキがどんな役割を果たしていくのかと言うと――まあ、どうでもいいので省略する。

 あえて触れておくとすれば、彼が後に語った「子供時代の僕は本当に臆病者の小悪党でした。悪いと分かっていても、それを止める事が出来なかったのです。しかし、そんな僕に大切な事を気付かせてくれる人がいました。暖かい温もりで、包んでくれた人がいたのです。僕は今でもあの日の感動と感触を忘れられません……今、全ての戦争に明け暮れる男達に、僕は言いたい。そんな暇があるのなら、女性のおっ(以下略)」という言葉ぐらいだろうか。


 さて、最後にリュックサックのその後だが、件の怪人は一連の揉め事が片付くと速やかにリュックサックを脱いでしまった。

 故に、リュックサックの物語に『その後』はない。


 そこから先は、ランプの魔人の物語だ。



*********************************



 当人に自覚は皆無であろうが、リュックサックをモソモソと脱ぐカーラの姿は、何故かと言うべきか、それともやはりと言うべきか――何とも妖しい色香を醸し出していた。


 やっている事はスーツアクターが着ぐるみから脱出するのとそう変わらないはずなのに、まるで一流の娼婦が客の前で下着を外してでもいるかの様に扇情的である。

 袋の中で僅かに乱れたらしい、ウェーブのかかった長い黒髪を気だるげに整える仕草はどこか官能的であり、とてもではないが先程までリュックサックを被って大立ち回りを演じていた怪人の正体とは思えない。


 そんな、いつにも増して妖しい魅力を漂わせているカーラに、メリルはゆっくりと近づいていった。


 冷たい美貌の女が「えいえい」言っている時は『こ、こんなカーラ様も可愛いらしくて素敵です!』と興奮したり、リーダー格の少年相手に「首から上も頂きますよ」と言った際には『キャーー! さすが、カーラ様っ、そこに痺れて憧れます! ハッ、ダメよメリル、人間を傷付けるのはいけない事よ……嗚呼、でもやっぱり素敵です! カーラ様!』と興奮したりしていたメリルだが、現在の少女の表情はいつになく真面目なものである。


 何故ならば彼女には、冷たい美貌の女にどうしても聞いておかねばならない事があったのだ。


「……カーラ様はどうして、あの少女を助けようと思われたのですか?」


 メリルにとって、この質問の持つ意味は重い。


 助けるべきだと思ったのに、助けたいとは感じず、その葛藤の中で行動を封じられてしまった少女。

 彼女はとうとう最後まで、何もする事が――あまりに不埒な行動を取っていた少年に対しナイフを投げる事ぐらいしか――出来なかった。

 恐らくこんな事は、メリルが『今の彼女』になって以来初めての事であろう。


 かつて、人外の命をあまりに軽視する『生粋の悪』であった少女は、エイプリル=フォン=クラーゼという『正義の一つの完成形』の手によって矯正された。

 彼女にとって幸運だったのは、母親であるエイプリルの狂的なまでの『正義』に影響を受けながらも、父親のごく一般的な優しさや正しさにも触れられた事だろう。

 もし母親のみを手本としていたならば、メリルは優等生にはなれたとしても、クラスメイトから慕われ、頼りにされる委員長(的なポジション)にはなれなかったはずである。

 今の『皆に慕われる学年次席の才女』の姿は、彼女が本当の自分を偽ってまで獲得した、努力の結晶なのだ。


 ――別段、成りたくてなった姿でもないけれど、仕方がないじゃない。

 ――だって、正しく在りなさいと、お母様に言われたんだもの。

 ――だって、優しく成りなさいと、お父様に言われたんだもの。


 両親に対する少女の尊敬は変わらない。

 今のメリルという人格を作ったのは二人なのだから。

 両親に対する親愛も変わらない。

 彼女を愛し、育ててくれた二人なのだから。


 それでも少女が変わったのは、彼女の中での両親への思いが失われたからではなく、両親に匹敵する影響力を持つ相手が生まれたからだろう。


 そして、前述した様にメリル自身も己のその変化――『成長』には気付いていたのだが、よもや両親から受け継いだ『正義』と、想い人に抱いている『恋慕』が対立する事になるとは思ってもいなかったのだ。

 成長前と成長後、いずれの自分としても行動出来ず、想い人の奮闘をただ黙って見ているしかない様な状況に陥るなど、想定すらしてはいなかったのである。


 そしてマズイ事に、少女は未だあの状況で自分がどう動くべきであったかを、定められないでいた。

 つまり、次に同じ様な場面に出くわしても、メリルはきっと何も出来ないのである。


 だから問うたのだ。冷たい美貌の女に。

 彼女が何故『少女を救おうと思ったのか』を聞く事で、その思考を模倣しようと思ったのである。

 かつて両親の『正義』を模倣した様に。

 そうすればきっと、もう悩まないで済むと思ったから。

 そうすればきっと、想い人に近づけると思ったから。


 しかし、少女の目論見は些か甘い。

 彼女の想い人はそこまで『優しい』人間ではないのだ。


 実際に、メリルの思惑をそこまで正確に見抜いていた訳ではないにせよ、少女が悩むのを放棄した事に――まだ解けていない問題のカンニングをしようとしている事に気付いていたカーラは、些か『優しくない』言葉を返した。


 いつも通りの、気だるげで冷たい微笑を浮かべて。


「質問に質問を返して申し訳ありませんが、あの少女の状況を見て、メリル様はどうするべきだと思われましたか?」

「う、うう、わ、わたしは『べき』の話をするのであれば、助けるべきだと思いました……」


 カーラの返しで、金髪碧眼の少女は自分の思惑が悟られた事に気付くが、メリルが体勢を立て直すよりも先に冷たい美貌の女は畳み掛ける様に言葉を続けた。


「それでも動けなかったのは、助けたくないと思う様な理由があったからですか?」

「え、えーと、ですね、恐らくですが、そこまで明確に『したくない』と思っていた訳でもないと思います。ただ、その、他にしたい事があったと申しますか、何と申しますか、ごにょごにょごにょ(カーラ様と一緒にいる時間を邪魔されたくなかったと申しますか……)」


 さすがに、少女が故意に口ごもった最後の部分は、カーラの聴覚をもってしても聞き取れなかった。

 しかし、冷たい美貌の女は聞き取れた範囲のメリルの発言から、大凡の事情を推測する。


「……なるほど」


 ぶちまけたリュックサックの中身を回収しながら、カーラは淡々と言葉を続ける。


「まず、私が何故、彼女達を助けようと思ったかと言う話ですが、それはやはり助けるべきだと思ったからです」

「そ、そうですよねっ、やっぱり、それが『正しい事』なんですよね! でしたら、わたしも何も迷う必要なんて――」

「迷うべきでしょう」


 小さくガッツポーズを取ったメリルを、魔人の女は容赦なく切り捨てた。

 涙目になる少女。


「何故ですか!?」

「何故か、ですか。そうですね。多少説教臭くなってしまうかもしれませんが――」

「カーラ様のお説教でしたら大歓迎です! どうか、わたしを導いて下さい!」


 迷えるメリルは、ある種の狂信的な輝きさえ帯びた眼差しを想い人に向ける。


 内心『あまり説教臭い事を言っても、敬遠されるから注意しないとな』とか考えながら話をしていたカーラだが、少女の狂気を直視し『……敬遠されもいいから、言うべき事は言っておこう』と決意した。軽く溜息を吐きながら。


「……私の発言など、話し半分程度に聞いて頂いて結構なのですが――」


 何か言いたそうな顔をしたメリルを視線で制しながら、冷たい美貌の女は話し続ける。


「私は先程の行動を『そうするべきだと考えて行動した』と言いましたが、あれはあくまで私の立場、私の能力ならば、そうするべきであったというだけで、他の人間全てに当てはまる様な行動の指針ではありません。無論、メリル様の指針にもなり得ないでしょう」

「う、うう、えーと、つまり、立場や能力が異なるならば、必ずしも『助けるべき』ではなかったと仰りたいのでしょうか」

「私はそう思います」


 例えば、魔人となった彼女と、人間であった頃の『彼』は同じ価値観を共有しているが、二人が同じ問題に対し同じ『回答』を出すかと言ったら、そんな事はない。

 ランプの魔人になり、出来る様になった事と、出来なくなった事があるのだ。ならば当然、同じ人格である二人の間ですら『取るべき行動』は変わってくるだろう。


「メリル様は悩まれるべきです。貴女が助けるべきだったか否かは、貴女にしか分からない事なのですから。メリル様の立場と能力に基づいた『答え』は、貴女以外の何者にも出せません」


 メリルにとってその言葉は「神託なんかあてにするな。自分の事は自分で考えろ」という神託が下った様なものである。

 少女は泣きそうな顔でしょんぼりとした。


 それを見た冷たい美貌の女は超然とした微笑を僅かに崩し、珍しく困った様な微笑を浮かべた。


「そう難しく考える必要もないのでは?」

「……難しいです。とても難しいですぅ」


 どこまでも肩を落としていく少女の姿を見て、さすがに哀れに思ったのか、カーラは一つの助言を口にした。


「……では一つアドバイスを。メリル様は先程『するべき事』である義務と、『したい事』である欲求に乖離があると仰っていましたが、今回貴女を悩ませているのは恐らくその乖離でしょう」


 淡々と語るカーラの冷たい瞳を、メリルは食い入る様に見つめた。


「これはメリル様がお話する姿からの推測ですが、『義務』に関してはご自身の中できちんと整理出来ている様ですが、『欲求』は客観視する事すら満足に出来ていない様に見受けられました。まずは、ご自身の欲求と向き合う事から始められてはいかがでしょうか」

「わたしの『やりたい事』と向き合う……」

「義務と欲求が明確になりさえすれば、後はそのどちらがよりメリル様にとって大切なものなのかを考えるだけです。恐らくそれで、貴女の行動の指針は見えてくるでしょう」

「…………す」

「す?」


 完全に黙り込みプルプルと震え始めたメリル。

 カーラが訝しげな視線を少女に向けた瞬間、彼女は『爆発』した。


「す、凄いですっ! カーラ様は、何でも分かっているのですね! 『わたしの事』を何でも分かってくれているのですね!」


 無論、分かっていない。

 

 そもそも、メリルの欲求が『カーラと親しい関係になる事』や『カーラとキャッキャウフフをする事』であると分かっていれば、冷たい美貌の女はここまで素直な助言をしていない。

 恐らく『義務に従うのが正しいです。欲求なんてクソ食らえです』といった方向性で話を進めていたはずだ。


 ――そうだわ、わたしはもっと『カーラ様を好きな自分』を知らなければならない。カーラ様と一体どうなりたくて、そのためには何を捨てて、何を得なければならないのか、もっときちんと考えなければならないわ!


 落ち込んだ少女を励ますぐらいのつもりで口にされたカーラの言葉であるが、ものの見事に墓穴を掘っていた。


 ――嗚呼、さすがです。カーラ様。口では色々仰っても、きちんとわたしの事を見ていて下さったのですね。わたしを理解し、導いて下さるのですねっ。嗚呼、カーラ様!


 話をしながらリュックサックの中身を詰め終わったカーラは、逃走本能を刺激されるメリルの姿に若干の不安を抱きながらも、とりあえずはクラーゼ邸への歩みを再開する事にした。


「……少しでもお力になれたのでしたら、幸いです。それでは、そろそろ移動を再開するべきかと思いますが、先導をお願いしてもよろしいですか」

「はい!」


 メリルはカーラの手を見て一瞬『手を繋ぎたい』と思ったが、やはり再度の拒絶が恐ろしいのか自重して服の袖を摘むまでに留めた。


 しかし、しばらく二人で路地裏を進んでいると、メリルの脳裏に先程のカーラの『メリル様は悩まれるべきです』という言葉が響いた。


 ――そうね。さっきだって、わたしが答えなんて出せる訳がないと思っていた問題の解決の糸口を、あっさりとカーラ様は提示して下さったわ。わたしだって頑張らないと。頑張ってカーラ様と触れ合える方法を考えないと。


 そして数分後、恐るべき事に、メリルは『何か良い事を思いついた』顔をして歩みを止めた。


「どうかしましたか?」

「…………そういえば、カーラ様、先程の少年達への対応は随分と見事なものでしたね。さすがはカーラ様です」

「どうしたのですか、突然。しかし、そうですね。ふふふ。我ながら良い仕事をしたかもしれませんね」

「つきましては、少年を捉える際に使っていた『技』をわたしに教えては頂けないでしょうか」

「技ですか? 申し訳ありませんが、特別な事をしていた記憶は……」

「いえいえ、カーラ様に自覚がないだけで、恐ろしい威力を持った技です。わたしなんてきっと鼻血が止まりません」

「随分とピンポイントな出血を引き起こす技なのですね」

「そういう技なのです」


 存外食いつきがいいカーラの反応に、メリルは追い風を感じた。


 ――いけるっ、いけるわ!


「あの、わたしが技を食らう側を務めますので、カーラ様は先程通りに技をしかけてみて下さい」

「さすがにメリル様の腕をへし折って、頭を踏みつけるというのは……」

「すみません。それはやめて下さい。それ以外の、と言いますか、4人目の少年にしかけていた感じでお願いします」

「ふむ。良く分かりませんが、分かりました。それでは早速リュックサックをぶちまけて――」

「すみません。それもやめて下さい。カーラ様は今のお姿のまま、先程と同じ様に攻撃をしかけて下さい」

「ふむ? 良く分かりませんが、分かりました。それでは――」





 ぽふ、ぽふ、むぎゅー!


 ――カーラ様に触れてはいけないのなら、カーラ様から触れてもらえばいいじゃない?


 少女はまた一つ、強かになった。


 そして、自らの失態に気付いたカーラは必死で平静を取り繕ったが、色々と取り繕いきれていなかった。


 恐らく、今回のカーラが『残念カーラさん』ならば次話のカーラは『冷酷カーラ様』です。

 ピーキーな主人公ですが、暖かい目(もしくは生温かい目)で見守って頂ければ幸いです。


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