・・・ノン、ノン、ノン
大好きな友人のたわさ様にネタを提供していただきました。ありがとうございます!
朝から風呂を浴びるのはいい。特にまだ肌寒さを感じる日に温かな風呂に入って身体の芯からほっこりするのはいい。思わず尻尾も先程度なら揺れてしまうくらいに。
首に掛けたタオルで髪から垂れる水滴を拭う。普段は緩やかに癖がある髪の毛だが、水に濡れると真っ直ぐになる。その昔、この癖毛が嫌いだった頃はしょっちゅう水を被って風邪を引いていたと小さく笑いながら歩いていたら、不意に嗅ぎ慣れない匂いが嗅覚を刺激した。
「なんだ、この匂い」
嗅ぎ慣れないというより、今まで嗅いだことがない匂い。朝一番でまだ時間があるし、なんとなく暇なのでその原因を探ろうと辿ったら、行き着いた先は台所だった。
木で出来たスライド式のドアを躊躇なく開ければ、まず目に入ったのは太陽光を取り入れる大きな窓。大体ゼントの身長と同じくらいの大きさの窓は、そのまま縁側に繋がっている。
室内には生糸で織られた風景が描かれている絨毯が敷いてあり、食事を取るためのテーブルセットが二つある。何故二つかというと、食事を摂る時に好みの高さのテーブルを使うからだ。一つはゼントたちが使い慣れた腰より少し上程度の高さのもので、座るための椅子も付いている。もう一つはリュールや異世界組みが好んで使う場合が多い背の低いテーブルセットで、絨毯の上に直接置かれたそれは、『正座』と呼ばれる座り方をするとちょうどいい高さになる。一応『座布団』と呼ばれるクッションを足の下に敷くのだが、長時間は上手く座れない。
以前綺麗に正座する桜子やリュールに付き合って最後まで食事をしたら、それだけで足が大惨事になった。挙句痺れて動けないのを面白がったラルゴにちょんちょんといびられ、物珍しそうに観察を続けるラビウスに実験材料にされかけた。それ以来、出来るだけ背の低いテーブルは使わないようにしている。
「・・・そんなとこで何してるんですか?」
「んぁ?」
いつも使う方のテーブルの奥、椅子やテーブルの足に隠れていた場所に胡坐を掻いてふらふら揺れていた赤髪の龍に小首を傾げた。
おそらくゼントと同じで風呂上りなのだろう。上半身裸で首からタオルを下げているラルゴは、手で足首を掴んだままこちらを見上げてきた。金色の目の中の縦長の瞳孔がすいっと細くなり、ゼントを認識して再び丸みを帯びる。
「何って、お嬢のチョコができるのを待ってるんだ!」
ばしり、と太い尻尾が床を叩く。頬が高潮しているのは風呂上りすぐだったからじゃなく、凪が関係していたかららしい。
「おはようございます、ゼントさん。今日も朝からお風呂ですか?」
「うん、おはよう。朝風呂はやっぱり気持ちいいからね。なんなら明日はナギちゃんも一緒に入る?」
「いや、それは」
「セクハラだ!お前、顔がいいからって何言っても許されると思ってんじゃねえぞ!」
「えー?でも最近お気に入りの壺風呂、ですっけ?あれ、ナギちゃんを抱えてはいるとちょうどいいくらいのスッポリサイズになると思うんですよね」
「それなら俺だってそうだ!お嬢、こいつと入るなら俺に言え!俺が入れてやるから!」
「───ラルゴもそれセクハラだから。ドン引き」
「お嬢!違うっ、誤解だ!そりゃ俺はお嬢と一緒に風呂入りたいとか、抱っこしたいとか他にも色々考えてるけどよ。それは男として正常な」
「もうそこら辺でやめておいた方がいいですよ、ラルゴさん。冗談抜きで酷いです。スコップ片手に全力で墓穴を掘っていますよ」
「ぅっ」
変な声を出して喉を詰まらせたラルゴは、機嫌よく振っていた尻尾をへにゃりと床に落した。
なんてわかりやすい龍だと眉間に皺を寄せる。凪と知り合う前のラルゴは、こんなヘタレた龍ではなかった。凄腕として冒険者の中でも一目置かれ、ワイルドな見目で女もより取り見取り。男だって惚れてしまうくらいの男気の持ち主で、いつも堂々とリーダーシップを取るような、そんな龍だった。
それが気がつけば片手で掴んでも折れてしまいそうな華奢な少女に、文字通り骨抜きにされている。そう、まるでナメクジのように。塩を振りかけたら融けてしまいそうなレベルで。
一応これでも目標にして憧れている部分も少しばかりあったりなかったりしたので、最初の頃は腹の底にたまった感情を処理するのが大変だった。今はもう慣れてしまって、呆れ以外は沸かないけれど。
「それで?ナギちゃんは何作ってるの?チョコって何?」
「チョコは私の世界の食べ物です」
「へぇ・・・」
「はい、生チョコトリュフの出来上がり。ラルゴー、出来たよ。あ、でもまずは味見からだね」
落ち込んでいるラルゴをひょいと跨いで、なにやら手を動かしている凪を後ろから覗き込む。
トレイに乗せられたこげ茶色の丸いのが『チョコ』なのだろうか。茶漉しを使って上から更に茶色い粉を塗していく。出来上がったらしいそれを白くて細い指で一つ摘むと、口に含んで幸せそうに目を細めた。
柔らかな花が咲き綻ぶような満面の笑みは、美味しい食事を摂るときに一番良く見るものだ。見てるこちらまで嬉しそうになる、無邪気で無防備な笑顔に、思わず手を伸ばして頭をぽんぽんと撫でた。
「お嬢、お嬢!早く!」
「そんなに急がなくてもなくなったりしないよ?」
いつもなら我慢せずに走り寄るくせに、今日に限って床に座ったまま手を広げて待ち構えるラルゴに小首を傾げる。まるで凪から渡されるのを待っているみたいだ。
なんだろう。ああもわくわくと目を輝かされると、腹の奥から込み上げてくる感情にちりちり火がついてしまう。
ラルゴの前に差し出された皿をひょいと奪って、上に乗っていた『チョコ』とやらを口に入れた。
『あー!?』だの、『嘘だろ!?』だの、奇声を上げつつ早口すぎて聞き取れない言葉を捲くし立てるラルゴを余所に、口に含んだ新しい味覚を堪能する。芳醇な香りが口内に広がり、柔らかい食感がとろりと蕩けた。今まで食べたどんな甘味とも重ならない、しつこさのない苦味を備えたまろやかな甘さに、頬に手を当てて一つ嘆息する。
「美味しい」
「ぎゃー!!?待て、待て待て待て待て!それは俺の、お嬢から俺に贈るはずの、『ばれんたいん』のチョコレートなのにっ」
「そうですか。これ、凄く美味しいですよ。ナギちゃん、まだあるなら俺にもちょうだい」
「それは、まだあるんですけど、猫ってカカオはダメだと思うんです」
「?俺は猫じゃなくて虎だけど?」
「いや、そういう意味じゃなくて・・・んー、ゼントさんは猫科の生き物でも獣人だし、やっぱり『人間』に近いのかな。食べてるものも近いし。でも、カカオは犬猫には毒性が強いし、どうなの?」
「これ、毒なの?」
「いえ、毒じゃないんですけど、種族によっては毒になるって言うか、動物によっては毒って言うか、でもゼントさんにとって毒になるかはわからないのが現状でして」
「ふーん」
「ぎゃぁぁああ!?おい、それ毒だから!絶対にもの凄い毒だから!もう食うのやめとけ!」
「・・・失礼な。じゃあ、ラルゴは食べるのやめておけば」
「違う!誤解だ、お嬢!頼むから俺の分も、俺の分のチョコをもう一度!」
眉間に皺を寄せて背中を向けた凪に縋り付くラルゴを傍目に、持っていた皿の上のチョコを摘む。十個くらいあったのに気がつけば最後の一つになっていて、こんなに美味しいのに毒なのかと不思議に思った。
とりあえず毒だとしても遅効性のあるものらしく、今のところまったく気にならない。動物によってと言っていたので、もしかすると獣に対してのみ適用される毒なのかもしれない。未だにこの世界の獣人と獣を混濁しがちな凪のことだ、多分今回も獣と獣人の食習慣も混濁してるのだろう。
指先に付いた茶色い粉までぺろりと舐め尽くす。甘いくせにどこかほろ苦い味のそれは今のゼントの感情と似ていて、折角新しい味覚に出会えたはずなのに苛立つ感情を持て余し、発散するためになんとなく目の前で泣き喚く龍の背中を悪気ない顔で踏みつけた。




