第11話 1人目の願い 剣と魔法の世界(11-a)
前話の後書きや、頂いたご感想の返信で「次話(第11話)はクラーゼ邸に行ってエイプリルさんとキャッキャッウフフをします」という感じの事を書きましたが……スマンです。ありゃウソでした。
……実際書いてみると、第11話は「ガルゼフォードの修行」で精一杯でした。
と言いますか11話内でも指定文字数で収まらなかったので、12話と分割する形になりました。
一応単独でも読めるように書いたつもりですが、11話がガルゼフォード視点のA面、12話がカーラ視点のB面となりますので、合せてご覧頂ければと思います。
それでは、今回のお話もお読み頂いた方々に少しでも楽しんで頂ければ幸いです。
翌日の早朝。
具体的には朝の6時前後。
フェルトの街の外れにある寂れた広場で、二人の男が戦っていた。
戦いと呼ぶには、あまりに一方的で、あまりに緊張感にかける攻防ではあったが、少なくとも、もう何度目かなるかも分からない転倒を見せた茶髪茶眼の青年にとって、今行っている実戦形式の訓練は紛れもない『戦い』であった。
「よし、分かったぞ。馬鹿弟子、お前は根本的に駄目だ」
「ぜーはー、ぜーはー、な、何だと」
二人のうち、相手に一度も攻撃を掠らせることなく、退屈げな様子すら見せながら勝利を収め続けている男の名は、バウト=カチェット。
二つ名の由来ともなっている二本の大剣は広場の端にある花壇に立てかけられており、替わりに何の変哲もない木刀が右手に握られ、左手はやる気なくダラリと下げられている。
冒険に出る際に装備する白銀の鎧と外套も今は身につけておらず、オーバーブラウス風の上衣とありふれた長ズボンを履いた現在のバウトの姿は、街中をうろつく一般人の様な気安いものであった。
もっとも、そんなラフな格好でありながらも、どこかこじゃれた印象を受ける着こなしが出来るあたり、この男の素材の良さとセンスの高さが伺い知れる。
カーラあたりが見たならば、内心で「はいはい、イケメンイケメン。そんなに周囲の男の劣等感を刺激するのが楽しいんですか? 貴方たちが、ただ生きて呼吸をしているだけで私は不快な気持ちになります」とでも吐き捨てかねない、大層様になる立ち姿であった。
もう一人の、いつも通りのボロボロの外套に身を包んだ、イケメンオーラの欠片もない青年の名はガルゼフォード=マキシ。
この地方の早朝は比較的冷え込むことが多いため、木刀を杖代わりに何とか立ちあがりながら全身で呼吸をしている彼の体からは、薄らと白い湯気が立ち上っている。
バウトの提案により、実戦形式の訓練を初めて早30分弱。
手加減された上での話とは言え、幾度となく木刀で打ちすえられた彼の体は、既に普通に立っている事さえままならない程消耗していた。
――この日の起床時点での快調が、まるで嘘の様である。
2時間程前まで――ガルゼフォードが起床した4時前後まで時間を遡ったならば、確かにこの時の青年の体調は極めて良好だった。
冷たい美貌の女に「マスター、朝です。起きて下さい」と声をかけられた際も、普段の寝起きの悪さが嘘の様に、すぐに起き上がって返事を返す事が出来ていた。
快調の原因が、前日のマッサージ(の様なもの)であった可能性が高い事を考えると、気絶させられた立場のガルゼフォードとしては複雑な心境であったが、その遺恨を忘れてもいいと思える程に頭は冴えわたり、体は活力に満ちた状態だったのである。
いつになくテンション高く、意気揚々と出かける準備をする契約者を余所に、彼の美しい使い魔はいつも通りの気だるげな雰囲気で椅子に腰かけていた。
彼女はガルゼフォードを起こす際に声こそかけたものの、その後は出かける身支度をする青年の姿を見ても特に興味がない様子で、一人椅子に腰かけ、図書館から借りてきた本に視線を落としている。時たま思い出した様に契約者に向けられる彼女の視線は、心の底から無関心そうなものであった。
ガルゼフォードは、何となくカーラは修行に同席してくれるものだと――理由さえなければ、冷たい美貌の女は常に傍らにいてくれるものだと思っていたので、彼が自室の扉を開けて出て行く段階になっても、特に動く様子のない彼女の姿に、思わず声をかけてしまった。
ろくに話す内容も、まとめ切れていない状態で。
「お、おい、カーラ」
いつも通りの魔性の笑みを――冷たくも蠱惑的な微笑を口元に浮かべ、使い魔は視線を書物から契約者に移し、口を開いた。
「何ですか、マスター?」
ガルゼフォードの部屋の安物の椅子ですら、そこに気だるげに腰かける傾国の美女の存在感によって、まるで王の座る玉座の様な華やかさと威厳を纏って見える。
――もっとも、この女が玉座に腰かけるとすれば、それは深紅に染まったものに違いないだろうが――見る者にそんな印象を与えずにはいられない、美しくも恐ろしい、冷たい美貌の女の姿であった。
まあ、要するに『いつも通り』の彼女の姿である。
しかし、茶髪茶眼の青年には自分の方から「いつも通り僕の後ろについてこい」と切り出すことがどうしても出来なかった。抵抗が、あったのだ。
その抵抗感に、別の名前を付けるとすれば、それは恐怖心であり、羞恥心である。
今までは何も言わずとも、使い魔の方から黙って後ろに付いてきてくれていたので、考えたこともなかったが、もし同行を望んで「嫌です」や「何でそんな事をしなければならないのですか?」と冷たく返された時の事を想像すると、恐怖で足が竦んでしまったのだ。
もっと言えば、仮に同行を了承してくれたとしても、内心で「一人で行くことも出来ないのですか」と思われたり、修行の風景を見られて「何て情けない男なんでしょう」と思われたりする事を考えると、ガルゼフォードの方から誘うことなど、とてもではないが恥ずかしくて出来なかったのである。
この辺りの感情の動きは、魔物の森に行く前の青年ものとは少し異なっていたかもしれない。
自分に絶対の自信を持っていた頃の彼であれば、『取りあえず冷たい美貌の女と一緒にいたい』という自らの想いさえあれば「僕の誘いを断る訳がない。僕が修行で失敗する訳がない」という根拠のない自信のもと、気安く声をかけることが出来ていたはずである。
だが、拙いことに今の彼の自尊心は主に『カーラから信頼されている自分』に対して向けられていた。
茶髪茶眼の青年は、冷たい美貌の女以外の誰に自分を否定されたところで、過去と変わらぬ傲慢なまでの自信のもとに自分を肯定出来ただろう。しかし反面その自信は、カーラに一言否定され、拒絶されただけで粉々に砕け散りかねない危うさも含んでいた。
有体に言って、現在のガルゼフォード=マキシにとって、冷たい美貌の女に否定され、拒絶されること以上に恐ろしいことはなく、その危険性をはらんだ全ての行動に対して躊躇を感じずにはいられなかったのである。
だから、そんな彼には「一緒に来て欲しい」とカーラに伝えることすら出来ず、ただ当たり障りのない言葉だけがその口元からは零れた。
「……これから、修行に行ってくる」
「そうですか。私の同席は必要ですか?」
それはいっそ使い魔からの、助け舟と言ってもいい言葉であった。
ただ一言「必要だ」とさえ言えば、この女は「畏まりました」と従順に頭を下げ、待ち合わせ場所に向かう彼の後ろに黙ってついてきたことだろう。
だが――。
「いや、不要だ」
この時の青年の羞恥心と恐怖心は、いつになく強弁だった。
内心で侮蔑を抱かれる可能性や、修行風景を馬鹿にされる危険性に、耐えられなかったのである。
ガルゼフォードは必死で自らに「これは、僕が僕のために行う修行だ。カーラに心配してもらう必要性もなければ、ついてきてもらう必然性もない。だから、僕が一人で行くことは当たり前のことなんだ」と言い聞かせていた。
「畏まりました。それではお気を付けて」
「……ああ、行ってくる」
視線を本に戻し、もう青年には何の興味もなさそうに振る舞う使い魔の姿に、ガルゼフォードは言いようのないない寂しさを感じた。
しかし彼は、表面上は何とかそれを押し隠し、胸を張って部屋を出ていった。この辺りの生来の誇り高さは未だ健在のようだ。
そんな経緯を経て、待ち合わせの15分前には約束した広場に到着していたガルゼフォードであったが、相手のバウトはいつまで経っても現れなかった。
先ほどのカーラとの会話で、精神がいつもより荒んでいた茶髪茶眼の青年は、内心の苛立ちを誤魔化すかの様に、自分のいる広場に視線を巡らせる。
フェルトの街の北門寄りの隅にあるこの公園の様な広場は、北側の地区が貴族や魔術師たちの生活圏であることもあってか、早朝のこの時間には人っ子一人いなかった。
もっとも、土の地面がむき出しにされ、ベンチの一つもないこの寂れた広場に訪れる者など、日中帯であっても稀であろう。
あるものと言えば、広場の隅にある花壇と芝生ぐらい。後は精々、人一人が隠れられそうなほどに幹の太い広葉樹が、芝生とは反対側の隅に一本生えている程度だ。
だから、ガルゼフォードの暇つぶしのための観察もすぐに終わりを迎える。
青年はその後、苛立ちと共に、早朝の寒さとも戦わねばならなかった。
この日の朝は殊更冷え込んでおり、冷たい美貌の女や銀色の餓狼の様な規格外の体を持たないガルゼフォードにとって、ただ突っ立って待っているだけのこの時間ですら、ある種の試練と化していたのである。
懸命にそれらと戦い続けた彼のもとにバウトが到着したのは、結局、待ち合わせ時間から30分近く遅れた5時半ぐらいのことである。
「わりい、わりい、昨日、ちっと飲み過ぎちまってな」
と、言い訳にもならない言い訳を口にしながらやってきた銀色の餓狼を、茶髪茶眼の青年は冷たい視線で見つめたが、そこは一刻も早く強くなりたいという気持ちが勝ったのか、バウトの遅刻に関しては特に言及せずに話を始めた。
本人の自覚は薄かったが、彼の強くなりたいという想いの半分近くは『カーラに本当の意味で誇られる様な立派な魔術師になりたい』という願いに起因しており、今朝の使い魔とのもどかしい会話を経て、その想いは更に高まっていたのだ。
「ふん。特別に許してやろう。さあ、さっそく僕が強くなるための方法を教えるがいい」
「本当に口のきき方を知らねえ馬鹿弟子だな……ところで、カーラの奴は来てねえのか?」
早速地雷を踏むバウト。
「……あ、あいつは、僕の修行とは関係ないだろうっ。いいから、とっとと修行を始めろっ」
「ひゃはははっ、おいおい、青年、もしかしてあいつに冷たくあしらわれたりでもしたのか? ひゃはは、気にすんな、気にすんな、俺が言うのも何だが、あいつみたいな女に甘やかしてもらおうって方が難しいぜ、冷たくされてなんぼだ、ひゃはは」
「とっとと、修行を始めろ!」
「へいへい、分かった分かった、あんまりイライラすんなよ青年。短気な男は女に嫌われるぞ?」
「修行をっ、始めろっ!」
「ひゃはは。よし、んじゃあ、まず、現時点でのお前の実力を測りがてら、軽く体の動かし方を教えてやる。模擬戦すんぞ」
そう言って、二本持ってきていた木刀のうちの一本を、ガルゼフォードに投げ渡す銀色の餓狼。
茶髪茶眼の青年は、飛んでくるそれを咄嗟に受け止めようとしたが、運動神経が付いていかず見事に地面に落としてしまった。
何事もなかったように木刀を拾い上げ、偉そうに胸を張るガルゼフォードの姿に、バウトは内心「こりゃあ、予想以上に使い物にならねえかもな……」と苦笑いを浮かべる。
「ふん。こんな木刀など使わずとも、僕には魔術があるんだがな」
不満そうにそんなことを言うガルゼフォード。
だが、自らの訓練方法にケチを付けられたはずの銀色の餓狼は、特にそれに怒るでもなく、むしろ楽しげな笑顔さえ浮かべていた。
「ひゃはは、いいぜ、だったら魔術を使ってみな。俺は木刀で相手してやんからよ」
「……おい、僕の魔術が当たったら怪我では済まんぞ」
「いらねえ心配だな馬鹿弟子。いいからとっと始めんぞ」
「どうなっても知らんからな、クソ師匠がっ」
苛立たしげに言葉を発しながら、茶髪茶眼の青年は木刀を傍らに投げ捨て、腰の長筒から魔法陣を取り出す。
ニヤついた笑みを浮かべるバウトとの間には、それなりの間合い――5メートル以上の距離があった。
だが――。
「んじゃ、始めんぞ」
銀色の餓狼は、やる気の無さそうな声でそう言うと、ガルゼフォードが魔術の詠唱を開始する前に、一瞬で間合いを詰め、青年の腹部を木刀で打ちすえた。
「――か、は」
呆気なく膝から崩れ落ちる弟子の姿を見ながら、その師匠はいっそ優しげな視線を彼に向けながら淡々と言葉を発する。
「まあ、この場合『魔術を使えるもんなら使ってみな』って方が正しいんだがな」
「がは、ごほっ、ご、ごほ、がはっ」
歴戦の戦士は、腹を押さえて蹲る弟子の姿を観察するように、彼の周囲をのんびりと歩きながら言葉を続ける。その一定の距離を取った移動の軌跡――間合いの取り方は、真上から見たならば真円を描くかの様に精密なものであった。
しかし、右手に握った木刀で自らの肩をポンポンと叩きながら歩く彼の姿には、そんな精密作業を行っているという緊張感もなければ、戦闘中であるという緊迫感もない。
「魔術師にとって、戦士や魔物を相手にする上で最も気を付けなきゃならねえのは間合いだ。自分の魔術が完成するのが先か、相手の攻撃が届くのが先か、なんてのは、咄嗟の判断で見切れなきゃならねえ。最善は近寄られる前に魔術を当てることだが、最低でも間に会わないという判断が付けば逃げるなり何なりの選択肢が生まれるからな」
蹲る青年の周りをゆっくりと歩きながら、淡々と語り続ける銀色の餓狼。
「だが今回のお前の様に、どうしたって相手に近寄られちまうケースってのは現実にある。単純に間合いを見積もらねえのは論外にしても、相手が自分の想定を超えた速度で間合いを詰めてくる場合は正直どうしようもねえ――んで、そんなどうしようもねえ状況で、今回お前はどう動くべきだったと思う? どうすりゃあ、地面に這いつくばらずに済んだと思う?」
フラフラと立ちあがり、無言で師匠の顔を睨みつけるガルゼフォードの手には、先ほど自ら手放したはずの『木刀が握られて』いた。
銀色の餓狼がニヤリと笑う。
「そうだな。それが正解だ。基本的に『実戦派の魔術師』にとって、主力はあくまで魔術だが、それが完成するまでの間に自らの身を守る手段ってのはどうしたって必要なんだよ。パーティーを組んでいる奴なら、それを完全に味方に委ねるってのもありかもしれねえが、お前の様に『個の強さ』を追い求めるなら、最低限『自力で魔術が完成するまでの時間を稼ぐ手段』が必要になってくる」
そこまで言って一息つくと、弟子の周囲をグルグルと歩いていたバウトは丁度青年の目前にくるタイミングで足を止め、のんびりと木刀を振り下ろした。
その遅さたるや、咄嗟に自分の木刀でそれを受け止めたガルゼフォードが小首を傾げてしまう程である。
そして右側に傾いた青年の首は、真横から打ちこまれたバウトの掌底を受け逆方向に曲がった。正確には、体ごと左側に吹き飛ばされた。
「――ぐ、ぎっ」
「剣を取る、その選択自体は間違っちゃいねえ。だがな、それで相手の攻撃を防ぎ切れねえようじゃあ、結局『魔術が完成するまでの時間を稼ぐ』ことなんぞ出来ねえ訳だ。今のお前の様にな」
地面に叩きつけられたガルゼフォードは、グラグラと揺れる視界と戦いながらそれでも何とか起き上がろうとしていたが、視界以前に脳が揺れてしまっている今の彼には、ただ立ちあがることさえもままならない。
まるで生まれたての草食動物の様に、足を踏ん張ろうとしては、崩れ落ちている。それを、何度も何度も繰り返していた。
「まあ、正直言って、剣に拘る必要はねえよ。俺が今やった様に素手で迎撃しようが、クラーゼのお嬢ちゃんの様に投げナイフで牽制しようが、あるいはどこぞの化物ババアの様に俺ですら対応出来ない速度で間合いを広げようが、最後に『魔術が発動出来る時間を稼げる』ならば、何をしたっていい」
ガルゼフォードが木刀を杖代わりに立ちあがるのを、無表情に眺めながら待つ銀色の餓狼。傍から見る限り退屈そうにさえ見える彼の姿だが、実のところ内心ではそれなりに楽しんでもいた。
以前貴族の子弟たちに似た様なことをした時は、大半の者が最初の腹打ちで怯えて逃げ出し、残った者の中にも掌底を受けて立ちあがれる様な人間は皆無だったのだ。
――それが、どうだ、この馬鹿弟子は。動きにセンスはねえし、反射神経もお話にならねえが……強くなろうという意思の強さだけは、認めてやらねえ事もねえ。
そんな内心の讃嘆をおくびにも出さず、銀色の餓狼はとうとう立ちあがり自分を睨みつけてきた青年に対し、軽薄な笑みを浮かべて話しかけた。
「要するに、だ。その時間稼ぎさえ満足に出来ねえお前のために、わざわざ持ってきてやったのが、その木刀な訳だ。その木刀で、時間稼ぎのやり方を教えてやるために模擬戦をしようっつーのが俺の予定な訳だが、まだ何か不満はあるかね、馬鹿弟子くん?」
「……いいや。理屈は分かった。確かに僕は魔術を使えるが、それが発動するまでの時間の稼ぎ方は知らない。それを、まず教えようと考えたお前の判断は正しい……正しいが、腹は痛いし、頭も痛いぞ、クソ師匠め」
「ひゃはははははっ、精々その痛みからも何かを学ぶことだなあ、馬鹿弟子っ」
そうして二人の実戦形式の模擬戦は始まり冒頭へと至る訳だが、たび重なる敗北に、ガルゼフォードの精神よりも先に、彼の体の方が限界を迎えてしまったのである。
もう木刀という名の杖なしでは、満足に立っていることさえ困難だった。
そんな弟子の姿に対する師匠からの評価が「よし、分かったぞ。馬鹿弟子、お前は根本的に駄目だ」という言葉なのである。
「30分程度で音を上げる体ってのは、どーいうもんなんだろうな。修行して強くなる以前に、修行を続けるだけの体力がないってのはどうしようもねえぞ」
「ぐ、ぐぬぬ」
「俺の当初予定では、後数時間はこうしてお前をボコボコにしてやるつもりだったんだが、お前の体力は俺の想像を超えて想定以下だ……仕方ねえなあ、もう一回お前をどついたら座学に切り替えるかぁ。はあぁ、やる気失せるわぁー。よぉし、最後の一本だぁー。気合い入れろよぉー」
本人の気合いが抜けているのが丸分かりな態度で、ガルゼフォードから10メートル程距離を取り木刀を構えるバウト。
対する弟子は、ボロボロの体に反して燃えたぎる様な闘志を込めた視線で、やる気の抜けた師匠を睨みつけた。
彼の瞳を直視した銀色の餓狼の顔に、この広場に来て初めて、獰猛な笑みが浮かぶ。
――まあ、悪くねえ『眼』だな……せっかくだから『見せて』やるか。
そこから先のバウト=カチェットの動きに、ガルゼフォードはまるで反応出来なかった。
これまでの模擬戦で銀色の餓狼は、一つ一つの動作を見せつけるようにゆっくりとした攻め方をしていた。最後には必ず倒されるにせよ一応ガルゼフォードでも初撃ぐらいは受け止めることが出来る程度には、力を落として戦っていたのである。
だが、今の彼の攻めにそんな遊びはない。
攻撃を当てる瞬間に手加減こそしているものの、死角に入らず敢えて見せつけるように動いてこそいるものの、その神速の足運びと残像すら生む斬撃の速度は、【豪双剣】バウト=カチェットが魔物と戦う際に見せるものとそう大差なかった。
バウトには分かっている。
ガルゼフォードの才能では、どれほどの修練を積み重ねたところでこの領域に足を踏み入れることなど出来ないことを。
故に、教えてやろうと思ったのだ。世の中には茶髪茶眼の青年では想定すら出来ない動きをする『敵』が存在することを。
一撃目の斬撃で、ガルゼフォードの右手の甲が打たれる。
骨の折れる音がした。
魔物の森で、意識を失った時に匹敵する激痛が彼を襲ったが、今度は茶髪茶眼の青年も踏みとどまる。耐えたのだ。
反応は出来ないまでも、少しでも長くその目にBランクの戦士の動きを焼き付けるために。
ニ撃目の斬撃で、ガルゼフォードの腹部に木刀がめり込んだ。
口から吐瀉物が吐き出される。
それでも彼は耐えた。
三撃目は斬撃ではなく掌底。
これを頭部にまともに受けたガルゼフォードは、耐える耐えないの話以前に、一瞬で意識を刈り取られてしまった。
バウトが動き出してからガルゼフォードが意識を失うまで、この間、実に1秒弱。
10メートルの間合いを刹那に潰し、加減抜きであれば三度は殺しているだけの攻撃を加えたにしてはあまりに短い時間である。
Bランクの戦士――死線を超え続けた天才にのみ許される、不条理なまでに研ぎ澄まされた暴力だった。
本来であれば、これで終了である。
ここまでで終えていいのだ。
動きを見せるという意図は果たしたし、弟子の方も、激痛に耐えながら瞳を開き続けることでその期待に応えている。
しかし、ここで銀色の餓狼に遊び心がのぞいた。
それは、彼の顔に獰猛な笑みさえ浮んでいなければ――ガルゼフォードの闘志が師匠の闘争心に火を付けてさえいなければ、のぞくはずのなかった遊び心である。
――折角だし、両手両足を潰しておくか。壊せば壊した分だけ、直した時に伸びるのが人間ってもんだろう。
医療機関で魔術を使えば傷はすぐに治る。その前提であったとしても、あまり暴力的な思いつきである。
更に言えば、銀色の餓狼は知っていた。そもそも、そんな前提が成立し得ないことを。
回復魔術が万能ではなく、たかが骨折であっても運によっては直せない場合があることを知っていた。
他の人間の体が彼ほど頑丈に出来ている訳ではなく、ほんの小さな偶然が重なっただけで死んでしまうほど、脆く儚いものであることも知っていた。
それらを全て知った上で「ここで潰れるならば、それまでの奴だったってことだ」という思考のもとに、その暴挙を実行に移そうとしたのである。
この時の彼の思考の根底を探るならば、そこにはガルゼフォードに対する期待があった。
こんな眼を出来る奴なら、この程度の試練は当然超えて見せるだろう。そういう期待があったのだ。
そんな身勝手とも言える思いから、バウトは倒れたガルゼフォードに向かって木刀を――。
……………………。
………………。
…………。
……。
気絶した青年が、広場の片隅にある芝生の上で目を覚ますと、彼の額には介抱する際にでも使われたのか濡れたタオルが置かれていた。
右手の甲やわき腹に巻かれた包帯等からも察するに、誰かが応急処置をしてくれたのは間違いない。痛みは残っているが、動けないこともないレベルである。
ゆっくりと上半身を起こした彼の視線の先には、胡坐を組んでつまらなそうに遠くを見つめるバウト=カチェットの姿があった。
――この男が僕の介抱をしてくれたのか? 俄かには信じられん。だが、他に思い当たる人間もいないか……一応、礼ぐらいは言ってやろう。
「世話をかけたな。ご苦労だった」
「……よお、起きたか。座学、始めんぞ」
傲慢不遜な弟子の姿に何故か銀色の餓狼は何も言わず、一瞥だけすると、どこか疲れた様子で話し始めた。
茶髪茶眼の青年も師匠のその姿には違和感を抱いたが、彼の話す内容に聞き入ってしまいすぐにそれを忘れてしまう。
「さっきまでの模擬戦は、魔術師が戦士や魔物と戦う際を主眼に置いて話をしていた訳だが、ここからは魔術師が魔術師と戦う際の話をしてやろう」
「ほう。話すがいい」
「……まず、お前が気付いていたかどうかは知らねえが、さっきの戦い方には『魔術を発動させる時間さえ稼げれば勝てる』という前提がある。実際、相手が並の戦士や魔物であれば、時間を稼いで、ある程度の規模と速度の魔術さえ発動させちまえば、まあ殺せるだろう。だがな、魔術師同士の戦いではそうもいかねえ。二つの相違点がそれを許さねえからな」
上体だけ起こした体勢で、芝生に座ったまま黙って話を聞いているガルゼフォード。
対するバウトも、弟子の横で胡坐をかきながら話を続けている。話していて興が乗り始めたのか、何故かつまらなそうだった顔にも、少しずつ笑みが戻ってきていた。
「対戦士と対魔術師の一つ目の相違点は、『時間を稼ぐこと自体が不可能な場合がある』という点だ。相手に先手を取られた時点で終わっちまう場合ってのも珍しくねえ。まあ、例としてはいささか極端かもしれんが、お前んとこの学園長なんぞはその最たる例の一つだな。あの化物ババアが使う『光魔術』は、光の速度で全てを貫き焼き尽くす。狙い撃たれたならば、受けることも、かわすことも出来ねえ。『時間を稼ぐ』ことなんざ不可能だな」
「光魔術? 僕はそんな魔術なんて学園で習ったことがないぞ」
「そりゃ、そうだ。アレは戦場で名こそ知られているが、実態は一族の秘伝とも言える魔術だからな。魔法陣の術式すら秘匿されている。今の時代でアレを使えるのは、ババアとクラーゼのお嬢ちゃん、二人だけのはずだぜ」
「む、メリル=フォン=クラーゼが、そんな特別な魔術を使えるというのか」
「おおっ、もしかして対抗心でもあるのか? 言っとくがお嬢ちゃんの才能は中々のもんだぞ。現時点でお前に勝ち目はねえ」
「……ふん。現時点の僕には、だろう。いずれお前を超える男であるこの僕が、メリル=フォン=クラーゼ如きに遅れを取り続ける訳があるまい」
「ひゃはははっ、いいねえっ、その根拠のねえ自信は嫌いじゃねえぜ」
銀色の餓狼は、割と本気で楽しそうに笑っている。
所々に包帯をまいたボロボロの状態の青年は、その笑みを見て不愉快そうな表情を浮かべながらも言葉を続けた。
「確かにその『光魔術』とやらは大層なものかもしれんが、先ほどの模擬戦ではないが、発動させる前に潰せばいいだけの話だろう。あるいは、それが間に合わないのであれば狙い撃たれる前に逃げればいい。逃げて、スキを狙って攻めればいい」
「おおっ、馬鹿弟子っ、その考え方は悪くねえぞっ、お前も中々分かってきたじゃねえかっ! ……ただまあ、残念ながら、お嬢ちゃんが相手ならばともかく、対学園長戦でその手は使えねえんだがな」
「む、何故だ」
「あのババアは近接戦を嫌って戦闘開始と同時に、飛ぶ。飛ぶ前に潰すという発想もあるが、その間逃げ切れるだけの体術と経験は持っているからな。伊達に歳は食ってねえ」
「飛ぶ? 飛翔魔術か?」
「ああ、通常10秒以上かかるはずの詠唱を、あのババアは2秒足らずで終わらせる。んで、飛ばしちまったらもう終わりだ。猛禽類を上回る速度で戦場を飛び回りながら、目に付いた敵を片っ端から光線で凪ぎ払う。アレは壮観だぞ、一度見てみるといい」
「……なるほど、それでは先手も取れんし、逃げても追いつかれて死ぬな。どうしようもないぞ、そんなもの……」
「ひゃはははははっ、いや、わりい、わりい、やっぱりろくでもねえ例を上げちまったな。そう落ち込むな。まあ、あんな化物そうそういねえよ。俺の知ってる限りじゃあ、あのレベルのヤバい奴はこの地方には学園長の他にはもう一人ぐらいしかいねえ」
「逆を言えば、もう一人いるのか……どいつもこいつも化物ばかりだ。嫌になる話だな」
「まあ、確かに化物を敵に回すのは嫌だが――親しくなれりゃあ、意外と可愛らしい一面も見えるかもしれんぜ」
そう言って何故か、芝生とは反対側にある大きな広葉樹に視線を向けるバウト。
ガルゼフォードはそんな彼を訝しげに見た。
「何の話だ?」
「ひゃははは、いやいや、何でもねえ。よし、ちっと話を逸らしちまったが、対戦士と違い対魔術師の場合は『時間を稼ぐこと自体が不可能な場合がある』ことは理解したな」
「ああ」
「んじゃもう一つの相違点だが、それは『魔術を発動させても相手を倒せない場合がある』ということだ。戦士や魔物相手ならば確実に殺せても、魔術師が張った防御魔術は突破出来ねえ場合があるからな。さて、そういった事態を避けるために、事前に自分の矛と相手の盾、どちらが優れているかを測るための目安があるんだが、分かるか?」
「分からん」
「……考えろ」
「考えても、分からん」
「……ヒントをやろう。魔術の内容を決めるのが魔法陣の出来ならば、魔術の威力を決めるのは――」
「魔力量か」
「そうだ」
まともな回答を引き出せたことにホッとしたのか、銀色の餓狼が一息つく。
「敵味方関わらず、初見の魔術師の魔力量は測るクセは付けておいた方がいい。魔力量が多くても雑魚だったり、魔力量が少なくても出来る奴だったりってのはいるにはいるが、少なくとも単純な撃ち合いになった場合に自分より上か下かってのは知っておいて損はねえ」
「なるほどな。で、どうすればそれを測れる」
「学園で習わなかったのか?」
「いや、確か教科書には載っていた気もするのだが、授業でそこに触れていたのが丁度、僕が貴族の愚民と揉め事を起こし、特別に牢屋で過ごしてやっていた時期だ」
「……そうか」
「そうだ」
「……まあ、魔力量を量る方法は簡単だぜ、感じろ」
「ふん、なるほどな」
「いや、わりい。分からなかったら、分からなかったと言ってくれ」
師匠は無茶振りをして反応を楽しむつもりだったのだが、弟子はそんな意図など知っちゃこっちゃねえとばかりに、コクコク頷きながら返事を返す。
未知の反応を見せるガルゼフォードの姿に、銀色の餓狼は密かに戦慄を感じた。
「いや何となく分かるぞ。魔術を発動する時に、こうグワっという感じで魔力を持っていかれるが。魔術師を見ていると、あれと似た様な感じで体全体からモワっとした何かが漂っている気がする時がある。何となく。カーラを見ているとそれがブワっという感じで伝わってくることが多いし、特にあいつが魔術を使っている時なんかはそれをゴゴゴゴと激しく感じるぞ。何となく」
「……あながち、間違ってねえのが怖ええな。お前、才能無えクセに、感覚派なんだな。ある意味珍しいぞ」
とうやら本当に何となく分かっているらしいことを察し、バウトはガルゼフォードに対する評価を若干上方に修正した。
「感覚派? 何だそれは」
「武術にせよ魔術にせよ、何らかの術を追求する人間ってのは、大別して感覚派と理論派に分けられるんだがよ、大抵天才肌の奴は感覚で理解し、努力家の奴は理論で学ぶことになるんだわ……そこいくと、てめえは明らかに理論派だと思ったんだがな」
「ふははははは、何だっ、ついに僕の才能が証明されたということか!」
「いや、たまにいんだよ、ちぐはぐな奴が。俺が見る限り、今のところお前には才能らしい才能が微塵もない」
ガルゼフォードの肩が目に見えて落ちる。
彼は、ニヤニヤと笑う師匠に対し、恨みがましい視線を向けながら言葉を発した。
「……ちなみに、そう言うお前はどっちなんだ」
「ああん? 俺は先天的には感覚派で、後天的に理論派になった口だな」
「……何だ、それは。ずるいぞ」
「ずるくねえ。まあ、数は少ねえが、俺みたいなタイプってのもいねえことはねえ。理論派が感覚派を理解することは出来ねえが、感覚派が理論派を学ぶことは出来るからなあ、そういう話で言やあ、てめえにも両方を理解する資質はあるぜ。資質だけは」
「ふん。さすがは、僕だな」
「……馬鹿弟子はいつでも前向きだなあ。ちなみにだが、クラーゼのお嬢ちゃんも感覚派だ。まあ、何か分からねえことがあったら、お嬢ちゃんに聞くのも手だな。ひゃははは」
「真っ平ごめんだ。しかし、何派かなんてことも見て分かるのか?」
茶髪茶眼の青年は心底嫌そうな顔をしながらも、少し不思議そうに尋ねる。
「見て判断するっつーのは流石に厳しいが、戦って判断することは可能だな。お嬢ちゃんとは昔、お遊び程度にじゃれあったことがあってな、その時の感触であいつが感覚派だってことは分かった」
「そんなものか」
「そんなもんだな。逆に理論派の例を出すならば、恐らくだが、カーラの奴なんかがそうだな」
「……あいつこそ天才肌に見えるが?」
「ひゃはははっ。だから言っただろ、ちぐはぐな奴もいるにはいるって……まあ、あいつの場合は魔力量に関わらず全てが『ちぐはぐ』なんだがな」
その瞬間バウト=カチェットの口元に浮んだのは、それまでの軽薄なものとは大きく異なる、酷く好戦的で獰猛な笑みであった。
カーラという魔人を敵に回して戦ったこの男にとって、あの女の戦闘面での特性を思い返すのは、いやがおうでも戦闘意欲を駆り立てられることらしい。
人類最強に匹敵するのではないかと思わされる身体能力と魔力。
臆病さの極致とでも言うべき危機察知能力。
冷酷で好戦的な殺意。
冷静で理論的な戦い方。
バウトには、カーラという女の全てが『ちぐはぐ』に思え、同時にその全てが危うくも完成されたバランスの上で共存している様にも感じられた。
――まったくもって、あれは面白い女だ。
もしガルゼフォードが、この時の銀色の餓狼の内心を察していたならば確実に一悶着あっただろうが、幸か不幸か茶髪茶眼の青年にまだそこまでの洞察力はなかった。だから彼がバウトにかけた声も、それまでと変わらず気楽なものであった。
「全てがちぐはぐ? 何だ、それは?」
「気にすんな。今のお前には理解出来ねえ」
「ならば話を振るなっ」
「ひゃははははっ。気にすんな。まあ、話を戻すがよ、お前の言うところろのそのモワっとした魔力量が多ければ多いほど、そいつの魔術は強くなる。モワっが多い奴が張った防御魔術に、モワっが少ない奴の攻撃魔術は通用しねえ訳だな。それは攻守が逆の場合や、攻撃をぶつけ合った場合に関しても同じことが言える」
「……別にモワモワ言わんでも言いたいことは分かる。普通に話せ」
「そうか? まあそんな訳で魔力量が劣る場合『魔術を発動させても相手を倒せない場合がある』っつー訳だ」
「なるほど」
納得した様に首をカクカク振るガルゼフォード。
傍から見ていて「こいつ、本当に理解しているのか?」と不安になる様な首の振り方であったが、銀色の餓狼はもうこの青年に対して普通の弟子に向ける様な心配を抱くことを放棄していた。
分からないと思えば、即答で「分からん」と言うし、理解出来れば、説明の途中であっても「なるほど」という男なのだと分かってきたからである。
――本当に、馬鹿なのか、そうじゃねえのか、よく分からねえ奴だな。
それが、弟子としてのガルゼフォードに対する、バウトの素直な感想であった。
「んで、ここからが、ようやく本題なんだがな『時間を稼ぐこと自体が不可能な場合』で、かつ『魔術を発動させても相手を倒せない場合』……お前ならどうする」
「分からん」
「……頼むから、考えてくれ」
「考えても、分からん」
「ちっ、仕方ねえし時間もねえ。今回だけは特別に答えを教えてやる。次からは自分で考えろ……まあ、今回に関しちゃ、よくよく考えりゃあ、一度お前の口からほぼ正解を聞いているからな。それを俺が特例で否定しちまった以上――」
「いや、待て。分かった。先手を取って潰せばいいんだな。時間を稼ぐことが不可能なのは、相手の魔術に耐え切れないからだ。魔術を発動させても倒せないのは、相手の魔術を突破出来ないからだ。だから、攻守において、常に相手が魔術を発動させるよりも先にこちらの攻撃を当てることが出来れば問題ない訳だ」
「……正解だ。ハァ」
バウトが珍しく、疲れた様に溜息を吐く。
「しかし……それを、どうやってやるんだ? お前が言ったように、学園長の様な相手にはそれが通用しないと聞いたばかりだぞ?」
「ひゃはは。まあ、それが本題の本題だな。実戦派の魔術師にとって『いかに相手の先手を取るか』と『いかに相手に先手を取らせないか』は永遠の命題だからな。お前がやりたいと考えていることは相手も考えているし、お前がやらせたくねえと思っていることは相手もやらせたくねえ」
「なるほど」
「……んで、当然、実戦派の中でも最強の一人に数えられるババアなんぞは、それが圧倒的に上手い。いかなる敵にも先手を取らせねえし、どんな魔術師相手でも必ず先手を取る」
「……僕には『光魔術』も飛翔魔術もないぞ」
「それを言えば、大抵の魔術師がそうだ。だがな、それでも奴らは自分なりの方法で先手を取り、先手を取らせん」
「なるほど。僕は、僕に合ったやり方を見つける必要があるということか」
「正解だな」
ニヤリと笑う銀色の餓狼。
「そんで、そのやり方を考えるのが、明日までの課題だ」
バウト=カチェットは、そう言って立ちあがると近場に持ってきていた二本の大剣を担ぎ――苦々しい表情を浮かべて木刀の『残骸』を回収した。
不思議な事に、二本あった木刀のうち、銀色の餓狼が使っていた方の一本は真ん中から先が消失していたのである。まるで砕け散りでもしたかの様に。
「む、今日の修行はもう終わりか」
「まあな。今のお前の段階じゃあ、どう考えても座学より模擬戦に重点を置くべきなんだが、どうせ明日まで無理だろう。座学に関しても一度に詰め込んでも色々と無駄が生じるからな、今日のところはここまでだ」
「ふむ」
「まあ、今日の残りの時間は、体を癒す事と、課題の答えを考える事に力を入れな。どっちも明日、上手くやれたか確認することになるんだからよ。後は精々そうだな、こいつをやるから暇な時に素振りでもしてろ」
そう言いながら、バウトはガルゼフォードに無事であった方の一本の木刀を放って寄こした。
片手が上手く使えない状態の青年は当然それを受け止め損ねたが、拾い上げる彼の姿に最初の時の様な不満な様子はない。
師匠はそれを、少しだけ満足そうな笑みを浮かべて見守った後に、すぐに背を向け歩きだした。
「じゃあな、馬鹿弟子。明日、同じ時間にここに集合だ」
「分かった。明日は遅刻するなよ。クソ師匠」
「ひゃはははははっ」
遅刻に関して、否定も肯定もせず笑いながら去るバウトの姿にガルゼフォードは一抹の不安を覚えたが、はっきり言ってどうしようもない話ではあるので、気持ちを切り替え、よろよろと立ち上がる。
――その瞬間、彼の右手とわき腹を激痛が襲い、体の節々に鈍い痛みが走った。
やはりと言うべきか、その痛みは尋常なものではない。どうやら昨日に続いて連日で、医療機関の世話になる必要がありそうである。
ガルゼフォードは、早速杖代わりに活躍することになった木刀を左手に握りしめると、灰色の無愛想な建物を目指してふらふらと歩き始めた。
覚束ない足取りで、街中を移動する茶髪茶眼の青年。哀れさすら感じさせる、ボロボロの姿である。
しかし、そんな彼を見つめる街の人々の視線は、とても冷たいものだった。
茶髪茶眼の青年がそんな目で見られている最大の原因は、彼が魔術師らしい要素を全て排除してしまっていたことにある。
痛みと疲れで体を火照らせていた青年は、少しでも涼しくしようと、魔術師の外套を脱いで丸めて小脇に抱えてしまっていたのだ。
更にはわき腹に負担をかけないために、普段は腰辺りに下げている魔法陣の入った長筒も、外套で包み込む様にして一緒に小脇に抱え込んでいた。
つまり、この時のガルゼフォードの外見に、魔術師的な要素など皆無だったのである。
では、魔術師に見えないのだとすれば、何に見えるだろうか。
模擬戦の結果、体中のいたる所に傷を負い、転倒の結果、土に汚れた部分も多い。
しかも、わき腹を打たれた際の吐瀉物までもが外套や衣服の所々にかかってしまっていたため、汗まみれであったことも合わさり相当臭っている。
そんな不潔で薄汚い人間が、木刀を杖代わりにフラフラと歩いていたとして、果たして何に見えるのだろうか。
――少なくとも、街の人々の視線を見る限り、善良な一般市民から嫌悪や侮蔑の感情を向けられても仕方がない『何か』に見えていることは間違いない。
洞察力に乏しいガルゼフォードではあったが、見ていることを隠す気もない露骨な視線の数々と、そこに込められたある種の敵意は多少なりとも察することが出来た。
それに対してガルゼフォードが感じたのは、反感や怒りではなく、恐怖や羞恥でもなく、ただただ、純粋なる安堵である。
彼が反感や怒りを感じなかった理由は明白だ。
魔物の森の洞窟で、青年は自分自身の無様さを知り、それを変えていきたいと願ったのである。そんな彼には、街の人々の視線の意味を理解し、理由に納得し、それを改善したいと思うことが出来た。
だから、納得いく理由で嫌悪と侮蔑の視線を向けてくる人々に、怒りや反感などなかったのである。あるいは、それらに怒り感じることこそを恥じた。
彼が恐怖や羞恥を感じなかった理由も単純だ。
彼の鋼の自尊心は、ある女性に嫌われる可能性を孕まない限り、依然として健在だった。他人にどれだけ嫌われようと蔑まれようと、自分で自分自身を誇れる限り、そこに恐怖や羞恥を感じるはずもなかったのである。
もし彼が、この状況で羞恥を感じるとしたら、それは傍らに美しい使い魔がいた場合である。街の人々に蔑まれる自分を、あの女に見られることを考えると、たまらなく恥ずかしかった。
もし彼が、この状況で街の人々に怒りを感じることがあるとしたら、傍らに冷たい美貌の女がいた場合に限られる。彼女の前でよくも自分に恥をかかせてくれたなという、そんな怒りを抱く可能性があった。
そして、万が一、彼のせいで侮蔑の視線が彼女にまで及んだならば、きっと羞恥のあまり死にかけ、怒りのあまり我を忘れかけたことであろう。
だから、安堵を感じた理由もまた、明白で単純だったのだ。
それは、カーラに無様を晒さず、迷惑もかけずに済んだという、心の底からの安堵だったのである。
ガルゼフォードは思った。
――やはり、カーラを連れてこなくて正解だったな、と。
ボロボロの肉体に、危うげなバランスで踏みとどまった精神を宿し、力なく医療機関を目指して歩き続けるガルゼフォード。
そんな彼の眼前に、不意に人ごみが生まれた。
己の体調を鑑みて、茶髪茶眼の青年は比較的空いているはずの道を選択して歩いていたのだが、運悪く突発的な人の群れに遭遇してしまった様である。
「彼がフェルトに帰ってきたんですって!」「えっ、あのワイルドなイケメンの彼が!?」「今そこの食堂にいるんですって!」「嘘っ、でも人ごみで顔が見えないわ!?」「あ、でも、ちょっと見えそう」「本当、見えそうだわ!?」「見えたわっ」「キャー!」「素敵!」「抱いて!」
その群れは、一人の男を中心に、それを取り囲む様に蠢く女性たちの集団で構成されていたのだが、今のガルゼフォードにはそれを突破していくだけの余力がなかった。
そのため、彼は渋々遠回りをすることを選択したのである。
しかし運悪く、本当に運が悪く、件の群れから押し出された一人の女性がガルゼフォードにぶつかった。
「キャ」
そしてボロボロの青年はあっさりと突き飛ばされ、倒れ伏した。
「す、すいません。大丈夫で――」
とっさに謝ろうとした女性は、ぶつかった相手、ガルゼフォードの風体を見てぎょっとする。
あまりに薄汚かったからだ。
「ちょ、ちょっと」
慌てて自分の衣服にその臭いや汚れが移っていないか確認する女性。
そして青年の外套に付いていた吐瀉物が、自分の服の袖に少しだけ掠っていたことを確認すると、顔を真っ赤にし、鬼の様な形相で、倒れ伏すガルゼフォードに罵声を浴びせ始めた。
その罵倒の内容は、口にするのも憚られる様なもので、まともな精神力の男であれば女性恐怖症にでも陥りかねないレベルの暴言の嵐である。
だがそれでもなお、ガルゼフォードが感じたのは『安堵』であった
――そうか、僕はそこまで汚かったのか。
――僕はそこまで臭かったのか。
――僕はそこまで気持ちが悪かったのか。
――そうか、だったらやっぱり、カーラを連れてこなくて良かったな。
倒れ伏しながら笑う青年の姿に不気味なものを感じながらも、なお罵倒を続けようとした女性であったが、ガルゼフォードの背後から近付いてくる『その女』の姿と冷笑を見た瞬間、恐怖のあまり逃げ出してしまった。
青年は急に走り去った女性の姿を訝しげに眺めながらも「汚した謝罪するのを忘れてしまったな」と力なく呟きながら立ちあがろうとした。
しかし、木刀を杖代わりにしても、疲れ切った彼の体は満足に力を出せず、再び地面に倒れかけ――横合いから伸ばされた、艶やかな女の細腕に支えられたのである。
ガルゼフォードが視線を向けた先には、ある意味今最も顔を合わせたくない相手が、いつも通りの冷たい美貌の中に、少しだけ配そうな感情をにじませて彼のことを見つめていた。
「……カーラ、何故お前がここにいる?」
「散歩です。マスターの方こそ、こんなところで何をしているのですか」
「……修行で負傷した。治療に行く」
「分かりました。では、同席させて頂きます。荷物は私が持ちましょう、こちらに」
冷たい美貌の女はそう言って、契約者から外套と長筒を預かろうと腕を伸ばしたが、茶髪茶眼の青年は咄嗟にその手を払いのけていた。
汗と土と吐瀉物で汚れた自らの外套が、カーラの白魚の如き指先を汚すのを拒んだのである。
「――ガルゼ様?」
「い、いや、すまん。大丈夫だ、自分で持てる。あと、ついてくる必要もない」
「……そうは見えませんが」
「いいからっ、放っておけっ! お前は僕の傍にいるなっ」
羞恥心と恐怖心がないまぜになった混乱から、ガルゼフォードは気付くと使い魔のことを怒鳴り付けていた。
そして、次の瞬間には自分がした事の愚かさを理解し、凄まじい後悔と恐怖に襲われる。嫌悪されるのが恐ろしくて、嫌悪されるであろうことをしてしまったのだ。
正しく本末転倒と言えるだろう。
だが、契約者のそんな後悔を余所に、冷たい美貌の女の方に特にそれを気にした様子はなかった。彼女はただ、美しい切れ長の瞳で契約者を静かに見つめている。
「……いいか、付いてくるな。絶対に付いてくるなよ」
茶髪茶眼の青年は使い魔のその視線に耐えきれなくなり、そう言い残すと再びふらふらと歩き出した。
しばらく歩き続けていると、彼は周囲からの侮蔑の視線が消えており、ちょっとした人ごみもまるで彼に道を譲るかの様に割れていくことに気付いた。
正確には、街の人々は、薄汚い青年に侮蔑の視線を向けた直後に、背後にいる『何者か』を恐れるかの様に視線を逸らし、人ごみもまたボロボロの青年の後ろを歩く『存在』に威圧され道を譲っていたのである。
ガルゼフォードがふと視線を後ろに向けると、そこには黙々と付き従うカーラの姿があった。
「……何故ついてくる」
「別に、マスターの後ろを付いてきた訳ではありません」
「では、何をしている」
「散歩をしている――最初にそう、申し上げたはずですが?」
「……何故僕と同じ道を歩く」
「偶然です」
基本的に、冷たい美貌の女の言葉には絶対とも言っていい信頼を置いているガルゼフォードであったが、さすがに今の彼女の発言が嘘であることぐらいは分かる。
「……僕と一緒に歩いていると、お前まで変な目で見られるぞ」
「それに何か問題が?」
「……お前は、嫌じゃないのか、どうやら今の僕は薄汚く、臭く、気持ち悪いらしいぞ」
「そうですか。では、寮に戻ったらお風呂に入って頂かねばなりませんね……もし、痛みが引かない様でしたら、私がお体を拭いて差し上げますが」
――いかが致しますか?
蠱惑的な微笑を浮かべながら、からかう様に流し眼でそう問いかけてくるカーラの横顔からは、確かに嫌悪や侮蔑の類の感情は感じ取れなかった。
「っ、お前は、恥ずかしくないのか、こんな僕と一緒に歩いていてっ」
「恥じる理由がありません」
「お前だって、僕を見る街の連中の、嫌悪と侮蔑に満ちた視線を見ただろうっ、お前だってきっと僕のことをっ――」
「確かに、今のマスターの姿は街中を歩くにはいささか不適切です。街の方々が気になされるのも道理でしょう……ですが、それと『私が貴方を恥じるかどうか』は別の問題ではありませんか」
美しい使い魔の冷淡な口調からは、特にその感情を伺うことは出来なかった。
だがもし、この場にずば抜けた洞察力の持ち主がいたならば、カーラの言葉の中に僅かな苛立ちを――彼女を信じ、頼ろうとはしない、ガルゼフォードに対する苛立ちを感じ取っていたかもしれない。
「私には、今の貴方の傷も汚れも、修行の過程で得た、あるいは支払った、正当な対価の様に思えます。ならば、他の誰が恥じようとも、貴方の使い魔である私がそれらを恥じる道理はありません。むしろ、その傷と汚れを見て、マスターのことを誇りたいとさえ思いました」
「っ、しかしっ、だなっ、お前だって、汚いのは嫌だろうっ、臭いのは嫌だろう!」
「嫌ではない、そう申し上げているつもりですが?」
「っ、しかしだなっ、しかしだなあっ!」
「――まったく、面倒な男だ」
「へ?」
明らかに口調が変わったカーラの言葉に、ガルゼフォードは自分の耳を疑い、固まった。
冷たい美貌の女は、その一瞬の隙を見逃さない。
スッと細腕を伸ばすと、彼女の豊か過ぎる胸元で契約者を抱き締めたのである。
カーラは臭いや汚れが付着するのも厭わず――むしろそれを望むかのように激しくガルゼフォードを抱擁すると、始めたのと同じ唐突さで青年を解放した。
契約者はふらふらになりながらも、何とか木刀でバランスを取る。
いつの間にか外套も長筒もカーラに奪い取られていたが、そのことに気付いた様子もなく、呆然と使い魔の美貌を眺めていた。
「汚れだか、臭いだか、何だか知りませんが。これで私も貴方と同じでしょう?」
その言葉を口にしている時、冷たい美貌の女は意外なことに、本当に、意外なことに、胸元で青年を抱き締めたことを恥じているのか、薄らと頬を赤く染めていた。
そんな顔で、契約者から視線を逸らすかのように目を伏せ、口をへの字に曲げた今のカーラの姿は、官能的で蠱惑的な普段の彼女の印象からはかけ離れた――まるで生娘のような初々しいものであった。耳にかかった黒髪をかきあげる仕草にすら、どこか恥ずかしげな雰囲気がある。
明らかに常とは異なる様子のカーラであったが、それだけに彼女が、抱き締めた際に衣服に付いたガルゼフォードの汚れなど気にもしていないことが、よく分かった。
そして冷たい美貌の女は「行きますよ?」と一声かけた後、ガルゼフォードを先導するように、医療機関に向けて歩き始めたのである。
「あ? いや、カーラ、あの、だな、やっぱりさっきの話だが――」
「まだ何か文句があるのですか?」
相変わらず僅かに視線を逸らしながらも、睨む様な眼つきになった使い魔の様子に、ガルゼフォードは口をつぐんだ。
そして、反論を諦めると同時に、不思議な安心感に包まれた。
先ほど感じた『カーラに無様な自分を晒さずに済んだ』という安心――最悪を回避出来たという安堵ではない。もっと別の感情だ。
ガルゼフォードは、それを与えてくれたことに対する感謝を、冷たい美貌の女に伝えたかったが、普段からさほど雄弁な訳でもない彼には、その気持ちを上手く言葉にまとめることが出来なかった。
だから、青年が何とか捻り出した一言も、ひどく味気ないものでしかなかったのだ。
「――助かった」
話の経緯も、主語も述語もあったものではない契約者の言葉であったが、カーラはそれでも何かを察したのか、逸らしていた視線を契約者の瞳に合せると、いくつかの言葉を返した。
それから数分後、無事に医療機関に到着したガルゼフォードは、連日の訪問に、治療を担当する魔術師から小言をくらいながら、一向に元に戻らない真っ赤な顔の理由を問われることになる。
次話は、若干時間をさかのぼって、このお話のカーラサイドです。