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第09話 1人目の願い 剣と魔法の世界(09)

今回のお話も、お読み頂いた方々に少しでも楽しんで頂ければ幸いです。





 先行するガルゼフォードを追って洞窟から飛び出したメリルは、視界に飛び込んできた光景に一瞬思考が停止した。

 10匹前後のゴブリンが、洞窟の出入り口を取り囲むようにして接近してきていたからである。


 これは、メリルやガルゼフォードが知る由もない話なのだが、アルとベティーを追跡していたハイゴブリンは二人を追いながらも別働隊を『拠点』である洞窟に先回りさせ、挟撃の形を作っていたのだ。


 結果としてハイゴブリンはその別働隊を使うまでもなく二人に追いつき――カーラという怪物に遭遇してしまった訳なのだが、現在絶賛皆殺され中のハイゴブリン達の事情を知らない別働隊のメンバーは、洞窟から少し離れた茂みに身を隠し二人の冒険者の到着を待ち続けていたのである。


 ゴブリン達にとっての幸運は、洞窟を飛び出してきたカーラの意識が完全に本隊と、それに襲われている冒険者の方に向いていたことだろう。

 冷たい美貌の女は、なまじ『拠点の半径50メートル以内には魔物が入り込めない結界が張られている』という冒険者の常識を学んでしまっていたため、結界の範囲外を警戒こそすれ、範囲内に関しては意識から外してしまっていたのだ。


 そして、カーラにスルーされた別働隊のゴブリン達は、『何か恐ろしい存在』が凄まじい速度で洞窟から飛び出していったことを確認し、その直後にとても弱そうな人間の男が洞窟から出てくるのを視界に収めたのである。


 ゴブリン達はとりあえずその男に襲いかかることにした。

 群れの長であるハイゴブリンから「冒険者を見かけたら殺せ」と命令されていたからである。最近どこからともなく姿を現し、先代の群れの長であった緑色の肌の悪鬼を殺して、新しい群れの長となったハイゴブリン。その言葉は、配下のゴブリン達にとって絶対のものであった。


 緑色の肌の悪鬼は魔物である。そして魔物は魔物である時点で人類を敵視し、憎悪する。

 だから当然、この魔物の森に住まう全てのゴブリンたちも人間を見かけただけで殺したいという欲求にかられるのである。だが、彼等が魔物たちの中で特殊なのは、その知性故に人間という種族の危険性をよく理解しており、無差別に人間を襲うことはないということだ。

 通りかかった貧弱そうな商人を食い殺し、村を襲撃してか弱い女を弄びながら殺すことはあっても、自分たちの命を狙って魔物の森の中をうろついているような屈強な冒険者達を相手にことを構えようとは考えないのである。


 しかし、今度新しく群れの長となったハイゴブリンは何かが違った。

 赤銅色の肌を持った巨大な悪鬼は、複数のゴブリンの群れをまとめ上げると、それを指揮し次々と冒険者達を殺していったのだ。

 ハイゴブリンは個の武勇で冒険者を圧倒し、群れを率いては数多のパーティーを駆逐した。更には『結界破り』や『地図狂い』すらも戦術に取り込んでいたため、このハイゴブリンの群れに襲われ逃げのびることが出来た冒険者は、今日まで一人もいなかったのである。


 そんな『王』の役割を担うハイゴブリンが今の『魔物の森』には5匹おり、数百にも及ぶこの森のゴブリン達は全て彼等の統率下に置かれている。群れと言うよりも『軍』とでも言うべき体裁を為し始めていた。


 それ事態が恐ろしいことであったが、真に恐るべきは冒険者ギルドを含めた『人類側』のあらゆる勢力が、その事実を把握出来ていないということであろう。


 『トロールの反乱』という一大事件が、魔物の森で起こっている他の全ての『異変』を覆い隠してしまっていたのだ。

 特定の地域で冒険者の未帰還者が連続して発生した場合、冒険者ギルドはその地域にそれまで存在しなかった何らかの脅威が発生しているのではないかと調査を行うのが通例である。しかし、今の『魔物の森』の場合、全ての死因が『トロールの反乱』で片付いてしまっていた。


 もし、アルとベティーが『魔よけの魔法陣が機能しなくなっている』ことが原因で『ゴブリンの軍勢』により殺されていとしても、依頼主である村長から二人が帰らないことを聞いた冒険者ギルドは『トロールの反乱』が原因であるとして話を終わらせていた可能性が高い。


 本来であれば、冒険者ギルドは虎の子ともいえるAランクの冒険者を派遣してでも、『魔物の森』で起こっている『異変』の数々の解決に動いていたはずだ。

 それ程の異常事態が今のこの森では起こっている。


 例えばの話、『魔よけの魔法陣が機能しなくなっている』ことを放置してしまえば、安全地帯であるはずの『拠点』で休息を取ろうとした冒険者達が、装備を外し、食事を取ろうとした瞬間に襲撃を受けるような事態が、続出しかねない。

 それは冒険者の死亡率の、劇的な増加に繋がることだろう。

 どれほど優れた冒険者であっても、自分が安全圏と認識している場所で強襲を受けたならば一瞬思考が停止してしまうものであり、その『一瞬』が魔物相手の闘争では命取りとなるのだから。


 ――故にメリルがこの時、思考を一瞬停止させてしまったのも仕方がないことであった。そして、『冒険者であるが故に』生じたその隙――『拠点の半径50メートル以内に魔物はいない』という認識から生まれたその一瞬の思考停止は、下手をすればそのままメリルの命を奪いかねないものであったのだ。


 しかし、幸か不幸か、彼等のパーティーには一人だけ『そんな隙』とは無縁の男がいた。

 「冒険者の常識? 何それ?」という言葉を文字通りの意味で言える男――ガルゼフォード=マキシがいたのである。


 不健康そうな長身の青年は、魔物を見ても「ふーん、いたんだ」程度のリアクションで、何故この場所に魔物がいるのか等という衝撃は受けなかった。何故ならば、そんな常識など知らなかったのだから。


 そのため彼は、魔物を視認してからほぼタイムラグなしで、雄々しく呪文を唱えることが出来たのだ。


「おのれ魔物めっ、正義の鉄鎚を喰らうがいいっ、『我は偉大なる炎の担い手、万物を灰燼に帰し、万象を焼き尽く――がはぁっ」


 そして唱える途中で、ゴブリンが投げつけてきた道端の石の直撃を受け、崩れ落ちた。

 幸い、狙われた箇所が右手であったため、右手が変な方向に曲がる程度で被害は済んでいたが、何の前触れもなく走った激痛にガルゼフォードは一瞬で意識を失った。


 結果として彼に出来たことと言えば、ゴブリン達の注目を数秒間集めたことぐらいである。

 ――が、数秒も稼げれば『彼女』が平常心を取り戻すには充分な時間であった。


 石を投げたモノとは別のゴブリンがガルゼフォードに近づき、錆びた剣で彼の命を奪おうとしたが、その頃にはもう、学年次席の才女――メリル=フォン=クラーゼは『対処』を開始していたのである。


 少女が全身をしならせるようにして投擲した短剣は、ゴブリンの投石を上回る速度と鋭さをもって、緑色の肌の悪鬼の眉間に突き刺さる。

 額から短剣の柄を生やしたゴブリンは、糸の切れた人形のように膝からガクンと崩れ落ちた。

 そのスローイングナイフによる投擲が奪った命は二つ。

 一つは、ガルゼフォードに襲いかかっていた緑色の肌の悪鬼の命。もう一つはメリルに対して投石を行ってきたゴブリンの命だ。金髪碧眼の小柄な少女は、自分が投擲する瞬間を狙って投げられた石をかわし、あろうことか逆に短剣を投げ返し相手の命を奪ってしまったのである。


 少女の猛攻は止まらない。

 メリルはガルゼフォードの火球を遥かに上回る威力の魔術を所有していた。あるいはペガサスを召喚し適当に攻撃させれば、8匹程度のゴブリンぐらい楽に殲滅してくれることも分かっていた。

 だが同時に、この場の闘争において、それらがまるで『役に立たない』ことも理解していたのだ。


 ――詠唱が長過ぎる、敵の接近に間に合わないわ。この状況で使えるのは――。


 少女は腰に下げた筒の中から比較的短い物を選択し、巻物を取り出し地面に置くとすぐさま魔術の詠唱に入った。

 その間も、絶え間なく短剣を投擲しゴブリンたちの接近を許さない。メリルが常備しているスローイングダガーの数は十数本程度であったが、彼女は残本数を気にする様子もなく次々と投げ続けている。

 緑色の肌の悪鬼たちもこの頃には、少女が『呪文を唱えている最中に攻撃すれば楽に殺せる魔術師』ではないことを理解していたので迂闊には近寄らず、短剣をかわしたり、錆びた剣でうち落としたりしながらジリジリと包囲を狭めていた。

 メリルの狙い通りに。

 魔術師である彼女にとって、短剣など所詮『初動が早く連射が効くだけの、牽制目的の武器』でしかない。だから、仮に全ての短剣を使いきったとしても魔術を放つための時間さえ稼げればそれで良かったのだ。

 この時ゴブリンたちが取るべき行動は、多少の犠牲を払ってでもメリルの魔術が完成する前に間合いを詰めることであった。


 しかし、魔物がその考えに辿り着く前に、少女の詠唱が終わる。


 ガルゼフォードの傍らまで近寄っていたメリルは、うずくまる彼を『射線上』に入れない様に気を付けながら右腕を突きだしその場で横に一回転した。

 クルリと、踊りでも踊るように。

 その手の『射線上』にあったもの――メリルを中心として半径20メートル以内にあった全てのものは、放たれた『風の刃』によって横一文字に切断された。


 バウト=カチェットの『魔剣』には遠く及ばない、速度と威力と射程である。

 だが、ゴブリンの大半の胴体を輪切りにするには充分だった。


 緑色の肌の悪鬼の残数がニ匹にまで減る。


 生き残ったモノのうちの一匹は、横のゴブリンが切り裂かれるのを確認した瞬間、咄嗟に身を伏せていたため一命を取り留めた。そのゴブリンは別働隊のリーダーであったため、他のゴブリンよりも秀でた判断能力と運動神経を有していのだ。

 魔物はメリルの魔術の危険性を理解し、次の発動を許さないために、逃げるのではなく間合いを詰めることを選んだ。英断である。


 咄嗟に舌打ちする金髪の少女。

 本来であれば、この場面でメリルは間合いを広げることを選んだはずだ。敏捷性という面で少女は悪鬼に勝っている。ならば詰められた間合いなど、また広げればよいだけのことなのだ。

 しかし、今彼女がその選択肢を選んだ場合、傍らでうずくまって気絶している青年の命がなかった。

 

 メリルは瞬時に魔術の詠唱を諦め、最後に残った二本の短剣を両手に一本ずつ構えると、突進してくるゴブリンに対して自ら間合いを詰めた。

 その疾走は、剣士アル=イニシェに匹敵する速度である。


 凄まじい勢いで突き出されるメリルの短剣――だが、ゴブリンはその刀身を右手で掴んで止めた。

 手から流れる己の血など気にも留めず、凶相にニタリという笑みを浮かべ、お返しとばかりに鉄拳を繰り出す悪鬼。

 少女は止められた右手の短剣を躊躇なく手放すと、転がるようにして必殺の剛腕を回避した。その際、もう片方の手に握っていた短剣をゴブリンの頭部目がけて投擲したが、魔物は左手を盾にすることでそれを防いだ。


 両手を犠牲に、魔術師の少女から全ての武器を奪ったゴブリンはことさらに凶暴な笑みを浮かべ――血反吐を吐いた。


 その様子を見つめるメリルの視線は、どこまでも冷淡である。

 少女が最後まで取っておいた二本の短剣。それらには毒が塗られていたのだ。

 ゴブリンがフラフラと千鳥足になる。意識を失いかけているのであろう。そして、メリルが仕込んだ毒は、一度意識を失ったならば二度と目覚めることが出来ない類の猛毒であった。

 勝利を確信したメリルは、もはや死に体の千鳥足のゴブリンから意識を外し、何故か立ち止ったまま動かない、生き残ったもう一匹を始末しようと近場にあったゴブリンの死体から短剣を抜く。

 その拍子に、返り血が彼女の頬を濡らした。


 ――この場の戦闘におけるメリルの動きは、アルとベティーが二人がかりで行っていた『魔術による範囲攻撃と剣術による攻撃的牽制』を一人で担うものである。

 同学年はおろか、近い世代で今の彼女と同じことが出来る魔術師は存在しない。

 今年の学年主席に選ばれた少年等、魔術の才で彼女を上回る者ならば何人か存在したが、冒険者としての総合力で見た場合、若手の魔術師でメリル=フォン=クラーゼに並ぶ者など皆無なのである。


 戦闘狂バウト=カチェットをして『期待している』と言わしめたその才能は、学生の身で既に一流の冒険者の片鱗を見せていた。


 ――そんな彼女の難点を強いて上げるとするならば、その年齢故の実戦経験の少なさであろう。

 15歳の彼女はまだ、『死に瀕した戦士が、最期に振り絞る力』というものを知らなかった。


 死体から短剣を回収したメリルが、立ち止ったまま動かないゴブリンに向かってゆっくりと足を踏み出した瞬間、千鳥足のゴブリンが最期の力を振り絞り行動を開始した。せめてもの道連れにと、うずくまるガルゼフォードを攻撃しようとしたのである。

 メリルが慌てて投げた短剣は、魔物にとって致命的な箇所に突き刺さったが、それでもなおゴブリンの動きは止まらない。そしてあと一歩で緑色の肌の悪鬼の手がガルゼフォードに届くというところで――ゴブリンと、メリルの動きが止まった。


 洞窟の内部から、凄まじい殺気が叩きつけられたのである。


 紫陽花を解放したカーラの威圧感をメリルは知っている。

 あれは、真冬の夜の暗闇を連想させる、冷たく恐ろしい殺意であった。

 メリルに言わせるならば「全てを否定するように冷酷で、全てを拒絶するように孤高で、それでいながら全てを魅了せずにはいられないほど華やかな、一輪の氷の薔薇が纏い持つような殺意ですっ!」であった。多分に贔屓目は入っていたが、まあ大筋としては間違ってはいないこともない。


 だが、今メリルに叩きつけられるそれは、もっと獰猛な殺意である。

 野生の獣のような、獣の王が纏い持つような、そんな凶暴でいてどこか威厳すらも感じさせる殺意。


 その直撃を受けたゴブリンとメリルは、金縛りにでもあったように動けなくなった。

 金髪碧眼の少女は必死で首を洞窟の方向に向ける。

 それは千鳥足のゴブリンから視線を外し、背を向けることに等しかったが、彼女の生存本能は洞窟の中に巣くう『何か』をこそ第一脅威と見なしていたのだ。

 紫陽花を解放した時のカーラの威圧感は、この獣の如き殺意をも凌駕する程凄まじいものであったが、あの時、冷たい美貌の女の敵意はメリルに向けられていなかった。

 だが、この殺意は違う。

 ――殺される。

 メリルは本気でそう思った。


 あるいはもう少し『彼女の想い人』の到着が遅れていたならば、金髪碧眼の少女は失禁ぐらいはしていたのかもしれない。


「すみません。遅くなりました」


 蠱惑的な美声に少女が思わず振り向くと、美しくも冷たい――メリル曰く『一輪の氷の薔薇』のような女が立っていた。


 その背後では、千鳥足のゴブリンの首から上がなくなっている。


「カーラ様っ」


 洞窟から放たれていた殺意は、冷たい美貌の女の声と同時にその威圧感を消していたが、仮に金縛りが続いていたとしても、それを振り払っていたのではないかという勢いでメリルはカーラに飛びついた。

 どうも、前回胸に飛び込んで以来『味をしめた』らしい。


「助かりましたメリル様。どうやらマスターを助けて頂いていたようですね」


 カーラの方は特に動じる様子もなくそれを受け止めると、いつもの気だるげな様子の中にどこか申しわけなさを感じさせる声音でメリルに謝罪と感謝をした。


「いえっ、大丈夫ですっ、もともとマキシさんをお守りするというお約束でしたから。むしろ負傷させてしまい申し訳ありません……」

「お詫び頂く必要はありません。本当に助かりました」

「は、はぃ」

「ありがとうございます、メリル様」

「は、はあぁぁいぃぃ」


 基本的に冷たい美貌の女と会話をしているだけでメリルは軽い興奮状態になるが、今回の場合は胸元に抱きついた際から香っているカーラの甘い匂いも合わさり、完全に頭がのぼせ上がっていた。

 胸の鼓動はどこまでも速まり、綺麗な碧眼は潤み始め、愛らしい頬は林檎のように紅潮している。

 とても先ほどまでゴブリン相手に大立ち回りを演じていた冒険者とは思えない、年頃の娘のような――恋する乙女のような姿であった。


 対するカーラは、自らの胸元で上目遣いに話しかけてくる可憐な少女の姿を見て、内心「やべえっ、近けえっ! お、おまわりさん違うんですっ、私に邪な気持ちなんてありません!」と軽くトラウマを発症させていた。

 彼女には――厳密には『彼』には、満員電車で女子中学と密着してしまった結果、女子中学生に「この人、痴漢です!」と濡れ衣をかけられ、御用となった悲しい過去がある。

 駅員に大人しく事情を説明しようとしたところ、視線が合った瞬間に「痴漢? 通り魔の間違いじゃないのか?」とマジビビリされ、駆け付けた屈強な警察官に「大人しくしろっ、この殺人鬼めっ!」と取り押さえられたというとても悲しい過去があるのだ。

 まあ、もっとも、外見上はそんな内心はおくびにも出さず、常と変らぬ気だるげで冷たい雰囲気ではあったが……。


 そんな過去が影響したのかしないのか、金髪碧眼の少女の「時間よ止まれっ!」という切なる願いも虚しく、冷たい美貌の女は少女の肩を軽く押して引き離した。

 そして、拗ねたようなメリルの視線を冷酷非情に無視し、カーラは優先度の高い問題から順に片付けに入ったのである。


「メリル様、あのゴブリンは何故、動かないのですか?」

「ふぇ?」


 冷たい美貌の女のその言葉を受け、メリルは「そう言えば……」と言った表情で、最後の一匹となったゴブリンに視線をやった。

 存在自体、忘れていたのである。

 やはり、メリルという少女が真に一流の冒険者と呼ばれるようになるには、まだいくつか課題があるようだ。


「すみません。今、始末します。少々お待ち下さい」


 そう言ってメリルは、手持ちの魔法陣から適当なものを広げた。

 だが、彼女が詠唱を開始するより先に、冷たい美貌の女が一瞬の躊躇の後に口を開く。


「……『貴方』は、生きたいですか」

「え?」


 淡々と発せられる怜悧な声。誰に向けて発せられたかも分からない女の言葉に、メリルは思わず詠唱も忘れ疑問符を口にしていたが、その場には少女以外にも猛烈な反応を見せる存在がいた。

生き残った――立ち止ったまま動かなかったゴブリンだ。

 このゴブリンが何故生き残ったかと言うと、単純にメリルの攻撃の間合いに入っていなかったからである。もっと言ってしまえば、隠れていた茂みから飛び出した後、襲いかかることにすら怖気づいてしまい、その場で動きを止めていたのだ。

 チキンなゴブリンは、到底人間には理解出来ないような奇声を発しながら、その場で身振り手振り何かを表現しようとしていた。

 メリルには全く訳が分からなかったが、冷たい美貌の女は時たま相槌を打ちながら、いつも通りの気だるげな口調で話し続けている。


「ああ、『その方』でしたら、向こうの方に転がっていますよ。……頭部をうっかり踏み砕いてしまいましたが、一人だけ肌が赤かったので判別はつくでしょう」


 生き残ったゴブリンが慄くように、半歩下がった。


「……それで、どうなのです、死にたいのですか? 生きたいのですか?」


 即座に奇声を発する緑色の肌の悪鬼。

 冷たい美貌の女はどこか自嘲的な微笑を浮かべると、そのゴブリンを追い払うように手をひらひらと振った。


「でしたらすぐに消えて下さい……私の気が変わらないうちに」


 コクンコクンと壊れた人形のように首を振ると、生き残ったゴブリンは脱兎の如く逃げ出した


 メリルからすれば、人間の言語を話していたカーラと、よく分からない奇声を発していたゴブリンが『意志疎通を取れている』ように見えたので、思わず小首を傾げてしまっていた。

 天才と称される一部の高名な言語学者の中には、ゴブリンの言語を解する者もいるらしいが、彼等にしたところで意志を伝えるためには当然『ゴブリンの言語』で話しかける必要があった。しかし、今カーラが口にしていたのはメリルにも理解出来る『この世界のこの国の人間と意志疎通を図ることが出来る言語』だ。彼女が腑に落ちなかったのも当然と言えば当然である。


 しかし少女がその疑問を口にするよりも先に、冷たい美貌の女が口を開いた。


 カーラは逃げ出したゴブリンの進路がアルやベティーが倒れている方向とは異なることを確認し、次の話題に入ったのである。


「メリル様。あちらに腕を斬り落とされた冒険者の方がいらっしゃいます。メリル様の魔術で回復をお願いしたいのですが、よろしいでしょうか」


 少女は先ほどまでの疑問をすぐに捨て去った。メリルにとって、降って湧いた疑問よりもカーラの信頼を勝ち取ることの方が遥かに重要なことなのだ。


「え、えっと、はいっ、分かりましたっ、多分どうにかなりますっ、任せて下さい!」

「お手数おかけして、申し訳ありません……おや? メリル様、頬に返り血が付いていますよ。失礼しますね」


 勢い込んで返事をするメリルの顔を見て、その頬にゴブリンの返り血が付いていることに気付いた冷たい美貌の女は、少女の愛らしい頬に自らの白魚の如き指先を這わせ血を拭った。


 ゴブリンの死体が散乱する魔物の森で、金髪の少女の頬に指を這わせる黒髪の美女。

 何かが色々間違っていたが、それはどこか背徳的な絵画のような光景であった。


 もっとも、ほえー、と見上げてくるメリルの顔を見て「ヤバいっ、セクハラと思われたか!?」と焦るカーラの内心も踏まえて考えた場合、そう耽美なばかりの光景でもなかったのだが。


 カーラあたりに言わせるならば『ヘブン状態』に突入してしまったメリルを、冷たい美貌の女は肩を揺することでどうにか現実に連れ戻した。しかしその後も金髪の少女は「うふ。うふふふふ」と呟いており、負傷した冒険者のもとへ向かう途中カーラがガルゼフォードを抱きかかえた際などは「ふふ。こ、ころ、ころ、こ、す。ふ、ふふふ、うふふふ」と呟き始め、気だるげな雰囲気の美女をして内心冷や汗を流させる奇声を発していた。


 そんなメリルではあったが、さすがに『その惨状』を見て正気に戻った。


 それは、一方的な蹂躙の痕跡だった。

 あるいはもっと単純に――『地獄』だった。


 50以上にも及ぶゴブリンの首無し死体と、そこかしこに転がる断末魔の表情を浮かべた悪鬼の首。首から噴き出した鮮血は、『地面を濡らしている』などという生易しい量ではなく、『血の池』とでもいうべき地獄絵図を作り上げている。

 そして、一際大きい赤銅色の肌をした巨体にも首から上が無かったが、そのハイゴブリンの首だけはどこを見渡しても見つからなかった。それもそのはずで、本来首があったはずの場所に散乱する骨の欠片や肉片こそが、かつて『首であった物』の残骸なのだ。


 充満する血と屍の匂い。

 『血の池』の上に浮かぶ『悪鬼の首』と『首無死体のオブジェ』の数々。

 無様に土下座したような姿勢で、頭部を砕かれたゴブリンの王の惨めな死体。


 その全てがあまりに暴力的で、残虐的で、冒涜的だった。

 極めて邪悪な創作者によって演出された、狂気の芸術の類であった。


 メリルは視線を横に向ける。

 呆然と惨状を眺めていた少女の傍らには、その『地獄』を創り上げたであろう狂気の芸術家が、返り血一つ浴びていない涼しげな姿で立っていた。いつも通りの冷淡で気だるげな表情には、何の狂気も動揺も見られない。

 内心はともかく。


 この時、金髪碧眼の少女を襲った感情は何であろうか?


 魔物が存在しない世界の住人ならば、この光景に嫌悪を感じたかもしれない。

 命を弄び、死者の尊厳すら踏みにじるようなその殺戮の痕跡を嫌悪し、断罪したかもしれない。


 この世界の一般人ならば、恐怖を感じたかもしれない。

 人類の敵に対して振るわれたにしても、あまりに残虐で凶悪なその暴力を恐怖し、忌避したかもしれない


 この世界の冒険者ならば、戦慄したかもしれない。

 数多の冒険者の命を奪った軍勢を一方的に蹂躙してみせた、その怪物の如き暴力に慄き、畏怖の念を抱いたかもしれない。


 だが、メリル=フォン=クラーゼは違う。

 この時、彼女が最初に何を感じたかは不明だが、その殺戮がカーラによって為されたものであることを理解した瞬間からの少女の心境は、あまりに異端であった。


 ――嗚呼、なんて、なんてっ、なんてっ! なんて、素敵なのかしらっ!


 メリルは感動していた。

 人類にあだなす薄汚い悪鬼どもに振るわれた、その『美しい殺戮』の数々に。


 自身の暴力を過信し数を頼みに取り囲んでおきながら、無様に虐殺されたゴブリン達の、その浅はかさと惨めさに感動した。

 「お前達如きが、このお方に勝てるとでも思ったの?」と、本気で問いかけたかった。己の血に浮かぶ生首はとても滑稽で、思い上がりの代償としては実にお似合いの死に方だと思った。


 ゴブリンの『王』と呼ばれ、メリルですら苦戦を強いられるはずの強力な魔物で在りながら、地面に這いつくばり情けなく頭を下げた姿勢のまま絶命したハイゴブリンの姿に感動した。

 『王』のあまりに情けなくみすぼらしい死に方に、優等生の仮面の下に長年押し隠してきた『嗜虐心』と『残虐性』が大いに刺激された。

 そして「なるほど」と思った。

 魔物の統率者はこうやって殺せばよいのかと、こうすればこんなに惨めで無様な死体になるのかと、さすがはカーラ様だと、発見と感激の連続であった。


 最後に、冷たい美貌の女が創り上げたこの『芸術品』の数々と、先ほど自分がゴブリンに対して行った戦闘の結果を比較し、あまりの情けなさに泣きたくなった。

 胴を輪切りにしたゴブリン達はかろうじて及第点かもしれないが、ナイフで刺し殺したモノ達は良くない。アレはいただけない。

今後はもっと研究して、相手を『より惨めに、より苦しめることの出来る殺し方』を考える必要があると思った。


 ――狂っている。

 そう断じられても仕方がない思考である。


 あえて少女を弁護するならば、彼女のその狂的とも言える『嗜虐性』や『残虐性』の類は完全に魔物に対してのみ向けられたものだった。メリルに言わせるならば『劣等種族に過ぎないくせに分不相応にも人間様に牙を剥いたゴミども』の末路に対する感想や反省であり、その『狂気』は間違っても同じ人間に対して向けられたものではない。


 とは言え、冒険者の中でも今のメリルのように『魔物を殺すこと』ではなく、『魔物を虐げ、その死に様を冒涜すること』に意味を見出す者はやはり稀である。

 片手の指の数で足りる程度しか存在しない『彼等』は、常人には理解出来ない感性と言動から同業者にすら忌避されていた。一撃で殺せる魔物を相手に、一本一本指を切り落としながら拷問の果てに殺害するような者たちなのだ。誰もすすんでパーティーを組みたいなどとは思わない。


 この世界の住人、この世界の冒険者の感性で見ても、やはり『彼等』は異端な存在なのだ。


 金髪碧眼の少女にもともと『そういった』素養がなかった訳ではない。もし人間の本質を『善』と『悪』で分類するならばメリル=フォン=クラーゼの本質は間違いなく『悪』である。

 虫を潰すのが楽しい。

 動物を虐げるのが楽しい

 人類の敵――魔物を苦しめるのが、楽しくて仕方がない。

 それが『彼女』という人間が持って生まれた性質である。


 だが、どこぞの冷たい美貌の女がそうであるように、人間は必ずしも己の本質に沿った理性や性格を獲得する訳ではない。人生の中で得た『羨望』や『後悔』の経験が、人に目標を与え、その目標に辿り着くために邪魔ならば己の本質など容易く捨てることが出来る人間も少なくないのだ。

 事実としてメリルも、これまでは『優等生』として生きることが出来ていた。

 虫を潰すのは良くない。

 動物を虐げるのは可哀そうだ。

 魔物であっても悪戯に苦しめるのは、貴族として恥ずべき行いである。

 それも『彼女』という人間が後天的に獲得した性質である。


 ――では、何が『彼女』を変えたのか。あるいは、何がメリルという少女の本質を解き放ったのか。


 それは言うまでもなく、カーラという女の存在である。


 恋い焦がれる相手が、長年心の奥底に隠してきた自分のドロドロとした部分を肯定してくれたのだ。

 両親に責められ、矯正させられたはずの『本当の自分』を、冷たい美貌の女は認めてくれたのである。

 カーラが何を言った訳でもないが、少なくともメリルは『そう』取った。

 

 自分がやりたくてずっと我慢していたことを、自分よりもずっと上手に、ずっと美しくやってくれたと、『そう』解釈した。


 ――嗚呼、カーラ様っ、カーラ様ぁっ、貴女はわたしが出来なかったことを平然とやってのけられるのですねっ。嗚呼っ、わたしはそんな貴女に痺れますっ、憧れますっ!


 少女がその想いを言葉にしなかったのは、誰にとっての不幸であろう?


 もしメリルが彼女の感じたことの一つでも口に出していたならば、冷たい美貌の女は確実にそれを否定していた。


 カーラの本質がどこにあるかはこの際置いておくが、少なくとも冷たい美貌の女の理性は眼前の『地獄』を肯定しない。

 アルとベティーを守るために、ゴブリンを殺す必要があった。これは仕方がない。カーラの掲げる天秤において、人間二人の命は魔物五十匹の命よりも重かった。

 足元で命乞いをするハイゴブリンを生かしておくことに、リスクしかなかったので殺した。これも仕方がない。相手が命乞いをしたからと言って、その言葉を信じた場合に発生するリスク――報復等の危険性を負うのはカーラ自身である。一度でも殺意を向けてきた相手にその危険性を負えるほど、冷たい美貌の女は豪胆な性格ではなかった。

 だから、カーラの理性は自分がゴブリンの群れを皆殺しにしたこと自体に、問題は感じていなかったのだ。

 では、何に問題があったのかと言うと、それは『楽しんでいた』ことである。


 彼女の理性が否定するのは、命乞いを無視したという事実ではなく、命乞いする相手を楽しんで虐げていたという実態なのだ。


 それはある意味、『冷徹な殺し屋』が『快楽殺人』を行ってしまったことに対して反省している様なものであった。そして、自分の殺しの現場を見て、少女が『快楽殺人鬼』になろうとしていると知ったならば、その殺し屋はきっと止めるはずである。


 ――故に、もしメリルが彼女の内心を告白していたならば、カーラもきっと止めたはずなのだ。


 しかし実際に、そうはならなかった。

 代わりになされたのは、少女と女のどこか噛み合わない会話である。


「カーラ様ぁ……凄い、死体ですね。本当に凄いですぅ……」

「はい、凄い数です。64人、赤色の肌の者も合わせれば65人います」


 熱を帯びたメリルの口調と、感情を一切排したようなカーラの冷淡な声音は実に対照的であった。


「65匹ですか、少し普通の群れの数ではありませんね……まあ、それだけ群れていても、結局カーラ様がお相手では手も足も出なかったようですが」


 くすくす。そんな笑い声が聞こえてきそうなメリルの笑顔に、さすがに冷たい美貌の女も訝しげな視線を向けた。だが、この時のカーラの理性の天秤は『少女に真意を問いただすこと』よりも『アル=イニシェの命を救うこと』を優先していた。


「……彼等と私の間に力の開きがあったのは事実です。ところで、メリル様、早速あちらにいらっしゃる方の治療をお願いしたいのですがよろしいでしょうか」

「あ、はい、そうですよね、そちらが先ですよね。すぐに取りかかります」


 そして冷たい美貌の女は、話が途中で切れてとても残念そうなメリルを引き連れ、意識を失っているイニシェ夫妻のもとへと足早に向かったのである。


 ……この時カーラが行った優先付けは、決して間違ったものではない。

 事実として、金髪碧眼の少女の応急処置があと少し遅れていたならばアル=イニシェの命の灯火はこの森で消えていた可能性が高い。

 あるいは、メリルのペガサスの背に乗せ街の医療機関に搬送することが遅れていた場合でも、やはり赤毛の剣士は衰弱死していた危険性がある。

 そういった意味で、カーラの判断は人一人の命を救っているのだ。間違っていると言える道理がない。


 ――しかし、この時のカーラの選択が、メリル=フォン=クラーゼという少女の抱える歪みを助長することになったのも、また事実である。



*********************************



 ガルゼフォードが意識を取り戻すと、彼は後頭部に何か柔らかいものを感じた。

 ――何だ?

 彼の部屋の古びた枕とは明らかに異なる、何時までも寝ていたくなるような最高級の柔らかさと温かさである。


 まとまらない意識の中、ガルゼフォードはとりあえず目を見開いた。


 するとその眼前では、美しくも気だるげな彼の使い魔が、いつも通りの冷たい視線でガルゼフォードのことを見つめていた。


「お早うございます。マスター」


 その日、ガルゼフォード=マキシは人生始めての膝枕を経験したのである。


 気絶した契約者を洞窟まで運んだ冷たい美貌の女は、とりあえず初めのうちは岩肌の上に青年を転がしていた。

 一緒に運んだアルやベティーを、『拠点』に備え付けられていた簡易寝袋の上に寝かせていたことを考えると随分な待遇の差であるが、そこは怪我の重さの差でもあろう。


 その後、彼女はそもそもこの森に来た目的である「ゴブリン10匹の討伐」のクエストを達成するため、討伐した証拠――殺した証拠として緑色の悪鬼の死体から、耳を剥ぎ取るために洞窟を後にした。

 その際、洞窟でイニシェ夫妻の看病をしていたメリルが「えっ、私もカーラ様と一緒にゴブリンの耳を剥ぎ取りたいです!」と着いてきたがるのをどうにか押しとどめ、若干の吐き気と戦いながらも一人で20個の耳を回収することに成功したのである。


 洞窟に戻って来たカーラは、メリルからアルを本格的に治療するためには街に連れて行く必要があることを聞いた。

 その頃には意識を取り戻していたベティーの重量軽減の魔術を使えば、金髪碧眼の少女のペガサスで三人を一度に街まで搬送出来ることが分かったため、冷たい美貌の女は契約者が意識を取り戻し次第すぐに自分たちも街に戻ることを説明し、カーラを置いていくことを渋っていたメリルに重傷の怪我人の搬送を優先してもらったのである。

 彼女が飛び立つ三人の姿を見送ったのが、大体夕方ぐらいのことだ。


 そして一人になったカーラが、いくつか発生している『厄介な問題』の解決策を模索しようと腕を組み、頭を悩ませていたところ、一つの『微妙な問題』が発生したのである。

 ガルゼフォードが呻き始めたのだ。

 洞窟の岩肌の上で苦しそうに呻きながら身をよじる契約者の姿を見て、カーラはまず初めに、アルたちを寝かせていた簡易寝袋の上に彼を動かした。呻き声が少し静かになる。


 だが、しばらくするとガルゼフォードは、また体を蠢かせ呻き始めたのである。


 この頃には契約者を安眠させることに若干むきになり始めていた冷たい美貌の女は、今度は枕か何かを用意しようと考えたが、どうにも手頃な物が見つからなかった。

 そして困った彼女は、人であった頃の『色々と偏った知識』を総動員し、「枕がないのなら、膝枕をすればいいじゃない」とばかりに正座をして、その膝の上にガルゼフォードの頭を乗せたのだ。

 すると、不思議と契約者の呻き声が止んだので、カーラは怜悧な美貌にどこか満足そうな表情を浮かべて、そのまますっと枕役に徹していたのである。


 自身の置かれている状況に気付き、ガルゼフォードは顔を赤くした。

 布越しに伝わってくる冷たい美貌の女の太ももの柔らかさと温もりは、彼のような女性との触れ合いに免疫のない青年にとってあまりに刺激的なものであった。


 しかし、沸騰しかけた彼の脳は瞬時に冷える。

 右腕の激痛とともに、自分が気絶する直前のことを思い出したのだ。


 彼の負傷した右腕は、カーラが暫定的に行った応急処置のため、添え木で固定された後、布切れでグルグル巻きにされていた。また骨折した手首付近は心臓部より上にくるように固定されていたため、意識が戻った今となっては若干息苦しい体勢である。


 冷たい美貌の女は契約者の苦しそうな様子にすぐに気付き、布の固定を少しだけ緩めながら彼に話しかけた。


「急に動かれない方がよろしいでしょう。しばらくこのままでいて下さい」

「…………うむ」


 そんなカーラの言葉に対するガルゼフォードの返事は、普段よりもどこか覇気のないものとなっていた。


 契約者の顔色の悪さを右手の負傷の痛みによるためと『誤解』したカーラは、状況説明と同時に謝罪を行った。

 ……実際、この時ガルゼフォードを苦しめていたのはフィジカルではなくメンタルな問題である。


「ゴブリンの伏兵を見抜けなかったのは私のミスです。お怪我を負わしてしまい、本当に申しわけありません。本来であればメリル様に治療をお願いしていたところなのですが、あの方には今、負傷された冒険者の方とその奥方を街まで運んで頂いています。ガルゼ様の傷の治療は明日街に戻るまでお待ち下さい」

「…………その冒険者は助かるのか」

「応急処置を行って下さったメリル様の見解では、恐らくどうにかなるとのことです」

「……そうか。それは良かった。さすがだな、カーラ」

「いえ、私ではなくメリル様の功績です。今も夜通しで街に向かって頂いています。申し訳ない話です」


 そう言って洞窟の外に視線を向けたカーラにつられる様に、ガルゼフォードも視線をそちらに向けた。

 広がる暗闇は、魔物の森が夜を迎えていることを示している。


 洞窟の中で視界が効いていたのは、カーラが自分の持ち込んでいたカンテラに火を灯していたからだ。

 カンテラや鈎付きロープといった、魔術を使えるガルゼフォードからすれば本当に必要か疑わしい道具の数々を「冒険者ならば必須のアイテムです」と珍しく熱く語り荷物袋に詰め込んでいたカーラだが、彼女の持ち込んだ道具のいくつかは何だかんだで役立っていた。


「……もう、夜だったのか。僕は大分気絶していたらしいな。迷惑をかけた」

「どうしたのですか、マスター?」


 らしくもなく、気落ちした様子のガルゼフォード。


 そんな契約者の姿に、彼の美しい使い魔は心配して声をかけた。もっとも傍から見る限り、いつも通りの気だるさと冷たさの同居した声音であったが。


 太ももに頭を乗せたままのガルゼフォードは、覗き込むように見つめてくる冷たい視線に耐えかねたのか、渋々といった様子で口を開いた。

 今日一日の自分の行動を振り返り感じていた、ある恐ろしい疑問を、冷たい美貌の女に問いかけたのである。


「……なあ、カーラ。一つだけ教えて欲しいことがある」

「はい。私でお答え出来ることでしたら何なりと」

「もしかして――――僕は弱いのか」


 カーラが固まる。


 彼女からすれば、つい先ほどまで病を発症させ「我が封印されし邪眼が疼きおるわ。ハルマゲドンの日は近い。光の戦士たる我の出陣ももうすぐよ。くくく」と言っていたとある病の患者が、「もしかして僕は光の戦士でもなんでもないんじゃ……よくよく考えると眼も疼いてなんかない気がするんだ……」と言い始めたような衝撃であった。


 彼の理想や胆力の類はとても高く評価しているカーラだったが、自己分析能力に関しては中学二年生の頃の自分とあまり変わらない認識だったのだ。


「どうしたのですか、マスター。突然そんなことを」

「メリル=フォン=クラーゼは、冒険者を救うために役に立っていると言ったな。そして、魔物に襲われていた冒険者を直接助けたのは、カーラ、きっとお前なのだろう」

「はい」

「……では、『僕』は何だ。『僕』は何をした」

「それは――」

「ペガサスの背から飛び降り負傷し、ゴブリンの攻撃で魔術を使う間もなく気絶した。それが『僕』だ。なあ、カーラ。もう一度聞くが僕は、弱いのか?」


 ガルゼフォードは屈辱に顔を歪めながら、同じ質問をした。


 彼が、普通のクエストで、普通の冒険者相手に足を引っ張ったならば、今感じているような羞恥を抱くこともなく、傲慢な魔術師のままであったはずだ。

 ――僕を守るのがお前達の役割だろう。

 ぐらいのことは言っていたはずなのだ。


 だが、今彼の傍らにいるのは、彼を守り、彼を労わっているのは見ず知らずの冒険者などではない。ガルゼフォードの美しい使い魔、カーラなのである。

 月夜の晩の微笑で青年の心を奪ってしまった女なのである。

 だから彼は許せなかった。

 冷たい美貌の女の前で無様を晒している今の自分を。

 誰かの命を救うと言いながら、結局何も出来ず、自分の使い魔の膝枕の上で傷を労われている自分の姿を。


 ガルゼフォードの脳裏に、これまで彼が『愚民』と称してきた連中の罵詈雑言が今さらのように響いた。


 ――誰が、偉大なる魔術師だってぇっ、マキシくぅん、お前さあっ、オレに殴られても何の反撃も出来ないよなぁっ、オラあぁっ!

 ――口先だけの魔術師が。偉そうな口きいてんじゃねえよ、ガルゼフォード。

 ――平民の魔術師がさあっ、無礼な口きかないで欲しいのよねっ、ゴミはゴミらしくさあっ、部屋の隅でゴミ箱にでも入ってればいいのよ。

 ――うっわーボロい服着てるわねー、父親の御下がり? 羨ましいか? あっはっはっはっは、うんうん羨ましいっ、でさー、そのボロキレ、汚いから捨てちゃってもいい?

 ――馬鹿で平民で役立たず、お前は本当に救いがないなー、ガルゼフォード=マキシいぃ。

 ――弱い者イジメはやめろってさ、めちゃくちゃ弱いテメエが言う言葉じゃねえよ。なあ、マキシ。

 ――お前なんかに誰かが守れる訳ねえし、何かが出来る訳もねえんだよ。ゴミが。


 今まで、気にもしていなかった言葉の数々が心を抉る。

 傲慢で平凡な平民魔術師が今日まで自分の誇りを保てていたのは、ひとえに自身に対する絶対の信頼があったからだ。

 他人に何を言われたところで、『自分で自分を信じる』ことが出来たからだ。

 だが、今、『それ』が揺らいでいた。


 この時のガルゼフォードの心境を、カーラも正確に把握出来ていた訳ではない。

 そもそもこの女は、今の自分が蠱惑的な美女であるという認識が極めて薄く、契約者が自分に対してどんな感情を抱いているのかもよく分かっていなかった。


 しかし、18歳の青年が己の身の程を知りかけており、それを本当に知るために誰かの後押しを必要としていることぐらいは分かっていた。

 己の身の程を知って傷ついた後に、誰かの助けを必要とするであろうことぐらいは分かっていたのだ。


 きっと、この洞窟での彼の姿――バウト=カチェットの延命を請う際に見せた、カーラの昔の知人によく似た姿を知らなかったならば、冷たい美貌の女は「そんなことは、ありません」「貴方は偉大な魔術師です」といったおべっかの類を並べ立て、契約者のご機嫌取りに動いていたことだろう。その程度の『狡さ』はこの女にもある。

 だが幸か不幸か、彼女は既に『その姿』を知ってしまっていた。


 端的に言ってカーラという冷たい美貌の女は、ガルゼフォード=マキシという甘っちょろい青年に、少なからず好感を抱いてしまっていたのである。


「……マスター、今の貴方の力不足は事実です。貴方が一人でこの森を訪れていたならば、今日一日だけで何度も命を落としています」

「っ、そ、そうか。僕は、偉大なる魔術師では、なかったの、か。僕は、間違っていたのか。僕が、僕なんかが、誰かを守ろうだなんての間違いで、愚民どもの言うとおり、口先だけの――」

「何故、そうなるのです」


 涙を流し、鼻を垂らし始めたガルゼフォードの姿には言及せず、カーラは淡々と契約者の言葉を斬り捨てた。


「……確かに『今の貴方の実力』は、貴方の掲げる理想には遠く及ばないものかもしれません。誰かを助けることはおろか、自分の身一つ守ることすら難しいことかもしれません」


 冷たい美貌の女は氷のような視線に反して、僅かに頬を紅潮させながら真摯な口調でガルゼフォードに言葉をぶつけていた。


「ですが、それをただの口先だけのものにするか、それとも本当に実現してしまうのかどうかは全て『これからの貴方の努力』次第ではありませんか」


 彼女の言葉は優しくなく――。


「貴方の理想が実現可能であるかどうかを『知っている』のは、私でも、もちろん貴方を罵倒した者達でもありません。それを『決める』者は、貴方をおいて他にはいないのです」


 ――甘やかしてくれるようなものでもなかった。


「――ですが、少なくとも私は、貴方の掲げる理想は誰に恥じるものでもない、尊敬に値するものであると思っています。皆に誇るに足る素晴らしいものであると、そう思っています」

「…………そう、か」


 ――しかし、彼女の言葉は、青年の崩れかけていた誇りを守ってくれるものではあったのだ。


 あるいは、その『誇り』はそれまでの自分自身に対する『誇り』とは大きく異なるものであったかもしれない。

 事実、今の彼に『自分で自分を誇りに思うこと』は難しかった。

 だが、そんな自分でも信じていいのか分からないガルゼフォード=マキシという得体の知れない男を、肯定してくれる人間がいることをを知った。


 ガルゼフォードが理想とする姿を、尊敬すると、素晴らしいものであると、そう言ってくれる者が確かに存在することを知ったのである。


 己で己を誇れずとも『その女』の信じる自分であれば、誇ることが出来ると思った。


 彼は思う。

 見知らぬ他人を救おうとしたことは、きっと間違いなどではないのだ、と。


 彼は思う。

 他人を救おうとして力が及ばなかったのであれば、救おうとしたことを恥じるのではなく、力が及ばなかったことこそを悔い、改めるべきなのだと。


「…………なあ、カーラ」

「はい、マスター」

「僕は、先を目指して、前へ進んで、絶対に『真に偉大なる魔術師』になる。この場で、お前に約束するぞ」


 ――そして、いつかお前に『僕の理想』ではなく、『今の僕』を誇ってもらえるような男になってやる。


 最後の言葉をガルゼフォードは口にしなかったが、泣き顔で雄々しく宣言した契約者を、冷たい美貌の女は彼女らしからぬ穏やかで優しい微笑みで見つめていた。


「はい、ガルゼ様」


 その微笑は、初めてあった月夜の晩と同じか、あるいやそれ以上にガルゼフォード=マキシという青年の心に刻まれた。


 ――と、ここまでで終われば、まあいい話だったのかもしれないが、そうはいかないのがガルゼフォードクオリティーである。


 その後、ガルゼフォードは、理想の自分に近づくためには――強くなるにはどうすればいいのかという質問をカーラに投げかけたが、『冷たい美貌の女の強さ』はあらゆる面で他人に継承出来るようなものではなかったため、彼女には「とりあえず街に帰ってから考えましょう」としか返すことが出来なかった。

 それでも興奮冷めやらぬガルゼフォードは色々とカーラに質問を投げ続けたのだが、最初のうちはまだ穏やか微笑で対応していたカーラも、深夜を過ぎてもまるで寝付く様子のない契約者に、少しずつ笑顔を冷たくしていき、最終的には極寒と称しても過言ではない冷笑を唇に浮かべるに至った。

 だがそこは何だかんだ言っても空気を読まないことには定評のあるガルゼフォード。冷たい美貌の女のそんな様子など気にも留めず、色々とハイテンションで話を続けた。

 結局、魔術師が渋々と不貞寝に入ったのは、彼の使い魔がファミコン時代の村人Aと化し「ますたー もう よるです あすに そなえて ねましょう」としか話さなくなってから一時間後のことである。


 そして、冷たい美貌の女は契約者の寝息が本当に眠りに入ったものであることを確認すると、彼の泣き腫らした寝顔を見て溜息混じりに微笑した。彼女は膝枕の姿勢のまま傍らにあったカンテラの火を消して――。


「――で、『お前』はいつまで狸寝入りを続けているもりなんだ?」


 バウト=カチェットに話しかけた。



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「――で、『お前』はいつまで狸寝入りを続けているもりなんだ?」


 ガルゼフォードに真摯に話しかけていた時とは明らかに質の異なる、殺意に満ちた女の声に、生粋の戦闘狂は楽しそうに笑いながら言葉を返した。


「ひゃははははっ、何だよ、気付いてんなら、もっと早く声をかけてくれよ」


 洞窟の奥で瀕死の状態のまま転がされていたはずの男――バウト=カチェットは、そう言って獰猛に笑いながら上半身を起こした。

 銀色の餓狼の如き印象を与えるその男は、岩肌で寝ている間に体が固まっていたのか、肩や首をほぐすように動かしてゴキゴキと関節を鳴らしている。

 泰然としたその姿は、口元に浮かぶ余裕に満ちた笑みも合わさり、バウトの負った傷が既に完治しているのではないかとさえ思わせた。


 膝枕の姿勢のカーラは、もはや氷点下と言ってもいい冷たい視線で、銀髪銀眼の男のそんな様子を見つめている。


「気付いていたなら、か。あれだけあからさまな殺意を放っておきながら、よく言う」

「おいおい、アレは一応助けてやったつもりなんだぜ」

「それは理解しているし、感謝もしている――ありがとうございます。助かりました」


 話している内容とは裏腹に、淡々と突き放すように言葉を紡ぐ、冷たい美貌の女。


「ひゃっはははっ、どういたしまして」


 対する銀色の餓狼は、相手のそんなつれない態度など気にした風もなく、楽しげにカーラに笑いかけた。


 今彼等が行った会話の内容は事実である。

 昼間、千鳥足のゴブリンが、気絶するガルゼフォードを殺そうとした瞬間、メリルごとあの魔物の動きを止めたのはバウト=カチェットの獣の如き殺意であった。

 そして、冷たい美貌の女は、自分の到着と同時に消えたその殺意の源が誰で、何の意図で発せられたものであるかを把握していた。

 ガルゼフォードの命が、この男に救われていたことを理解していたのだ。

 だから、感謝していると言った彼女の言葉は本心からのものである。

 だが――。


「では起きて早々で悪いが――」


 蠱惑的な微笑を浮かべるその女の瞳は、微塵も笑っていなかった。


「――死んでもらおう」


 メリルを金縛りにしたそれを遥かに上回る殺気がバウトに叩きつけられた。

 銀色の餓狼にしたところで、恐怖を感じずにはいられないはずの純度の殺意である。しかしバウトは内心の動揺を、不敵な笑みで完全に押し隠し、飄々と言葉を返した。


「なあ、カーラ、カーラ様よお、ゴブリン相手のあの優しさはどこにいっちまったんだ? 俺にも聞いちゃくれねえのか『貴方はまだ生きたいのですか』って?」

「一緒にするな。あの殺意のかけらもない魔物と、お前のような戦闘狂を。生かしておいた場合のリスクが違い過ぎる」


 生かしておくリスクが高過ぎる、それが、カーラが終始一貫して語っているバウト=カチェットを殺す理由である。


「ふん、じゃあ、アレだ。ガルゼフォード曰く『人間の命は大切です』ってのはどうだ? 俺の命も大切にしてくれ」

「それこそ、一緒にするな。私にはマスターほどの強さも正しさもない、あるのは『目的』だけだ。だから、例えそれが間違っていることであったとしても、お前が私の『目的』の邪魔になるならばここで殺す」

「……意外と気が合うな、俺もお前の立場なら似た様なことを考え、同じようなことをするだろうぜ」

「理解してもらえたようで何よりだ。では――」

「――だが、『今の』お前に俺は殺せなねえよな」


 カンテラの消えた暗闇の洞窟で、氷の視線と、獣の眼光がぶつかり合う。


 仮に殺し合いになったとして、優位なのはカーラである。

 双方とも夜行性の獣以上に夜目が利くため、暗闇の中であっても既に互いの状態は確認し合っていた。


 冷たい美貌の女は、バウトの傷がまだその見た目ほど回復している訳ではないことを把握していた。そして彼女は、彼の最大の武器であった二本の大剣は回収せずに放置してきたため、この場の闘争においてバウト=カチェットは『満身創痍の状態で武器もないまま』カーラと戦わなければならないことになる。


 ガルゼフォードという弱みを抱え込んでなお、冷たい美貌の女の圧倒的優位と言える状況であった。


「今のお前が、万に一つでも私に勝てると思っているのか?」


 そしてその認識は、戦闘の天才たるバウト=カチェットにしても同じである。


「いんや。勝てる訳がねえな」


 バウトはそれでも、獰猛な笑みを浮かべたまま言葉を続ける。


「だが、それでもお前は『二つの理由』から俺を殺せない」


 冷たい美貌の女は特にその言葉に反論する訳でもなく、先を促すかのように沈黙を返した。


「まあ、まずそもそも俺が今生きている時点で、お前には『俺が起きるのを待ってやりたいこと』があった訳だろう」


 銀色の餓狼は笑いながら、視線をカーラの瞳から彼女の太もも――そこに頭を乗せて寝ているガルゼフォードに移す。


「それがガルゼフォードの『我がまま』に付き合うためのものだってのは、盗み聞きして知っちゃーいる。ようするにお前は、俺が『戦闘を続ける意志』があるかどうかを確認してからでなければ俺を殺せん訳だな」


 カーラは男の笑みの質が戦闘狂の獰猛なものから、聡明な学者のような落ち着いたものに変わってきていることに気付いていた。


「思うに今のお前の言動と殺意は、それに対する俺の反応を見て、俺に『戦闘を続ける意志』があるかどうかを推し量るためものだったんだろうな……一応言っておくと、見てて分かったかもしれねーが、俺にはもうお前と戦う意思はない」


 冷たい美貌の女もそれは察していた。

 この場におけるバウトの言動は、殺気をぶつけた際の反射的なものまで含めて全て、カーラとの闘争を回避しようとしている。


「だが、その『一つ目の理由』だけでは、『殺す必要』がなくなったとしても『生かしておく理由』にはならねえ。そこで『二つ目の理由』の話になる訳だが……お前には『戦闘を続ける意志』の確認以外に何か俺から聞きたいことか、俺の力を借りたいことがあるんじゃねえのか」


 男の言う通りであった。

 カーラは今後『ある問題』に対応していく上で、実力のある冒険者や魔術師の助言が必要であると考えていた。

 そして、彼女の知る限り『能力面で』最も助力を請うのに相応しい人間は、バウト=カチェットである。冷たい美貌の女は銀色の餓狼の過去――神童と呼ばれた魔術師バウト=ヴァン=ランカステルの姿を知らないが、それでも魔物の森での彼の言動から、この一見戦士にしか見えない男が優れた魔術師でもあることに薄々感づいていたのだ。


「さすがに、お前が求めている内容までは分からねえんで、そこは教えて欲しいところだがな……つーのが、俺の見解なんだが、どうだ、どこか間違っているところはあるか?」

「……いいや。おおよそ、お前の認識通りだ」


 蠱惑的な美声で、気だるげにそう返すカーラ。


 その視線には、もう殺意の類は含まれていなかった。

 バウト=カチェットの言葉通り、『戦闘を続ける意志』の確認目的で行った威圧であったため、それが済んだ以上、とっとと引っ込めたのである。


 もっとも、一度自分を殺そうとした男に向ける彼女の視線は、氷点下の冷たさを保ったままであったが……。


「ふん。おおよそ、ねえ」


 彼の見解を部分的には否定したとも取れるカーラの発言に、その真意を探るため、銀色の餓狼は極寒の冷たさに動じる様子もなく、彼女の瞳を見つめ返した。

 夫の財布にラブホテルのレシートを見つけた妊娠中の新妻よりも冷たいその視線を、笑って見つめ返せるあたり、やはりこの男も普通ではない。


 彼の認識に僅かでもズレがあったとすれば、それは『殺す必要がなくても、生かしておく理由もないから殺す』という部分であろうか。

 

 カーラがバウトを殺せない理由が二つあるのは事実だったが、『殺す必要』がないことを見切れた時点で、仮に二つ目の理由――『バウトの助力を請いたい要件』が無かったとしても冷たい美貌の女は銀色の餓狼を見逃していた。


 この認識の差異はバウトがカーラという女の人間性を見誤っていたというよりも、ガルゼフォード=マキシという契約者の存在によって、冷たい美貌の女の理性の天秤が若干『甘い』方向に傾いていたためである。

 本来の彼女であれば、例え1%であってもリスクを負うことを嫌い『既に戦う意思がなくとも、一度殺意を向けてきた相手ならば念のため殺しておこう』ぐらいのことは考えていた可能性が高い。ハイゴブリンの命を奪ったのと同じように。

 

 そんな裏事情もあり、既にバウト=カチェットがこの場を生き延びることは確定していた訳なのだが、彼に聞きたいこと、頼りたいことがあったのは事実なので、カーラはあえてバウトの誤解を訂正せずに、これ幸いとばかりに『その内容』を口にしたのである。


「単刀直入に言うが、トロールの反乱を解決するために知恵を借りたい」


 銀色の餓狼にはその言葉だけで、カーラが何を問題とし、何を自分に期待しているのかおおよそ予想出来てしまった。

 何故ならば、他ならぬ彼自身、冷たい美貌の女と同じ『問題点』に気付き、打開策を模索している最中だったからである。


「……まあ、俺はもともと『トロールの反乱』の解決を目的としてここに来ているからな、別に否やはねえよ。だが、このタイミングでそれを言うということはお前も『気付いていた』か」


 そう言って愉快そうに笑う男からは、獰猛な獣の気配が完全に消えている。

 落ち着いた学者のような今の彼の雰囲気は、冒険者のバウト=カチェットというよりも、貴族であり魔術師でもあった、バウト=ヴァン=ランカステルのものに近い。


「気付いたなんて、大げさなものでもないが――この状況はいささか『重なり過ぎて』いる」


 冷たい美貌の女の言葉に、自分と彼女の『認識』が限りなく近いことを理解したバウトは、静かな微笑を浮かべながらそのすり合わせに入った。


「んじゃまず、最初に意識合せをしておきてーんだが、お前はもともと『トロールの反乱』を解決することをどーいう認識でいて、今はどんな認識でいる?」

「最初は『トロールの反乱』に加わっている魔物を皆殺しにすることで、この事件は解決するものだという認識でいた。だが今は『地図が狂っていたこと』や『魔よけの結界が無効化されていたこと』を含む、魔物の森で起こっている異変全般を解決しなければ『この事件』は終わらないという認識でいる」


「俺も同じ考えだな。んじゃあ、何故それらを一連の問題として解決する必要がある?」

「先にも述べたよう、異変のタイミングが重なり過ぎている。無論、『偶然』重なった可能性もあるのだろうが、『何らかの共通する原因』により起こっている、『一連の問題』であると考えた方が自然だろう」


「同意見だ。そしてその仮定が正しけりゃあ、根本的な原因を取り除かない限り、末端の問題をいくら解決したところで、似た様なことがまた起きる可能性がたけえ」

「そうだな。そしてその危険性がある以上、私たちがまずしなければならないのは『何らかの共通する原因』が何なのかを探ることだ」


 カーラもバウトも、特に会話の間に思考を挟む様子もなく、そしてお互いの顔を見るまでもなく、淡々と言葉を交わしていた。


 二人は、それぞれがトロールの反乱を『解決しなければならない』立場にあったため、『この事件の落とし所』というものを最初から考えていたのだ。

 何をもってトロールの反乱を解決したとするか、その整理を事前に行っていたのである。

 そういう意味で、冷たい美貌の女と銀色の餓狼の立ち位置は限りなく近く、彼等の思考や出した結論も非常に似通ったものであった。


 だから、この森で発生している異変の数々を知り、二人とも同じように内心で舌打ちしていたのだ。


 全ての異変を踏まえて考えた場合、トロールの反乱が氷山の一角に過ぎない可能性が極めて高く、真に事件を解決したとするためには氷山の全容を把握した上で、その根本を破壊する必要があった。


 しかし、カーラにはそもそも、その根本に辿り着くための手段がない。

 この世界そのものに関する知識、この世界の魔術に対する知識、等々、真相究明に必要となるあらゆる情報が致命的に欠けていたのである。

 だから、彼女は専門家――バウト=カチェットを頼ったのだ。


 ……正直な話をすれば、彼女のはぐれメタルの逃走本能は、一度自分を殺しにきた相手を前にして「いやだ、いやだ、こんなやつといっしょにいるのなんかいやだ。おうちかえる」と必死で訴えかけていたのだが、カーラの脳内会議において最大の権力を誇る理性様が「NOだ。DQNな同僚の一人や二人どの職場にだっているだろう。我慢して働け」と強制裁決を下してしまったため、どうしようもなかったのである。


 そしてバウトの方はバウトの方で、彼自身カーラとの共闘にメリットを感じていたので、不満はなかった。

 もっともこの男の場合、『自分を凌駕する戦闘能力』や『お互いの考え方が似ているため話が楽で助かる』といった実利的な理由意外にも、冷たい美貌の女と仲間に――親しい仲になりたい理由があったのだが……。

 この時のカーラの落ち度を上げるとすれば、戦闘狂であるはずのバウト=カチェットが『戦意を失った理由』を、敗北したため等という安易なもので片づけてしまっていたことであろう。


 その後、二人はしばらく、今後の対応に関して話し合った。


 基本的にバウトが魔術師としての見解をカーラに語って聞かせる形になったが、天才である彼の説明は意外にも凡才のカーラにも分かりやすいものであった。実のところ冷たい美貌の女は聞き手としてはそれなりに優秀な方だったのだが、それ以上に『人にものを教える才能』すら有していた銀色の餓狼の説明が、分かりやす過ぎたのである。


 そんな彼の見解の展開――という名の魔術の授業を受けていたカーラは、ふと自らの膝の上に頭を乗せている青年の寝顔を見た。

 そして何かに閃いた様子の彼女は、一通り話が終わったタイミングで、バウトにこう切り出したのである。


「――ところでバウト、私はお前に貸しがあるという認識でいるのだが」

「んあ? 何だよ急に勿体ぶりやがって。まあ、殺しにいって返り討ちにあっておきがら、無様に命乞いして生き延びている立場としちゃあ、大概の要求は断れねえな」

「そ、そうか。その、だな、手の空いている時でいいのだが、マスターに――ガルゼフォード様に、戦い方を教えてはくれないだろうか。私では、この方の強くなりたいという願いを叶えて差し上げることが出来ない……」

「まあ、お前の強さは『異質』だからな、俺であってもお前の真似事は出来ねえよ」

「……お前は、人にものを教えるのが上手いようだ。お前のような一流以上に育てて欲しいだなんて言わない、一人前か、その手前ぐらいでいいんだ。ガルゼ様が自分で自分を恥じずに済むようになれれば、それでいい――」


 冷たい美貌の女は、彼女らしくもない縋るような表情を浮かべていた。


「――どうか、お願い出来ないだろうか」


 銀色の餓狼はそんな女の顔を見て気まずげに視線を逸らし、頭をかきながら返事をした。


「……まあ、いいぜ、弟子の類を取ったことがねえ訳じゃねえ。それなりに仕上げてやるさ」

「そうかっ、助かる」


 嬉しそうに柔らかい笑みを浮かべる女の視線が、膝枕の上の青年に向いていることに気付くと、バウトは苦い笑みを浮かべて溜息を付いた。



次話こそは、次話こそはのんびりしたお話しを書きたいです……。


【10行で分かる今回のお話であったこと】(仮)


・メリル(表)のカーラに対する好感度が上がりました。

 留意点:今後も百合(カーラ限定)にご注意ください。


・メリル(裏)のカーラに対する好感度がカンストしました。

 留意点:今後はグロ(魔物限定)にご注意ください。


・ガルゼフォード(厨)がガルゼフォードに進化しました。

 ガルゼフォードのカーラに対する好感度が上がりました。

 留意点:今後は泥臭く努力し始めるかもしれません。泥を浴びないようご注意ください。


・バウトが仲間になりました。


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